鐘が、遠くで鳴っている。
ゆっくりと、静寂を壊さないように慎重に。






「……エドガー」

呼ばれている。分かっているけど、まどろみが心地よくて目を開けたくない。開けたくないんだよ。

「エドガー=クロム」

声が少し苛立ちを帯びてくる。何だよもう。もう少しこのままでいさせてくれよ。
そう思って目を閉じたままでいると、額に軽い衝撃。

「いい加減に起きろよ」

「………」

ぼんやりとまぶたを上げれば、呆れ顔が目の前にあった。黒いサラサラした髪。

「ガーター」

相手の名前を、呼ぶ。相手はそれに少し顔を顰めて、屈んでいた上半身を伸ばした。一段高くなった相手の顔の位置を、俺はぼんやりと見上げる。立ち上がれば俺の方が頭一つ身長は高いから、なかなかこのアングルで相手を見るのは貴重な感じだ。そうやってまじまじと相手を見つめていると、その不機嫌そうにへの字に曲がった口が言葉を放つ。

「休日の校内への無断侵入は違反だぞ」

堅っくるしい口調で言うそれにはとっくに慣れている。なんせ相手は風紀委員長で、こっちは学年、いや、学校きっての問題児。半年以上のつきあいとなる今となっては、こいつの小言も挨拶代わりだ。俺は寝起きで些か反応の鈍い頭を右手でガシガシと掻きながら返した。

「いーじゃん、別に。誰に迷惑かけるわけでもなし……ってか、お前だって入ってるじゃん」
「俺は忘れものがあるからここにいるんだ。お前は暇つぶしだろ。意味もなく学校に入り浸るなって言ってるんだよ」
「けちー」

口をすぼめながら言うと、ギロリと睨まれた。さすが三年間風紀員を勤めているだけあって凄みの迫力が違う。年季が入ってるなぁ。「立たせて」と両手を相手に差し出したが、あっさり無視された……ので、仕方なく自分の力だけで立ち上がる。

「あれ、お前制服? 休日なのに?」

立ち上がって、今更ながらに気づいた。学校という背景だったから違和感を感じなかったが、今日は休日だ。わざわざ制服を着て忘れ物を取りにこなくてもいいだろうに。相手は、またその眉間に皺を寄せた。

「別に、好きで着てるんじゃない。そういうお前だって似合わないスーツ着てるじゃないか」
「へ?」

言われて、自分の姿を見返す。言われた通り、黒いスーツを着ていた。頭が金髪って派手な色だから、これじゃあホストみたいだ。こんな服持ってたっけ?と首を傾げる。

「何でこんなの着てるんだ?」

呆然と自問する俺に、相手は呆れ顔だ。

「ここに来る前に何かあったんじゃないか? 一眠りしたら忘れてるのか」

単純な頭だな、と嫌味をかけられるが、大して頭にはこない。だって事実だ。自分でも誇れるほど、俺は頭が弱い。記憶力なんて鶏レベルだ。うーん、何だったか。従兄弟のねーちゃんの結婚式だったかな? あれ、それは先月だったっけ? いや、今日か? やばい。これって痴呆って言えちゃうレベルじゃねぇ?
そうこう一人で悶絶している間に、相手はため息一つ落として歩き出した。

「お、待てよ。何? 忘れ物取りにいくの? 教室?」
「帰るんだ、もう済んだから」
「えー、せっかくだから遊ぼうぜ」

あからさまに嫌な顔をされる。いいなぁ。それ。素直に感情をストレートに返してくる。
こいつくらいだ。俺にそんな態度取ってくるの。まあ、様々な武勇伝を持っちゃってる俺だから仕方がないとは思うけど、学校で俺に話しかけてくるやつなんかいないしなぁ。ましてやこいつみたいに文句つけてきたりするなんて有り得ない。最初の出会いは衝撃だったね、煙草吸ってるとこ見つかって、思いっきり睨まれて、あげく口に銜えてた一本を目にも止まらぬ速さで取り上げられて、靴の裏で踏み潰されたあの時の痛快さと言ったら、もう。すっかりあれで、こいつにはまっちゃったしな。まあ、付きまとう度に迷惑な顔されたけど。

「なー、ちょっと話すだけでいいからさー」
「………」
「ガーターくーん、無視すんなよー」

ガーターくーんと何度も呼びかけていると、引きつった顔で振り返ってきた。

「わかったから、気持ち悪い声で呼ぶな」
「ひで!気持ち悪いとか言うなよー」
「……で、何だよ?」
「へ?」

キョトンとした顔で見返すとガーターの眉間の皺が一本増えた。

「何か話の話題があるから引き留めたんだろう? まさか、何もないなんて言うんじゃないだろうな?」
「え、特には」

長い沈黙が流れた。わ、マジ怒りの空気だ、これ。
案の定、ガーターはそのまま無言で踵を返してツカツカと歩き出した。
俺は慌てて追いかけてその裾を掴む。

「わー、ガーター様! お待ち下さい! 待てって! いいじゃん! 雑談!! 雑談しよーぜ!」
「…………」

どんなに抵抗したところで力の上では俺の方が上。
捕まったらもう一歩も前に進めないガーターはすっごい不機嫌そうな顔でやっと大人しくなってこちらを振り返った。

「……ったく、そんなに時間ないから、少しだけだぞ」
「はーいはい! それで結構です!」

大きなため息一つつくと、ガーターは眉間に皺を寄せたまま、壁に寄り掛かって腕を組んだ。さーて、話題。話題。

「そうそう、忘れ物って何?」
「………秘密」

視線を合わせずに、ガーターは小さくそう呟く。わお、秘密だって。そんな可愛らしいこというキャラじゃないだろ。

「何? そんな恥ずかしいものなわけ? アレか、エロ本? やだー、ガーター君不潔!!」
「………」
「……突っ込んでよ」

無言で白い目を向けられるのってけっこうくるんですけど、心に。
小さなため息がガーターの口から漏れる。

「いいだろ、別に何だって」
「何だよ、結局言わないのかよ。けち」

うーん。なんだろーな? こいつのことだから参考書とか? やーでも、それなら別に隠す必要ないだろ。あー、まったく、見当つかねぇ。まあ、いっか、もう。
他の話題ってなんかあったかなー。
………あ。

「ガーターってさ、卒業後どうすんの? やっぱ進学だろ? どこの大学?」
「………」

ん? なんか、今変な顔したな。どうしたよ。

「……行かない」
「は?」
「大学には行かない」
「………はぁ!?」

思わず本気で大声を張り上げた。いや、だって、この学校切っての優等生が進学しないって! ありえないだろ! エリートコースまっしぐらの顔して何言ってんの、こいつ。

「じゃあ、なんだ、……留学とかか?」

あー、それならありえそう。なんだよ。外国とか絶対会いに行けないじゃん。

「しないよ、留学も」
「………」

今度こそ、完全硬直。いい加減、焦る。

「な、なんだ、どうしたんだよ? 受験ノイローゼか? だったら、お兄さんが気晴らしに車で海でも連れっててやるぞ? そこで思いっきり叫べっ、な?」
「この真冬に海なんか行きたくないよ」

うお。人の好意をすっぱりと切り捨てやがった。

「……どうしたんだよ?」

ちょとまじめな態度で聞きなおす。ガーターは無言で、少し怒ったような顔をしてじっと俯いている。

「………」
「……ガーター?」
「……後でわかる」

………。
なんだ、それ。
ああ、あれか。お決まりの、次の日になったら学校に来てなくてクラスメートに聞いたら「○○くん、今日転校したんだってー」ってやつか。それで、俺が必死に駆けだしてお前の家の前に行って、ちょうど車に乗って行っちまいそうになるお前をダッシュで追いかけて、お前はバックミラーで俺に気づいて、親父さんに車止めて貰って「何しに来たんだよ」ってちょっと不機嫌そうな顔で言って、それを俺が青春のビンタして「友達だろ!?何も言わずに行くつもりかよ!?」って……あ、いかん。俺、こいつの家しらねぇや。無理。
……って、冗談はおいといて、だ。

「何、実家の八百屋さん継ぐの? 故郷の親父さん具合悪いの?」
「俺の親は公務員だ。そして健康だ」

あー、うん、それっぽいよね。
でも見たかったなぁ、白菜売ってるガーター。おばさんに値切られてるガーター。
まあ、今度こそ冗談はおいといて。

「あー…っと、まー、いいや。どこでも。……でも、偶には会えるだろ? なあ、俺、ガーター中毒症だから会えないと寂しくて死んじゃうんですけど」
「………」

え……いや、何、その顔。もっと、こう、呆れかえった顔するところだろ、ここは。
すっごい複雑そうな顔するなよ。何だよ、マジで会えないのかよ。

「ガーター? そんなに遠いわけ?」
「…………」

……だから。
なんで、そこで黙りこくるかなぁ? いつもの歯切れの良さはどうしたよ。らしくない。らしくない。らしくない。モヤモヤする。
俺は思わず舌打ちした。ガーターにも聞こえただろう。
だが、ただじっと俯くだけだ。何なんだよ。何か言ってこいよ。
……あーもう、煙草でも吸ってやれ。
……ってそうか。ガーターに前箱ごと没収されてから禁煙してたから、煙草携帯してないんだっけか。くそ。
……ん? 待てよ。じゃあコレなんだ。
俺はそこでズボンのポケットに何か入っていることに気づいて、そっと引き出す。
つるつるとした肌触りの……。

黒い、ネクタイ。

…ゾクリと、した。
見てはいけないものを見たような気がして、慌てて押し込める。
視線を感じた。
顔を上げると、ガーターが静かにこちらを見据えていた。

「……何?」

(…見ラレタ)

ひきつった笑みで問う。ガーターはしばらく無言でただ見つめてきた。

「つけないのか」
「何が」
「ネクタイだよ、俺の葬式にいた時はつけてただろう」
「……何言ってんの?」

顔の筋肉が固まっていくのが分かる。
見られた。見られた。見られた。
駄目だ。違う。気づいてない。今のは間違いなんだよ。まだだ。もう少し待ってくれ。
頼むから。

「……わかってるだろ、もう」

ガーターが首を横に振る。まるで最終通告のように。
俺は蒼白になった。
記憶の蓋が、ゆっくりと持ち上がってくる。

「わかんねぇよ」

嫌だ。やめてくれ。まだ。
気づきたくない。
気づいたら、終わりだ。

「わかるかよ、知るかよ!」

思いっきり怒鳴りつける。普通の相手だったら身を竦めるほどの怒声で。だが、ガーターは違う。いつものように、静かな眼差しを向けてくる。俺は息を呑んで、顔を強張らせた。

「…っやめろよ、もう、その話」

呟いて、顔を背ける。この状況から抜け出したい。それしかもう考えられない。
なのにガーターは動かない。ただ、俺を真っ直ぐに見据える。
長い息が、ガーターの口から漏れる。少し、いつもより低い声で告げる。

「言っただろう? 時間はそんなにないんだ」
「………」

真面目な声に、心臓が凍る。

「もう、猿芝居してる時間はないんだよ。そんなことより、もっと、お前に話さないといけないことがあるんだよ」

ガーターは、そう言って片頬を歪めて笑みを作った。俺は絶望を感じながら、ガーターを見返す。

「お前、馬鹿だからさ」
「…………」
「俺以外に話す相手もいないみたいだし、それでいいって顔してるし、もっと上手く世の中渡っていけばいいのに。見てるこっちが苛々するんだよ。俺がいなくなったらお前どうするんだとか、考え出したら落ち着かなくなって、式中もずっと怒った顔して、涙の一つも流してくれればまだ安心できたのに、そのまま、葬式抜け出すし……」

息継ぎも大してせずに言い切って、ガーターは言葉に詰まる。歪んだ目元が、少し迷って、彷徨う。

「俺、最後にお前に会いたかったんだよ」

不承不承とした口調で、呟く。

「だってお前に怒鳴りつけて終わっちまっただろう?」
「………」
「お前が性懲りもなく、他校生と喧嘩したから、俺お前怒鳴りつけて、それが俺とお前の最後だったじゃないか」
「………」

知らねぇよ。
そんなの知らねぇよ。記憶にねぇよ。最後ってなんだよ。意味分かんねぇよ。
心の中で叫んでも、ガーターには届かない。言わなくては。言わないと、この流れは止まらない。結末が、変わらない。だけど、声が出ない。指先が、震える。
そんな俺を、ガーターは全部分かっているように目を細めて見つめる。

「エドガー……俺、少しお前が羨ましかったよ。お前になりたいと思ったことはなかったけど、お前といると、いろいろ何か楽だった」

少し辛そうな笑みを浮かべて、ガーターは言う。
苦しい。息が、上手くできない。やっと出た声は、自然と震えた。

「じゃあ、いればいいだろ……ずっと、俺の傍に、いれば、いいだろ?」

楽なんだろう? だったらいればいい。いればいい。
なのに、ガーターは片頬を歪めて、笑う。笑って、首を、横に、振る。
頭に、血が上る。痛い。痛い。どこが痛いのか、わからないけど、痛い。
どうすればいい。
どうすれば、失わずに済む。
思い出さずに済む。


「お前が」

無意識のうちに、堅く拳を握って。

「お前がいなくなるなら、他校生のやつらとまた派手に喧嘩してやる」

喉が、ひりひりする。口が上手く動かない。声が震える。
そうだ、ガーター。お前が、いないなら。

「授業も出ない、学校の窓もドアもたたき壊す」

濁っていく。全部が。ぐちゃぐちゃになりすぎて、吐き気がした。
それでも、ガーターは黙っている。何も言わずに。
耐えきれずに、心臓を肌の上から握り締めて、絞り出すように言葉を吐き捨てた。

「――…全部っ、たたき壊すからなッッ!!」


なあ。

なあ、困るだろ? 風紀委員長。だから。
だから、行くなよ。
行くなよ、頼むから。


「――お前は、本当に馬鹿だな」

小さな沈黙の後、ポツリと、呟いてガーターは苦く笑う。

「するなよ、喧嘩なんか」
「………」
「授業出ろよ、窓も壊すな、器物破損だ」
「………」

ガーターは笑う。笑う。少し、顔を歪めて。


「もう俺いないんだから、誰も止めてくれないだろう?」






熱くて、痛いものが胸の奥から迫り上がってきて。

泣いた。

ボロボロと涙が溢れてきて、止められなかった。
我慢していた、のに。意地でも、泣きなどするものかと、思っていたのに。
冷たい顔したこいつが箱に収まってるのを見たって。
式の、最中だってずっと、ずっと耐えていたのに。
堰を切ってしまえば、簡単に塩辛い水は両頬を流れ落ちる。

「あぁ、やっと泣いた」

そんな俺を見て、安堵したような声が落ちる。

「お前の泣き顔、一度見ておきたかったんだ」

嫌味の利いた笑みで片頬を歪めて、あいつは俺を見る。

「……馬鹿じゃねぇの」

「お前に言われたくない」

「勝手に死んでんなよ、阿呆」

「………それは、自分でも思う」

苦い顔をして頷くあいつに、笑おうとして失敗した。だから、手を伸ばして、ガーターに抱きつく。その肩に濡れた顔を押しつけて、小さく呻く。悪あがきだ。どこにも行かないように、絶対に放さないように。

「悪いな、エドガー」

「謝んな、行くな」

「悪い」

ガーターはそれだけしか言わなかった。「悪い」と、何度も繰り返す。俺は唇を噛み締めてあいつを拘束する腕に力を込めた。

いくな。
いくな。
いくな。









「…悪い」












遠くで鐘が鳴っている。
静寂を乱さないように、ゆっくりと、鳴っている。



俺は衣服に押しつけた顔を上げた。
いつの間にか、あいつの肩の感触は自分の膝へと変わっていた。
起きても、あいつはいなかった。
静まりかえった廊下に腰を下ろし、片膝を抱いて寝ていた。
相変わらず、俺は黒いスーツを着ていて。
ポケットに手を入れれば黒いネクタイが出てきて。
あいつを送り出す、鐘は鳴っている。

そこら中の窓を、たたき壊したくなって。

……止めた。

止める人間は、もういないから。

いないから。




俺はゆっくりと立ち上がる。
式に戻らないといけない。
戻って、大泣きしてやろう。
お前でなくなったお前に縋り付いて、子供みたいに大泣きしてやろう。
お前の親も。
教師達も。
同級生も。
そんな俺の有様に驚いて、主役のお前のことすら一瞬忘れるかもな。
そして、いつかお前の式の話をするときは、俺のことしか話されないんだ。
誰もお前自身のことなんか話さない。
ざまあみろ。
お前の最後の晴れ舞台を、潰してやる。
悔しがれ。
俺みたいなのを置いていったこと。
悔しがれ。
俺は当分長生きしてやるから。
文句もずっと先にしか言えやしないぜ。






外に出ると風が冷たくて、両手をポケットに突っ込んだ。
そこで、右手にネクタイ以外の感触があるのに思わず足を止めた。
細くて、スベスベした感触を取り出す。
出てきたのはたった一本の、煙草。
……頬が、歪んだ。

「何だ……餞別のつもりかよ」

指先で、少し遊ばせてから口に銜えて、空を仰ぐ。

「ライターねーから吸えねーっつーの」

ああ、とことん気の利かない男だ。
せめてマッチの一本もつけとけよ。
いや、もしかしたらこれは嫌がらせなのかと、小さく、笑う。
笑えた。その事実に、また笑って歩きだす。
外気に冷やされて、白くなった息が、まるで煙草の煙のように揺れた。





――さあ、お前のいない、世界が始まる。






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