五階の研究室で、僕は論文の作成に追われていた。朝早くから無休憩で続けているせいか、いい加減集中力が切れてきている。入力していた数字がおかしいのに気づいて資料の見出しを見ると、一つ先のページの情報を入力してしまっていたことが判明して思わず脱力した。半分進めていたのがまるで無駄になってしまった。手にしていた資料をパソコンの右手において、資料の束から正しい資料を見つけようと探る。二枚の資料の下に目的のものを見つけ出し、手に取った瞬間、バンッと派手な音を立てて研究室の扉が開いた。
「ルイスーー!!」
嫌なくらい聞き覚えのある声。勢いよく開かれた扉に冷ややかな視線を送ると、案の定引きつった笑みを浮かべた男が立っている。僕は書きかけの論文を止めて彼にもの申そうとした。だが相手がその先手を行った。
「教授の机の下借りる!後よろしく!!」
勝手に言うや否や、男は僕の目の前をさっさと通り過ぎて不在中の教授の机の下に潜り込む。あまりに手慣れた一連を動作を唖然と見送った後、僕は我に返って椅子から腰を上げ、今度こそ一言言ってやろうと思ったが、またもや僕の先に事情が動いてしまった。
「カーランド!!」
閉められたばかりの扉がさっきよりも乱暴に開けられた。ここは仮にも教授の研究室なんだけどなとげんなりしながら振り返ると、若い、と言っても僕よりは数年年上の綺麗な女性が憤怒の顔でこちらを睨み付けている。またか、と思う間もなく、女性はカツカツと僕に詰め寄ってきた。
「カーランドは!?」
二述べもなく問いつめられて僕は内心大きなため息をつく。これが最後だからなと教授の机の下に縮こまってる男に一瞥をくれてから口を開いた。
「知らないよ、ここには来てない」
「嘘!ここに入るの見たんだから!」
直ぐさま否定されてしまう。僕は冷静な視線を彼女に返した。
「ごめん、頼まれて嘘ついた。でもここにいないのは本当。ほらそこの端の壁に扉があるだろう?この部屋隣の準備室と繋がってるんだ。カーランドはそこから準備室の方に入っていったから、また廊下に出て逃げたと思うよ」
「・・・・・・っ!」
女性は僕と僕が指さした扉とを見比べて、焦れたように唇を噛むとまたカツカツと乱暴な足取りで部屋を出て行った。廊下の向こうで彼女が走り出す足音がする。シンッと静まりかえる研究室。僕が大きく嘆息を落とすと、それを見計らったようにヤツが教授の机の下からそろそろと顔を出した。僕の胡乱な目と視線が合うと、悪びれた様子もない顔でヤツは笑った。
「やー、ルイス。助かったよー、一年生の子との事がばれちゃってさー。大体彼女だなんて言った覚えないんだけど、向こうがすっかりその気になっちゃてて女房風吹かせちゃってんの」
「あのなぁ・・・お前、これが何回目だと思ってるんだよ。修羅場になる毎にうちの研究室に逃げ込むのやめてくれないか?お前の研究室は向かいだろ?」
辟易した顔で言ってやると、相手はにこにこと笑ったままこっちに近づいてきて、ポンポンと僕の肩を叩く。
「だって、ルイスが上手く撒いてくれるからさー。頼りにしてんだよー」
「・・・今度来たら突きだしてやる。ついでに今まで押しかけてきた人達全員にお前のメールアドレス、電話番号、住所その他諸々流してやる」
「酷っ!・・・ってか、あいつらのアドレスなんてお前知らないじゃん?」
あははと笑う男の顔を凍り付かせてやるべく、僕は携帯を取り出してアドレス帳を開いてそれを読み上げた。
「ミーラ・カリゼル、ジル・ウェイル、オードリー・ユリアス、エリゼ・・・」
「わーーーーー!!何で知ってんの!?何で!?」
顔面蒼白になったヤツに冷たい視線を送ってやった。
「お前に教えて貰ったアドレスが使えないって、何処から調べたか知らないけど皆さん揃いも揃って僕の携帯のアドレスにメールを送ってくるわけだ」
「ま!やだ、じゃあ私達周知の仲ってことね!ルイス!」
きゃっ、と気持ち悪い仕草で言い放った男に絶対零度の視線を向ける。
「それはゴーサインなのか?じゃあ、遠慮無く彼女達にメールを送らせて貰おうか」
「わーーー!!ごめん!ごめんって!ジョークジョーク!!すみません!!もうしませんから!!」
土下座して謝るカーランドに僕はどうしようもないヤツと小さく嘆息をついて携帯を閉まった。その音を聞きつけて、さっさと顔を上げたカーランドに一応釘を刺しておく。
「お前、いい加減にしないと本当にいつか刺されるよ?」
かなり本気の目で忠告してやったのだが、相手と来たら全く自覚はなさそうだ。
「やー、だって仕方がないじゃん?俺って愛の狩人だからさ。常に女性のハートを射止め続けなきゃいけない運命なわけよ」
「あー、そりゃ結構だけどな、論文の方もいい加減進めないと本当に狩猟生活で生きていくしかなくなるかもな。エドリアズ教授が嘆いてたよ。助手なのにまったく研究室に顔出さないって・・・」
「うわー旨そうな弁当!」
「・・・聞けよ、人の話」
勝手に人の机の物色を始めた男が、まだ暖かい弁当を見つけて「何、この高そーな弁当!」と驚嘆している。僕は何度目かしれないため息をついて答えてやった。
「エドリアズ教授が買ってきてくれたんだよ。うちの教授とお昼食べに行くってことで僕も誘われたんだけど論文があるからって遠慮したら、じゃあこれでもって」
「ずりー!!なんでうちの教授に違う研究室のお前が弁当奢ってもらえて俺の分はないわけ!?」
「お前がいなかったからだろ。ついでに日頃の行いが悪いからだろ」
「もー、いーや。俺購買でパン買ってくるから一緒食べようぜー」
僕の嫌味はあっさり受け流して、帰ってくるまで食うなよーと、言いながらカーランドが研究室を出て行こうとする。だが、その目がふと資料に埋もれた僕のサブデスクに向いて、何を思ったのか戻ってくる。「何?」と問うとカーランドは何も言わずに資料の中に手を伸ばした。その手は資料の山に埋もれていった一冊の本を拾い上げた。
「お前ってこの作家の本良く読んでるよなー」
「え?あ、ああ」
カーランドが手にしたのは、レントの本だった。そこで僕は一人の人物を心に描く。ぱっちりとした目が印象的だったあの子を。
カーランドがパラパラとページを捲る。僕は思わず眉を顰めた。
「コレって面白いの?なら、貸してよ。読んでみたい」
「駄目」
来るだろうな、と予測していたカーランドの申し出を、僕はとりつく島もない勢いで拒絶した。カーランドは予想外だったのか目を丸くしている。
「何で、いいじゃん」
「駄目なものは駄目」
「・・・ちぇー、ケチ!」
何と言われようが、駄目だ。前は語りたい相手が欲しくて積極的に友達に勧めたりしたが、今は逆に知られたくなかった。あの日から、僕と彼女だけの話題であってほしかった。ささいな独占欲だ。ささいすぎて、独占欲と呼ぶには相応しくないほどに。カーランドは黙り込んだ僕の胸の内の複雑な感情を悟ったのか、意味深に片眉を跳ね上げさせた後、下手に粘ろうとはせずに「じゃ。いーや」とあっさりと引き下がった。・・・変な所で聡いから嫌なんだ、こいつは。まあ、今はそれが有り難いけど。財布を片手に出て行こうとするヤツを、少し思案して、今度は僕が引き留めた。
「なあ」
「うん?」
出て行きかけたカーランドが数歩バックしてきて扉の向こうでこちらを見てくる。僕は少し視線を泳がせながら口を開いた。
「その・・・列車でさ、たまたま一緒になった人にまた会える確率ってどのくらいだと思う?」
問うと、カーランドは「何だそりゃ」と眉を顰めた。
「いいから、どう思う?」
「あー、まあ、この近くに住んでて日常的に列車を利用してる相手なら確率は高いだろうけど、別の所からきてたまたまってならかなり低いだろーなぁ・・・それが何?」
「いや、うん、そうだよな、何でもない」
「何よ?」
「何でもないよ、パン買ってこいよ」
「うわ、やだねー、出たよ、ルイスの秘密主義!」
べーっと舌を出してカーランドは今度こそ研究室を出て行った。ガキっぽいことするなよ、とそれを呆れ顔で見送って僕は再び論文に向き合う。けれどあの子の影がちらついてなかなか集中できなかった。もう数年前の話だ。僕がまだ学生部にいた頃の。たった数分の一駅分くらいの時間のこと。相手はもうとっくに忘れてるかもしれないな、と思う。僕だってカーランドがレントの本を見つけたりしなかったら、今更こんなに気になったりしてない。否、気になっているという事実を気づかなくて済んだ。
「・・・駄目だ、集中できない」
大きく息を吐き出して僕は背もたれにもたれかかり、柔らかな風を運んでくる窓を見遣った。小鳥が窓辺に見え隠れしている。
「・・・もう、結婚してたりするのかな」
年齢的にありえなくないよな、と思ってチリチリと胸が痛んだ。
朝は今でも苦手だ。それでもアパートから寝起きのぼやけた頭で一歩出ると少しは目が覚めた。
一段と肌寒くなって、コートにマフラーと着込んでも、外の冷気は隙間から忍び込んで体をひやしてきた。吐けば白い息が空気を彩る中、僕は見馴れたドアを開いた。
「おや、いらっしゃい、助教授さん」
駅前パン屋のマドンナ。マーベルおばさんの挨拶に僕は苦笑いを返した。
「助教授じゃなくてまだ助手だよ」
「似たよーなもんじゃないか、どうせ直ぐなるんだろ?」
「まあ、そうなればいいけどね」
そんな簡単じゃないよ、と笑うとマーベルおばさんはいつもの快活なしゃべりで「大丈夫大丈夫、あんたは教授顔だよ」と励まされた。一体どんな顔なんだか。
「そういや、ここ二日と見なかったけど?」
「うん、出張でね。学会があって教授は講演で行けなかったから代わりに」
「道理で疲れてるね、飯はちゃんと食ってるのかい?あんた細いんだからちゃんと食べないと」
「食べてるよ。食べても肉が付かない体質なんだ」
「かー、言ってみたいね!そんな言葉!」
見事なお腹をパンッと小気味良く叩いてマーベルおばさんは笑う。僕も思わず吹き出してしまった。まったく、低血圧の僕を朝からこんなに笑わせてくれるのはこの人くらいだ。いつも通りパンを買って駅へと向かうと、列車はすぐにホームに滑り込んできた。ぼんやりとした意識のまま僕は空いている席に座る。といっても時間が時間なのか空席が目立っている状態だったんだけど。鞄を隣の席に置き、一息吐いて目を閉じる。こうしていると、あの時に戻ったみたいだ。あの時もこんな感じだったなと感傷に浸る。とは言っても時期的にはもう窓を開けるような気温じゃないけど。
何だかな、と自分の思考にため息が出た。カーランドとレントの本についてやりとりしてから妙に気がそっちに行ってる。彼女は祖父を訪ねに来たと言っていた。滅多に会えない、と。じゃあ、この列車に乗ることも滅多にないわけだ。・・・ほら、カーランドの言葉を思い出せよ。滅多に乗らないなら可能性はかなり低い、そうだろう?
「・・・わかってるさ」
自分の冷静な心の声に、拗ねた声で独り言を漏らす。二度目のため息を大きく吐く。もう、このことを考えるのは止めようと決めた。論文のことを考えよう。出張前に泊まり込みでやったおかげで最後のまとめまでこじつけたから今日で完成できるはずだ。参考文献も整理して入力も済ませておかないと・・・。
「お隣、いいですか?」
考え事の途中でかけられた声に、僕はハッと目を開く。こんなに空いてるのに何だって合い席するんだと疑問に思いながら、「はいどうぞ」と答えかけた僕は相手を見て固まった。長くかすかにウェーブかかった髪。記憶よりも少し大人びた顔。でも、確かに、彼女だった。・・・何だろう。僕は幻でも見てるんだろうか。彼女を思うあまり?・・・それは重傷だな。病院ってどこにあっただろうか。
だが、その幻は、ぐるぐる回るこちらの心境など知らずに何食わぬ顔で僕の隣に座る。
「・・・ルイスさん、ですよね?覚えてますか?エラです。エラ・フランズ」
僕は固まったまま、小さく頷いた。それだけでエラは嬉しそうに微笑む。
「良かった。もう卒業されてここにはいないのかなって実は不安だったんです。昨日も一昨日もいらっしゃらなかったし」
ここ二日は学会の出張があったから。そう言おうとしても口が開かない。探してたんです、と視線を逸らして小声で告げてくる彼女に混乱した頭が必死に計算している。滅多に列車に乗らない相手とまた会える確率。かなり低い。じゃあ、その相手が規則的に良く乗る自分を向こうから探してきた場合は?また会える確率は?
そんなの考えたことなかった。エラが僕を探すことなんて。
エラはそんな僕の困惑も知らず、気まずい沈黙を吹き散らすように「あ」と声を上げて言葉を紡ぐ。
「レントの本も全部読んだんですよ?あ、そうだ。エッセイは読まれました?」
にこにことあの笑顔で問うてくる彼女。幻じゃない、と理解して僕の口がやっと再起動し始める。
「エラ」
「はい」
初めて声を発した僕に、彼女が目を輝かせて返事をする。一言も聞き逃さないようにと身を乗り出してくる彼女に簡潔に告げた。
「結婚してくれないかな?」
エラは一瞬全ての動作をものの見事にフリーズした。笑顔のまま凍り付いている。だが、すぐに我に返って掠れた声で聞き返してきた。
「あ、えっと・・・、それは、だ、誰と誰が・・・ですか?」
ごもっともな質問に、当然の如く僕は言い放つ。
「僕と、君が」
今度こそ、エラは完全に硬直した。瞳がこぼれ落ちそうなくらい目が見開かれている。
そりゃそうだろうなと、どこか冷静な頭で考えた。出会って二度目、しかも数年ぶりに再会した相手から突然「結婚してくれ」なんておかしいに決まってる。自分でも非常識なことを言っていることはわかっていた。わかっていたけど、ああ、もう、仕方がないじゃないか。だって。止まらなかったんだよ。こんないきなりの再会なんて不意打ち過ぎだろう?思わず無意識の本音だって出るさ。
とはいっても・・・これは引かれるかな、と思いながらエラを見つめる。だがエラは予想外の反応を返してきた。
その頬を、否、耳まで真っ赤に染めて。俯いて、床を数秒見つめて。震えそうな声で返ってきた言葉は・・・。
「・・・します」
・・・人生って何が起こるかわからない。
BACK