真夜中の街。人里離れた村とは違い、そこは誰もが寝静まる、というような時間帯は存在しなかった。太陽が空を我が物顔で独占している時には、有り余る若いエネルギーをこれでもかと発散させる子供達がそこらを駆け回りながら雄叫びとも言える声で騒ぎまくり、また一方で、その太陽が去ってしずしずと月が昇り、辺りを夜の闇が包み込めば、昼の子供達とはまた違った大人達の喧噪がいたるところで本来は静かなはずの時間を乱している。
そのいたるところ、というのは往々にして酒場であると相場が決まっていて。
そして、今まさに耳を塞ぎたくなるような騒ぎを披露しているその酒場の一つの中で、人間に擬態している鎖縛はその容姿を隠すように包み込んでいるフードの下、片手で目元を覆って苦い嘆息を一つ落とした。だが、これだけ人の声が反響しあう中で小さなそれは誰の耳にも入ることはない。
・・・そう、誰よりもこの嘆息の音を届けたい、騒ぎの渦中にいる隣の連れにさえも。
「六杯目っ!!」
一つのテーブルを取り囲む人垣の喝采とともにダンッと音を立てて二つのグラスの底がテーブルに叩き付けられる。机にはその勢いでグラス内に着いていた滴が飛び散り、小さな滲みを残して消えていく。そんなことには頓着せず、一つのグラスを持っているのはいかにも酒好き、酒豪といった風貌のがたいの良い年配の男。実はこの男、数十分前までは右奥のカウンターで店主の面をしていた者だった。それが今ではこれ以上ないほどに顔を真っ赤に上気させ、危うげな目で相手を見つめている。
そしてもう一方。空になったグラスに再びなみなみと注がれ始めた無色透明の液体を微かに頬を上気させながらも余裕の表情で見守る浮城の捕縛師、つまり鎖縛の連れたる女性、その名はサティン。
「やるじゃねえか、嬢ちゃん」
座っている状態ですら上半身がふらついて危うげな店主が、皺の寄った口端をニヤリと吊り上げて笑う。──そう、もとはといえば、この笑みが全ての始まりだったと鎖縛は投げやりな態度のまま、疲弊した表情で思った。
昨日、騒ぎの妖鬼を封じ、仕事を難なく完了したサティン達は日帰りするには低すぎるその時の太陽の位置に、とりあえずもう一泊することにした。そして、本日、予定ではすぐに浮城へと戻る予定だったのだが、こういう大きな街に来たのだから一日買い物でもして歩きたいとサティンが言いだしたため、結局出発は明日に延期されることになった。
やっぱり品数が違うわね、とあちらこちらを見て回るサティンに付き合わされ、鎖縛はいつものごとく人間に擬態した状態で荷物持ちを押しつけられた。色を少し変えただけの、そのあまりに浮世離れした彼の容貌に幾度もすれ違った者に振り返られたのは言うまでもないが、それでも昼間出店の通りを歩くにあたって鎖縛が今のような重々しいフードを被ることはなかった。が、夜の酒場となると話は別である。分別の付かない酔っぱらいどもがひしめく中であまり目立ち過ぎるのは如何なものか、ということでサティンがこのフードを差し出してきた。そこまでするなら姿を消していればいいだろうと、酒どころか食べ物を一切必要としない鎖縛は人間に擬態しての同行に難色を示したのであるが、これには酒場に連れもなく女が一人でいくなんて都合が悪いじゃない、とサティンが言い張ってきた。それに対し、護り手たる青年は何でお前の個人的な都合で俺が振り回されなくちゃならないんだと不満も露わにもの申したのであるが……結局はいつものように押し通されることとなったのは言うまでもない。
まあ、そんなこんなの経緯で、結局サティンとフードに身を包んだ鎖縛は共に街で最も人気の高い酒場の扉を潜ったのだった。
当初、カウンターで飲んでいたサティンの横で何にも手を付けずにただ気怠げにしていた鎖縛は、とりとめもない彼女の話に適当に相槌を打っていた。そんな中でサティンが小さな悲鳴を上げたから何事かと思えば、彼女は爛々と目を輝かせてカウンターの向こうの棚に飾られていた一つの酒瓶を見つめていた。サティン曰く、かなりの名酒らしい。本人も話には聞いていたようだが、目にするのは初めてだとか。「ふうん」と興味もなく鎖縛は返したが、サティンはその素晴らしさを頼んでもいないのに訥々と語り始めた。そして鎖縛が悉く無言で聞き流していたその声を聞きつけたのが、この店主の男である。
「嬢ちゃん、なかなか詳しいねぇ」
若い娘が酒について語るのに興味津々となった店主はカウンター内からサティン達の前を陣取り、そのまま二人は熱く語り出した。なにやら酒が入って饒舌気味のサティンと店主とは気があったらしく、数十分後にはかなり打ち解けた雰囲気が出来上がっていた。そんな頃だ、店主があんなことを言いだしたのは。
「嬢ちゃん、俺と賭をしねぇかい?」
この男曰く、二人で飲み比べをし、サティンが勝ったらその名酒を瓶ごとやろうというのだ。あまりの気前の良さにサティンがポカンとしていると、店主はさらに「ただし、嬢ちゃんが負けたら・・・」と続けた。この場合、負けた場合に若い娘相手の望むものは容易に察せる。馬鹿もほどほどにしておけと鎖縛が口を挟みかけたその時、後に続く店主の放った言葉の矛先はサティンではなく、鎖縛だった。
「そいつの顔拝ませてもらおうか」
指さされたまま、よく意味が理解できない鎖縛はただ無言を返すのみで、それはサティンも同じらしくただ首を傾げて店主を見た。当のその店主はというとニヤニヤとした笑みはそのままにこう言葉を繋げてきた。
「そんなフード被って訳ありなんだろう?こんなべっぴんの嬢ちゃんの連れっつーんだから興味があるねぇ?」
この店主の言葉に、そういえば、と鎖縛はここで一つのことを思い出すことになる。昼間、街道を歩いていた時に耳にした噂で、随分と賞金の掛けられた犯罪人がこの街に潜んでいると囁かれていたのである。この店主は深々とフードを被って入ってきた自分を最初から怪しんでいたのかも知れない。まあ、どこまで本気かはわからないが、これでもし当たりなら儲けものというところなのだろう。そう店主の大体の意図を察した鎖縛は馬鹿らしい、と言わんばかりにため息を吐いた。だが、同じように店主の考えていることを察したらしいサティンは逆にほくそ笑んだのである。
「そうねぇ・・・どうしようかしら」
サティンはできるだけ思わせぶりに勿体ぶる。渋る様子に、店主の目に微かな期待が過ぎった。同時に隣に座っている鎖縛は胡乱な視線を彼女に送った。だが、そこは当然のごとく無視される。「相手がせっかく勘違いしてくれているのだからこれは乗るしかないないだろう。なんて言ったってあの名酒中の名酒まるごとが掛かっている。ローリスクハイリターン、実に理想的ではないか。」彼女の目は明らかにそう語っていた。
「まあ、ちらっとだけでいいなら・・・のってもいいかしら、その賭」
「おうっ、いいねぇ!そうこなくっちゃなぁ!」
――……そしてその数十分後がこの有様である。
「マスター、そろそろ限界なんじゃない?」
グラス片手に余裕の表情で、サティンは店主を挑発する。だが、店主はニヤリと笑みを浮かべて酒のなみなみと注がれたグラスを掴んだ。
「いやぁ、まだまだだね、お嬢ちゃん。酒場の店主として簡単に酒に倒れるわけにゃーかねぇよ」
「そう、なら、もう一勝負ね」
サティンのその言葉とともに、二人がグラスの酒を煽る。奇妙な沈黙が酒場を包んで、結果の成り行きを見つめていた。数秒後、勢いよく同時にテーブルに叩き付けるように置かれる二つのグラス。お互いのグラスが空であることを確認して、再び視線を合わせた二人はニヤリ、と笑い合う。観客から喝采が上がった。店主はまた少しふらついたものの、しっかりと椅子に腰を据えて、サティンを見ていた。
「まだ行けるぜ、嬢ちゃん」
「よぅし、じゃあ、もう一杯・・・」
店主の言葉にサティンが応えようとした時、その流れを止めようとするものがあった。それは言うまでもなく、いい加減我慢の限界を覚えた鎖縛である。
「おい、もうそれぐらいにしておけ」
「何よ、私は全然大丈夫よ?」
サティンが眉を顰めて返すと、鎖縛はフードの下で顔を顰める。
「だれがお前の心配をしていると言った。朝から付き合わされてる俺の身にもなれと言ってるんだ。それに、だ。ただでさえ、丸一日お前の都合で出発が遅れてるのを忘れてないだろうな。明日、二日酔いにでもなってまた出発延期するなんざ言いだしても聞かないからな」
「もう、いいじゃない、もうちょっとくらい。だってあの名酒よ!?」
「名酒だか何だか知らんが、俺がこんな茶番に付き合わされる謂われはない」
「あんた私の相方でしょー!?自分の相方がこれだけ頑張ってるんだから応援しなさいよ!」
「・・・都合のいいことばかり言うな。もう俺はつきあいきれない」
「嫌よッ!絶対あの名酒を手に入れるまでは引かないわ!!」
「なら一人でやれ」
舌打ちとともに、立ち上がった鎖縛の服を逃がさないようにサティンが素早く掴む。
「ちょっと、あんたが賞品なんだから、いなくなったら駄目に決まってるでしょ!?」
「・・・・・・」
その言葉に、フードの下で青年が青筋を立てる。周りの野次馬は「痴話げんかか?」と言い合いを始めたサティン達を見守っていた。しばらくのにらみ合いの後、フーッと重く長い息が鎖縛の口から漏れる。
「ああ、そうだな。・・・俺の顔が賭物だったな?」
「そうよ、だから終わるまでここに座って・・・」
「なら」
サティンの言葉を遮って険のある声で青年が言い、その白い右手を顔を覆っていたフードに、左手を口元を覆っていた布に掛ける。そしてサティンが止める暇もなく、鎖縛は彼の顔を隠すものを剥ぎ取った。布の向こうから現れた、魔性の中でさえ最上級と思われる美貌と瓜二つの顔。
「これで、お終いだ」
「――ッッッ!!」
青年のその行動に対するサティンの声ならぬ叫びと、青年の容貌に対する店主を含めた周囲の人々が驚き息を呑む音と。二つの沈黙が重なり合って、酒場に静寂が落ちる。だがそれも数秒のことだった。完全に硬直していた女捕縛師がフルフルと肩を震わし、徐にその場に立ち上がると・・・。
「馬鹿ーーーーッッ!!」
隣の酒場まで聞こえる程の怒号が街一番人気の酒場、タンザ・ガドゥ全体を揺らしたのだった。
サティンが宿に戻ったのは真夜中を過ぎた頃合い。そして、その手にはあの名酒がしっかりと握られていた。切れた鎖縛の暴挙のせいで賭が打ち切りになってしまい、サティンはそれはもう落ち込んだのだが、肩を落としたまま帰ろうとするサティンを店主が引き留め、この名酒を渡したのである。彼はサティンのそれまでの飲みっぷりと、そして何にもまして鎖縛の予想外の美貌に胸を打たれたらしい。この町にまた来た時には是非この酒場に寄って欲しいと土下座する勢いで頼まれた。経緯はともかく、結果的にあれほど欲した名酒を手に入れたサティンは、鎖縛への怒りも吹っ飛ばして喜んだのだった。
「ああ、信じられないわ!あの名酒がまるまる一本この手の中にあるだなんて!」
その場で小躍りし始めそうな様子でサティンが宿についてもその酒瓶を抱えたままでいるのを、鎖縛は白けた視線で見遣る。そして、浅く息をつくと、その擬態を解いてもとの闇色へと色彩を戻した。その隣でサティンはその様子に注意を向けることもなく手の中の戦利品を見つめ続けている。
「さーてっと!」
サティンはひとしきり愛でた酒瓶をテーブルに置いてグラスを取り出した。そのまま上機嫌この上ないといった感じで、酒瓶を開け、グラスに適量酒を注ぐ。そして少し、香りを楽しんだ後、そっと蜜色の中身を口に流し込む。そのままじっくり味わうようにして喉奥に全て流し込むとホウッと、熱く息と吐いた。
「・・・・・・やっぱり、名酒の中の名酒は違うわね。この味は感動ものだわ」
ひとしきり感嘆した後、サティンはグラスをもう一つ取り出してテーブルに置く。
「鎖縛も飲む?」
先程のいざこざの和解として、そして今日一日付き合ってくれたお礼としての行動。解ってはいたが、鎖縛はそれに頷かなかった。
「興味ない」
思考した風もなく即答で返され、酒をグラスに注ぎかけていたサティンは不機嫌そうに片眉を上げる。
「本ッ当ーに付き合い悪い奴ね」
せっかくの意を殺がれて、サティンがそう不満を口にしたが、鎖縛は何事もなくそれを受け流す。
「どうでもいいが、お前飲み過ぎじゃないか?」
酒場であれだけ飲んでおきながら、まだ飲むサティンに鎖縛はもはや呆れ顔である。だがサティンはムッとした顔をして反駁してきた。
「いいの!これくらい飲まないと酔えないんだもの」
フンッとそっぽを向いて再びグラスに口を付けるサティン。酒が入っているせいで常よりも機嫌の浮き沈みが激しく、鎖縛もどう扱ったものかとため息をそっと吐いた。しかし、女は不意に自分の言葉から何やら思いついたように青年に身を乗り出してきた。
「ねえ、魔性って酔わないの?」
「酔うと思うか?」
あっさりと返されて、眉を顰めたサティンはがっかりと言わんばかりに椅子に背もたれる。
「・・・・・・思わない、わね」
面白くなさそうにそう呟いて、またグラスに口を付ける。その顔には最初のような酒の味を楽しむ表情が消え失せていた。そんな顔のまましばらく、グラスに口をつけ、少し含んで喉の奥に押し流すという動作を何度が繰り返していたが、やがて、その手は完全に止まってしまった。
「なんか・・・つまらないわね、一人で飲むの」
あれだけ美味しい美味しいと言っていたくせに急に興味を無くしたようにグラスをテーブルに置き捨てる。そのまま物憂げに窓の外を見つめているサティンに、世話のかかるやつだと、鎖縛は一度大きく息を吐き出してから、少し右手を動かした。それと同時にテーブルの上に置いたままだった空のグラスがカツンッと音を立てて軽く酒瓶にぶつかる。その音に気づいて振り返ったサティンに、鎖縛は腕を組んだままクイッと顎グラスを指した。
「注げよ」
その言葉にサティンは目を見開いてから、フッと口元に笑みを浮かべる。鳶色の瞳が緩やかに和らいでいく。
「注いで下さい、サティンさん・・・でしょ?」
思いっきり顔を顰めた鎖縛に、サティンはまた笑って、相手が何か言い出す前に酒瓶を手にとり、グラスに中身を注いだ。そして、わざわざそれを鎖縛のところまで持て来る。手渡された鎖縛は少し片眉を上げてサティンを見、それからゆっくりとした動作でグラスに口を付けた。
「どう?」
反応を伺うようにして覗いてくるサティンに、鎖縛は相変わらずの無表情で返す。
「どうも」
これにはサティンが思いっきり顔を顰めたが、すぐに「ま、いいわ」と笑んで自分のグラスを取りにテーブルまで戻り、椅子に座り直した。その瞳は再び窓の向こうへと向けられる。ただ先程の単に視線を向けただけという様子ではなく、その景色に何かを探しているような、遠くを見る目だった。
「ラス、どうしてるかしら」
お決まりの名前が出てきたことに、鎖縛はあからさまに呆れた声を出した。
「・・・またそれか。お前他に考えることないのか?」
何処か非難めいた口調のそれに、サティンは直ぐさま切り返す。
「あら、だって気になるんだから仕方がないじゃない。今どこにいるのかも、危険にさらされているのかも分からないんだから心配して当然でしょう?」
「杞憂だな。あいつがついてるんだ。みすみす他の奴に手をかけさせるような真似は許さないだろう。・・・それより、俺はもっと別口の心配をした方がいいと思うけどな」
鎖縛の言葉にサティンが首を傾げる。青年はいかにも不可解、という顔をして顔を顰めた。
「俺は未だにあの男が手を出してないってのが信じられん」
鎖縛が言わんとすることを悟って、サティンがぷっと吹き出した。
「ああ、相手がラスじゃねー。あの子、そういうことにはとことん疎いから」
「それにしても、あの男だぞ?奴なら無理強いしてもおかくないんだがな。・・・というか、いい加減切れるんじゃないのか」
あの男がそんなに忍耐力を持ち合わせていたはずがない。いや、忍耐などあの男の辞書には欠片もないに違いない。それなのに、目の前に据え膳が転がっていてそのまま待っているなんてあの男らしくないにもほどがある。そう悩む鎖縛に、対するサティンはただ笑って答えた。
「いいじゃない。あの人もそんな状況を楽しんでるみたいだし」
「・・・・・・・・・」
そうは言われても、あの男の性格をよく解っているだけに、鎖縛は素直にその言葉に納得できず、やはり考え込む。だが、しばらくそうしているうちに、サティンがこちらを見てクスクスと笑っているのに気づいて眉を顰めた。
「・・・何笑ってるんだ?」
「ああ、いや、ねぇ・・・」
酒のせいでほんのり上気した頬でサティンは嬉しそうに言葉を紡ぐ。
「最初はどうなることかと思ったけど・・・なんか、意外にやってけそうだなぁって」
「・・・?意味がわからん。・・・お前酔ってるだろ?」
眉を顰めて鎖縛が答える。それに対して、あははと笑いながらそうかもねぇと返してくるサティンに、鎖縛は呆れ顔でその手からグラスを取り上げた。
「もういいから、寝ろ。明日起きれなくなるぞ」
「やだわ、鎖縛。その台詞母親みたいよ」
「・・・・・・おい」
「はいはい、わかってるわ。・・・でも何か眠れないのよね。目が覚めちゃって」
「・・・・・・・・・」
その言葉に、鎖縛は片眉を上げて、ったくと小さくため息を吐き、緩慢な動きでサティンの目元を隠すように手を翳す。その突然の行動にサティンは疑問の声を上げる暇もなく、押し流し込まれた眠りに意識を呑まれて椅子に座ったままの状態で脱力した。急に力が抜けて崩れ落ちそうになるその体を難なく受け止めた鎖縛は、そのまま眠るサティンを軽々と抱え上げ、寝台へと運ぶ。
羽、と形容するまではなかったが、その体は思いの外軽かった。
ゆっくりと寝台の上に寝かせてシーツを上から掛けてやる。そこまでして、鎖縛は自分の行動に違和感を感じた。
ずっと今まで人間どころか魔性とさえほとんど接触せずに生きてきた。その自分が、酔っぱらった人間の娘の世話をこうしてしているなど、過去の自分にはまったく予想だにしないことであろう。随分と堕ちたものだな、と思わず自嘲の笑みが漏れたが、思えば、あの朱金の娘を取り巻く者達に関わっている魔性達は皆に似たような状態であるから、そう屈辱とは思えなかった。何しろ、その中には妖主を両親に持つ者さえおり、彼は護り手ではないにしろ、自分よりもっと容赦ない扱いを受けているように思う。自分はまだマシなほうかと思い至っていると、隣の寝台で眠っているサティンが寝返りを打って、「・・・・ん」と声を出した。
「・・・・・・」
思わず視線を向けて、その様子を見ていると、その紅唇が淡く開いて何か言葉を紡ごうとしている。大方またあの朱金の娘の名前だろうと思いながら見ていると、それは予想外の名を紡いだ。
「・・・鎖・・・縛」
いつもまっすぐに自分を呼ぶ、その声で、そう口にする。
「・・・・・・・・・」
自分の名を紡いだまま、うっすらと開かれたその口元がいやに扇情的だった。ふと胸に抱いた僅かな衝動のままに、鎖縛は屈み、顎に手を掛けて・・・その唇に己のそれを重ねる。柔らかな感触を確認しただけ――数秒で離したそれに、サティンは気付いた様子もなく安らかな寝息を立てていた。
その様を無表情に見下ろしながら上体を起こした鎖縛は、ほとんど無意識に近い今の己の行動を振り返って両目を細める。そしてそのまま、顎に手をやって、もしや、自分はこの女が欲しいのだろうか、と自問した。
・・・それが肯定ならば、落とせばいいだけの話だ。本気になれば、妖貴の自分が人間の小娘一人手に入れるのに手間取ることはない。微妙な契約のために複雑な立ち位置にはいるが、あの男が干渉してこないならそう難しいことではないはずだ。
そこまで考えて、鎖縛はもう一度、寝台で眠っているサティンの見下ろす。魔性としての本性がゆっくりと首を擡げた。
落とそうか。
初めて出会った時のように、この体を拘束して、手に入れてしまおうか。
あの時はそうするつもりだった。朱金の娘を捕らえたら、こいつも手中に収めてしまうつもりだった。ならば、今からでも遅くはないはずだ。相手はこんなに手短な位置で無防備に眠っている。それに・・・そうだ、あの時と変わったことと言えば、この女がやけに口うるさいこととか、生意気なこととか、狡賢いこととか、強情なこととかを知ったくらいで・・・。
「・・・・・・・・・」
・・・・・・・・・くらいで?
鎖縛はそこで己の思考に目を見開いてから苦笑した。いや、あいつ絡みというだけで嫌悪しか抱けない状況だというのに、さらに興ざめするには十分な認識の変化か、と。
しかもこの女、3倍くらいにして返してくれそうだ。それはさすがに遠慮したい。
おまけに今一度よく考えてみれば、従順なこいつなんて気味が悪いし、落ち着かないに決まっている。
いつものように朱金のあの娘を心配してこちらが呆れるほどに過保護になったり、開き直って自分をこき使ったり、白髪が増えたとキーキー騒いだりしてればいい、この女は。それで、いい。
そんな女だから、自分はこいつに興味を持っているのだろう。そんな女だから、自分をあんなに真っ直ぐな声で呼べるのだろう。
――いくら手に入れても、それが壊れてしまったなら意味がない。
そう思い至ったときに、鎖縛はそれがふと先程の話題に上がった疑問の解答でもあることに気付く。もちろん、それは鎖縛に疑問解消の心地よさを与えるのではなく、ひたすら苦い思いだけを押しつけてきた。
「あの男と同じ思考回路か」
呟いて苦く顔を歪める。
「最悪だ」
そう思うのに、同じ行動を取ることを避けることができない自分がいるのがさらに腹立たしい。鎖縛は行き場を無くした複雑な感情を重いため息にして吐き出す。そして何気なく、サティンの眠る寝台に腰を下ろして、昏々と眠る彼女の髪を一房手に取った。砂色の髪。その中に一本銀糸が交じっているのを見て青年は目を細める。そのまま器用にその銀糸を他の髪の中から取りだし、その一本を掴んだ指に力を込めた。
――白髪って抜くと増えるらしいわよ
単なる迷信事の言葉。それでも、決して抜かずに切り取るのみに止まっていた女の行動を、鎖縛はよく知っていた。
迷信だから、実際に増えるわけでもない。相手は眠っていて抜かれたとは気づかないのだから精神的ダメージもない。
それでも、何かに腹いせをしたかった鎖縛は、<それ>を実行に移した。
「・・・・・・ぃっ」
小さく上がる声。一瞬、眉を顰めたサティンの様子を確認しながら、鎖縛は自分の手に残った銀糸を見遣る。衝動的行動の副産物。無碍に床に捨てる気にもなれず、さて、これをどうしようかと悩んでから、結局はあの酒瓶の置かれたテーブルの上に乗せてみる。特に何かを意図したわけではなく、なんとなくそこに置いただけのこと。そして、そのまま鎖縛はサティンを一瞥して宙へと姿を消した。
だが、幸か不幸か。翌朝、酒のせいで記憶の曖昧なサティンは目に付きやすい場所にあったそれに気づき、まさか、あの青年の悪戯だとも気づかずに、もしや昨日自分は何気なく白髪を抜いてしまったのではないかと思い至って絶句することになる。
・・・その結果、彼女が白髪が増えるのではと恐々とした日々をしばらく過ごすようになるとは、この時の鎖縛には思いも寄らない未来であった。
事の顛末を鎖縛以外に唯一知る月の光は、今はただ、テーブルに残されたその銀糸をキラキラと光らせているだけだった。
(fin)
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はい、iruです。鎖×サ(できればラブラブで)のキリリク。神無さん、これ以上ないほど遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
しかも、なんか微妙な出来でさらに申し訳ないです。未だスランプから抜け出せていないことを痛感させられました。(-_-;)
スミマセン。これからもっと精進します。
ではでは、キリリクしてくださった神無さん、ありがとうごさいました。そして本当に遅くなってごめんなさい。(>_<)
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