早い朝はまだ幾分寒さを感じるものの、10時を過ぎる頃になると日差しも差してきて丁度良い陽気に包まれる。最終駅から2つ前の駅で列車を降りたエラは予想以上に長かった旅に大きく伸びをして固まった筋肉をほぐした。8年ぶりともなる場所に懐かしさを覚えながら駅を出、記憶を探りつつ、道を歩いていく。庭先で水を蒔いている人と朝の挨拶を交わし、散歩をしている老夫婦に道を譲り、およそ10分ほど歩くと昔と全く変わらぬたたずまいでポツンと立っている一軒家を見つけた。
念のため、薄汚れた表札を目をこらして見つめて確認する。
ローズディングの名を読み取る前に、ドアが勢いよく開き、目を丸くしてドアを見遣ったエラの視界に満面の笑みを浮かべた祖父の姿が映った。

「エラ!」

「おじいちゃん!」

そのまま勢いよく抱きつかれて、エラは驚きのあまり心臓がドクドクいっているのを感じる。

「びっくりした。いきなり出てくるんだもの。まだ呼び鈴押してないのに・・・。」

「そりゃ、お前。窓からずぅーっと見とったからの!いやいや、2年ぶりか。綺麗な娘さんになって!!」

しわくちゃの顔を笑みに染めて、老人は満足げに孫の肩を叩いた。記憶と違わぬ軽口にエラも苦笑を浮かべ、祖父に促されるままにトランク片手に家へとはいる。入るとすぐに、一匹の犬がエラを熱烈な歓迎で出迎えた。小型犬のミニチュアダックスフンドなのだが、あまりに元気が良い。珍しい来客に興奮したように足下を駆けずり回り、吠え、尻尾を千切れるんじゃないかと思うほど激しく振ってる。小柄な体で飛びかかってくるそれに狼狽して祖父に助けを求めるが、祖父は笑うばかりで助けてはくれなさそうだった。

「犬飼ったのね。」

「1年前にあいつが逝ってからな。この年になると、一人暮らしが寂しくてかなわんさ。」

ようやく落ち着いてきた犬を足下で遊ばせながらエラが笑う。陽気な祖父の様子からは寂しげにしている姿なんて想像も出来ないが、陽気故に、一人身は余計辛いのだろうと感じた。祖母とかなり仲が良かったのもそれを手伝っているのだろう。

「・・・おばあちゃんの葬式出られなくて、ごめんね。」

ふと、真剣な目で謝罪を告げるエラに、ローズディングは目を丸め、それから苦笑を漏らした。

「仕方ないさ。お前はあの頃大変じゃったろう。あいつもちゃーんとわかっとるよ。」

「・・・うん。」

祖父の向こうあるガラスの中の紙切れの上で微笑んでいる祖母の顔を見遣りエラも微笑んで頷いた。心の四方を囲んでいた壁を解放する感覚の心地よさに目を閉じる。ここでは何も構えることはない。ただ安堵の中で息を吐くことが出来る。

「向こうではどうなんじゃ?少しは良くなってるのか?」

「うん、お婆様もやっと諦めてくれそう。本当はまだ渋ってるんだけど、おじさまとおばさま達が限界だってこの間喚いてたから、今回はかなり効いてるみたい。」

エラは悪戯っ子のような笑みで肩を竦め、犬をその膝に抱きかかえる。
エラの両親は5年前に交通事故で他界した。その後、両方の実家がエラを引き取ると申し出たのだが、父方の実家はかなりの家柄で、そこの長男であった父は祖母のお気に入りであった。結婚もかなり渋ったが父が何とか説き伏せて、駆け落ち間際の状況を回避したらしい。そんな父の子であるエラに、祖母は異常なほど固執した。家をどうしてもエラに継がせたいと半ば強引にエラを引き取り、叔父や叔母が批難するのも無視してエラの教育に励んだ。しかし、エラがまったく勉学に置いて成長せず、その結果に不満が堪った叔父達がエラを手放すようにと要求し出したのがここ数年のことである。最初は断固拒否していた祖母だったが、エラのやる気の無さと叔父達のしつこさに最近は折れつつある。
エラとしては早く母方の祖父達の家へと行きたかった。だから勉強もわざと出来ない振りをしてきたし、一人で引き籠もっては本ばかり読む日々を過ごした。
父方の家とはまったく相性が合わないのだ。家の何処にいても息の詰まる緊張感の中にあってロクに深呼吸も出来ない。父が家を出たのも頷ける。祖母の自分への執着は半ば病的だった。これ以上一緒にいてもお互いのためにならない。

「わしはいつでもお前を待っとるよ。」

ソファーに腰掛けた祖父は優しく微笑んでそう告げた。
そこに母の面影を見て、思わず胸が締め付けられたが、泣いてはいけないと口元を引き締め滲みかけた目を俯かせる。
それに祖父が気づく前に、エラはにっこりとした顔を作り上げて顔を上げた。

「そうだ!今日列車の中でね、本の趣味が会う人と出会ったの!ほら、おじいちゃんの書庫から見つけた・・・・」

「レントの奴か・・・?」

ふいに顔を顰めた祖父はエラの言葉を遮って問う。

「まったく・・・あんな奴の本なんざ読んでも仕方ないじゃろうに。」

気にくわないというような祖父の態度にエラは愛らしい頬を膨らませて抗議した。

「あら!レントさんはとても素敵な作家よ!!もう何年も彼の本が傍にあったって言うのにおじいちゃんが奥の方に仕舞い込んでるからなかなか出会えなかったのよ!」

「あんなちゃらんぽらんな奴に人のためになるような本が書けるとは思わんがな。」

「でもそういうおじいちゃんがその本を買って持っているじゃない。」

「ありゃ、買ったんじゃない!あいつが勝手に押しつけてきたんじゃ!」

言ったところで祖父はハッとしたように口を手で覆った。
けれど、それは後の祭り。エラは片眉を上げて祖父を見据える。

「・・・あいつが押しつけた?おじいちゃん、レントさんの知り合いなの?」

「いや・・・」

「おじいちゃん?」

口篭もる祖父を追いつめるようにエラは畳み掛ける。そうでなくても孫には砂糖の上から蜂蜜を垂らしたように甘い祖父には敗北の二文字しか用意されていなかった。

「・・・高校時代のクラスメートじゃよ。」

観念したように呟く祖父に、エラは目を丸めて彼を見つめた。

「嘘・・・なんでもっと早く教えてくれなかったの?そうだと知ってたらレントさんが亡くなる前に会いに行けたかもしれないのに。」

少し拗ねたような顔で責める孫娘に、ローズディングは仏頂面で顔を逸らす。

「だからじゃよ。なんでわしがあいつに可愛い孫娘を披露してやらねばならんのじゃ!」

憤慨したように吐き出す祖父の様子に子供っぽさを感じて呆れ、エラは大きく肩を落とした。どうして祖父はこうなのだろう。もちろん、そこが魅力的なところでもあるのだが。ふと同じような呆れ顔で苦笑する祖母の姿が思い出される。

「ねえ、レントさんってどんな人だったの?」

とりあえずしきり直しで聞くと、やはり祖父はいい顔をしなかった。
それでも渋々一言だけ言ってくれた。

「・・・教師泣かせの優等生じゃったよ。」

意味が分からずに聞き返しても祖父はそれ以上何も教えてくれなかった。
仕方なしに諦めて、紅茶を入れて祖父に渡し、おやつを取り出してテーブルの上に置く。
「上手い」と笑う祖父に微笑み返して、エラは本題に切り出した。

「ねえ、おじいちゃん。」

「なんじゃ?」

可愛い孫の問いかけにローズディングは優しく問い返す。
その祖父にエラはにこやかに告げた。

「男の人を落とすにはどうしたらいいのかしら?」

ブハッと啜った紅茶を吐き出したローズディングにエラは目を見張って「どうしたの?」とティッシュを持ち出す。
咽せったせいで涙目になったローズディングはそれでも鬼気迫る瞳で孫の顔を見つめた。

「ど・・どういう意味じゃ。」

「好きな人ができたの。」

あっさり、無視できない爆弾発言をしてのけるエラに何処か意識が遠のきかけるのを感じながらローズディングはなんとか踏みとどまる。

「いっいつの間に・・・!!」

どこぞの馬の骨が可愛い孫娘を唆したのだと言葉にならない焦りと憤りを溢れさせる祖父にエラはこれまたサラリと告げた。

「ついさっきよ。」

つまりここら辺の人間ということか?と興奮のあまり、回らない頭をフル稼働させて以前からエラに言い寄ってきた害虫が頭に浮かぶ。

「花屋のトーマスか!?」

「こう言っては失礼だけどタイプじゃないわ。」

孫娘は実に正直だ。時にきついと思われるような時もあるが。

「じゃあ、誰なんじゃ・・・?」

もはや誰も思い当たらず冷や汗まみれで問えば、エラは微かに頬を朱に染めて顔を俯かせる。その愛らしさに目を奪われると同時にそういう顔をさせる輩がいると思うと気が気ではなかった。

「言ったでしょう?列車の中で本の趣味が合う人に会ったって。レントさんの本について語り合った人。」

一瞬祖父は硬直して、それからゆっくりと顔を伏せ・・・。

「レントォオオ!!お前という奴は、お前の走り書きにも満たない紙くずのような本でわしの可愛い孫を取り返しの付かない状態にしよったなぁ!!恨みか!これはお前のわしにたいする呪いかぁ!!?」

と、一応心の中で叫び、「どうしたの?」と首を傾げるエラに引きつった笑みを作り上げて問う。

「それで・・・どういう輩・・・いや男なんじゃ?そいつは。」

「大学生って言ってたわ。リーズ駅で降りていたからきっとお母さんと同じ大学だわ。」

嬉しそうに話すエラに、愛娘の母校に火を付けてやろうかと危険な考えを過ぎらせた祖父の顔は映し出されなかった。とりあえず、荒ぶる心を押し鎮めて、祖父はゆっくりと息を吐き出す。まあ、あのはな垂れ小僧のトーマスじゃないだけマシか、と自分を無理矢理納得させて。

「ええと、とにかく・・・エラ。まず他のいろいろな問題を片づけてからにしたらどうじゃ?それからでも遅くはないじゃろうて。」

「う〜ん・・・でも彼もてそうだし、その間に他の人に獲られちゃうかも。」

それこそローズディングの望むところなのだが、それを露わにはできない。

「なに、わしの可愛い孫娘を見て他の女に目移りするような男はおらん!安心してどーんと構えておればいい!!」

ついでに勢いのまま忘れてくれたらもっといいのだがというのは言葉にはしない。
エラは少し考え込み、それから小さく息を吐いた。

「そうね・・・まずは自分の問題を片付けないと・・・それからよね。」

「そうじゃよ。」

「じゃあ、私、頑張ってこの家に来るわ。もう少しでお祖母様も折れてくれそうだし・・・そうしたら彼に会いに行けるもの。」

「・・・・・」

なんだか、孫娘の目標が自分の傍から離れていくような気がしてローズディングは納得しがたかったが、とりあえず目先の矛先は変わったという事で安堵することにした。
ホッと息をついて紅茶を再び啜る。視線をやればエラは窓の外を眺めていた。その横顔がますます若い頃の妻に似てきて、なんだか時の流れを感じて感傷的な気分になる。
ついに恋愛相談をするような年頃になってしまったのか。
本来はこういうことは母親に持ちかけるのだろうが、回りに回って自分のところまで来てしまった状況が恨めしい。だが、何も知らぬよりは・・・と自分を慰めてみる。

「今年は積もるかしら?」

「まだ夏にもなっとらんぞ。」

突拍子もない孫の言葉に少々呆れながら言えば、肩を竦めて笑う少女。
可愛い、と思わず頬が緩むのはもはや慢性的なジジ馬鹿病である。
あいつはこんな楽しみも知らずに逝ったのかと思うと、友人・・・とも言えるのかどうか分からないが、とにかくあの男も不憫だと同情の念が湧いてきた。だが、あの男が孫にデレデレしてる様もまったく想像できない。いつも静かに笑い、いっそ不自然なほど自然に周囲と隔絶してきた男。その違和感に気づいたのは自分だけで、それ故にあの男の引いた境界線の内側に踏み込めた自分。なんだったんだろうか、とふいに思うことがある。
あの男と過ごした時間はまるで別世界で過ごした時のように思い出の中から浮いていた。

────今年、積もるかな?

ああ、あの男も言ってたな、と思い出した。どこかで覚えのある場面だと思ったら。
真夏の日に、校舎の窓枠に腰掛けて。呆れた自分に対し、肩を竦めて笑ったところまで今のと同じだ。
・・・ただ、孫娘のように、それを可愛いとは一ミリも思いはしなかったが。

「おじいちゃん、散歩行こうか?良い天気だし。」

散歩という単語に愛犬が尻尾を振って立ち上がる。
エラは飲み干したティーカップを片付け、可愛らしい笑みで笑う。

「そうじゃな」

年々動かなくなっている自分の体を叱咤しながらローズディングは立ち上がり、帽子を探した。すぐさまエラが掛けてあったそれを持ってきてくれ、礼を言って受け取る。

「帰りにケーキを買って帰ろう。」

微笑んで言えば、エラは微笑み返してくれる。
そうして暖かい日差しの中開いた扉は、年老いた体に少しだけ重く感じた。







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