夢心地の中から、微かに覚醒した意識の中で聞こえてきたのは遠くに聞こえる鳥の囀りだった。
 風に揺れ、さざ波にも似た声を立てる木々。
 その風が自分にも吹き抜け、その髪を微かにたゆたわせる。
 ……心地よい。
 虚ろな意識のまま、この状況に甘んじていたいと切に望んだ。
 だが、その願いは次の一瞬にかき消される。

……ラスッ!!

「!?」
 記憶に残る自分への呼びかけ。
 その必死な声を思い出し、ラエスリールはその場から飛び起きた。
「? ……? ……え……ここは一体……」
 どこだ……?
 朦朧とする頭に頭痛を覚え、微かに眉をひそめて立ち上がる。
 ふと、周囲を眺めてみた。
 ただ、在るのは鬱蒼と生い茂る木々だけである。
 どうやら、どこかの山奥らしい。
 そのこと確信して、次にどうしてこのような状態に陥ったのか記憶を辿ってみた。
「……えっと…確か、追っ手から逃げていて……」
 それで、別の場所に転移すると彼が急に自分を抱え上げて……。
 頭の中の情報をラエスリールは必死に繋げようとする。
 落ちた、という言葉が浮かび上がってきた。
 そう、自分は落ちたのだ。
 何の心構えもないままいきなり空間を渡りだしたために、眩暈を覚えて、そのままバランスを失い、空間の 狭間の中で落ちたのだ。
 彼の腕の中から。

「………」

 そこまで記憶をたぐり寄せて、おかしい、と違和感がラエスリールを襲う。
 ……名が、でてこない。
 その事実に一瞬、言葉を失った。

 彼の名が、思い出せない。

 頭の中に、しっかりとその姿は映し出せるのに、その深紅の美貌の青年が在るのに。
 名だけが、思い出せない。

「……千禍」

 呟いた瞬間、すぐに頭の中で違うと否定する。
 これではない。
 他にあったはずだ。
 自分がつけた、今の彼の名が……。
 あるはず、なのに。
 ……その名は喉から先を通らない。

「………なぜ…?」

 何故、彼の名だけが……。
 呆然とすると同時に、漠然とした恐怖がラエスリールを包む。
 名を思い出せなければ、彼には二度と会うことができない気がした。
 現に、彼を呼ぶことができなければ、自分にはこの状況を打開する力はない。
 焦燥がラエスリールの鼓動を早める。怖い、と思った。
 ただ一人の名を呼べないことがこれほど心細いものなのかと、驚愕にも似た思いに思わず頭を抱え込んだその時。

 自分以外の気配がその場に生まれる。

 ジャリッ……
 ラエスリールは土を踏む音の方に顔を向けた。
 追っ手ではと危惧していた心の緊張が、その存在を瞳に映した瞬間、驚愕に変わる。
「貴方……魔性……?」
 その色違いの双眸を見開いて見つめるラエスリールを見据え、やや、警戒した声色で問うてくる、……その存在。
「……母…様……」
 馬鹿な、と。
 有り得ない、と。
 どれだけ思っても、確かに目の前の女性は母親以外の何者でもなかった。
 そんな驚愕するラエスリールに、母であるはずの存在が首を傾げる。
「母様……? 私のことを言っているの?」
 心底不思議そうな顔をしていた。
 だから、ラエスリールは反射的に首を振る。
「いえっ……ちっ違うんです!!」
 何故否定したのか自分でもわからなかった。
 だが、よくよく考えて、それは正しい判断であったとわかる。
 なぜなら、彼女が次にこう呟いたから。
「そうね、私にはまだ子供はいないもの」
 この言葉に、ラエスリールはここが時の流れを遡ったところであると知った。
 自分が生まれる前。
 母と父がお互いを愛しみあい、他には何も望まず、ただひっそりと時を過ごした場所。
 今一度よく見ればここは自分がよく遊んだ場所でもあった。
「……ここは…過去……?」
 呆然と呟くラエスリールに、またチェリクが問いを投げかける。
「貴方は、あの人の配下の妖貴ではないの?」
 最初とは少し違った、警戒心の少し薄れた単純な疑問だった。
 ラエスリールはその母の問いに、彼女が父の配下が自分を葬りにきたのではないかと心配しているのだと気づく。
「違います……私は……」
 貴方の子供、とは言えない。
 だとしたら何と答えればいいのか。
 どうにも上手い嘘が浮かばないラエスリールは言葉を濁らす。
 意外にも、そんな彼女に案を出したのはチェリクだった。
「貴方のその左目……柘榴の君の……貴方は柘榴の君に仕えているの?」
「……え……あ……」
 思わずラエスリールは自身の左目を押さえる。
 そして、しばし沈黙して……。
「……そうです」
 他に何も思い浮かばないので、ラエスリールは結局頷いた。
 これはどうやら良い方に向いたようだ。
 チェリクがその瞳に宿していた警戒の色を消す。
 そして苦笑のような笑みを浮かべたのだ。
「そう……なら納得がいくわ。あの人の妻である人間がどんななのか見てこい、とでも言われたのね」
 酔狂な彼の君の考えそうなことだ、と目の前の母は微笑んだ。
 この時ばかりはラエスリールも、あの青年の人によく知られるほどの奔放さに感謝したのだった。
 相手の微笑みの誘われて、思わずラエスリールも口元が緩む。
 それに、チェリクが少し目を見張った。
「貴方……変わってるのね……あ、悪い意味じゃないのよ」
 気を悪くしないでね、と心配そうに顔を覗いてくる。
「ただ、ちょっと親近感を感じるというか……ごめんなさいね。こんなこと人間に言われても妖貴の貴方には嬉しくないわよね」
「そんなことはっ……!!」
 ない!!
 思わず叫んだ言葉は最後まで言い切ることはできなかった。
 頭のどこかで何かが歯止めとなっていた。
 今、自分は妖貴として彼女の前にあるのだ。
 それ以外の、ましては彼女の子供であることを示唆するような態度はしてはならないと、制止する。
 何も言えず横たわる沈黙に、チェリクが静かな、だけれども深く温かい視線をラエスリールに向けた。
 そして、その手をラエスリールの頬へと伸ばす。
 触れるその感触。
 あの埋葬したときの背筋の凍る冷たさは欠片も感じられない暖かさ。
 自然と目頭が熱くなってしまった。
 だが、その潤んだ瞳を見せるわけにはいかなくて、俯く。
 すると、チェリクが優しい微笑みをそのままに呟いた。
「貴方は彼の君にとても気に入られているのね。自らの色彩をその身に与えるほどに」
 それに、ふとラエスリールは顔を上げる。
 彼の君……柘榴の妖主。
 かつて千禍と呼ばれた。
 今は自分と共にある。
 あの青年。
 チェリクの客観的視点からの言葉に、いままでよく疑問に思っていた想いがむくりと起き上がった。

 ……どうして彼は自分の傍にいてくれるのだろう。

 何よりも矜持の高い、何にも屈しない魔性の王の一人。
 やろうと思えば何だってできる。
 この自分を、一瞬で消し去ることだって不可能ではない。
 何をしても誰も文句など言えない。
 自由の代名詞に相応しいあの深紅の青年。
 そんな彼が、……どうして自分の護り手と甘んじているのか。
 答えらしい答えは見つけられない。
 チェリクの言葉がその思考を遮ったのはその時だった。
「私もずっとあの人の傍にいれればいいのに」
 悲しい響きを宿すその声に一気にラエスリールは我に返る。
 その先の母は静かな微笑みを向けた。
「私の時は、あの人のそれと比べれば格段に短いわ。彼は命を与えてくれると言ってくれたけれど、それは真の私とは違う。……別れは必ず来るわ。その違い故か、彼の配下の私への恨み故かは私にはわからないけれど……」
 苦笑するような気配が届くその言葉の内容に、ラエスリールは何かが引っ掛かるのを感じる。
 ……彼女にはわからない。
 いつ、あの魔性達が母を襲いに来て、そして葬るかを。
 もし、知ったら?
 もし、分かったら?
 彼女は生きていてくれるだろうか。
 ずっと、こんな風に、傍で笑っていてくれるだろうか。
 ずっと此処で、母と、父と、リーダイルと私で。
 誰にも邪魔されずに、誰にも入ってこられずに。
 ……誰にも?
 「彼」……にも?
 母の死が無ければ、あそこで彼に会うこともなく。
 彼に会うことが無ければ、あの名が生まれることはなく。
 だから、か……とラエスリールは確信する。
 彼の名が思い出せないのは。
 今、全ての選択は彼女に委ねられている。
 ここで、母に真実を伝えれば、その名は消滅するのだろう。
 だからこそ、不安定な状況にあるその名を思い出せなかった。
 視線が、目の前の母へと向けられる。
 頭の中に、あの深紅の青年が映し出される。
 母か。
 青年か。
 どちらを選ぶのかと残酷の声が耳元で囁かれた。
 できるのか? そんなことが。
 選べるのか? そのどちらか、を。
 できるわけがない!
 選べるわけがない!!

「けれど、幸せよ」

 耳に飛び込んできたその言葉。
 ゆっくりと顔を上げる。
 母は笑っていた。
 本当に幸せそうに……。

「幸せ……?」

 あんな無惨な死に方をするのに?
 あんなに悲しい想いをするのに?

 けれども、母は微笑み続けた。そして断言する。

「ええ」

 だから、選んで良いのだと、在るはずがない言外の言葉が胸に染みこんでいった。
 彼を選んで良いのだ、と。
 その本心が求めるがままに。

 熱い想いが、胸に溢れた。
 同時に一つの名が耳元で告げられる。
 ああ、そうだ。
 それが、私がつけた彼の名。
 頬を伝って流れた雫が、地面の中に染みこんでいった。
 心から母を想う。
 貴方を愛していると。
 掛け替えのない存在だと。
 永遠に変わることのない、これは真実。
 それでも、私は彼を選ぶ。
 選びたい。

 もう一度母に視線を向けた。
 いきなり泣きだしたことに、なんの驚きも見せていなかった。
 魔性が泣かないという事実を知っていながら、何も問うてこなかった。
 ただ、微笑んでいた。
 すべてを知っているかのようなその顔。
 そしてその微笑みのまま言葉を紡ぐ。
「さようなら」
 それは別れの言葉。
 その言葉に、一呼吸置いて……応える。
「……さようなら」
 目を、閉じた。
 これ以上、母を見つめることはできなかった。
 閉じた瞳から、それでも涙は溢れてくる。

 ……さようなら

 心の中でもう一度告げて。
 呼ぼう、名を。
 一歩後ろに退いて、母との距離が生まれる。
 離れゆくことは在っても、この距離が埋まることは、ない。
 それを確信して、溢れ出す想いに潰されない内に。
 呼ぶ。
 ここに来て。
 今、私を支えてほしい。

「……闇主」

 静かな、呼びかけだった。
 呟くように、囁くように。
 それでも、その刹那、呼びかけに応じる者があったのも真実で。

 何もない空間に深紅の闇が凝る。
 その闇から、現れる存在。
 自分と、そして母の姿をその場に認め、微かにその端麗な目元を細めた。
 だが、次の瞬間にはその闇に私を攫って掻き消える。

 ……闇主

 確かめるように、言葉に出さずに呼んだ。
 その時、彼の腕に微かに力がこもったのは気のせいだったのか。
 わからない。
 でも、途端にまた涙が溢れる。
「ラス……大丈夫か?」
 聞こえてきた慟哭に、気遣う声が掛けられた。
 だから余計に胸が締め付けられて。
「……て…ほしかった」
 呟く。
 小さく、か細く。
「……生きていて、ほしかったんだ」
 見えないのに、彼が、微かに表情を変えるのが気配で伝わってきた。
 どこか悲哀を含んだそれ。
 そして、その口が言葉を紡ぐ。
「知っていたさ」
「でも失えなかった」
「ああ」
 今度こそ、本当に強く抱きしめられた腕に力がこめられた。
 ……それも知っている、と。
 耳元で囁かれる。
 その声を聞いて、心の中に安堵の想いが染み渡った。

 ああ。
 きっと、もう大丈夫だ。
 この存在を失わなければ、私は生きていける。
 これから、きっと何度も歯を食いしばり、涙を流すだろうけれど。
 多くを失い、傷つけ、傷つけられるだろうけれど。
 それでも生きていける。
 だから、どうか。

 誰も、私から彼を取り上げないでくれ。






<fin>

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シリアスっぽくなりましたねー。母と闇主とどちらを選ぶんだ!?
って感じで。乱華は負けちゃいましたから、母はどうだ!?ということで。(笑)うーんラスさんってば、本当に奇特な運命にありますよね。母親死ななかったら、本当に闇主さんには会わなかったかもだし。これから幸せになってください。

                             
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