晴天、そう呼ぶにふさわしい天気だった。縁側には木漏れ日が落ち、包まれているかのような暖かさが身にしみる。ホッと安堵の息をつきながら、えいじは自分の膝元にたむろっている猫達の頭を撫でた。目を閉じ、静かに紡がれている幸せを噛み締めていると、ギィという戸が開かれる音がする。 
「よお、えいじ」
 聞き覚えのある、低い声音が耳に届き、呼ばれたえいじは目を見開いて撫でていた猫達から顔を上げる。予想通り、長身の男が片手を上げてこちらに歩み寄ってきていた。
「……旱」
 呆然とその青年の名を呟き、そして直ぐさま自分の格好に気づいて顔を朱に染めた。実は一昨日から風邪に伏せっていたえいじは今朝やっと回復したばかりで、まだ誰にも会わずに床から抜け出し、こうして縁側で朝の爽やかな日差しでまどろんでいたところだったのだ。そのため、服装も寝込んでいた時のまま薄い肌着の着物を身につけただけの状態だった。おまけに緩んでいる襟元が目につき、えいじは慌てて整える。その様子を旱は苦笑しながら見遣っていた。
「悪いな、朝早くから。邪魔したか?」
「っい、いや、大丈夫だ」
 真っ赤な顔で俯いたまま、えいじは体を小さくして答える。目の前まで来た旱はゆっくりと身を屈めてえいじの顔を覗き込んだ。
「風邪、もう大丈夫なのか?」
「え、……っああ、し…心配かけた」
 間近の視線に焦りながら下を見続け、えいじは風邪を引いた当日の夜に駆けつけてくれた旱に詫びを入れる。いつかのようにえいじが寝付くまでずっと傍にいてくれた旱は、今もまた、そのえいじの言葉を聞いて治ったあの時と同様、「良かったな」と笑ってくれた。向けられる優しさに何だか照れて顔をあげれないままえいじがはにかんだ笑みを浮かべると、ふと旱の手が伸びてえいじの頬にかかっていた横髪を掬い上げた。
「髪、伸びたな」
 飛良との件が解決して以来、切ることのなかったえいじの髪は今や腰近くまで伸びている。女性体になってから艶やかさを持つようになった彼女の容姿に、癖のない漆黒の長い髪はよく似合っていた。その自覚のあまりない当のえいじは視線の真横で己の髪を弄んでいる旱の指先に鼓動を逸らせながら、なんとか返答を返す。
「ああ、でももうすぐ暑くなるから切ろうかと思っているんだが……」
「……そうか。でも肩ぐらいまでは残せよ?」
「……え?」
 思わず顔を上げたえいじに、旱は柔らかな笑みを浮かべた。
「前みたいに短いのもいいが、少し長い方がお前に似合ってる」
「……っ」
 今度こそ茹でタコ状態に頭に血を上らせたえいじはそのまま硬直してしまう。その反応に少し苦笑して旱は彼女の髪を解放してやった。
「だ…大学はどうだ……?」
 気まずさを紛らわすように、えいじが話題を口に乗せると、青年は少し黙って「ああ」と呟くと、そっとえいじの隣に腰掛けた。
「そこそこだな」
「卒業、できそうか?」
 えいじが心配そうに聞くと、旱は目を見張って彼女を見つめ、それから吹き出した。
「おいおい、そいつは傷つくぞ。こうみえて成績はいいんだぜ、俺」
「えっ! あっ、すっ……すまないッッ! そういうつもりじゃっ……」
 赤かった顔を一気に青ざめさせてえいじは謝罪を口にする。あまりに深刻な表情に旱は軽やかな笑みで恐縮する彼女の頭をポンポンッと軽く叩いてやった。
「いいよ、お前は大学のことあまり知らないだろーしな。日本の大学は結構卒業するのは簡単なんだぜ? 遊び惚けてなけりゃーな」
「そ……そうなのか」
 でも、今のはさすがに失言だったとえいじは心の中で落ち込む。自分の悪い癖だ。なんでも悪い方向にいくことばかり気にして、明るい考え方を持てないのは。こんな調子では、彼にも呆れられてしまう、と恥ずかしさを感じ、またそれが悲観的な考えであることに気づいて落胆した。
「えいじ? ほら、気にすんなって」
「………」
「あー……、悪い。俺が悪かった。安易にお前に傷つくなんて言うんじゃなかったな」
 えいじは邪法使いとしての己の過去に深い罪悪感を抱いており、自分の言動が他人に及ぼす影響に酷く敏感だった。それでも兄代わりの環の慰めや旱の励ましなどもあってだいぶ落ち着いてきてはいたが、それでもやはり蟠りは彼女の中で燻っている。そんな彼女に自分の発言こそ失言だったと、旱は考えなしの己に叱咤する。それにえいじは慌てた。
「違うっ……、旱は悪くない。私が勝手にっ……!」
 顔を上げて否定しようとしたえいじは、しかし、いつの間にか目の前に迫ってきた旱の顔に言葉を詰まらせた。いや、紡ごうとしていた言葉を飲み込まれてしまったという方が正しいか。数秒押しつけられた柔らかな感触は、えいじの思考を停止させるのに十分だった。呆然と見つめるだけのえいじに、唇を離した旱は口端を上げて微笑む。
「じゃあ、お互い様ってことで。この話は終わり、な?」
「………っ」
「あれ? 旱君?」
 真っ赤になって唇を震わせるえいじの後ろの廊下の向こうから、タイミングよく顔を出したのはこの社の主人の若奥様だった。相変わらずクルクルと愛くるしい瞳で、和やかな空気をまき散らす女性は満面の笑みで近づいてくる。
「おう、旭。おはよう」
 何もなかったかのように片手を上げる旱に、旭は「おはよー」と柔らかな笑みで答えた。だが、その視線はすぐさま背を向けている状態のえいじに向けられる。
「えいじちゃん、もう風邪良くなったんだねっ」
「えっ、ああっ、うん。……ごめん、氷枕ありがとう」
「いいよぉー、旭にできるのは氷を詰めることぐらいだったもんっ」
 旭自身は薬の用意もしたかったのだが、環に止められた。結果申し遣ったのが、氷枕を準備することだった。氷枕に入れる氷の分量は問題なくても薬はやばいと判断した環のおかげである。その場にいた旱も「さすがにそこまでないだろ」と苦笑したが、その後、環がとつとつと語ってくれた旭に看病をまかせた時の己の実体験談を聞いた後には、ただ沈黙して彼に全てを任せるしかなかった。旭は大層不満そうにしていたが。
「あ、環のやつ居るか?」
 思い出したように旱が旭に問うと、笑みを絶やさない彼女からにこやかな返答があった。
「うん、多分本殿にいるよー、呼んでこようか?」
「いや、俺が行くわ。こいつ頼むな」
 ポンッとえいじの肩を叩き、旱は腰を上げて本殿の方向へと去っていく。その後ろ姿を見送りながら、えいじはまだ感触の残っている唇を手で押さえた。そんな彼女の背後から明るいトーンの声が降ってくる。
「旱君、えいじちゃんのことすごく心配してたんだよぉ?」
 昔は「えいじ君」と呼んでいた旭だが、今ではもうちゃん付けで定着している。最初はそれに抵抗を感じたえいじだったが、あの環でさえ修正できないものをえいじにできるはずがなかった。今ではあまり違和感なくその呼び方を受け入れられている。旭だから成せる業だな、と心密かにえいじは思っていた。
「昨日もね、看病にどうしても来れないからってえいじちゃんの様子聞くために何度も電話してきてくれてたんだよ。環ちゃん途中から無視しろって言い出しちゃったりしたけど」
「そ……そうなのか」
 気恥ずかしさと何とも言えない嬉しさでえいじが答えると、旭はにっこりと満面の笑みで頷いた。
「嬉しいねっ」
 顔を覗き込みながらそう告げると、えいじは頬を朱に染めながら遠慮気味に顎を引いた。
「……うん」



「えいじ、いるか?」
 自室で本を読んでいたえいじは障子越しにかけられた声に本から視線を上げた。旱だ、とすぐにわかって少し焦る。自分の格好に問題があった。実は今スカートをはいているのだ。えいじは普段ズボンばかりでスカートなどはく機会は皆無なのであるが、何かとえいじを着飾りたがる旭があの後、えいじに用意してくれた……といえば聞こえはいいが、要は拒否を許さぬ空気を纏って押しつけてきたのである。病み上がりだから楽な服装の方がいいと勧められ、「いや、もう大丈夫だから」と言ったのだが断固として旭は受け付けてくれなかった。「旭のためだと思って!」と仕舞いには訳の分からぬ懇願理由まで叫ばれてはえいじに選択権はない。とりあえず、その場はそれを着用して、後で着替えようと思っていたのだが、それを後回しにして本を読み始めてしまったのがまずかった。一応、旱がもう一度顔を見せるだろうと予測してはいたのだが、まさかこんなに早いなんて。わざわざ朝早くから訪れるくらいだからよほど重要な、話し込むような用が環にあったのだろうと高をくくっていたのだが、見事に外れた。混乱状態の中、「ちょっと待って」と着替える時間を求める間もなく、相手は障子を引いてしまう。
「…………」
「…………」
 旱が硬直してこちらを見つめてるのを感じ、えいじは羞恥に俯いた。まさかこんな格好を見られるなんて……と穴があったら入りたい心地だ。
「……スカート」
 やはり、そこを突っ込むか、と旱が呟いた声にえいじはさらに身を縮める。できればスルーして欲しかったのだが、現実は甘くない。
「に、似合わないだろ?旭がどうしてもって言うからっ……」
 何とか言い訳の限りを尽くしてみようと頑張るが、旱からの反応はしばらくない。呆れ、られただろうか、とえいじは恐る恐る相手の顔色を伺った。旱は右手で顔を覆っていた。その手の下で長い吐息が漏れる。ため息吐かれた……とえいじがそれに落ち込む直前、小さな呟きが落ちる。
「クリティカルヒットだよ、おい」
「……え?」
 耳に届いた言葉に疑問を露わにすると旱が手を外してこちらを見据えてきた。真剣な双眸に思わず体を硬直させたえいじの傍までゆっくりと近づき目の前で腰を下ろす。
「なあ、えいじ」
「……な、なんだ?」
 しどろもどろに答えると、旱は熱の篭もった視線を向けてきた。真っ直ぐなその視線から逸らせずに、えいじは困った表情で相手を見つめる。しかし青年の方には躊躇いがなかった。
「お前、俺の子ども産む気ない?」
「………………」
 ピシリッと空気が固まった。えいじは何を言われたのか、よくよく旱の言葉を頭の中で反芻する。
 旱の子ども……を、産む? 旱の子ども……旱の…………私、が……。
「嫌、か?」
「嫌じゃない」
 頭を通過せずに、それは言葉になっていた。即座の返答に旱が目を見張っている。それ以上にえいじは自分の言葉に驚いていた。
「えっ!? 違っ……ちょっと待ってくれ。今のは反射というかっ……なっ、何? えっと、旱の子どもだよな? 旱の子どもを私が…………」
 パニック状態に陥ったえいじは必死に言葉を理解しようと藻掻く。だが言葉は舌の上を踊るだけでちっとも頭まで到達してくれなかった。いよいよえいじが困惑しかけた時、助け船が出された。目の前の青年から。少々……いや結構荒い感じで。
「わ!?」
 腕を勢いよく掴まれ、引かれ、思いっきり相手の胸の中に引き込まれる。状況を理解するまもなく、無骨な指が顎にかかって上向かされた。
「……んうっ!?」
 遠慮無く、口を塞がれる。彼の柔らかなそれによって。えいじにできた抵抗といえば、相手の腕を握りしめることくらいで。……何度も何度も角度を変えて深く口づけられる度に意識が溶け出すような感覚に陥った。ようやく解放されて、荒い息のままうっすら目を開けると、穏やかに微笑む彼の顔がある。
「俺の嫁に来ないかってこと」
「……よ…め」
 わかりやすく言い換えられた言葉に、えいじは絶句した。まだ熱の残る唇が震え出す。
「私は……邪法使いだぞ?」
「だから?」
 こともなげに聞いてくる旱に、えいじは苛立ちすら感じた。
「邪法使いなんだ! そんな私がお前のっ……乙葉の分家当主になるお前の妻になんて……っっ!」
 許されるわけがないっと叫びたかった。だが、気づけば、相手に組み敷かれて呆然と彼の顔を見上げていた。
「でも」
 いつもよりさらに低い声が間近で囁く。
「俺は、お前の子しか欲しくないんだけど」
「………っ」
 涙が、零れた。
 ずっと、この恋は叶わないと思っていた。それでもその時が来るまでは、旱の傍にいたい、と割り切っているつもりだった。旱から別れを切り出されれば、すぐに潔く受け入れようと。だって、旱は分家当主になる男だ。そんな彼に、自分が寄り添うなど、限られた時間でしか許されない事のはずだ。今だけの幸せで十分だと言い聞かせていたのに。
 これだけ苦しい想いをして、押し込めていたはずだったのに。
 なのに、お前が全て台無しにしてしまう。
 手放したはずの願いをまたこの手で掴んでしまう。
「絶対、反対されるっ」
「ああ、だろうな。でも大丈夫だろ」
「何を根拠にそんなっっ……」
 非難めいた瞳で相手を見上げると、青年はにやりと笑う。
「環、味方につけたからな」
 なんていったって当主だからな、ばーさんどもも強く出れないぜ、と悪巧みをしている子供みたいな顔でのうのうと告げる。唖然としているえいじなどお構いなしだ。
「まさか、朝の環に用事っていうのは……」
「ああ、そろそろ来るだろうって向こうも覚悟してたみたいだから、思ったよりもあっさり承諾してくれた」
「! たっ…環に迷惑かけるなんてッッ……!」
青ざめて怒声を放つえいじを、旱は少し眉を顰めてから再び唇で黙らせる。
「………っ!」
「そういうと思った。だから事後報告にしたんだよ」
「だって! …ただでさえ、環には迷惑かけてるのに…」
 なお言い募るえいじに、旱はついに眉を顰める。
「ったく、お前はもうちょっと人に甘えることを覚えろ。そんなんじゃ、欲しいものなんか一つも手に入らないぜ?」
「……旱は遠慮がなさすぎだ」
「お前が卑屈な分を、俺が埋めてやってるんだろ」
 そう言って、また口づけてくる。尊大な物言いと態度に、えいじは何だか自分が悩んでいるのが馬鹿らしくなってきた。
「…私がお前の無遠慮な分を、埋めてやってるんだ」
 だから、そう投げやりに口にしてやれば、旱は少しだけ目を見張って笑う。
「じゃあ、一生お前に付いててもらわなきゃだな」
 揚げ足を取るその発言にえいじが顔を顰めると、旱は少しだけ苦笑して、それから真摯な瞳でえいじの頬に手を添えて告げた。
「えいじ…もう、諦めなくたっていいんだ」
「………」
「欲しいものは欲しいって言えばいい」
 えいじは目を見張って目の前の青年の瞳を見つめた。
「俺はえいじが欲しい」
 柔らかく微笑んで、旱が囁く。それに息を呑んだえいじに、旱はそのまま続けた。
「えいじは、何が欲しい?」
「………」
 不安げに瞳を揺らしながら、そっと手を伸ばす。辿々しく、ゆっくりと近づいてくるその指先を旱は静かに待った。触れる、一歩手前で戸惑う指先を、ただ、待ち続けた。
「旱」
「………」
「旱が……」
「俺が?」
「………」
「えいじ」
 促すような呼びかけに、えいじはそっと唇を噛んで、旱の視線から逃げるように顔を俯かせて、それでも消え入るような声で告げた。
「旱の隣が…欲しいよ」
 言ってから、旱の反応が怖くて恐る恐る視線を上げたえいじは、満面の笑みを浮かべている旱の顔を見つめて、胸が締め付けられる。えいじの髪を優しく梳きながら、旱が返す。
「やるよ」
 伸ばしかけていた手を捕られ、口づけが瞼に落ちてくる。その時に、そっと涙がえいじの頬へ伝い落ちた。そして、そのまま暖かい腕に身をゆだねた。




◆◆◇◇◆◆◇◇


 数日経って、完全に体調を回復したえいじは、旭を探して廊下を歩いてた。旱はここのところ忙しいのか姿を見せていない。
「……それはそうだろう。いきなり言ってあの人達が頷くわけがない」
 呆れたような物言いが聞こえてきて、えいじは思わずその場で足を止める。どうやら角の向こうで環が電話で話しているようだった。その打ち解けた物言いに、誰と話しているのだろうと首を傾げてえいじは環の声に耳を澄ます。
「……俺に怒るなよ……大体、お前は急ぎすぎだ。……だから、時間がとれなかったんだよ、ここ最近は。…あー、わかった。わかったから。明後日本家に行く、それでいいんだろう?」
 本家、という言葉にえいじはピクリと反応した。まさか、と思いながら、そっと角から顔を出す。環はこちらに背を向けていて気づいていない。
「……俺は明後日しか空いてないんだ。お前が駄目なら、えいじと行くさ。……旱、そうは言っても、これから嫌でも付き合っていかなくてはならないだろう? えいじだってそんなに弱くない。危害は与えさせない……ああ、誓うよ。いいな、もう切るぞ」
 有無を言わせぬ調子で電話を切った環はふと気配を感じて振り返り、えいじの姿を認めて目を見張った。
「あ……、すまない。立ち聞きするつもりじゃなかったんだが…旱からか?」
 戸惑いながら問い掛けるえいじに、環は少し悩んでから口を開いた。
「ああ、お前とのことを本家に言ったそうだが、えらく反対されて聞く耳持たずだったらしい」
 率直な物言いが環らしい。どう返答したものかとえいじが困っていると、環の方が再び言葉を繋げてきた。
「明後日、お前と俺で本家に行こうと思っている。……大丈夫か?」
 心配そうに聞いてくる環に、ふとえいじは彼がさっき旱に告げていた言葉を思い出す。
『えいじだってそんなに弱くない』
 認めてくれている。そのことが嬉しかった。えいじは静かに笑みを浮かべて環を見上げた。
「わかった、大丈夫だよ」
 しっかりとした口調で返ってきた答えに、環も微笑む。
「あ、そうだ、旭を見なかったか?」
「旭? 朝食の準備をしていると思うが……」
 どうかしたのか? と視線で問われて、えいじは手にしていたものを指し示した。
「借りていたカーディガンを返そう思って」
「そうか、朝食ももうできているだろうな。一緒に行こう」
 環が踵を返して廊下を歩き出す。えいじもそれに習ってついていこうとした。が、トクンと自分の内側で響いた音に、全身が硬直した。
 急に立ち止まったえいじを環が訝しげに振り返る。
「えいじ?」
「………」
 声を掛けられても、えいじは放心したようにその場に立ちつくしていた。尋常じゃないその様子に、一歩環がえいじへと足を踏み出した時、えいじがポツリと漏らした。
「……影羽だ」
「………」
 呟いたえいじの左手が、その腹の上に添えられているのを、環はその時気づく。それからゆっくりと視線を上げて、えいじの顔を見れば、えいじは床を見つめたままポロポロと涙を流していた。右手で口元を覆い、「影羽だ」と再び呟く。
「影羽だ……影羽が……」
「えいじ」
「やっと……」
 見開いた目から涙を幾筋も零しながら、えいじが言葉を漏らす。喉奥が嗚咽に震え、視界は涙に滲んで、足はどうしようもない歓喜に震えた。
 ずっと、望み続けた命。
 待ち続けた命。
 それが、今、芽吹いている。
 自分の、中……に。
「………っ」
 溢れてくる激情に、胸が、詰まった。
「やっと……生まれ変わってくれた……っ」
 そのまま泣き崩れるえいじを、環が抱き留める。そして、様子に気づいた旭がやってくると、静かな笑みをたたえて、「旱に電話してやってくれ」と告げた。





◇◇◆◆◇◇◆◆



 まるで高級料亭のような、格式高い一室に通されて、えいじは固い表情のまま、環の隣に座って、一人の女性と対峙していた。その顔には見覚えがある。あまりいい思い出ではないのは今までの自分の立場からすれば必然なのだろう。環を見据えていた老婆の顔が、スッとこちらに移って思わず心臓が跳ねた。向けられたそれは、明らかに卑下の目、だった。
「許されませぬ」
 断固とした拒絶をもって老婆が口を開く。冷たい眼差しに萎縮しそうになる心を叱咤してえいじは彼女を真っ直ぐに見つめた。そっと腹部に手を添える。温かな命をそこに感じながら、背筋を伸ばしてゆっくりと口を開いた。
「子供が、います」
 一瞬、相手は言葉が理解できていないようだった。寝耳に水とはまさにこのことなのだろう。眉を顰めて初めて口を利いたえいじを見つめる。
「何ですって?」
「えいじは旱の子を身ごもっていると言ったのです」
 えいじの代わりに環が淡々と告げた。相手側の顔色が一気に青ざめる。
「なっ…聞いていませんよ!? 先日旱はそのようなことを一言も!!」
「昨日、診断を受けて判明したことです」
「……っ」
 老婆は言葉を失って、えいじと環を交互に見遣る。
「なんとっ…なんということ! よりによって、邪法使いなどと子を為すなど!!」
 吐き捨てるように言った老婆は目元を大仰に覆った。そして直ぐに剣呑な視線をえいじに向けてくる。えいじは青白い顔をした相手の次の言葉を察して身を強張らせた。
「………堕ろしなさい」
 静かな声は部屋に響いた。えいじは、唇を噛み締め、一度目を閉じた。そして再び開くとともに言い切った。
「嫌です」
「堕ろしなさい!」
「嫌だ!」
 叫んだえいじに、老婆の手が上がった。だが、その手がえいじの頬を打つ前に、環の右手が老婆の手首を掴んでいた。
「環殿っ!」
 感情的になった老婆が非難の声を向ける。だが、環の瞳はどこまでも冷静に相手を見据えていた。
「最後の局面で、護法となってまで俺を救ってくれたのは邪法使いである母でした」
 静かに紡がれる言葉に、老婆が眉を顰めて環を見返す。環は一呼吸置いて、鋭い視線で相手を射抜いた。
「そこまでおっしゃるなら、邪法使いを野放しにするよりも身のうちに置いておいた方が利口なのではないですか」
「………」
「それに」
 環は冷たい眼差しを老婆に向けたまま続けた。
「当主の私も、<邪法使いなど>から生まれた者ですが、何か支障が?」
「………っ!」
 今度こそ、完全に老婆は押し黙った。何か言葉を返そうと口を開くが、何を言っても墓穴を掘りかねないと察して無意味に音を伴わない息だけがその口から漏れる。しばらく静寂が続いた。やがて老婆の振り上げた手から力が抜けたのに気づいて、環は掴んでいた手を解放する。老婆はその後もしばらく沈黙を守った。庭の木々が風に揺れる音だけがその場に流れる。
「わかりました」
 老婆の言葉にえいじは勢いよく顔を上げた。相変わらず、相手の自分を見下ろす目には負の感情が溢れていたが。
「子までいるのであれば……仕方ありません。旱とのこと、許しましょう」
 見るからに青白い顔でそう言って、老婆はえいじと環に背を向ける。「他の者へは私から」と小さく呟いて、そのままもう一度もえいじの顔も環の顔も見ずに、部屋を後にする。まるでせめてもの抵抗とでも言わんばかりの態度だった。
 残されたえいじと環はその場でしばらく黙ったまま動かなかった。だが、いつまでもそうしているわけにもいかず、環はえいじに向き直って、手を差し出し、「帰ろう」と一言だけ告げた。えいじはその手を取って立ち上がり、小さく頷いた。
 本家を出て、環の家の前まで帰ってきた時、不意に環がえいじを振り返る。えいじが何事か、と首を傾げて環を見返すと、彼は少し辛そうな顔で言葉をかけた。
「嫌な、思いをさせたな」
 老婆の前で放った言葉のことを言っているのだろう。邪法使いを利用しろ、とも言い換えられる環の言葉は、えいじを深く傷つけた……と、環は思っているのである。意外に繊細な当主を前に、えいじは静かに笑みを浮かべて首を振った。
「私は大丈夫だよ」
「……彼らにも、立て前が必要なんだ。己の威厳を保つために」
 そこを立ててやらないと、向こうも折れるに折れないのだ、と環は続ける。えいじは頷いた。
「うん、わかってる。私は何を言われても仕方がないことをしてきたから、どんなに痛くても全て受け止めて耐えなければならないんだ」
 その言葉に、環は眉を顰めた。
「えいじ」
「でも」
 環の呼びかけを遮って、えいじは影のない笑みを見せた。
「環のあの言葉は、私を守ってくれようとしているのが伝わったから、何も痛くはなかったよ」
「………」
「ありがとう、環」
 環は何か言いたそうな顔をしていたが、えいじのあまりに純粋な笑みを前に、それらを飲み込んでただ、小さく微笑を返してくれた。
 その微笑を見つめながら、大丈夫、とえいじは心の中で呟く。
 大丈夫、私は、弱くない。
 ちゃんと、守っていける。
 この子も。そして、彼がくれた居場所も。
「えいじ!」
 飛び込んできた呼びかけに、えいじは環とともに目を見開いて、その声の方を振り返る。
 慌ただしさをその出で立ちの至る所に散りばめた旱が、まさにこちらに駆け寄ってきているところだった。
「旱……どうしたんだ? 今日は……」
 仕事だったはずだ。乱した息を肩を大きく上下させながら落ち着かせている青年は「できるだけ早く終わらせてきた」と呼吸の合間に告げて、真剣な眼差しを見せ、えいじの両肩を掴む。
「それより、大丈夫か?」
 何もされなかったか、と不安げな瞳がえいじの目を、そして腹部を見遣る。妊娠したのが分かったあの日、何もかもを投げ出して駆けつけてくれた旱は、「やった」と「良かった」と「ありがとう」をくれて、後はただずっと抱きしめていてくれていた。「影羽の生まれ変わりなんだ」と少し興奮気味に告げると、少しだけ目を丸めて、それから「良かったな」と優しく笑って頭を撫でてくれた。「本家に行くときは仕事なんて置いといて、やっぱり付いていこうか」なんて言い出したのには「私のためにお前が仕事を疎かにしてたら、それこそ立つ瀬がない」と嗜めて、なんとか納得してもらったけれど、そういう風に思ってもらえたのは純粋に嬉しかった。そして、今もまた、自分達のことをこんなにも気遣ってくれている。自然と、顔が綻んだ。
「大丈夫だ。環が守ってくれた。……ちゃんと、認めてもらえたよ」
 旱はその言葉に、目を見張って、確認するように環を見た。環が一度小さく頷いて見せると、旱は張り詰めたその表情を緩めて、大きく息を吐き出しながらその場で脱力する。
「良かった、マジで……」
 安心した、とか細く呟くその声が、耳に届いて、彼が本当に気を張っていたのだと伝わってきた。その事が、ただ、くすぐったいように温かくて、えいじはその体にしがみ付く。「えいじ?」と、少し驚いている様子の彼に、小さく告げた。
「生まれてきて、良かった」
 目を見開いた旱の顔を見上げて、涙目になっている顔で笑って、言う。
「幸せだよ」
 心から、そう思えた。


















◆◆◇◇◆◆◇◇



 とある天気のいい昼下がり。
 縁側で鴛鴦夫婦とその母親の胸に抱かれた儚くも温かい赤ん坊の小さな団欒。
 幸せ空気に満ちたその場で、旱の口を割ったのは小さな不満。
「……っつーかさ」
「?」
「この猫屋敷状態は何とかならないのか?」
 足元、縁側の上、膝の上。至る所に猫、猫、猫。昔よりも苦手意識が薄れて慣れたとは言ってもさすがにこれには辟易してしまう。だが肝心の奥さんは首を傾げる。
「可愛いじゃないか」
「それにしたって、限度があるだろ。影羽だってこうやってもう生まれ変わったわけだし……猫を集める必要ないんじゃないのか」
「集めてるわけじゃない、ただここに来る猫に餌をやってるだけで……」
「……一緒だろ」
 憮然としてそっぽを向いた旱を見て、えいじは失笑してからその隣に赤ん坊を抱えたまま腰を下ろした。
「旱」
 呼びかけに、ゆっくりと視線だけを向けてきた青年へと満面の笑みを返す。
「もう、私は欲しいものを諦めなくて良いんだろう?」
「…………」
 固まった青年は、何か言いたげな顔をして、それでも何も紡ぐ言葉を見つめられずにしばらく沈黙した後に、結局大きく深いため息を吐き出した。
「あー、わかったよ。ワカリマシタ!」
 全面降伏を表明した旱は両足を投げ出して天を仰ぐ。その姿が、なんだか妙に温かくて、優しくて、えいじは思わずその裾を引いた。
 顔をこちらに向ける彼に、自然と浮かぶままの笑顔を向ける。
「ありがとう」
 旱の表情がまた固まった。
「………えいじって」
「?」
「俺キラー」
 なんとも言えない表情を浮かべてそう呟くなり、右手で目元を覆った旱に、その言葉の意味を図りかねたえいじが聞き返す。
「え?」
「……アイシテルっつったんだよ」
 苦笑を含ませて、投げ出すように言ったその口が、不意打ちのようにえいじの唇に重ねられて、その頬を一瞬で赤く染め上げる。思わず、赤ん坊を抱く腕に力が篭もってしまい、むずがったその子が顔を顰めて小さな泣き声を上げたので、えいじは慌てて抱えなおした。
 「ごめんごめん」と腕の中のわが子に謝りながらも、耳まで真っ赤な初心の妻を見つめ、元凶の夫はニヤニヤと笑っている。
 それに気づいたえいじがまた顔を赤くしながら、恨みがましい視線を向けて。
 まったく悪びれない旱が、「かーわい」なんて茶化しながら、また顔を寄せてきて。
 右端にいた猫が欠伸がてらに一鳴きして。
 風は穏やかで。
 空は青くて。

 世界の片隅で。

 きっと、こんな日が、ずっと続いていく。



(君と、なら)


<fin>




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