――いらぬものだった。
触れてはならないものだった。
あんなにも儚く・・・脆い、ものに。








崩れたかつて家の塀だったモノが、風が吹き抜ける度に、細かな砂塵に削られていた。
そこはもう、街とは言えなかった。砂に埋もれ、ほとんどの建物が抉れ、そこら中に瓦礫が散乱していた。
何もかもが壊れたこの場所に、ただ唯一強く残る残光にも似た力の軌跡。
たとえ妖貴ですら、下手に力の無い者はこの残滓だけで尻込みする。
それは・・・我が主、──柘榴の妖主の力が奮われた爪痕。
その光景に、思わず口から嘆息が落ちる。これらを消せ、と簡単に主たる千禍は後始末を言いつけてくれたが、それがどれだけの労力を伴うことなのか、本人は分かって言ってくれているのであろうか。いや、彼の方なら、わかっていてもこの状況は変わらなかっただろうと容易に想像できるのだが・・・。

「さて・・・」

愚痴ばかり零していても仕方がない。さっさと仕事にかかろうと、街だったそこへと足を踏み入れた。その時、奥の方で壊れかけの建物が崩壊した音が響く。そんな状態であったから、そこで誰かから声がかけられるというのは全くの予想外だった。

「おとうさん・・・?」

か細い声に驚いて振り向けば、そこにそれはいた。人だ。それもまだ四、五歳くらいの子供。瓦礫と化した塀の側で蹲っていたそれは、ボロボロの衣服と薄いマントを身につけて、服と同じく煤汚れた顔をこちらに向けている。逆光で眩しそうにこちらを見つめていたその子供の目がふいに見開かれる。どうやら己の間違いに気づいたようだった。

「・・・だぁれ?」
「・・・」
「あれ・・・」

無言を貫いていると、子供の視線がこちらの足下を凝視する。

「なんで、おじさん影がないの?」
「・・・」

影云々よりもおじさんという呼び名に顔が引きつる。まあ、確かにこの年齢の子供から見れば自分はそう呼ぶ対象の範囲に含まれるだろうとは思うが。

「・・・魔性、だからですよ」

何故応えてやったのか、正直自分でもわからない。こんな場合、無視するのが自分の常だったはずなのだが、この時はどうもおかしかった。強いて言うなれば、こんな場所にこのような存在がいる理由が気に掛かったからかもしれない。子供は少し眉宇を顰めたが、決してそこに恐怖はなかった。どちらかというと、意味がわからない、という感じだ。

「ましょう?」
「何故、お前はここにいるのです?」

子供の疑問を無視して、こちらの疑問をぶつける。まさか街の生き残り・・・ではないだろう。ここまで徹底的に破壊されていて、生き残れるはずがない。となると、我が君が去った後に、よそから来た者か。

「おとうさんがつれてきた」

子供は自分の膝を抱えたまま、そう呟く。よくよく見れば、その小さな手は傷だらけだった。一体、いつからここにいるのか。

「その父親とやらはどこに?」

気配を探ってみてもこの場に自分たち以外の存在は感じられない。この質問に、子供はしばし沈黙した。

「おとうさんはもう行ったよ」
「お前を置いて、ですか」

聞けば、子供は小さく顎を引く。

「後で迎えにくるからここから動いたら駄目って」
「・・・・・・ああ」

感動詞を呟いて、十中八九、捨て子かと判断する。まあ、珍しくもないことだ。人間の中には己の身の可愛さ故に子でさえも捨てるものは多い。確かにこの子供はやせ細っていて、満足に食べて育ったとは思えなかった。このまま、少しずつ弱って死んでいくのだろうと感慨もなく少女を見つめる。

「ではその父親を待っていなさい」

そこで子供との会話は終わらせるつもりだった。疑問が解ければ、なんの興味もない。のたれ死のうがどうなろうが人間の子供などどうでも良かった。それよりも仕事を遂行する方が自分にとっては優先事項だったのだ。だが、そう踵を返した自分の背に子供は言葉を投げつけた。低い声音で・・・無視できない言葉を。

「おとうさんは来ないよ」

何処までも冷めた無感情の声。子供が放つには不似合いなそれに思わず振り返れば、先ほどと様子の変わらぬ子供がこちらを見ていた。蒼い双眸が怯みもせず、真っ直ぐにこちらを見据えている。

「・・・何故、そう思うのです。」

その視線に押されたように、つい、また聞いてしまう。子供は少しだけ考えて口を開いた。

「なんとなく」

曖昧な返答。どこからか生じた蟠りが徐々に強まっていくのを感じる。この子供に興味が沸いた、とあるいは言い換えられるのかもしれない。何処か子どもらしくない淡白さが、違和感と共に存在を強調してくる。
面白い、と思った。我が君ほどではないにしろ、偶には人間に関わってみるのもいいか、と。

「お前、私と来ますか?」

自分のその言葉と、それに目を見開いて、それでも静かに頷いた少女の姿を、私は何処か遠い場所からみている気分だった。






拾ったところまでは良かった。だが予想外だったのが・・・子供が、何故かひどく自分に懐いてきたことだ。特別優しくしてやったわけでもない。どちらかとういと、やや冷たいとも言える扱いをしてきたはずだった。ところが子供は魔性が強き力に焦がれる愛情とはまた違う好意を真っ直ぐに向けてきた。どこに行くにもついていくと言い張り、しかし、自分が諫めればすぐさま言うことを聞いた。少し構ってやるだけで馬鹿みたいに喜んだ。
そんな相手を邪険にはできなかった。あまりにも真っ直ぐ過ぎて。
時折様子を見に来る我が君は、そんな自分を見て「お前らしいな」と笑っていた。
正直な話、千禍が来ると少し不安だった。あの子供に彼が興味を持って、何かしようとすれば、きっと自分はそれに従うだろうから。だが、そんなこちらの心中までもお見通しなのか、彼は子供を面白がりはしたが、何か手を加えようとはしなかった。

「オリア、九具楽がそんなに好きか?」

冗談めかしく、肩肘をついた状態で千禍が聞けば、その隣で飄々としたまま大して楽しくもなさそうにぬいぐるみをもてあそぶ娘は即答した。

「うん。だから九具楽をいじめないでね、センカ」

さすがに、名前そのものを呼ばせるわけにはいかなかったので読み方だけを教えた。それでも人間には驚異の名だ。それを娘は躊躇なく口にした。千禍は面白そうに笑う。他の妖主ではこうはいかないだろう。

「わかったよ。おい、九具楽。今回のはいい。他の奴にやらせる。お前は姫さんのご機嫌取りでもしてやれ」
「!?しかし、千禍っ・・・」
「いいと言ったんだ」

有無を言わせぬ物言いに思わず言葉に詰まる。対する娘は嬉しそうに声を上げた。

「やった!九具楽!一緒に遊ぼう!!」

今の今まで無作為に手の中で遊ばせていたぬいぐるみを放りだし、無邪気に笑ってまとわりついてくるそれを、私はどうしても引き剥がすことができなかった。その反応が目の前の主の失笑を買うことを分かっていても。・・・我が君はそんなオリアの頭をくしゃりと撫でてやる。

「ああ、存分に遊んでもらえ。もう少し大人になったら今度は俺が遊んでやろうよ」

サラリ、と千禍が告げる。そしてすぐにこちらを見て、少しだけ目を見開いた。
かと思えば、不意に口元が歪み、次の瞬間腹を押さえて吹き出した。苦しげに笑いを殺しながら、千禍は呆然としている私の肩を軽く叩く。

「冗談だ、心配するな。手を出す度にお前にそんな顔されちゃー、俺は笑い死にするぞ」

何処からか取り出した鏡を眼前に突きつけられる。そこに映った自分の顔をみるなり、それは苦虫を噛み潰したような顔に変わる。それさえも我が君は愉しんでいるようだった。

「お戯れを」

そう言って顔を背ければ、なにも言わず少しの含み笑いを残して主は去った。



「村を興そうと思うんだ」

そうオリアが言いだしたのは20歳を超えていくらも経たぬ頃だった。その頃の彼女はとびきりの美人とは言い難かったがそれでも他の者を惹きつける生気に溢れた女性へと育っていた。そして未だに彼女は私の作り出した空間で過ごしていた。もちろん、引き籠もりっきりではなく、様々な場所に連れて行ってやっていたが。それでも、この時まで決してこの空間を離れるような希望は出さなかった彼女の突然の提案に、私は思わず眉宇を顰める。

「村?」
「そう、素敵な村を作るんだ。みんな平和で、楽しく暮らせる村だよ」
「・・・何故、またそんな・・・」

呆れ顔で言えば、オリアは少しだけ困ったように笑った。そして口癖のようにあの言葉を言う。それは、全てを曖昧にぼかしてしまえる言葉。

「なんとなく」
「・・・」
「駄目かな・・・?」

遠慮がちに覗き込んでくる蒼の双眸。否と言われれば、彼女は素直に退くだろう。そして私は彼女をこの空間から手放すことに乗り気ではなかった。
だが・・・。

「・・・他の魔性に干渉されぬ程度のことはしてあげますよ」

嘆息付きの渋面で返してやると、相手の表情が一気に輝く。制止する間もなく飛びつかれた。

「九具楽大好き!」

盛大な告白を「はいはい」と流しつつ、私は心の奥底で深く息をついた。彼女がこんなことを言いだした理由を知っていたからだ。彼女を連れ出した場所は全てが楽しい場所ではなかった。千禍の後始末にも連れて行ったこともある。その悲惨な状態を人間である彼女が快く思うはずもなく、その場では何でもないような風を装いつつも、後で一人にしたとき嘔吐していたのを知っている。それでも彼女は私についてきた。何度も、何度も。
そっと、柔らかな赤毛を撫でてやる。

「お前は・・・千禍が嫌いですか?」

妖貴でさえ、目を逸らすような悲劇を生み出す彼の方を。
オリアはゆっくりと私から体を離して、私を見つめた。深い、蒼い瞳がこちらを見据えている。

「九具楽はセンカを好きなんでしょ?」
「ええ」

即答に、目の前の娘は無邪気に笑う。

「じゃあ、嫌いにはなれないよ」

その純粋な微笑みを、私は酷く眩しく、そして遙か遠いものに感じた。




彼女の村はごく小さなものだった。彼女は至る場所を回り、帰る場所を失った者達を招いて、村を作った。中には魔性の遊びによって、家を失い故郷を失った者もいた。彼女は若き村長として実に優秀だった。時に寄せ集めの村人達は諍いを起こすこともあったが彼女が仲裁に入ればあっという間に解決した。もともと、彼女を慕ってやってきた者達だ。彼女への信頼は絶対的なものだった。さらに、彼女は魔性である私の加護を包み隠さず公言していた。前に述べたように魔性に被害を受けた者もいるのに、だ。それでも彼らはこの村を出て行くことはなかった。それは一重に彼女の人望故にほかならないとしか言いようがない。私が直に彼らと接触したことがないのも、一つの要因ではあろうが。故に中にはオリアが冗談を言っていると思っているものもいるだろう。
いつものように、夜、定期的に彼女の部屋を訪れると、彼女は机に向かって何か書き付けていた。さほど何をしているのかも気にせずに、「オリア」と呼びかけると彼女が此方を振り返る。

「九具楽」
「どうです?」

端的に問うと、満足そうな笑みが返ってきた。

「うん、うまく行ってるよ。九具楽のおかげだね」

そう言って、筆を置き、こちらに向き直る。なんとなく、彼女の机の上に視線を走らせると、それに気づいた彼女が「ああ、これ?」と説明を始めた。

「名前、考えてるんだ」
「名前?」

村の名なら最初につけたはずだ。いったい何の?と視線で問うと、待ってましたと言わんばかりに彼女の顔が幸せそうに緩む。

「今日ね、赤ん坊が生まれたんだ。この村で最初の子供だよ。その子の名前、つけて欲しいっていわれて」
「そうですか」

些か興味の失せた声になる。正直他の村人の事などはどうでも良かった。ただ、オリアが喜ぶならば、他のことは歯牙にもかけない。それはオリアも承知しているようだった。曖昧に笑って、その場を誤魔化す。

「九具楽の方はどう?まだセンカに振り回されているの?」
「わかっているなら聞かないでください」

嘆息とともに返せば、彼女らしい明るい笑い声が響いた。
その笑い声にどこか心が安らいでいる自分をなんとなく感づいていた。
それからも幾度となく、その村を訪れた。時には千禍も来た。だが、彼は特になにをするというわけでもなく、オリアと会話を少し交わしただけで何処かへ行ってしまった。
私はきっとこんな日常が永遠に続くのだと思いこんでいた。
そんなことが、あるはずもないのに。


あの異変が起きた日は、千禍に後始末をいつものように押しつけられた日だった。
胸騒ぎがしたものの、異変はすぐに収まったようだったので、気がかりながらも自分の役目を第一に考えた。なにしろ今回は結構な大事であったから。主が他の妖貴のそれも妖主の側近たる者の目をつけていた場所を横取りしたというのだ。なんとか、相手には妥協してもらったものの、主が残した爪痕の他にも、相手が癇癪を起こして出鱈目に力を奮った軌跡も残っているのだから始末に負えない。全て後腐れなく解いていくのにかなりの時間と労力とを有した。それでもいつもより雑な仕事になっていただろう。後で千禍に「粗い」とやり直しを命じられる程に。なんとか最低限度終わらせてから村に駆けつけると、そこには千禍がいた。面倒そうな顔で、こちらを見つけると、「終わった」とだけ呟いてきた。

「オリアは・・・」
「問題ない。少しの掠り傷だ」

怪我をした、のか。焦る気持ちを落ち着かせ、平静を保って問いを発する。

「何があったのです」

村の様子が少しおかしかった。今は何も起こってはいないが、何か変わってしまっていた。
千禍はふんっと鼻を鳴らす。

「金のところの馬鹿女がどうしようもない自意識過剰さで馬鹿をしでかしただけだ」

苛立たしそうに、そう吐き捨てると、村の外れを親指で指して「封じてやった」と続ける。
確かに、何かがあそこに封じられている気配が伝わってくる。その者の憤りもまだこの村に残像を残しているようだ。だが、そこまで深刻な影響はなさそうに見える。

「・・・ありがとうございます」

とりあえず、大事ないと悟って、感謝の念を告げると、相手はばつの悪そうな顔をした。

「お前がこの村に駆けつけられなかったのは俺のせいだからな。それに、俺もあの娘はそれなりに気に入ってる」

だが、次は自分で守れよ、と。
言い残して、あっという間に宙に消えてしまった。
もはやその場にいない相手に「御意」と礼で返す。そして顔を上げるなり、彼女の元へと向かった。



「オリア」

一つ呼びかけて彼女の部屋に姿を現すと、寝台に横たわっていた彼女が目を開いた。やや疲労の色が見えるものの、それでも生気に溢れる瞳に変わりはない。私をそこに映した瞬間、オリアはホッと安堵の息を漏らした。

「九具楽・・・来てくれたんだね」
「遅くなって、悪かったですね」

謝罪の言葉を口にすれば、オリアは直ぐさま首を横に振る。

「いいよ。大丈夫・・・九具楽は忙しいんだもの。いっつも九具楽に押しつけてる分センカに働いてもらったから」

悪戯に微笑む彼女はそう言って不意に手を差し出してきた。こちらも手を差し出してやれば暖かな手の平に包み込まれる。

「九具楽」
「何です」
「九具楽」
「だから、何ですか」

何がしたいのか訳が分からず仏頂面で問うと、オリアはクスクスと笑った。

「九具楽」
「・・・・・・」

もはや、何も答えずにいると、こちらの手を握っていた彼女の手の平に一層力が込められる。彼女の顔を見れば、穏やかな笑みで微笑んでいた。

「九具楽の子供が産みたいな」
「・・・・・・」
「子供を産むんだったら、九具楽の子がいい」
「何を・・・お前だってまだ子供でしょう?」

突拍子もないことを当然言いだしたオリアに、眉を顰めてそう返す。オリアは声を上げて笑った。

「私、もう大人だよ」

蒼の瞳がこちらを見据える。

「十分過ぎるくらいに・・・大人だよ」
「・・・・・・」
「九具楽・・・私、人間だから・・・すぐに死んじゃうよ」

笑みを浮かべながらも、その目は笑っていなかった。唐突にそんなことを言うオリアを複雑な心情で見つめると、オリアは不意に窓の外へと視線を向けた。

「死ぬかと・・・思ったよ」

その目が映しているのは窓の向こうに広がる景色なのか。それとも、過去と去った今日の記憶なのか。

「あの魔性が村に来て、目の前にした時、殺されると思った。きっとこのまま、九具楽にも会えないままに死ぬのかなって・・・そう思った」
「・・・・・・オリア」
「あ、責めてるんじゃないよ。ただ・・・」

こちらを向いて、オリアは俯く。

「ただ、いつか死ぬ時は九具楽の傍で逝きたいな」
「・・・・・・」
「それで、できたら残したいんだ。私と九具楽が一緒にいたっていう証とか」

こちらを見上げた蒼の瞳が静かに笑む。

「死んで、何も残らないのは寂しいから」
「・・・・・・」
「だから死ぬ前に、九具楽の子が産みたい」

ふと、手に温かな感触。見遣れば、細い手が再び私の手を包み込んでいた。
ゆっくりと交わされる視線。

「九具楽の一番が・・・センカなのはわかってる。でも私、ずっと何年も九具楽だけ見てきたよ。初めて会ったときからずっと、私の一番は九具楽だった」
「・・・・・・」
「・・・全部欲しいなんて言わないよ。少しで良いから・・・九具楽の思いを私に向けてもらえないかな」

細い手が微かに震えていた。

「・・・駄目、かな?」

いつもの顔で、黙り込む私の顔色を伺うように覗き込むオリア。その様子は真摯で、そして酷く不安げだった。後にはもう、彼女に安堵を与えたいという思いしかなかった。だから、そっとその華奢な体を抱きしめて答えてやった。

「お前が望む通りに」

その言葉に、オリアの体は少し震えて、小さく「ありがとう」と呟くのが聞こえた。




それから、数年、私は彼女と会わなかった。
子供が生まれたのは知っていたが、その顔を見に行く気にもなれなかった。だが、何処かでそれを知った我が君に半ば脅されるようにして彼女の元を訪れることになった。久方ぶりに姿を現した私に、オリアは一瞬だけ切なげな瞳をして、すぐに柔らかに微笑んだ。オリアが抱えていた子供は、まだ一歳とならぬ幼子で、オリアはその子供の漆黒の瞳の色を嬉しそうに語っていた。なんとも複雑な気分になり、大した時間もおかずに私はオリアの元から去った。また、そうしている内に月日が流れ。
そして、次に彼女のもとを訪れた時、彼女はもう、寝台から体を起こすことすらできない状態になっていた。流行病にかかってしまったと、彼女は何でもないように呆然とする私に告げた。

「九具楽、楽しかった。貴方と会えて、良かった」

病床で、彼女は痩せこけた顔でそう笑って言った。皮肉なまでに真っ白なシーツが彼女の体を覆っている。彼女をもうそこから出さぬとばかりに、何処までも白は冷酷な色を貫いていた。

「死ぬのですか」

聞けば、オリアは困ったように微笑む。それでも、ゆっくりと顎を引く。思わず、目元が歪んだが、彼女からは逆光で見えなかっただろう。

「器を上げても、いいんですよ」

その、病魔に伏した体を捨てて。
人間を、捨てて。
オリアは笑った。そして、その笑みの前に、私は無力だった。

「ありがとう、・・・九具楽」

否定を意味する感謝の言葉を彼女は唇に乗せる。
一瞬私の中で葛藤が起きる。
自分のために、彼女の意志を無視してその魂を縛り付けるか。
彼女のために、その魂が手の届かぬ場所へと去るのを見送るか。
これほどの難問にかつて出会ったことがない。私は無言でオリアの双眸を見た。
そこに答えが見つけられる気がしていた。

「九具楽」

判断に迷う自分を見透かしたかのようにオリアが呼ぶ。病魔に犯された唇はもはや紅唇とは程遠い青紫色に滲んでいる。それでもそれは弧を描いていた。

「いいよ」

困ったように笑って告げる言葉は本心からに思えた。か細い声は、それでもしっかりとこの耳の中に流れ込んでくる。
――・・・好きに、していいと。

「私、九具楽に会えて、幸せだった。本当に・・・他に言葉が見つからないくらい。九具楽が側にいてくれるだけで、良かった。幸せ、だった。九具楽が私の人生を変えてくれた。幸せに、してくれた」

何かを思い出しているようにそっと目を閉じたままオリアは言葉を紡いだ。その言葉を聞きながら、私は右手の指先が麻痺してくるような感覚に襲われていた。オリアの言葉が、その意味をかみ砕けぬまま、頭の中で反響している。そんな私をオリアはあの蒼の瞳で見上げる。

「だから、いいよ、九具楽。次は・・・九具楽の番、だもの」

そう言って、オリアは微笑む。いつもの、昔から変わらない笑みだ。
聖女のような、笑みではない。彼女は聖女などではない。
傲慢で、自分勝手で、こちらをこれほど掻き乱しながら、何の罪の意識も感じない、この上ない残酷な存在だ。・・・あの方と一緒で。唯一と誓ったあの方と同じ、光を抱く者。
そう思い至ると、ああ、と諦めの波が私を襲う。
ああ、自分は心の底からこの娘が大事なのだ、と。
自分のことなど、自分の想いなどその前では何処へでも流れていってしまうほどに。それは必然だった。この感情も、決意も何もかも、あるべくしてあるものだった。
彼女の笑みに、私は自分の中の蟠りが全て溶け去る気分になる。迷いは全て消えた。消さねばならなかった。彼女のために。・・・自分のために。
熱のない手で彼女の痩せた頬に触れる。彼女もまた、冷たかった。

「・・・何故、あの時、魔性の私について来たのですか」

言葉を紡ぐ唇が他人のものようだった。その言葉に、オリアは少しだけ目を見張って、過去の自分の感情を探るような表情をする。しばしの沈黙の後、やがて、薄い唇がまた弧を描く。

「なんとなく」

その彼女の笑みが、少し歪む。

「なんとなく、幸せになれる気がした」

告げて彼女が目を閉じれば、涙がその頬を伝う。初めて流された彼女の涙は、たった一筋ゆっくりと落ちていく。それを拭うように、私は彼女の頬に口づけていた。再び、目を開いたオリアがこちらを見上げる。晴れ渡った、青空のようなその色彩。
――ああ、なんと美しい瞳だろう。
なんと、美しい魂だろう。
儚い時間の中でも、私は確かに・・・これを手に入れていたのだ。

「九具・・・」
「終わって・・・いるのです、オリア」

彼女の声を遮ったその言葉に、オリアは意味を計りかねて首を傾げる。彼女が聞き逃さぬよう、私はもう一度しっかりと噛み締めるように告げた。
そっと、静かな笑みを添えて。

「お前の言う、私の番とやらも、もう終わっているのですよ」

オリアの目が、大きく見開かれた。そして、また・・・歪んだ。噛み締められた唇と涙をこぼす両目とが、いつも彼女の笑みの裏側にあった感情を表していた。「九具楽・・・」と掠れ声を出すオリアの、その目元に、もう一度唇を寄せる。
オリアはまるで初めて出会ったあの幼き頃に戻ったように、押さえのきかない泣き顔で声を絞り出した。

「愛してる」

震える指先が頬を撫でてくる。

「愛してる、九具楽、愛してる愛してる愛してる愛して・・・」

呟き続けるオリアのその手を握り、私は涙に滲む蒼を見つめた。

「お前が、とても大切でした」
「・・・・・・」
「私も」

呆然と言葉を受け取るだけのオリアに、囁きかける言葉は。

「私も、お前を愛していましたよ」

見開いた瞳で、こちらを見つめ続けていたオリアの手から力が抜ける。
静かに退いていった涙の後に、残ったのはただ、穏やかな微笑みだけだった。

「・・・嬉しい」

力ない口端が小さく刻む言葉。握りしめていた彼女の手がゆっくりと弛緩していく。
まっすぐにこちらを見つめ続ける二つの蒼に、そっと唇を寄せれば、彼女の薄い瞼がその蒼を隠していく。時が止まろうとしている。一方を残して。その中で、オリアは「・・・ああ、そうだ」と、その唇を力なく開く。

「・・・ねえ・・・九具楽・・・センカに伝えて・・・あの約束・・・本当にあれじゃないと駄目かって」
「約束?」
「・・・ユーリズがあの祠で聞いたって言う・・・村を・・・あの封印を維持するための決まり事・・・他に方法はないかって・・・あるなら、誰も、犠牲にならない方法を・・・」
「・・・わかりました。伝えておきましょう」

答えてやれば、オリアはホッと安心したように息を吐き、それから目を閉じたまま、口をゆっくりと開く。

「・・・ねえ、九具楽・・・こうしてると・・・前に、戻ったみたいだね」

フフッと小さく笑って、そう告げるオリアの手を私はもう一度力を込めて握る。

「あの・・・空間で・・・眠る時、九具楽はこうやって手を握ってくれたよね」

掠れ、吐息のような声になっていくその言葉を必死に聞き取りながら、私はオリアを見つめた。

「・・・そうでしたね」
「・・・・・・」

聞こえていないのか、聞こえていても返事する力もなくなってしまったのか、沈黙が静かに降りてきた。無限にも思えたその静寂の中、私は静かにその言葉を口にする。

「お休みなさい、オリア」

それに、少しだけ・・・オリアの手に力が戻り、私の手を握り返す。

「・・・お休み・・・なさい、九具楽」

幼き時から、私の造り上げた空間の中で、かつて何度も交わした言葉。
彼女は笑って呟き、そして眠った。
・・・逝って、しまった。


「かあさま・・・?」

入り口から、か細い声が届いた。ゆっくりと見やれば、オリアの子がそこにいた。まだ幼いその子供は不安げに部屋の様子をうかがっている。

「おいで」

無意識のうちに呼びかけていた。初めて、自分の子に声をかけた。子供は一瞬身を縮こまらせ、躊躇したが、それでも覚束ない足取りで部屋の中へと、こちらへと近づいてきた。
私を見上げていた視線が、寝台に横たわるオリアへと向く。

「かあさま・・・眠っちゃったの?」
「ええ」

そう言って、私は幼い娘の首に片手で触れる。不思議そうな視線がこちらに戻ってきた。

「一人でいくのは寂しいでしょうから」

お前も一緒にいってあげなさい、と。
右手に込めた殺意は。


「・・・とおさま?」


澄んだ声が、そう言葉を紡いだ瞬間手が硬直した。
自分を、父だと知っているはずがなかった。顔を合わせたこともほとんど無く、今まで会話など一度もしたことがない。何故という疑問の果てに、答えはすぐ隣に横たわっていた。
───・・・九具楽
彼女の声がよみがえる。
───ほら、瞳の色が九具楽と一緒だよ。
笑顔でそう言った彼女の声、が。
彼女の、姿・・・が。
ああ、オリア。
お前が教えたのですね。
お前が話したのですね。
お前が。
・・・私のことを。
生きて、立って、見て、聞いて、話して。
笑って。



――もう、どこにもないというのに。




「・・・・・・」
「とおさま・・・?」

状況を理解していない瞳が邪気なく見上げてくる。その目を見返しながら、小さな苦笑が口元に浮かんだ。

「・・・もう少し、お前は・・・私に似るべきでしたね」

ならば、殺せただろうに。
瞳の色を除いて他は、オリアを生き写したような娘はただ首を傾げている。
自嘲の笑みを零して、その首から手を放した。

「オリアを・・・母を見送ってあげなさい」

そう告げて、相手の返事も反応も待つことなく、その場から去った。
それが、その子供と向き合った最初で最後の時だった。







質素なものにして欲しいという本人の遺言通り、オリアの墓は村の外れにひっそりと作られていた。小さな墓石に見慣れた名前。色取り取りに添えられた花からは村人の彼女への想いが伺えた。誰もいない真夜中に、何をするでもなく、ただ墓石を見下ろしたまま何時間も佇んでいた私のもとに、ふと千禍が現れる。私に用事があってきたようだったが、墓石に書かれた名前に気付くと、少しだけ目を見開いた。そこには純粋な驚きが見えた。

「死んだのか」
「・・・・・・ええ」

半信半疑で聞いてくる主に静かに返すと、彼はさらに意外そうに眉を顰めた。

「死なせてやるとは思わなかったな、随分と気に入ってたようだったが?」
「・・・あれが、そう望んだのです」
「お前のことだ、俺が言っているのは。あの娘がそれを望んだとて、お前がそれを許すとは思わなかった」

魔性として、もっともなことを口にする主に思わず苦笑した。相手が何を望もうが、自分が傍に居て欲しいと願うならそうすればいい。それが、本来在るべき魔性の生き方だ。だが、自分はそうしなかった、・・・できなかった。

「自分でも、意外ですよ」

自嘲の笑みを浮かべて答えた私を主は不可解そうな視線で見てくる。だが、もう終わったことに興味はないのか、すぐに「まあ、いい」と返ってきた。静かな視線を墓石へと向け直し、ただ沈黙を守っている。同じように墓石を見つめながら、私はそっと軽く息を吐き出してから、その名を紡いだ。

「千禍・・・」
「・・・ん?」

墓石を見たまま気怠げな声が返ってくる。それに、私は静かな声で告げた。

「私の中の、オリアの記憶を消すことはできますか?」
「・・・・・・」

主は僅かな沈黙をつくり、それでもこちらを振り向きはしなかった。

「・・・いいのか?」

その質問に、我知らず、苦笑が漏れた。
それを問うのか。いいのか、と。忘れていいのか、と。ではどうすればいいのだ。この思いを何処に昇華すればいい。抱いていたところで、報われることなどないというのに。

「失った者を想っても、何にもならないではないですか」
「生まれ変わるかもしれんぞ?」
「それはオリアではない」

乾いた苦笑を攫うように石碑の上を風が吹き抜ける。いずれ、この風に、雨に、石碑は削られ朽ちていくだろう。早くそうなればいいと思った。彼女が存在した証明も消え去ってしまえばいい。
この心からさえ、お前は消えてしまうのだから。
無へと、帰してしまうのだから。

「・・・・・・失敗、でした。人間などに、気を許すものではありませんね」

ああ。
ああ、そうだ。失敗だった。
儚すぎた。愛玩動物としても。
───想いを、向ける存在としても。
あっという間にこの手からすり抜けて死に失せる。
・・・儚すぎる。脆すぎる。

「人間、などに・・・」

繰り返す言葉を風は容赦なく攫った。千禍はただ、何も言わなかった。ただ何処までも感情のない表情と声で、最後に「そうか」とだけ呟いた。

そうして、お前は消える。

この世界からも。私の中、からも。
あまりも、簡単に。
主が手を翳し、そこから向けられる力を抵抗なく受け入れれば、驚くほどあっさりと。
・・・失われて、しまう。

「――・・・本当に、儚い」

掠れ消えゆく私の意識の中のお前の残像を見送りながら、何とも苦い笑みが漏れた。

・・・ああ、千禍への伝言を伝えるのを忘れていた。
だがもう必要ないだろう。
あの村にお前はいない。
お前が、この失敗を怒ることもないだろう。

――・・・オリア。

もう二度と口にすることはないだろう名は、心の内で呟くだけで酷く胸を締め付けた。
だが、その痛みもやがて遠のき、何故痛んだのかも、そして痛みを感じたことすらも、私の中から消えてしまった。
・・・後には、何も残らなかった。















主となる存在が姿を眩ませてから随分と経った。
配下の者達にとっては好ましいことではないが、もともと、城に長く居着いてくれる気性の方ではないから、そう気にすることもなかった。そうしていつも通りの日々を過ごしていた私のもとに飛び込んできた言葉達。
・・・そう、我が君が半妖のできそこないに入れ込んでいるという噂。
馬鹿なと一蹴していたそれは先日、白焔の妖主の言葉で決定づけられた。
それまでは話が本当だったとしても単なる遊びだ、前に何度もあったそれと同じだ、と決めつけていたのに、彼の方が言うところに寄れば、あの方は我ら眷属すらも捨て、敵に回ると豪語したという。その小娘だけでいい、と。
その時、この胸を襲った衝撃を何と言おう。
しばしの時が経った今だとて、この強い憤りは収まることはない。
酔狂もほどほどにして欲しい。
半妖の娘などに。
・・・人間の、娘などに。
あんなにも、儚いものに。
そう悪態をついて、何かに胸を鷲づかみにされるような感覚に息を詰まらせる。
何かが迫ってくるような緊張が体中を走った。一枚の扉の向こうに佇む者がある。
いけない、と思った。その扉を開いてはいけないと。
だから無我夢中でそこから逃げ出せば、またその扉は遙か彼方へと遠のく。
これでいい、と安堵の思いとともに呟く。疼く心の底は見て見ぬふりをして、意識の外へと追いやる。

「九具楽」

耳慣れた声が聞こえた。振り向けば共鳴関係にある女魔性が居る。

「行くのでしょう?」

艶やかな笑みとともに差し出される手。数秒それを見つめ、それからゆっくりと顔を上げて立ち上がる。そう、自分にはこれから為さなければならないことがある。

「ええ、私が、お止めしなければ・・・」

空間に佇む巨大な鏡の中に映し出される娘の姿。弱き存在。手折ることは驚くほどに容易いだろう。
――手折ってみせよう。
そうすれば、彼の方も己の過ちに気づくだろう。
この生き物が、心を寄せるには値しないことに。
そう、心の中で告げて一歩を踏み出した瞬間、背後から声がした。
それは、胸を締め付けるほどに優しい、声。






『九具楽』





「――九具楽? どうかしたの?」

振り返った私を、女魔性が怪訝そうに見つめる。

「・・・・・・・・・」

振り返った先には、ただどこまでも続く闇だけがある。

「九具楽?」
「・・・・・・いえ、何でもありません。・・・行きましょう」

何処か虚空の果てに放り出されたような不安定さを心に感じながら、私はそれでも前へと進んだ。


私を引き留める声は、
                 ――もう、ない。
                             



                        




<fin>


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捏造第四弾。外伝の「紅き神の娘」であった九具楽さんと人間の少女の話を具体化してみました。
相変わらず、妄想入ってますが、流す程度に見て頂ければ幸いです。
イメージ壊しちゃったらごめんなさい。

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