窓の外に見える景色は、一言で言うなれば満天の星空そのものだった。
雲の影一つ無い漆黒にも濃紺にも見える広大な下地の上に、大小それぞれの光の粒が思い思いに散らばっている。細かなそれが密集しているところはまるで川の流れのように空に帯を浮かべていた。
本来なら、窓を開けその星空を眺めたいものであるのだが、寝台の上に横たわるサティンにはそれは許されなかった。
なぜなら……。

「あったま痛い……」

掠れた声が空気中に吐き出され、熱を帯びたそれが室温を僅かに上げるかのよう。
体中から湯気が出そうなほど暑いのに、同時に背筋をゾクリとさせるような悪寒が定期的に襲ってくる。喉は咳のしすぎで乾燥し、傷むし、同時に腹筋も痛い。
その、まさに典型的風邪の症状にサティンは苦しめられていた。

「……死にそう」

ボソリと誰に聞かせるでもなく、呟く。
いや、聞かせているつもりだった。約一人に。
だが苦しみの底から絞り出した言葉に返ってくるのは重さすら感じる沈黙で。
無反応もいいとこのそれに熱のせいではなく眉間に皺を寄せたサティンは、ここにきて最終手段に出ることにした。

「ちょっと、鎖縛」

「……何だ」

名を呼べば、声だけ返ってくる。いないわけではない。実際護り手の青年は窓際の椅子に腰掛け珍しく本を呼んでいるのだ。何でも衣於留から押しつけられた本らしいのだが、そこそこ楽しんでいるらしく暇な時にペラペラと捲っている。
そう、病人ほったらかしにして。

「苦しいんだけど」

「大変だな」

「………」

「………」

ペラリとページを捲る音が静寂の中で嫌に響く。
数十秒経って、サティンは熱せられた息をゆっくりと吐き出した。
遠回りな言い方では、全く相手は答えてくれない。それがこの数時間の内に嫌と言うほどに身を以て理解できた。ああ、はいはい。この際真正直にいこうではないか。

「……喉、乾いたから水くれない?あと頭痛に効く薬草が革袋の中に入ってるからそれ取って。ついでに寒いから毛布もう一枚用意して。っていういか呑気に本なんて読んでないで少しは看病してくれたらどうなのよ。あんた護り手でしょう。相棒が寝込んでんの。苦しんでんのよ。つきっきりで世話しろなんて言わないからちょっとくらい気遣うのが常識ってもんで……」

「ほら、水だ。で、これが薬草」

ドスの利き始めたサティンの言葉を遮るように、青年が本から視線を外すことなく、手の平をひらひらと動かしただけでベット横のテーブルに水入りグラスが音もなく現れ、そして革袋がそのままその隣に移動した。……確かに望みのものはそこに与えられた。だが、その経緯は果てしなくサティンの希望に沿っていなかった。

「鎖縛……あんた、私の話の後半聞いてた?」

「ああ、毛布を忘れていたな」

ボフッと勢いの良い音を立てて一枚の毛布が宙からサティンの上目がけて飛び降りてくる。軽い衝撃だが弱っているサティンにはそれさえもきつかった。息苦しさをなんとかしのいだ後は軽く青年に殺意を抱く。
もう、これはいっそこのままこいつを呪いながら夜空のお星様の一員となって、その無責任さを浮城のみんなやらあの人やらに責め立てさせてやろうかとも思う。だが、思いとどまった。あの人が怒るということ=ラスが悲しむということだ。そいつは頂けない。

「鎖縛」

「何だ?」

相も変わらず本から視線を外すことなく答えてくる青年に、サティンは気怠い体に鞭打って上半身を起こす。もそもそと動くその気配に気づいたらしい鎖縛はさすがに顔を上げてサティンを見遣った。サティンのその手がグラスを掴む。
水を飲むのかと冷静な頭で鎖縛が納得して、再び本に顔を向けたその次の瞬間、サティンは《それ》を実行した。
勢いよく飛びかかってきた水に鎖縛の顔、上半身、そして本がものの見事にびしょ濡れになる。

「………」

「………」

長い沈黙が落ちる。ゆったりとした調子で前髪に水を滴らせながら鎖縛がサティンに顔を向けた。無表情の顔に得も知れない怒気がまとわりついている。サティンはにっこりと笑みを作った。

「ごめんなさいね、朦朧とする意識の中で手が滑ったわ」

「………」

しばらくまた沈黙が降りた。が、やがて鎖縛は「そうか」と一言漏らして、スッと右手を振った。その刹那、鎖縛にまとわりついていた水気が一瞬で蒸発し、同時にその手の中の本も何事もなかったかのように乾燥する。
サティンが眉を顰めた。相手がまるで今の事を無視していくつもりなのだと思って。
だが、再び読書へと舞い戻るかに思えた青年は不意に立ち上がると座っていた椅子の上に本を置き捨て、寝台……サティンの方へと歩み寄ってくる。仕事先で借りた宿だ。さして広くもない。あっという間にサティンの前に佇んだ鎖縛は無表情で熱に火照った顔をしたサティンを見下ろした。
無駄に造作の良いその顔に無言で見つめられるのは、酷く威圧的だった。これは怒らせたか、とサティンは痛みのある頭の片隅で思う。が、後悔はしていない。熱のせいかどうにでもなれという投げやりな気分だったのだ。

「可愛くない女だな」

ポツリと青年が零した言葉は、普段のサティンなら激昂ものだったが、意味を理解するのも面倒でぼんやりと聞き流す。無反応のこちらに、鎖縛は少し片眉を上げて、手を伸ばしてきた。そっと頬に温度のない冷たい手が触れる。
思わず気持ちいいと思ってしまった。この人抱き枕にしたらさぞ心地よく眠れるだろうなとぶっ飛んだ事を考えている自分にもサティンは気付かないでそっと目を閉じる。
頬に触れていた指先はそっと輪郭をなぞるように動く。

「黙ってりゃ悪くないのに」

微かに苦笑した気配が伝わってきた。そしてツッと人差し指で額を軽く突かれる。
その瞬間やけに体が軽くなって、心地よい眠気に襲われた。自分の体が再び寝台に埋もれていくのを感じながら、サティンは深い夢の世界へと誘われていく。そして、ひんやりとした感触がもう一度頬を撫でたのを最後に、サティンの思考はそこで途絶えた。









すっかり寝入ったサティンを見下ろしながら、彼女の護り手は小さく息を吐く。その漆黒の双眸が一度、置き去りにされたままの本を一瞥したが、興味は失せていて再び手に取る気にはなれなかった。サティンの安らかな寝息が部屋に聞こえている。

「ああ、暇だな」

ポツリと呟いて、鎖縛はサティンへと視線を戻す。
本来なら、ずっと封魔具の中で眠っていたはずだったのだ。それを、この娘の守護のためにたたき起こされた。この娘を護る以外に、やることなどない。こんなに無趣味だっただろうか、と鎖縛は自問する。自分の歴史を思い起こしても、あの忌々しい男のことばかりが鮮明で、他のことは曖昧にぼやけてしまっている。何かに執着したこともない。人間にかかわったこともない。思わず自嘲の笑みが漏れた。
つくづく、あの男の玩具でしかない自分だったのだと、思い知らされる思いがして。

「………」

今でもあの男に対する憎悪は失せていない。
だが、妙なことにそのことに考えが行ってもさほど苛々しない。
あの男を恨むことが、自分の生きる意味だった。あの男を嫌悪し、恨み、いつか取って代わってやろうと、力の差は歴然ながら、そう思いながら生きてきた。
それだけ、だった。
今は、それだけではなくなっている、気がする。
この娘を護る。不本意ながら、自分に押しつけられた、その役目が。

「冗談じゃない」

自分の思考の異常さに気づいて、鎖縛は思わず顔を歪めて吐き捨てる。
馬鹿か。忘れたのか。この状況を作り出したのが、誰か。
大体、なんで、こんな人間の小娘に。
いつだって括り殺せる無力な人間だ。
だが、それを成せる自分が全く想像つかないのも事実。
あの男の命令を反故することへの恐怖がそうさせるのか。
それとも、この娘自体にその理由があるのか。
だとしたら、何の価値があって?
その自問に対する答えは思いのほか、あっさりと鎖縛の中に落ちてきた。
……ああ、呼ぶから、か。はっきりとその声で自分の名を、と。
この女が、あまりにも、澄んだ声で、自分の名を呼ぶから。
それが、心地よいから。
ああ、なんて単純で明確な事実。苦々しく思う隙間さえない。
ゆっくりと鎖縛は視線を寝台で眠る女へと戻す。
それならば。

「せいぜい、その声で俺を惹きつけることだ」

深く眠り込む女の頭の横に手を付き、そっと耳元へと顔を寄せて囁きかける。
どうせ、聞こえてはいないのだろうが。

「お前が俺の名を呼ばなくなったら、その時が……」

この関係の終わりだ。
あの男の命令だとかもう、何も問題じゃない。
それだけだ。それさえ守るのなら。

「ずっと守ってやるよ」

儚いお前の寿命が尽きるまで。
小さく笑って、鎖縛は身を起す。
何気なく見やった窓の外は満天の星空。
美しいなどとは思わない。ただ。
見飽きた世界は、ほんの少しだけ、色づいて見えた。








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