「いざ自分も着てみると落ち着かないものね。」
いささか眉を顰めてぼやいたのは浮城の捕縛師、サティン。
最強の破妖刀・紅蓮姫を持ったまま浮城を出奔した半妖の破妖剣士、ラエスリールと深い関わりを持つ者として、上層部から目をつけられて久しいころだった。
その視線の先は自分の身につけた衣装。
若草色を基調とした優美な刺繍の施されたそれはサティンに支給されていた略式の正装である。
普段はもっと気楽な服装で仕事に出るのだが、今回は浮城が寄付してもらっている王国の王室直々の依頼なので一応身だしなみを整えなければならなかった。そこで久しぶりに正装に腕を通してみたのだが、これがなかなか落ち着かない。上質の布で作られているだけに、汚さないようにと気を遣ってしまうのだ。かといって他に着る物もないので、結局今も着替えずに身につけている状態だった。
そういうわけもあって少々うんざりとした顔で、王宮の一室で謁見の準備を待つサティンは頬杖をつく。
「ラスに着せたりするのは好きなんだけどね・・・・。」
ため息とともに二言目に出るのはいつもあの少女のこと。
もう長いこと会うどころか声も聞いていないので思いは募るばかりだった。心配で堪らないが、一応あの深紅の青年がついていれば問題はないだろうと割り切っている。
まあ、彼自身が問題を引き起こす可能性もかなり高いのだが。
きっとそこは、ラエスリールを巻き込みつつもちゃんと収集つけているはずだ。多分。
・・・そう願いたい。
でなければ、自分は心配で心配で夜も眠れず、白髪も増えてしまう。
そればかりは真に回避したい状況だった。
「サティン様」
不意に目の前の扉が開いて、入室してきた女中に名を呼ばれる。
「お待たせいたしました。どうぞこちらへ。」
「ええ。」
サティンは即座に不機嫌な顔を押し込んで立ち上がって一礼し、彼女の後について部屋を出た。
とりあえず、今は自分の仕事を完了するのが第一だ、と気を引き締め直す。
王座の前に招かれたサティンは礼儀に乗っ取って床に膝を突き、王に向かって頭を下げた。
見事な細工の施された王座に座する国王夫妻は、静かな視線をサティンに向ける。
この国は長いこと魔性の気まぐれから逃れ、ほとんど魔性からの干渉を受けずに栄華を極めてきた国の一つだった。それ故に、浮城への寄付金も他の国に比べて高く、浮城の人間としては頭の上がらない相手である。それが今更浮城への依頼を寄せるというのは首をかしげる事態ではあった。
依頼の内容はまだ聞いていないので、ここでサティンはようやく自分の任務を知ることができることになっていた。
「よく来て下さいました。浮城の捕縛師殿。どうぞ顔をお上げ下さい。」
穏やかな口調で告げられて、サティンは恭しく顔を上げた。
視線を向けた先では、国王夫妻が実に穏和な笑みを浮かべている。
それはとても魔性の驚異に追いつめられている人間の表情ではなかった。
サティンは内心違和感を抱きつつ、口を開く。
「貴国の依頼を受け、参りましたサティンと申します。」
「サティン殿・・・、遠いところを遙々ようこそ。改めてお礼申し上げます。」
王妃である金髪の上品な女性がにこやかな顔でそう言った。
彼女ももともと西の方の王国の王女であり、確か第2王女だったはずだ。その国もまた魔性の害を受けたことがない幸せな国である。
何でも男の世継ぎが生まれず、彼女の腹違い姉である第一王女が女王として統治しているという話だが、噂なので真実かどうかは不明だ。
「今回の件、貴方をお呼びしたのは他でもありません。魔性についてのことで浮城の助けをお借りしたいのです。」
急に神妙な顔つきに変わった王妃はそう告げて、国王を見やった。
その視線を受け、国王が口を開く。
「ご存じであろうと思うが、我が国は今まで魔性の干渉を受けたことがない。」
「・・・はい、承知しております。それ故に真に豊かで平和な国だと常々浮城でもよく話に上がっていますので。」
サティンの言葉に、国王は堅くしていた表情を少し緩めた。
依頼主は何かと煽てておけば仕事もやりやすいというサティンの考えに乗っ取った言葉に見事に引っかかったようである。
「他ならぬ浮城の方にそう言って頂けると実に嬉しいことだ。・・・だが」
その綻んだ笑みが一瞬曇った。
苦渋の顔はやっと浮城への依頼人らしい顔つき。
「残念ながら今回は例外のようでしてな・・・」
「何か問題が・・・?」
サティンは注意深く言葉を選びながら問うた。
国王直々からの依頼となると、事態はかなり深刻なはずだ。
だからこそ、浮城の連中はそのやっかいな仕事を自分に押しつけたのであり、とても妖鬼一匹だけに対する要請などといった仕事のわけがない。難しい仕事とわかっているだけにサティンとしては少しでも情報が欲しいのだ。
少なくとも下手なことを言って依頼人の口を閉ざさせてしまう事態だけは避けたい。
そう考えた上でのサティンの問いに、国王は不安げな視線を横へと馳せた。
それにサティンは首をかしげ、彼の視線を追う。
するとそこには真っ黒なローブにすっぽり身を包んだ腰の曲がった老婆が控えていた。その存在感はひどく薄く、浮城の人間であるサティンでさえ、今の今まで気配をつかめていなかった。
「紹介しよう、我が国に長らく仕えてくれている予言者のマーデルだ。」
国王から紹介され、老婆はこちらを見ているのかもわからない角度でお辞儀をした。
サティンはなんとなく生理的に受け付けない相手だと判断しながら礼を返す。その時、一瞬ギョロリとした目と目があって少し引いてしまった。
あまり顔には出さなかったのできっと相手は気づいてないはずだとサティンは自らの失態に心中で言い繕う。
「彼女が常に国の司祭を取り扱ってくれている。ここまでこの国が繁栄できたのも彼女のおかげと言っても過言ではない。」
国王は自慢げにそう告げて、彼女の予言の的確さや、奇跡的なその力への賛辞を続ける。
その間、老婆は微動だにせず、立ち位置から一歩として移動することもなく、ただ国王の話を受け流していた。国王の信頼に高飛車になるでもなく、ただひっそりと控える姿はある意味異常に見える。
「今回のことは彼女の予言に関わることのなのだ。」
国王は不意にそう切り出し、サティンを見据え、それから横目で老婆を見た。その視線は催促だったのだろう、老婆は初めて一歩、歩みを進め、ローブに埋もれた顔を上げてサティンを見つめた。威圧的なその視線にしばらくサティンが強ばった顔で待っていると、皺の寄ったその口元が予想通りのしゃがれた声で言葉を紡ぎ始める。
「・・・この国の南に緑深い森がございます。その奥へと一度入った者は地元の者でも迷い、帰ってくることはございません。」
低い声で告げられる言葉はまるで怪談じみていて、幼い子供がこの場にいたならば冒頭部分だけで泣き出して母親の元へ逃げ去ること請け合いのもの。しかし、サティンは仮にも大人の女性であり、いささか不気味さを覚えようとも体を震わせるようなことはなかった。
ただただ情報を求めて老婆の目を見つめ話に聞き入る。
「もともとそのように恐ろしい場所ですが、最近さらにそこの森の様子がどこかおかしいのでございます。」
「・・・妖鬼、ということですか?」
問うと、老婆は神妙に頷いた。
「おそらくは・・・ただし、森の中と言えば、小鬼や妖鬼が数匹出るのもなんら不思議なことではございません。」
確かに。
老婆の言葉に頷きつつ、サティンは思考を巡らせる。
人間にとって、妖鬼の一匹や二匹は実際的に非情に驚異である。
しかし、それは一般の人間にとっては、である。
サティンのように浮城の人間は彼らを封印ないしは抹殺することで稼いでいるだけあって、妖鬼・・・あまりに力のある者は別として・・・にいちいち恐怖を覚えているわけにはいかない。それを数匹程度でこのような国王直々、しかも高い能力の在る者限定で───こういうのでそう判断されても嬉しくはないが───お呼び出しがかかるはずはないのである。
だからといって、まさか・・・妖貴ではないだろう。
あの少女と違って自分はあんな連中を引きつけるような悲惨としか言いようがない才能はもってないはずだ。現実にラエスリールが現れるまで、浮城の人間だって妖貴などに見えたのは数人程度だろう。まあ、とは言っても自分は彼女との関わりによって妖主にだって会ったこともあるのでいささか説得力には欠けるが。・・・さらには彼女とは別の関係で妖貴と対面したことも一度あったりするのでますます自分の言葉に自信はないが。しかし、裏を返して言えばもうすでに一度あっているのである。そんな稀な出来事がそうそう二度も起こるはずがない。・・・・でなければ困る。
「原因は私にも分かりませぬ。ただ異様なほど妖気が密集しているのでございます。それは放っておけば国の一大事になりましょうて。」
老婆の言葉は何とも形容しがたい効果をもってその場の空気を地の底に沈めた。
沈黙の中、サティンは老婆の話を頭の中でまとめ、乾いた唇を舐める。そして、その濡れた唇で言葉を紡いだ。
「・・・つまり、私はその森へと向かってその森の異常な妖気について探ればいいのですね?」
国王に向かって言ったのだが、彼には判断しかねるようで、すぐに老婆へと視線を配る。
老婆は鷹揚に頷き、自分の仕事はここで終わったとばかりにまた静かな動作で一歩退いた。それを見て、国王はサティンへと向き直る。
「・・・その通りだ。ではよろしく頼む、サティン殿。」
その言葉にサティンはもう一度床に膝を突き、頭を垂れて返した。
「承知しました。どうぞお任せ下さい。」
そう自信を持って向けられるサティンの鳶色の瞳に、国王夫妻は満足げに頷くのだった。
「南端の森・・・ねぇ・・・」
さっそく身支度を整え、例の場所へ移転するために護り手なる青年を呼び出したところ、彼はそう呟いて思考に口を閉ざした。
髪も瞳も服も見事なまでに漆黒に包まれた青年。
唯一色彩らしきモノがあるとすれば、それは彼の天敵たる人物──柘榴の妖主によって填めさせられた金の腕輪だろう。これは同時にサティンと青年との繋ぐ実に強固な鎖であった。それを視界に認めるたび、強制的にこの青年を縛り付けている事実を突きつけられる気がするので、サティンはこの腕輪を見るのが好きではない。
であると同時に、そういうのって調子がいい奴っていうのかしら・・・と、自分の非から目を反らす己の態度を後で振り返って嫌になるのもしばしばだ。
そんな考え事をしながらサティンが待っていると、鎖縛が重々しく口を開く。
「行けなくは・・・ないが・・・・」
「気が進まない・・・ってこと?」
いまいち歯切れの悪い青年の言葉に、サティンは怪訝そうな顔で問うた。
何とも言えないというように鎖縛は顔を顰め、それにサティンは嘆息する。
「貴方がそういう反応するってことは・・・やっぱり何かあるのね、そこ。」
わざわざ、上層部が名指しで自分を指名してくるほどだ。
かなりの厄介ごとだとはもともと覚悟している。無論、上層部の連中もすべてを知っているわけではないだろう。まあ、とりあえず得体の知れ合い依頼はあいつらに回しとけ・・・とか言うことなんでしょうね、とサティンは肩を竦めた。
「それでも行く気か?」
嫌そうな顔を隠そうともせず鎖縛は問うてくる。
「仕事だもの、行かないわけにはいかないでしょ。」
サティンがため息混じりに応えれば、鎖縛はさらに顔を顰める。
本気で今回のは気が進まないらしい。
「・・・仕事、ね。内心、浮城の威厳なんぞどうでもいいだろうに。まったく・・・面倒ごとばかり回してきやがって・・・少しはお前のそういう我が侭に付き合わされる俺の身にもなって欲しいね。」
ぶつくさと不平を言う鎖縛の嫌味にはとっくに慣れた。
サティンは「はいはい」と軽くあしらって、鎖縛に背を向け、寝台の上に準備していた荷を肩に掛ける。
「貴方の苦労はちゃ〜んとわかってるから、さっさと例の場所に移転して頂戴。」
「その態度のどこがわかってるんだ。」
一方的な要求に鎖縛も顔を引きつらせる。
しかし、その反論にサティンは心外だという顔で仰々しく芝居がかった言葉を連ねた。
「あら、私は日々貴方に対する罪悪感で胸を痛めているのよ?」
「嘘付け、お前のどこにどんな謙虚な感情がある。」
その鎖縛の呆れかえったような即答に、サティンは清々しいほどににっこりと笑って応える。
「本当ですとも。私にもしものことがあったら、あのお人好しがつくくらいに優しいラスは心底悲しんでラスにそんな思いをさせた貴方をラスにぞっこんのあの人がどんな仕打ちをするかと思うと可哀相で可哀相で良心がズキズキ痛んでるわ。」
「・・・・・・・・」
鎖縛の顔が少し青白くなったのは・・・気のせいではないだろう、とサティンは判断する。
「・・・女狐め。」
絞り出すような青年の苦しい言い返しに、サティンは浮城の誰もが危険信号と見なしている笑みで返した。
「・・・何か言った?」
「・・・・・・・・・」
ぐっと言葉に詰まり、鎖縛は唇を悔しげに噛み締める。
「行けばいいんだろう!?行けば!!ったく・・・っ」
漆黒の青年は苛立たしげに舌打ちしてサティンの要求を呑んだ。
「だが、言っておくが俺はこのままじゃ行けないからな・・・擬態するぞ。」
「どういうこと?」
突然の宣言に、サティンは眉を顰めて説明を求める。
鎖縛は未だに渋面のまま、吐き捨てるように言った。
「よくわからんが、あの森は妙に狂ってやがる。・・・魔性同士が引き合わされてるようだ。仮にも妖貴の俺がこのままあの森に突っ込めばあっという間に群がられるぞ。」
「・・・魔性同士が・・・・」
では、妖気が密集しているというのはそのせいなのだろうか。
サティンは老婆の言葉を思い出しながらそう自問する。けれど、とにかくその場に言ってみないことには何とも結論づけがたかった。
「・・・じゃあ、いくぞ。」
そう鎖縛がやはり嫌々そうな声で呟くと同時に、サティンの視界は漆黒の布に覆われて暗に帰した。
普通よりも少々広いこと除けば至って普通の森であるそこは、しかし、確かに異様な妖気の渦を巻いていた。
森の入り口まで転移したサティンと鎖縛は静かに森を見やる。目に映る限りでは時に変わったところはなさそうだが、動物の気配が全くない。鳥の声さえ一つも聞こえてこなかった。ただ、森の木々が風に吹かれて葉を鳴らす程度の音がその場のすべての音源であった。
「確かに変ね・・・・」
サティンの呟きは異様なほどにその場に響いた。
対する鎖縛は相も変わらずしかめっ面で森を睨んでいる。
「入るんだろう?」
目線だけをサティンに寄越して問う鎖縛に、サティンが鳶色の瞳を向けて頷く。
それに鎖縛は両腕を組んだままの状態で肩を脱力させるようにため息を吐き、不意にその漆黒の布で自身を覆った。
次に鎖縛は姿を現した時、彼は青年の姿を変えていた。
漆黒の色彩は変わらず、ただその風貌は獣そのもの。
艶のある毛並みに口元から覗く鋭利な牙、目元には紋様が刻まれており、大型犬よりもさらに一回り大きい犬科の獣らしかった。
「気配も獣のそれに似せてあるからうまく紛れるだろうよ。」
声はやはり鎖縛のそれで、面倒臭そうな口調までそのままだった。
ピンッと立った耳を見て、サティンは思わず可愛いかも・・・と思ったが口に出すほど愚かではなかったので心の声で留めておく。
「それじゃあ、まあ、行きましょうか。」
そう言って、サティンと鎖縛は深層の森へと分け入っていった。
「どう?何か感じる?」
だいぶ奥まで進んでからサティンは横を歩く漆黒の獣に問うた。
人の手の入っていないその森の中はまさに緑が鬱蒼としていて、一歩一歩進むたびに草を掻き分けなければいけない。中には鋭い棘のある植物もちらほらとしており、実に歩きにくかった。それでもやはり動物の気配はない。
「外で感じたのとそう変わらないな。妖鬼どもがかたまってるのは分かるが・・・。」
鎖縛はそこまで言って、不可解げに眉を顰める。
「それにしても奇妙だな、一匹もはぐれずに同じところに集まってる。移動もしてるんだが・・・。」
「・・・それってこの森中の妖鬼が集団で行動してるってこと?」
鎖縛と同じように眉を顰めてサティンは森を見渡した。そこはただ風に揺れる木々の音がするだけで生き物の気配は全くない。
「そうなるな。」
「何故そんなことが・・・」
今まで経験したことのない状況にサティンは首を傾げて考え込んだ。
それに肩を竦めて応えるのは漆黒の獣に扮した護り手。
「さあな、単独では行動できぬほどにここの魔性どもは臆病者なのか・・・それとも」
鎖縛の口元に乾いた笑みが浮かぶ。
「・・・妖鬼どもを寄せ付ける何かがあるのか。」
「・・・・・・・・」
おそらく後者だろうとはサティンでも考えがつく。しかし、それが何なのかまではわからない。ただ生い茂る草木の中で、このまま考え続けても何も分からないのは確かだった。
そう考えるサティンの視界に木々の間から覗く岩場が映る。そして地面から高く飛び出したそれは木々の背丈を超え、上の方まで登れば森全体を見渡せそうなものだった。
「とりあえずこのまま歩き回ってもしょうがないし・・・あそこから様子を見てみましょうか。」
サティンがそう提案するのに、鎖縛は否を言わなかった。
「こうしてみると思ったよりも結構広いのね。」
岩場の頂まで登り、悠然と広がる森を見渡してサティンが少々感嘆する。
様々な木々が生い茂る森はまさに自然の宝庫だった。何もかもが完璧に見えるその森に足りないものがあるとすれば、それは生物たちの不在だけだろう。鳥も一羽とて空に翼をはためかせていない。
「何で動物がいないのかしら?やっぱりこの森が変なのが原因?」
「さあな・・・しかし・・・やはり異様だな。妙だ。」
渋面の鎖縛に、サティンは首を傾げる。
「妙?」
「朧気で確信はないが・・・結界が・・・張ってあるような感じがする。」
漆黒の瞳が森を見渡し、目元を歪める。
遠くを見つめる目に厳しさが宿った。
「・・・誰かがやったってことかしら?」
誰か、というのが人間を指すわけではないのは暗黙の了解。
「可能性は高いな。」
さらりと言ってのけられたのはサティンを脱力させるのに十分な言葉だった。こういう状況になると、もう怒るより泣くより笑ってしまう。
「つまり見事に罠に嵌ったってことね。」
「外に出れそうにないところをみると、おそらくな。」
嘆息とともに告げられて、サティンは周囲の異変を感じ取った。鎖縛はとうに気づいていたらしく静かな視線を森の中へと向けている。
「来るぞ」
鋭利な牙が見え隠れする口から発せられた短い警告に、サティンは微かな苦笑を口元に飾った。
「・・・みたいね。」
小さな岩場をぐるりと囲む深層の森。
いつの間にか、その木々の間から覗く気配は悪寒を否めないほどに醜悪で害意に満ちていた。それは、じわりじわりと確実に触手を伸ばしてくる妖鬼の群れ・・・・獲物を前に興奮した数匹が雄叫びを上げるのが耳につく。
サティンは静かに息を吐き、弓を握る左手に力を込めた。
そしてそのまま矢を右手に取り、相手を射殺すような視線で奴らを見据える。
「どの程度の数か分かる?」
臨戦態勢に入った漆黒の獣に問うサティンの声は、ひどく落ち着いていた。
今まで相手にしたことがないような多勢の敵。
されど、サティンの頭の中に浮かぶ一人の少女の姿がその迫力を押さえていた。
それは何百という妖鬼を相手に破妖刀を振るい続ける半妖の少女。
さらにその多勢の妖鬼すら虫けら同然に払いのける妖貴と、一度や二度ではなく対峙し、なおかつボロボロになりながら彼らを倒してきた浮城最高の破妖剣士。
彼女の通ってきた茨の道に比べれば、自分の歩いている場所など石ころ一つ転がっている程度だろう。
この程度で弱音を上げるようでは彼女の傍にいられない。
・・・・彼女を助けたいなどと思う資格など在りはしない。
「・・・三十弱ってところだな。」
姿こそ変われど、いつもと声だけは変わらない青年の返答。
それを聞いて、サティンは心中で笑った。
本来なら破妖剣士でもない、ただの捕縛師である自分が相手にするような数ではない。けれど、サティンに劣勢である自覚はなかった。
確かにあの少女と違って、自分には特別な血は流れていない。
けれど、強力な護り手───相棒がいるという点では同じだ。
もちろん、だからといって、おんぶにだっこされるつもりは微塵もないが。
ただ、背中を安心して預けられるということが戦いの中でどれだけ重大なことか。
「あんたを信じるわ。」
サティンの呟きに、漆黒の瞳が彼女へと向けられる。
もともと感情が表に出ない青年は、獣の姿だけにさらにその表情は読みづらい。けれどもサティンはその青年の瞳に宿ったかすかな躊躇を見つけた。
「これでも頼りにしてるのよ。」
微笑を浮かべて囁くサティンに青年はますます居心地が悪くなったようだ。
漆黒の瞳がフイッと妖鬼達の方へと背けられた。
「・・・こんな時に新手の嫌がらせか。」
苦虫を噛み潰したような声で鎖縛の口を悪態がつく。
サティンはそれに反論しなかった。青年が本気で言っているわけではないのくらい察しがついたから。ただ彼は明確に寄せられる信頼に慣れていないのだ。
「だからあんたも少しは私を信頼してよね。」
「・・・・・・・」
静かに言葉を続ければ、鎖縛は沈黙する。
静寂の中、視界には木々の間から岩肌に這いだしてくる妖鬼達。
鎖縛は心の奥底でため息を一つ吐いた。
「・・・とりあえず」
不意に隣で低い声が聞こえるか聞こえないかほどの大きさで呟かれる。
サティンが視線を馳せれば、漆黒の獣と視線が合った。
「お前がこの程度のことで死ぬようなか弱い女じゃないことは認めてやるよ。」
その軽口はサティンの心に自然と埋まった。
苦笑が漏れる。
お互いの口から。
「行くわよ、鎖縛。」
「ああ」
荒れ狂うような妖鬼達の叫びがその場を揺るがす中、浮城きっての捕縛師とその護り手は辛辣な笑みを相手に向けた。
封魔具である矢尻に貫かれて、妖鬼が醜悪な顔をさらに醜く歪め、消えていった。
それと同時に漆黒の獣の牙に引き裂かれて悲鳴を上げる妖鬼もいる。
ただ己の食欲を満たしたいという利己心に突き動かされて襲ってくる妖鬼たちに連係プレイなどというものはなく、確実に減っていく仲間の数に気づいてすらいないようだった。
「五匹目!」
「のろいな、こっちは十三だ。」
矢をつがえつつ叫んだサティンに鎖縛の嫌味が返る。
息の上がったサティンに対し、漆黒の獣に扮した鎖縛の様子は清々しいほどに飄々としていた。その足下には牙に引き裂かれた妖鬼達の残骸が積み上げられている。
まさに屍累々。
「〜〜〜っ六匹!!」
「十六」
サティンの頬を妖鬼の爪が掠り、深紅が頬を伝う。折角の正装も所々引き裂かれていた。
痛い。いつものことだが、痛いものは痛い。しかも今回は相手の数が半端じゃないだけにいつまでやってもきりがなく、倒す妖鬼の数に比例して傷も増えていく。まさに傷だらけ。ここまでなるのは初めてかもしれない。
あの子もこうやって死にものぐるいで戦い続けていたのだろうか?
戦いの中、不意にサティンの脳裏にいつもボロボロの服で返ってきていたラエスリールの姿が蘇る。
その体に傷こそ見あたらなかったものの、それは闇主に癒してもらっていただけで、治癒の前は想像を絶するほどの大怪我を負っていたのだろう。衣服にこびり付いた彼女自身の血がそれを物語っていた。
考えるだけで胸が痛んだ。少しでも彼女の痛みを分かち合いたいという衝動に駆られた。
怪我など振り返らず一心不乱に。
「九匹目ッッ!!!」
サティンの腕に爪を走らせたのを引き替えに矢に貫かれた妖鬼の体が空中に消え失せる。
いつもと違う、自らの傷を顧みずに突っ走るサティンの姿に、怪訝に思った鎖縛は少し眉を潜めた。
「・・・おい・・・?」
「十匹!!」
弓を握りしめる彼女の手はほとんど血まみれだった。
鎖縛の爪に裂かれて死に絶えた妖鬼を最後に、残ったのはあと一匹。
それと目を合わせたサティンは傷だらけの腕で矢を番えた。その動作に彼女の殺意を感じ取った妖鬼は憎悪と怒りで奇声を上げ、次の瞬間にはサティンに向かって飛び込んできた。
それに対し、サティンが射程位置に入った妖鬼に向かって矢を放とうとした時、不意にサティンの視界が歪みを生じる。
多量の出血が貧血を引き起こしたのだった。
「・・・ッッ!」
思わず力が抜けてしまった矢は見当はずれの場所へと落ち、向かってくる妖鬼の顔に残酷な笑みが浮ぶ。
膝を突いたサティンに飛びかかった妖鬼。
だが、突然、その笑みが横からの衝撃によって目の前で吹き飛んでいった。
呆然と見上げるサティンの視線の先に漆黒の獣。
「二十三」
鎖縛の低い声が静かにその場に響いた。
「・・・・・・さ・・」
「馬鹿か。」
呼びかけたサティンの声を、そのまま鎖縛が忌々しげに遮る。
鋭利な牙を剥き出しに吐き捨てられるのはひどく威圧的だった。
それでもやはりここでムッとしてしまうのがサティンの習慣とも言える反応で。
「馬鹿って何よ!」
「馬鹿は馬鹿だろう。何考えてるのか知らんが、後先考えずに突っ走りやがって・・・」
もともとの色である若草色には到底似合わぬ深紅の滲んだサティンの服を見やって、鎖縛があからさまに顔を顰める。
「治癒するのは誰だと思ってる。」
「あんたに決まってるでしょ。」
即答してやれば、獣の目元がヒクリッと引きつった。
渋面している青年の顔が脳裏に思い浮かぶ。
「お前・・・自己中にもほどがあるぞ。」
呆れかえった声で紡がれる鎖縛の言葉は、しかし、諦めの感情も同居させていた。
「・・・もういいから、腕出せ。ほっとくと出血多量で死ぬぞ。」
舌打ちしながら言われて、サティンもようやく自分を振り返った。
冷静に自分の姿を見れば、悲惨なものだ。
腕は無数に妖鬼の爪によって浅く、あるいは深く引っかかれて血を流しており、思わず目を反らしたくなる。
「うっ・・・・」
自覚するとともに麻痺していた痛みが非情にも舞い戻ってきて、サティンは顔を顰めた。すると、鎖縛の顔にほら見ろと言わんばかりの表情が浮かぶ。
「わけのわからん感傷に浸るのは勝手だが、それに振り回される周りのことも考えて欲しいもんだな。」
言い返しようがない。
サティンはばつが悪そうに顔を背けて傷だらけの腕を青年に差し出す。それに鎖縛も今度は何も言わずに治療を始めようとした。
しかし、異変は突然起きた。
護るべき娘の姿が油断した一瞬でその場から掻き消えたのだ。
残ったのは彼女の傷口から滴った血が地面に染みこんだ跡のみ。
残された鎖縛はあまりに突然の出来事に一瞬呆け、その後事態を理解して苛立たしく舌打ちした。これは以前も経験したことだった。衣於留の件でヒルにかまっている間に参叉によってサティンを連れ去られたあの時と同じだった。
「またかっ・・・世話の焼ける!」
言葉とは裏腹に、苛立つのはあの娘にではなく、自分に対しての方が大きい。二度も目の前からかっさらわれたのがひどく鎖縛の自尊心を傷つけた。
しかも今回はあいつは怪我をしたままだってのに。
あの重傷では下手に時間をかけると命の危険も少なからず出てくる。
鎖縛は今回初めて焦燥を抱きながらサティンの気配を探る。
───どこだ!?
森全体に意識を飛ばすが、彼女の気配は全くない。
ここではない。ここにはいない。反応は返ってこない。
「くそっ!」
範囲を広げて森の外まで探るが、やはり無反応。在るのは微弱な妖鬼の気配のみ。
鎖縛は唇を噛み締め、握った拳に力を込めた。
治療のせいかと思った。
目の前が白くなって、気が遠くなって・・・けれど再び目を開いた時、怪我は治っておらず、さらには鎖縛もいない。───否、彼がいなくったのではない。自分が先ほどの場所とは違うところに何故か移転していたのだ。
未だ血まみれの腕を抱え、サティンは自分に起きた現象を解明しようと周りを見渡す。
大理石の床──滴るサティンの血がシミを作り上げていたが、それは見事なものであり、サティンはこれと同じモノをごく最近見たのを覚えていた。
「・・・王宮・・・?」
「ご名答。」
サティンの呟きに不気味さを感じずにはいられないあのしゃがれた声が返ってくる。
その方向を振り返れば、マーデルと呼ばれていたあの老婆が暗闇の中から暗闇に染まった色のローブを引きずりながら現れた。再び見えたその顔は最初玉座で会ったときのような謙虚さを持っておらず、ただ悠然と・・・───自分こそが最大権力者であるかのような表情でサティンを見ていた。
「よもや、妖貴を護り手に持っていようとはな・・・・おかげでせっかくの妖鬼達が皆潰されてしまった。」
うっすらと笑みの浮べた老婆の口元が言葉を紡ぐ。
その表情にサティンはもう彼女が人間であるという前提を取り消した。幾度となく魔性と対峙してきて身につけた、人間と魔性との纏う気配の違いを見破る能力だった。
───今の老婆の顔は、魔性が本性を現しているときのそれと恐ろしいほどに酷似している。
「貴方が黒幕ってことかしら・・・?」
痛みに思考を麻痺させられそうになりながら、サティンは必死に頭を冷まして言葉を返す。腕から流れ出る血の量は、サティン自身、これ以上は危険だと思うものだった。どうせなら治癒が終わってから呼びつけて欲しいモノだと、悪態を吐かずにはいられない。
「黒幕・・・まあ、そうとも言うのかね。」
老婆はひどく投げやりな答えを返してきた。・・・そんなことはどうでもいい、とすぐに続きそうな口調で。自分勝手そうなその態度はやはり魔性を彷彿とさせる。
「何故・・・とここは聞くべきかしらね?」
「・・・理由を知りたいならば、そうだろうね。」
あっけらかんとした解答に、サティンはだんだん苛ついてきた。まあ・・・その原因の半分以上は怪我の痛みを含めるのだが。とにかく、早く話をすませたい一心で言葉は早口になる。
「じゃあ、聞くわ。なんでこんなことしてるのよ。」
剣呑ささえ宿したサティンの声に、老婆は静かに微笑みを浮かべた。そして、続けて出される言葉は実に抽象的なモノであった。
「・・・魔性になるため、と応えるのが一番早いだろうね。」
「魔性になる・・・・?」
すでに魔性だろうと踏んでいたサティンの顔が怪訝そうに眉を寄せる。その反応に老婆は苦笑して肩を竦めてみせた。
「半妖・・・そう言えばわかるだろう?」
「ッ!?」
息を呑む。
脳裏にあの少女が浮かび上がる。
「半端者とは実に不便なものでね。人間の血が私の邪魔をしてくれるのさ。実にうるさくてしょうがない。」
老婆が、初めてその顔に憎悪を浮かべた。
「だから少しでも魔性の血を濃くしようと思ってね、ああして妖鬼どもを一カ所に集めては喰らっていたのさ。・・・まあ雑魚ばかりでたいした足しにはならんかったがね。」
「・・・で、わざわざ浮城へ依頼させるような予言をしたのは・・・?」
サティンの問いにマーデルは微笑を浮かべる。
「風の噂に聞いたのさ。浮城に強い護り手を持った者がいる、と。そこでそいつを呼び出してあの妖鬼達の群れの中に押し込め、そのままあいつらに始末させて、残った魔性を頂こうと思ったんだが・・・その魔性がまさか妖貴だとは予想してなかったもんだから、あの様さ。」
肩を竦めて老婆は苦く笑う。まるでそれは、いたずらに失敗した子供のような仕草だった。サティンは自分の怪我を一瞥し、圧倒的に不利であることを確認する。
「じゃあ・・・・もう諦めたということでいいのかしら・・・・?」
探るように、控えめな声で、サティンは問う。・・・同時に一歩後退しながら。
「まさか」
老婆の顔が小気味よさそうな笑みを形作り、皺に埋もれる。
「やはり他力本願はよくないと悟っただけさ。」
薄茶の瞳に冷酷な光が走ったのを、サティンは残念ながら気づいてしまった。同じ半妖でもラエスリールやセスランとは異なる感性をもった者、───どちらかと言えば、人間の血を捨てたラエスリールの弟に近い存在。下手な慈悲は期待しない方が身のためだ。サティンは息を呑みつつ、また一歩後退する。懐に潜めた封魔具の矢尻も半妖相手ではあまり役に立たないだろう。
サティンは乾いた喉奥に唾を流し込み、そこから言葉を発する。
「・・・・鎖縛。」
眩暈のする状態でサティンはその名を呼んだ。───この老婆の狙いは彼だ。そんなことはわかっているが、この状況では彼を呼ぶしかない。老婆の意図通りだったとしてもその時はその時だ。
サティンが取る行動に対し、満足そうに笑む老婆を見据えながら、サティンは結局は青年に頼るしかない自分に唇を噛み締め───叫んだ。
「鎖縛っ!さっさと来なさい!!貧血状態で頭はクラクラするし、足下はフラフラだし、もたもたしてると本気で私死んじゃうわよッッ!!」
「・・・やばい状態だってわかってるなら大声張り上げるな、馬鹿。」
不意に低い声が背後で呟かれる。
振り返れば仏頂面の青年が、───獣の姿ではなくいつもの姿で佇んでいた。
サティンを捕らえたその瞳に一瞬安堵の色が浮かんだように見えたのはのは気のせいか。
「・・・さ・・・」
「ようこそ、・・・鎖縛殿。」
サティンの声をマーデルが遮る。その声に鎖縛は不気味な笑みを浮かべる老婆へと視線を向けた。魔性の名をスルリと呼んでしまうその態度に、鎖縛の眉が顰められる。
「半妖か・・・。」
マーデルに流れる二つの血の気配を感じ取ったのだろう。老婆の正体を当てた鎖縛に、マーデルはクツクツの喉奥で笑った。
「いかにも。私は半妖の身。人間の名をマーデル・・・魔性の名を螺摩と申します。」
深々と礼をする姿は形だけを取り繕った雰囲気を否めない。鎖縛は油断の隙を与えない視線で老婆を見据えた。
それを受けながら、老婆は笑みを浮かべたまま、ひどく冷たい声で告げる。
「貴方の力を頂きたい。」
「御免だな。」
鎖縛は即答し、急にサティンを抱きかかえてその場から飛び退く。
と、同時に今まで二人がいた場所に亀裂が走り、そこから無数の糸が飛び出してきた。
「紫紺の配下関係のせがれか。」
忌々しげに吐き捨てながら、鎖縛は宙から床に降り、サティンもそこに下ろした。
漆黒の瞳に鋭利な光が宿る。
「・・・まあ、あいつ関係じゃないだけマシだが。」
その鎖縛の言葉を聞いているのかいないのか。視線の向こうで、老婆はいくつもの糸を隣でうねらせながら微笑む。皺の寄った唇からはただ静かな声が発せられた。
「話に聞けば、貴方は一度封魔具の中に眠りについていたとのこと。・・・ならばその命に未練はないのでしょう?この私に下さいな。」
「御免だと言っている。」
束となって襲いかかってきた糸を、鎖縛は勢いよく吹き飛ばす。
圧倒的な力と力のぶつかり合いに、サティンは巻き添えを食らわないようにするので一杯一杯だった。余波から避けているものの次々とくるぶつかり合いの衝撃にさすがのサティンも危機を感じて叫ぶ。
「ちょっと、鎖縛!私、怪我してるんだからね!」
その叫びに、鎖縛の視線がこちらを向いた。
しかし、悲しいかな、この言葉への返答は彼のものではなかった。
「そう、護るべき者は労るべきですよ?」
「ッ!?」
その囁きは背後から降ってきた。
気づけば、首の回りに糸が輪を為して巻き付いている。
視界の端にこちらの異変に気づいて舌打ちする鎖縛。
「油断しましたね。」
人質だと言わんばかりにその糸で持ってサティンの首を縛り上げながらマーデル、否、螺摩は勝利の声を上げた。
「さあ、このままこの娘の首を胴から切り離されたくなければその命を私に差し出しなさい。」
「・・・っっ」
首を縛り上げられる強さが強まって、サティンは息を詰まらせる。
絶望的だ、と思った。大体、この状態で鎖縛の助けを求められるとも思えない。彼が魔性にとっては屑程度の認識でしかない単なる人間の自分───しかも好きで護衛などしているわけではない相手のために自らの命を投げ打ってくれるはずがない。「殺りたきゃ、殺れば?」みたいな返答が返って来るに決まってる。それはそれで螺摩の意表を突くだろうが、それはサティンにとって決して望ましい展開ではなかった。
「・・・さあ、どうしたのです?」
二人の関係がどのような複雑さで成り立っているかなど露知らぬ老婆は勝利を確信したまま問い募る。
「・・・・・・・・」
押し黙る鎖縛の眉間には不機嫌さを露わにした皺が寄っていた。
サティンは在る意味絶望的な思いでその青年の顔を見つめ、同時にたとえ彼にとって不可抗力な状況であったとしても言葉一つで見捨ててくれた暁には恨んでやると堅く決心していた。
そんなサティンの視線に気がついているのか、鎖縛は大げさに肩を竦めてため息をつく。
そして発した言葉はサティンの目を見開かせた。
「・・・わかった。」
「!?」
聞き間違いかと、思った。
しかし両手を上げてひらひらと振る鎖縛の態度はまさに降参のそれで。
嘘!?と疑心の目で見るサティンと視線が合ったくせに、青年は無視して逸らした。
「潔い・・・さすがは妖貴たるお方、まあ人間の小娘などに命を捨てる神経は疑いますが。」
老婆は心底嬉しそうに語る。要は自分の願いさえ叶えばいい、と。
「いいな、俺が命をくれてやればそいつには手を出さない、違うなよ?」
念押しする鎖縛に、老婆は笑みのまま敢然と頷いた。
「ええ、この螺摩の名において誓いましょう。所詮この小娘は貴方を誘き出すためだけにたぐり寄せた存在ですからね。」
サティンは唇を噛み締める。
この老婆が自分のことをどう評価しているかなどどうでもいい。知ったことではない。
ただどうしても納得がいかないのは・・・。
「ッッ鎖縛っ・・・あんたふざけるんじゃないわよ!!」
堪らず、サティンは口を挟んだ。
それにふと眉を顰める老婆、しかし、すぐにその表情は嘲笑に変わる。
「何を不快がるか、命は助かると言うのに。お主もよい僕を持ったものよのう?」
カチンと来たのはその言葉。
只でさえ熱せられていた頭がそれで沸騰した。
参叉の言葉が蘇る。あの激怒せずにはいられなかった言葉の羅列が。
「うるさい!勝手に他人の関係を位置づけしないでよ、根性曲がり!あんた達魔性はいつだってそうだわっ、上下関係でしか物事が見えないのよ!!そういう物差しでしか計れない無能よ!」
「ピーチクパーチクと・・・うるさいのはお主の方だろう?」
途端に不機嫌になった老婆が黙れと言わんばかりにサティンの首をきつく締め上げる。
「ッッ!」
「力もない屑が持論を語るでないよ。敗者は大人しくそこで自らの犠牲になる者の様を見ていればいいのさ」
冗談じゃない、と螺摩の言葉を聞きながらサティンは憤った。首を締め上げられているせいで言葉も発せず、息苦しさで気が遠のきかけるが、それどころじゃなかった。
確かに簡単に見捨ててくれようものならそれはもう祟ってやるぐらいには思っていた。しかし、だからといってその命と引き替えに助けて欲しいなどと思ったわけではない。いくら自分でもそこまで図太くはないのだ。それにこうやって人質になるのは初めてのことではなかった。そのたびにラエスリールの行動を制限させたり時には危険な目に遭わせた。誰かの足かせになるのはもう二度と御免だ。ましてや、そのせいであの青年を死に追いやるなど・・・!
だから、やったのは無我夢中だった。
何か考えてのことではなく、ただ何かをせずにはいられなかった。それでもやはり、自分の武器となるのはあの矢尻だけで。
血まみれの手で懐の矢尻を取りだし、勢い任せに背後にいる老婆に向けて突き刺す。
一笑されて終わるかと思ったそれは・・・しかし、意外な結果をもたらしたのだ。
「・・・ぐあッッ!!?」
苦悶する声が耳に届いて、それと同時に首に巻き付いていた糸が緩む。
何が、と確認するよりも先に、今度は鎖がサティンの体に巻き付いて、グンッと引き寄せられた。
「恐ろしい女だな。」
そう呟かれた、聞き慣れた声に目を開けば、鎖縛に抱えられている状態。
見上げた彼の表情は何とも形容しがたい苦笑を浮かべている。
「よくもまあ、しっかりと心臓を一突きしたもんだ。」
「・・・え?」
サティンは目を点にして老婆の方を見やった。
そこには喉元に矢尻が突き刺さった状態で呻く螺摩の姿がある。
「心臓って・・・あそこが・・・?」
「わかってやったんじゃないのか。」
「わかるわけないでしょ、そんなの!」
力んで反論すれば、青年が一瞬目を見張って・・・失笑する。
「適当にやって心臓を突いたのか・・・本当に悪運の強い女だな。まあ・・・それは置いといて・・・・。」
鎖縛の鋭利な視線が苦悶する老婆に向けられる。その殺気に気づいたのか、老婆が恐怖に染まった顔でこちらを振り返った。形成は一気に逆転だ。
「待て・・・」
「嫌だね。」
無慈悲な鎖縛の言葉は刃となり、螺摩を躊躇なく貫く。
決して予期していなかった結末に、塵と帰すまで螺摩の顔は信じられないというかのように驚愕に染まっていた。
そのまますべての塵が宙に舞って、コトリと落ちるサティンの矢尻。
「仕事完了だな。とんだ展開だったが・・・。」
ため息とともにそう呟いた鎖縛の声を聞いて、サティンはホッと安堵する。
だがそれで先ほどの憤りを思い出した。
「ちょっと鎖縛!」
「あ?」
「あ?じゃないわよ!!馬鹿じゃないの!!自分が何しようとしてたかわかってる!?」
怒鳴り散らすと、鎖縛は煩げに顔を顰める。
「じゃあ、あそこでお前を見捨てろって言うのか?お前に何かあったら俺が大変なことになると脅したのはお前だっただろうが。」
「それとこれとは話が別でしょう!?」
「何が別なんだ。一緒だろ。」
「たとえ百歩譲ってそうだったとしても、命をそう簡単に投げ出すなんて馬鹿だわ!!」
「なっ!?命の恩人に馬鹿とは何だ!」
思わず鎖縛も怒鳴る。しかし、サティンは怯まない。
「命の恩人ですって!?冗談じゃないわよ!あんな勝手に・・・」
言いかけて不意に冷静になったサティンは言葉を途切らせた。
違う、言いたいのはこういうのじゃない。喧嘩がしたいわけではない。
そうじゃなくて・・・。
「おい・・・?」
急に黙り込んだサティンを鎖縛が訝しげに見つめる。
その視線がサティンの怪我を認めて、ああ、とため息混じりの解釈をした。
「馬鹿が、怪我そのままで叫ぶからまた貧血なんぞ起こすんだ。」
サティンが大人しくなったのは貧血をまた起こしたのだと勘違いをした鎖縛はサティンの腕を少々荒く掴んで治療を始める。
不思議な力が自分の傷を癒していくのを見つめながら、サティンは深く息を吐いた。
そう、自分が言いたいのは・・・・。
「・・・あんたは、私の相棒でしょう?」
「・・・・・・・」
鎖縛が軽く目を見張った。・・・視線が、合う。
見据えたまま、サティンは続けた。
「なら、自分がいなくなったら私が困るってこと、理解しなさいよ。」
「・・・・・・・・」
沈黙が、落ちる。
傷はすべて癒え、鎖縛の手が静かに離れた。
沈黙を押し通す気なのか、青年は一言も話さず、無言のまま、勝手にサティンごと転移した。気づけばそこは浮城の転移門の前。
そこで仕事は終わったと言わんばかりに鎖縛がその場から姿を消そうとする。
応える気はない、ということか。
やはり埋まらぬ青年との距離に、サティンは心中でため息をついた。こうやって歩み寄りの努力をしても空振りに終わる。嫌でも付き合っていかなければならないのだ。どうせなら仲良く───せめて衝突がないようにくらいやっていきたい。けれど結果はいつも伴ってくれなかった。
ドッと肩の力が落ちた。
けれどその肩に置き忘れたように消えかけた鎖縛の声が振ってくる。
「逆も然りだな。」
見上げたサティンの視界に青年はもういなかった。
「で、略装はどうしたの?」
いつものように茶会に招かれて、彩糸の焼いた焼き菓子を頬張っていたサティンにリーヴシェランがお茶を啜りながら問うた。相変わらず愛くるしい姿をしたこの少女は最近特に美しさに磨きがかかりつつある。藤色の髪の少年──外見的には青年と言うべきなのだろうが子供っぽさの抜けない性格のせいでそういうイメージが強い──もこれから大変でしょうねと悪魔で人ごと程度に思った。ラスに近づく奴ら脅して回ったあの人ほどのことはしないでしょうけど・・・・そう思いつつも、彼も立派な魔性だ。油断していると痛い目を見るかもしれない。まあ、といっても自分には関係ないんでしょうけど。
「もう着れそうにないから捨てたわ。城長が新しいのを新調してくれるんですって。」
「そこまでひどい怪我をしたの?」
リーヴシェランの顔が心配そうに曇る。サティンはそれに慌てて応えた。
「大丈夫、鎖縛にすぐ治してもらったし。見かけほど大したことなかったのよ。」
「・・・そう?・・・なら、いいけど。サティンは大丈夫と信じてるんだから・・・ラスみたいな心配かけさせないでね。」
疑い深い視線を受けて、サティンは内心後ろめたかった。嘘を混ぜ込んだ返答だけに。
「あ・・・当たり前よ。あんな無鉄砲なことはしないわ。」
今度からは、という言葉は省略する。
「ところで、あの人とは・・・ちゃんとうまくやってるの?」
リーヴシェランの言葉に、サティンはお茶を啜っていたのを止めた。あの人とは言うまでもなくサティンの護り手、鎖縛のことを指しているのだろう。
「うーん・・・・まあ、そこそこかしら。」
「なにそれ。」
サティンの返答に呆れた顔で言ったリーヴシェラン。
それに対し、サティンは軽く笑う。
脳裏に浮かぶのは青年の最後に残していった言葉。
いつものようにぶっきらぼうな声で。
でも、彼らしいと言えばらしい返答の仕方。
「悪くはない、と思うわ。」
お茶を啜りながら、微笑してそう答えるサティン。
そんな彼女をリーヴシェランは微かに目を見張って見つめた。
まだまだいろいろと問題はあるだろうが。
まあ、とりあえず、なんとかなるだろう。
そう思える余裕が出てきただけ少しは進歩しているのだから。
<fin>
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