「後悔」という言葉が、もし誰か一人の為に用意されたものだったとしたら。
間違いなく、その「誰か」は私だろう。
戻すことは叶わない。
歪めることはできない。
ただ延々とこの身を深い絶望の中に沈めるだけ。
ただあの存在に焦がれながら。






「リルーザッ!!」
晴れやかな青空に似つかわしい清々しさ溢れる呼びかけが自分を呼ぶ。
ここは、街から少し離れた山道の開けた場所。
滅多に、というより全く人の通らないこの場所は私と彼の再会の場所であり、毎日掛け合う場でもあった。
「タクト・・・。」
無造作に姿を現している岩の一つに腰掛けたまま、私は彼の名を口にした。
微かに口元を綻ばせて。
それに少年は嬉しそうに笑った。
「ごめんよ、待たせて。母さんが庭先で摘み取ったカルダの実全部ひっくり返しちゃってさ。」
今の今までそれを拾うのを手伝わされていたのだと、ふて腐れたように少年は言う。
「私は別に構わない。」
そんな彼を窘めるように答えると、少年はさらにしかめっ面をした。
「あーもう、ちょっとくらい気にしてよ。」
ボソリッと言った言葉は風に流されてよく聞き取れない。
気にせず私は腰を上げると手にした木刀を彼に投げてやった。
「それより、稽古するのだろう?この時間ではすぐに日が暮れてしまうぞ?」
言うと、少年の瞳に嬉々とした光が浮かび上がる。
「ああ!そうだな!今日はどんなのを教えてくれるんだ!?」
その豹変ぶりに苦笑して、私は剣を彼に教えるため鞘をつけたままの真剣を彼に対峙するように構えた。



思えばあれから10年も経っていたのか。
もう一人の自分が気まぐれで破壊の限りを尽くしたあの街で、まだ赤ん坊だった彼を拾った時から。
まさか自分がこの災害の原因だとは欠片も思わず──いや、彼自身、災害に身を投じていることすら気づいていなかったのかも知れない──惜しむ事なき笑顔を向けてきた赤ん坊。
最初は殺そうと思った。
楽にしてやるために。
だが、気づけば里親を捜してやっていたのだ。
あの時の自分の心理は今でも不可思議なものだった。
きっと二度と会うこともないだろう。
そう考えていたのに。
結果として、自分は彼に偶然にも再会し、今もこうして交わりを断てずにいる。
ここで、妖鬼に襲われた彼を、彼とは気づかずに助けてやったのも何かの縁だと思った。実際、人間を助けること自体気まぐれだったのだ。
しかも滅多に起こす気まぐれではない。
その万に一つに見事に当たったのが彼だった。
その時、自分の剣捌きに感激した彼が「弟子にしてくれ!!」と言ってきたときも、特に何の考えもなく頷いてやった。
たまにはこういうのも悪くない、と。
ただ単に退屈していたのかもしれない。
そうこうしている内に時は流れていったのだ。



「結婚して欲しい。」
急に彼が言い出したのは、彼が10を三つか四つ過ぎたころだった。
いつものように、あの場所で彼を待っていると、やって来るなり突然真摯な眼差しで告げてきた。
最初こそ目を見開いたが、すぐに微笑ましい想いがたった。
母性とはこういうものなのだろうと、自分には似つかわしくないと思いつつも感じた。
息子の成長を見届けたといった気分だ。
あるいはこの時、自分のその感情の裏にもう一つの本質を異とするものがあったのだとは到底考えが及ばなかった。
だから笑って答えたのだ。
「お前が私から一本でも取れるようになったらな。」
・・・と。
今思えば浅はかに他ならない。
それだけ自分は自負していた。
自分が人間の青年に一瞬でも引けを取ることなど有り得ない、と。
「本当だな!?」
パアッと顔を明るくした彼に、私は頷いた。
「ああ、本当だ。」
「約束だからな!?」
くどいと眉をしかめつつも、私は答えた。
「ああ。」
それからというもの、彼は何度も私に勝負を挑んだ。
剣が交わるなりあっという間に勝負はついた。
それでも彼に諦めが過ぎることはなかったのだ。
幾度と繰り返される剣の交わり。
あまりの多さに、私はこの戦いの末のものが何だったのか忘れかけてさえいた。
それでも、少しずつ始まりから彼が地面に突っ伏すまでの時間が徐々に、だが、確実に長くなっていることに気づいたのはいつだっただろうか?
それでも、自分は気にしなかった。
自分の力を絶対的に信じていたのだ。

あの時まで。

それはいつものように、彼が戦いを挑んできたことから始まった。
ただ、その時の彼はもはや少年と呼べる時期を過ぎていたが。
それでも、相変わらず彼は私に打ち負かされてばかりだった。
そう、だからいつものように。
剣を弾き、受け、いつものように突き返そうと。
・・・したはずだった。
だが、不意に体中が強張った。
剣を弾かれ、煌めく汗が光沢を放ちながら、その中で真っ直ぐに自分を見つける瞳。
美しいものなら五万と見てきた。
自分が普段目にするほとんどの者が少なくとも彼よりも美貌を携えていた。
自分もその中の上位に位置するだけに、賛美の言葉を誰かにかけたことなどない。
見惚れたことなどなかった。
なのに。

この青年はなんと美しいのだろうか。

そう無意識に思った。
外見だとかそういうことではなくて。
その瞳が。
その意志が。
その、魂が。
だから呆然としていた。
頭の中は真っ白で。
ふいに我に返ったのはカランッと何かが地面に落ちる音を聞いたときだった。
剣だ。
自分の右手を見遣れば無造作に広げられた手の平。
持つべきものを失って、硬直していた。
その事実に追い打ちをかけたのが彼の歓喜の声だった。

「約束だ・・・!」

ギクリとした。
いけないと思った。
このままではいけない。
彼の記憶を消して、彼から姿を消すのだ、と。
理性が冷静な、そして正しい判断を下す。
だが、次の瞬間。
彼が自分を引き寄せ、苦しいまでにその腕に抱き締めて。
「やった!!」と叫んだとき。
私には彼を突き放す力などなかった。





町外れの一戸建てが私と彼の家だった。
人との交流はあまりなかったし、彼以外の人間と付き合う気もなかった。
どうせ彼が生きている間だけだ。
そんなに長い時間ではない。
そう理由付けして自分はここに在った。
先日あったあの男は「珍しい」と愉快そうに笑っていた。
少々気に障ったがあまりムキになるのも腹立たしかった。
何よりあの男に何か干渉してきてもらっては困った。
彼に害を及ぼすのが嫌だったのだと、正直にその時は認められなかったけれど。
しばらくして、ある日彼は会ったころと何ら変わらぬ笑みを携えてドアを開いた。
「リルーザ!聞いてくれ!この街に浮城の人が来てるんだ!!」
興奮を抑えきれないように言う青年の言葉。
「浮城」という単語に内心眉をひそめながら私は無関心そうに答えた。
「そうか、それがどうした?」
その言葉を耳にするなり、彼は目をさらに輝かせる。
その言葉こそ待っていたとでも言うかのように。
「破妖刀があるんだ!!知っているか?浮城で一番の破妖刀!!主人が旅先で無くなってその回収帰りに此処へよってるんだっ、かれらは!!」
一緒に見に行かないかと言う青年に、私はしばし沈黙してかぶりを切った。
「いや、私は良い。やることがあるからな。」
やることなどない。
だが、彼についていくことは憚られた。
どうして魔性の王たるものが好き好んで破妖刀など見物に行けるだろうか。
その私の答えに肩の力を落としつつも、やはり興奮は冷めぬらしい。
「じゃあ、俺だけでも行ってくる。」
と、あっという間に彼は出て行ってしまった。

・・・・止めるべきだっただろうか。

後から思い立った。
嫌な予感がして。
だがすでにそれは手遅れだった。
次に彼が帰ってきた時、愕然とした。
彼は破妖刀「紅蓮姫」に選ばれたのだと浮城の者とともに帰ってきたのだ。
馬鹿な、と思ったが。
起こってしまったからにはどうしようもなかった。
幸運か、不運か。
彼は正真正銘、浮城の破妖剣士となってしまったのだ。
魔性の王である私を妻に持ちながら。
あまりに滑稽で、あまり笑えない話。
あの男が知ったならどれだけ笑い転げるだろうか。
少々眩暈を覚えながらも、それでも私はまだ余裕を持っていた。
さすがに彼とともに浮城へいくことは出来なかったが、あの破妖刀を欺き続ける自信があった。
何の不安も抱かなかったのだ。
ここでまた、私は間違いを犯したことに気づきもせず。


彼は頻繁に私の元を訪れた。
その度浮城に来いよ、と催促してきたのだが。
話をはぐらかしては、彼が身に付ける深紅の刃を持つ破妖刀を気に掛けていた。
今までなんの事件も無かったからその時にはもう危惧など欠片も感じなかったが、嫌な予感に胸が騒ぐことが度々あった。
とにかく、あの刀は初めから好かなかった。
持ち主に悲惨な最期をもたらすと有名なそれを、彼に持たせたくはなかったのだ。
何とかならないものかとずっと思案していたあの時。
もっと早く行動を起こすべきだったのだと今思い返すだけであの時の自分を歯がゆく思った。
でも遅かった。
これは過去。
もう今更どうしようもない。

・・・その悲劇は突然だった。
配下の一人が、声だけで告げてきた内容。
配下の一人が他の者と困ったことになっている、と。
それに、微かに眉をひそめて。
「わかった」と心の声で告げて。
その僅かな歪みに、彼女は気がついたのだ。
ほんの少し、ほんの少し漏れた魔性の王たる我が気配。
それに彼女、あの忌々しい破妖刀は気づいてしまった。
「紅蓮姫?」
微かに戸惑う彼の声。
鳴き声を声高く上げる己の破妖刀に首を傾げた。
「!?」
次の瞬間、驚愕が彼の顔を染め上げる。
紅蓮姫に引きずられるまま、彼は私に斬りかかっていた。
「やっ・・・やめろっ!!紅蓮姫っ!!」
悲壮を露わにする彼。
それに対し、自分は今までの自負と、自信と。
全て崩された衝撃に動けなかった。
あまりの矜持の高さ故に、認められなかったというべきか。
嘘だ、と。
目の前の事実に信じられなかった。
しまったと気づいた時は全てが終わっていた。
私の心臓に届くか否かの瞬間に、彼はその刃を自らへと。

聞き慣れたはずだった、肉の切り裂かれる音。
見慣れたはずだった、溢れ飛び散る深紅。
まるで何もかも初めて目にするようだった。
凄まじい衝撃に声はおろか、掠れ声すら出なかった。
「タクト!!」
やっと我に返って崩れ落ちた彼を抱き起こした時。
自分を映した彼の瞳が微かに動揺していた。
「・・・リル・・・ザ・・それが・・・みの・・・?」
それが君の本当の姿か?
途切れ途切れに伝えられるその言葉の内容。
それに自分の擬態が解けていたことに気づいた。
頬に落ちる翡翠の髪。
擬態を維持できぬほどに心が揺れていたのだ。

知られてしまった、と。
一瞬硬直した。
彼は騙されたのか、と憤るだろうか?
自分を庇って死をその身で甘んじたことを悔いるだろうか?
彼の最期の顔が嫌悪に染まってしまうのか。
声さえ出せずにいる私。
その時、彼は・・・。

笑った。

自嘲でも苦笑でもなく。
ただ純粋に。
いつもと何ら変わらぬあの光を宿した瞳で。
私を、そこに映した。


「綺麗だ・・・。」



零れる声。
息も出来ぬほどに。
震える彼の指先が、頬に触れた瞬間。
彼の瞳は永久に閉じられ、その手さえも地に落ちる。

「・・・タクト?」

呼んで応じる声はなく。
求めて開かれる瞳もなく。

「あ・・・・」

ただ、喪失だけがそこにあって。

「ああああああっっっっ!!!」







悲痛を帯びる絶叫とともに。




夢が、広がる。



彼の故郷も、周辺の街も。


全てを呑み込んで・・・。












・・・・・・・・・・・タクト。














ふと蘇るのはいつか彼が言っていた言葉。

『リルーザの髪、漆黒ですごく綺麗だけど・・・何でかな・・・』

『何だ?』

『思い出すとき緑のイメージなんだ・・・・。翡翠色っていうのかな。』

───綺麗な色だったよ。






・・・違う。


違う。そうではない。
本当に綺麗なのは。
美しいのは。


お前なんだ。
タクト。
お前のその瞳が。
魂の輝きが。
その笑顔が。
もう二度と戻らない、それら全てが・・・。
私にとって、何よりも美しく、何よりも悲しい。




夢の中で、全てが消え去った中。
在るのは私と彼だけだった。
紅蓮姫はいつの間にかその場から姿を消していた。
消滅したのではないだろう。
そうならばこんなにもその名に嫌悪を感じたりしない。
ただ残るのは彼女の慟哭の跡だけ。
あれのために、全てが壊れてしまった。
あれのためだけに。
あれのせいで。


・・・いや、何よりも罪深きはこの身。
愚かな選択を繰り返して。
それでも彼のそばにいたくて。
結果、それで彼は逝ってしまった。
肌に伝わる微かな温かさは生の象徴では決して無く。
ただ、死へと旅立ってしまったものの余韻でしかない。


「・・・タクト。」

返事を期待したわけではなく。
ただ噛みしめるためだけに口にする。


「・・・・・お前のために、私は涙さえ流せない。」

魔性が泣かないと決めたのは誰だったのか。
運命だというなら、あまりに残酷な話。
その運命こそが彼と私を引き合わせただろうに。



「夢を・・・。」



「お前に、・・・永久に続く夢をやろう。」

私が織りなした美しい夢を。
最上のそれを。
お前だけのために。





目の前の彼が空気に溶け込むように消えていく。
私の夢の中へと。









気がついたのはその時だったのか。
それともすでに知っていたのか。
自分の中に宿る自らのそれとは違う魂の存在。
今となっては唯一の護るべきもの。



「家井・・・・」

「・・・ここに。」

「頼みがある・・・。」

「・・・・・・・・」

流れる沈黙の末、配下である魔性の男は・・・。

「・・・なんなりと。」

そう言って、自らの体引き裂くことを甘受した。




慟哭。
自嘲。
喪失感。
哀惜。
後悔。


それら、全てを受け入れよう。
この身に背負い、生きてゆこう。
けれども、全てが終わってしまったなら。
その時は・・・。
お前の傍に。
お前の夢の中に。
・・・私も殉じよう。



───おそらく永遠に・・・。


翡翠の光が紡ぐ彼の夢は、まだ終わらない。



<fin>                              









iruです。長くなってしまってすみません。
でもどうしても2つに分けたくなかったので。
織翠と人間の少年のは私は好きなエピソードの一つでした。
名前は出てこなかったので勝手につけさせて頂いたのですが。
内容はほとんどそのまんまなので、オリジナリティに欠けますが、書きたかったものなので書いちゃいました。
サラッと受け流していただけるといいかと・・・。
本当に可哀想な方ですよね、織翠さん。
塵となってしまった後、あの夢の中で彼とともにあってくれたら、と思います。
それではここらへんで。




        
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