駅前のパン屋に入るのはここに来てから毎日の日課だった。
けどその日はちょっといつもと違うことが起きた。
猫が僕の後ろについて入ってきたのだ。
店前を歩いているとき猫が後ろにいたのは気づいてたけど、まさか店の中にまで入ってくるとは思わなかったからちょっととまどった。
「いらっしゃい。」
パンの並んだガラスケースの向こう側で、接客上手のマルベールおばさんが僕に柔らかい笑みを向けて挨拶する。
ここでの「いらっしゃい」は「お早う」みたいなものだ。
僕の朝はいつもこのパン屋から始まる。
「おや、いらっしゃい。」
僕の後ろについてきた猫に気づくと、マルベールおばさんはやはり笑みを浮かべて小さなお客さんにそう言った。
そしておばさんはそのまま焼きたてのパンを器に盛って、猫の前に置いてやった。
猫は至極、それを当然そうな顔で頬張っている。
僕だけがその光景に目を丸くしていた。
「常連さんなの?」
ガラスケースの上に肘をおいてパンを食べる猫を見下ろしながら問うと、おばさんは、はっはっはっと笑った。
「そうだね、あんたと同じさ。今日は何にする?」
猫が食べているのを見届けて元の位置に戻ったマルベールおばさんはこちらを見てそう問い返してくる。
僕はガラスケースをのぞくことなく告げた。
「いつもの日替わりパンで。」
「毎日飽きないねぇ。」
「日替わりですから。」
冗談目かしく言うと、おばさんはやっぱり気のいい笑い声を上げて「そりゃそうだ!」と答えた。
この店ではオリジナルのパンが日替わりで一種類用意されている。
2種類を交代交代なんてせこいことではなく曜日ごとに違うっていう感じだ。
つまりは少なくとも7種類はあるわけか。
しかもどれもお勧め品だ。
「だけど、今日のは小さいやつだよ。腹を満たすにはもう一個いるんじゃないのかい?」
「そうだね・・・じゃ、定番のメロンパンで。」
「はいはい。」
苦笑混じりに答えておばさんはメロンパンをガラスケースから取り出す。
ついで焼きたてのまだ黒いプレートの上にあったオリジナルのパンをこれまたこの店オリジナルの・・・といっても茶色い紙袋に店のロゴが入ってるだけだけど・・・に入れ込んで、慣れた手つきで僕に差し出す。
「18ギルだよ。」
「あれ?オリジナルのヤツの分は?」
「サービスさ。今日のはまた新しいヤツだから感想聞かせておくれよ。」
「ラジャー。お世辞は言わないよ?」
「お世辞の感想じゃ役にたたんだろうがね。あんたは率直に言ってくれるからね。いいアドバイザーだよ。」
「リップサービスもおまけか。」
「ははっ、じゃ、いい日を!」
失笑しながら紙袋片手に出て行く僕を、おばさんの声と黒猫の視線が見送ってくれた。
外に出ると、そのまま駅のホームに入る。
ここの駅は結構年季が入ってて趣があるというか、なんというか。
まあ、僕的にはこういう方が好きなんだけど。
僕はいつもの場所で、列車を待った。
「お?」
そんな僕の視界にさっきの黒猫が映る。
反対側のホーム、僕のちょうど真反対だ。
ちょこんとそこに座って僕のことは完全に無視。
どういうことだろう?
列車に乗るのだろうか?
・・・・猫が?
駅員さんは何も言わない。
それどころか猫に微笑んで挨拶してる。
「お早う、グーテンベルク。」
・・・グーテンベルクという名らしい。
野良なのだろうか?
飼い猫だろうか?
飼い猫なら主人はどこだろう?
僕の疑問を余所に猫と僕の間に列車が割り込んでくる。
黒い車体が細長く駅に寝そべっている。
それが再び滑り去った後、ホームには黒猫の姿がなくなっていた。
やはり乗ったらしい。
今時の猫は列車に乗るのか、と僕は誰のつっこみもない心の中で呟いた。
まあ、長い人生、そんなこともあるだろうさ。
僕は寝起きのぼおっとした頭でそう結論づけて猫のことを頭から追い出した。
汽笛が鳴る。
列車が僕の前にやってくる。
扉が開いて、僕は欠伸をしながらその中に乗り込んだ。
座席に座ると頭をはっきりさせるために窓を少し開けた。
冷えた空気が列車が走り始めると同時に吹き込んでくる。
「横、いい?」
気怠げに窓枠に肘をついた僕に女性の声が降ってきた。
視線をやると一人の女の子がそこにいた。
赤毛の、目がパッチリした子。
オレンジ系の色でアレンジされた服装が似合ってる。
「どうぞ?」
「有り難う。」
「窓閉めようか?」
「ううん、そのままでいいよ。」
少女は薄く微笑んだまま僕の隣に腰掛けた。
彼女は座るなり鞄の中から本を取り出して開いた。
文庫ぐらいの大きさの本だ。
僕はちょっとした好奇心で靴ひもを結ぶふりをしながら題名を盗み見た。
そして見覚えのあるそれに僕は思わず声を出してしまう。
「レント・・・?それレントのじゃない?」
言うと少女は目を丸くして僕を見返した。
「知ってるんですか?」
「うん。好きな作家だよ。でもレントの読んでる人初めてだ。」
「私も知ってる人、初めてです。」
「結構マイナーだからね。でも文体とか独特だしストーリーも他にない感じで面白いよね。」
ちょっと興奮して饒舌になる。
だって本当に初めてだ。
レントのことで話せる人なんて。
「私、最近知ったんです。<マンゲンデンの人>で初めて読んではまってしまって。」
「ああ、あれね。僕が読んだのは2冊目かな。主人公が途中死んじゃうからこの後どうなるんだって冷や冷やしたやつだ。」
「後半では世界観まで変わっちゃうからびっくりしちゃいますよね。」
「そうそう!でもちゃんと繋がってるっていうか・・・最後の締めには感動したね。最後の数行で全部が一本の線に繋がるってのはすごいよ。」
朝は低血圧丸出しの顔で押さえ込まれてる笑みまで零れる。
ああ、本当に今日は幸運かも。
レントのことで話せる人、大学でだって誰一人いない。
それがまさか列車の中でお目にかかれるなんて。
「・・・で、今読んでるのは<宵のカンデラ>?それって主人公の恋人が・・・・」
「あ!駄目!言ったら駄目ですよ!!」
慌てて僕の口を塞ごうとする少女に、僕は声を上げて笑った。
「冗談だよ!そこまで無粋じゃないからね。」
僕のからかいに少女は頬を赤くして少しむくれた表情をした。
けど、すぐにさっきの笑みに戻って話を切り出す。
「えっと・・・貴方は・・・」
「ルイスだよ。ルイス・ゲランデ。」
「私はエラです。エラ・フランズ。ルイスさんは最初に何を読んだんですか?」
「僕?・・・えーっと、<二時過ぎの時計塔>だったかな。レントが書いた唯一のミステリー小説。結構推理小説読んでたから犯人当てには自信があったんだけど、ことごとく玉砕されたよ。」
僕の言葉を少女は目を輝かせながら聞き入った。
素晴らしい語り相手との出会いに歓喜しているのは僕だけじゃないらしい。
「そうなんですか。そういえばレント氏って数年前まで生きてたんですよね?」
「うん、2年前かな?通院先の病院で診察中に倒れてそのまま・・・だったらしいよ。」
「来月、その数日前に書き上げたエッセーがでるみたいですよ。」
「え!?嘘!?」
僕は目を丸くして身を乗り出した。
もう全部レントのは読んでしまったからもう次はないと思っていた。
しかし、レントがエッセーを書いていたとは初耳だ。
「病気になってからの通院生活を書いたらしいです。飼い猫と毎日一緒に通院してたんですって。列車まで一緒に乗って。病院の中は入れられないから入り口でおとなしく待ってたらしいですよ。」
「へぇ〜、そいつは賢い猫だね。」
僕はなんだかどこかで覚えのある感覚を感じながらそう言った。
まあ、なんだ、結局は思い出せなかったけれど。
「ところでエラは大学生?」
僕が聞くと、少女は苦く笑みを浮かべて首を横に振った。
「いいえ、祖父の家を訪ねに来たんです。いろいろあって、母方の親戚とはなかなか会えないから滅多には行けないんですけど。」
これを聞いて、僕は心底がっかりした。
同じ大学生なら会う機会も在るだろうし、もっとレントの話もできるだろうに。
滅多にこの街には来ないとなると、これから会うこともないかもしれない。
まさにつかの間の語らいになるわけだ。
そんな肩を落とした僕を、エラは覗き込むように見つめてきた。
「ルイスさんは大学生なんですよね?」
「うん、まあね。」
「いつもこの列車に乗っていらっしゃるんですか?」
「う〜ん・・・毎日じゃないけど、午前に授業が在るときはこれに乗るよ。」
少女はそれを聞いてにっこりと微笑んだ。
すごくいい笑顔をする子だと思う。
こういう子はその笑顔でよく得をするもんだ。
僕が女だったらさぞ羨ましく思うだろう。
男だから可愛く笑えたところでどうしようもないんだけどさ。
「じゃあもし、いつかまたこの列車でお会いできたら声掛けて下さいね。」
「うん。またレントについて話そう。」
可能性はきわめて低い気がするが、僕としても持っていたい希望だったのでそう答えた。
彼女はクスクスと鈴の鳴るような声で笑う。
「その時までに全作読んでおきます。」
そう彼女が言うのと列車が速度を落としだしたのは同時だった。
次は僕が降りるべき駅だ。
つまり、感謝すべき出会いにピリオドを打たなければならないというわけになる。
僕は鞄を肩に掛けて、ゆっくりと席を立ち上がった。
彼女は少し寂しそうな顔で僕を見上げる。
「じゃあ、エッセーのこと教えてくれて有り難う。」
「いいえ、私もお話できて楽しかったです。」
僕らは何となく手を差し出し合って軽く握手をした。
予想以上に細くて柔らかい手にドキリとしたのは感傷のせいだと思い込む。
二度と会えないかもしれない相手だからなのだ、と。
列車を降りる。
ドアが閉まると、列車の長い体が地面に寝そべったまま地球の上を這っていく。
座っていた座席を見やれば、やはり彼女はそこにいて、ゆっくりと僕から遠ざかっていく窓際で手を振ってくれた。
それに僕も手を軽く挙げることで答えると、彼女はにこりと微笑んでそのまま向こうへと見えなくなっていってしまう。
それから僕はレールの向こうに列車が見えなくなるまで妙な喪失感を抱えながら駅に突っ立っていた。
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