†〜水淵神詩〜














自分の死ぬ日がはっきりとわかっている人間はそう多くはないだろう。












少女はそんなことを心に浮かべながら夜空を見上げていた。
東の方はすでに白んできて、明けが近いことを少女に教えている。
おそらく最期の夜明けを彼女は今正に迎えようとしていた。
真っ白で大きな布を巻き付けたかのような巫女衣装。
天然石で作られたこの地ならではの耳飾りや首飾りが、部屋に吹き込んでくる僅かな風に揺れる。
その風に少女はゆっくりと目を閉じた。

今年の「送り巫女」はユリスティアに決まった。

そう告げられたのはちょうど一年前のこと。
それから一年間、少女は重宝され続けた。
神に捧げられる生け贄として。
毎年一人だけ。
神の要求により巫女より選ばれる生け贄。
儀式が終わり次第、次なる贄はそのことを宣告され、それから一年は大切に扱われた。
そしてまた巡る贄を捧げる儀式。
繰り返される呪いとも呼べる運命だった。
そして、彼女の順が巡ってきた。
逃れる術はない。
巫女となったからには、この土地を守る役目を果たさなければならないのだ。

眼下に広がるのは、彼女が生まれ、育った愛しい土地。
今宵は眠ることも結局無く、ずっとそれを見つめていた。
愛おしい。
守りたい。
そのために、自分が為さねばならぬこと。



行こう。


そう、一言だけ心中で静かに呟いて、少女は慣れ親しんだ自室に別れを告げた。















東の空から太陽が陽光を地に落としていた。

「神聖なる、我らが護神テレダンタウスの御名において」

儀式の始まりを意味する言霊が巫女達の口から滑り落ちていく。
この場の主人公たるユリスティアは、死に場所になる神殿の中の石碑で出来た泉の前で身を屈めていた。
いつもの衣装に、透けた大きなヴェールを頭から被せている。

「・・・主が選びし乙女を授けん。」

風に乗せて紡がれる言葉を告げて、巫女達は口を厳かに閉じた。
そして、ゆっくりとユリスティアが立ち上がる。

「我が名はユリスティア」

涼風のような声音で、言葉を紡いでいった。
同時に泉に向かってゆっくり、足を進める。
まさに天国への階段を上るかのようだった。

「主の下にこの身を捧げ、主の守護の力を支えん。」

泉の目の前に来て、さらにその階段を上っていく。
上がりきれば真っ白な石に囲まれた中で、透明な水がたゆたっていた。

ここが私の死に場所。

紡いでいた言葉を一瞬止め、そう心の中で噛みしめる。

「・・・・・主よ。我らが護神テレダンタウスよ。」

速まる鼓動の音がやけに大きく聞こえた。
微かに震える手に握られたのは聖なる短剣。
儀式にのみ使われる、細かな細工の施された物だ。

「唯一の我が愛を主にのみ捧げんことを誓って・・・・・。」

その剣をゆっくりと胸の前に翳す。
心臓を的確に狙って・・・。

「・・・・・・・死をこの身に。」



不意に。

今正に振り下ろそうと翳した銀の刃に、後ろに控えていた巫女の顔が映る。
一人の巫女が、今にも泣きそうな顔をしてじっと私を見つめていた。
昨日の晩、私の部屋に来て逃げるように促したサテリーヌだ。
幼い頃からともに育った友。
「貴方が死ぬのを見守るのは耐えられない」、と泣きながら逃げて欲しいと懇願してくれた。

けれど、そんなわけにはいかないから。

皆を裏切ることなど出来ないから。

首を縦に振ることなく、ただ彼女を抱き締めて感謝した。
「ありがとう」と。
震える声を必至に押さえ込んで。


ああ、そんな顔をしなくてもいいのに。
この道を選んだのは私で。
誰に強制されたわけでもなく。
自分で決めたことだから。
貴方が苦しむことはないのに。


私は守れるのだから。

こんなに幸せなのよ。


銀の刃の中で合った視線。

口を開いて何か言いかけた彼女に、少女は艶やかに笑った。

ただ、笑った。





二人の視線をそのままに。
銀の細い刃が、心臓に突き刺さる。



ビクンッ!!
自分の体の中で心臓が大きく痙攣するのを感じる。
襲い来る、激痛という言葉でさえ言い表せない衝撃に目元が歪む。
閉じた視界の暗闇が鮮血に染まる。
体の中心から逆流してきた深紅の液体が喉から口内に溢れ、口端から伝い落ちていった。

・・・グラリ。

支える必要の無くなった体は自然に大きく前方へ傾いて行く。
ユリスティアは微かに開いた視界に、迫り来る泉の水面を見た。




・・・落ちる。


・・・バシャァァンッ・・・・・


水しぶきが立って、突然身を包んだ冷水に体中が引き締まる。
僅かに開いた口から、空気がゴポゴポと音を立てて水中へ出て行く。
視界の端に、自分の胸の辺りの水が紅く染まっていくのを見た。
この泉が深紅に染まるにはどれだけの時間が掛かるだろうと、放心した頭の中に疑問が浮かぶ。






ああ。



ああ、私はもう空気を吸うこともない。

太陽を仰ぐこともない。

月に祈ることもない。

風にこの髪を遊ばせることも。

鳥の羽ばたきを耳にすることも。

視界は暗闇に塗りつぶされて。

音はもう意味を為さなくなって。


もうすべてが無に帰していくのだ。



このまま。



静かに。




・・・・ただ静かに。














『・・・・・─────』






『・・・美しき乙女』



水中に振動してこの身に伝わる言葉。
それに、ユリスティアは一度は完全に閉じた瞳を開いた。
それと同時に頬に何かが触れる感触。


『ユリスティア』


目の前に、水を凝縮させて造り上げたような人の姿があった。
優しき瞳をした・・・透明な・・・・。
・・・・人・・・・?

否、これは・・・。

―――神。

敬愛すべき、護神テレダンタウス。


『ユリスティア、美しき巫女よ。汝は今まで我が迎え入れた誰よりも美しい・・・。』


うっとりするように、神の手が水中で虚ろげに目を開けるユリスティアの頬を滑り、そして色素の薄い水色の髪に触れる。
その様子を呆然とユイスティアは見つめた。
神が麗しい笑みを優しく浮かべる。


『その美しさを讃え、汝の望みを何か叶えてやろう。』


・・・・の・・・ぞみ・・・?


『さよう。何でも好きなことを申すが良い。どうしたい?生を再び手にするか?』


・・・・生き・返れると・・・おっしゃる・・の・・・ですか・・・・?


乙女の問いに、神が優しく微笑む。


『そう、今ならばまだ可能だ。我とてその美が生を失うのは惜しい。・・・如何する?』


・・・・・・・・・・・・。


問われて、言葉を詰まらせたユリスティアはゆっくりと水中から空を仰ぐ。
そして、その下にいるであろう巫女達を思う。
長き間、苦楽を共にした友を。
自分が生け贄に選ばれたとき、涙を流して悲しんだ友を。

・・・・・・・・・・・。


目に浮かぶ、巫女達の恐怖の顔。
次に名を呼ばれるのは自分なのではないか、と。
一年前のあの日のように。


・・・・・・・・・・・・・・。


『・・・ユリスティア?』


目を閉じたまま黙り続ける乙女に、神がその名を呼ぶ。
促すように。
ユリスティアはその瞳を静かに開いた。

私の、望むこと。

私の・・・・・・願い。

ならば。


───それはただ一つ。





・・・・・何でも・・・好きなことを申して良いのですね?


『無論だ。』


・・・・・・・では・・・・。


即座に答えた神に、ユリスティアは真摯な目を向ける。
そして・・・。




「・・・――──────────」



巫女が最期に翳した笑みが、水中に散って消えた。












かつて、美しき巫女がいた。
風に愛され。
地に愛され。
木々に愛され。
星に愛され。
日に。
月に。
人・・・に。
全てに愛された娘。
・・・神にまで愛された。

彼女が命を賭してから、不思議と神は贄を求めなくなる。
以来、生け贄の儀式は滅び、二度と行われることはなかった。

長き時を重ねて。

それでも風は未だに彼女を求めて泉の周りを吹き抜け、舞うという。


愛しい、愛しいと啼きながら・・・。






巫女の最期の言葉は今もその風に乗って空へと舞い上がる。





           「
───どうぞ・・・私を最期の贄としてくださいませ。







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神話っぽく。。。。
なつもりで。
場面は古代メソポタミアな世界観かも・・・。