朱の風









「嘘つき。」

そう言ってやると、木の上の少年は微笑みを返してきた。
枯れ木に残った、木の葉が力尽きて一枚宙に舞う。
時は夕暮れで、空はあかね色。
なのに木の上を見上げるのは眩しい。
なにも光ってなんていないのに。

「嘘なんかついてないよ。」

クスクス笑いながら、少年は言の葉を返し、寝そべった枝に付いていた木の葉を何の感慨もなく摘み取る。
必死に生に縋る命を、何の感慨もなく。
その動作は何かを暗示しているようで、私は肩口で切り揃えられた黒髪を震わせた。

「何処にも行かないって言った。」

「何処にも行かないよ。」

「嘘つき。」

紅い着物の端を握りしめ、非難に顔を歪めて同じ言葉を繰り返す。
少年はそれでも微笑みを絶やすことは無く、けれど目元には困ったような光を浮かべて枝の上から手招きした。

「おいでよ。夕日が綺麗だ。」

「綺麗じゃない、血の色だもの。」

唇を噛み締めて、私は柿の木の大木を前に俯いた。
少年が困ったように笑う。

「違うよ、血はもっと紅いものさ。」

そう言って、少年はついには右手を差し出す。
たとえここで頑なに拒否しても、私にはこの少年の手を振り払えるような力はないから、結局は私が折れて、その手に自分のそれを重ねる。

「ね?」

彼と同じ枝によじ登った私に、少年は遙か遠く、山の狭間に消えゆく夕日を指差して微笑んだ。
その朱は、少年の言うように血の紅とは全然違う。
淡く、こちらが切なくなるような色彩。
・・・そんなこと、私だって最初から分かってる。
この夕日を、この枝の上で、この少年と───幾度見てきたと思っているのだろう?
                        
あかね
「綺麗じゃないなんて言うものじゃないよ。茜は夕日が好きだって言ってたじゃないか。名前だってそこから来てるのに。」

「そんなの母様が勝手につけたんだもの。私が選んだんじゃない。」

「でも夕日は好きなんだろう?」

畳み掛けるような少年の言葉に、私は泣きそうになるのを堪えながら袖の端を握りしめた。

「・・・もう好きじゃない。」

「どうして?」

少年は首を傾げて問うてくる。
それと一緒に彼の少し茶色っぽい黒髪と紺の着物が、優しい風に吹かれて揺れる。
視界が滲む。
   
かず
「・・・和がいなくなるもの。」

「・・・・・・・・」
 かず
「和と一緒に此処で見る夕日が、私は好きだったんだもの。」

そう言いきって、私はとうとう涙を溢れさせてしまった。
堪えても堪えても、透明な雫が頬を流れて、自分でもどうしようもなかった。
少年はしばらく無表情で私を見つめていたけれど、一時するとまた微笑む。

「僕は何処にも行かないっていっただろ?」

そう言って頬を拭ってくれる少年の手をはね除けて、私は少年を涙で一杯の目で睨んだ。

「嘘つき。明日大人の人たちと山に行くって私、知ってるもの。・・・神様のお供え物になるって私、聞いたもの。」

優しい嘘なんていらない。
下手な心遣いなんていらない。
心が引き裂かれるように悲鳴を上げているのを聞きながら、私は少年を見つめた。
けれど、少年は私の言葉に顔を背けるでも、強ばらせるでもなく───やはり憎らしいほどに綺麗に笑い続けていた。

「体は、ね。明日確かに死んじゃうよ。でも<僕>はずっとここにいる。」

「体が死んじゃったら、此処にはいられないじゃない。」

非難の声を震える声で上げる。
少年はそれに苦笑して「身も蓋もないなぁ」とぼやいた。
     
あかね
「でもね、茜。大切なのは体だけじゃないよ?」

少年は涙を流し続ける私の顔を覗き込み、諭すように言葉を紡ぐ。
     
あかね
「例えば、茜は転んで足を擦り剥いちゃった時と、母様から怒られた時・・・どっちが辛い?」

「そんなの、どっちもだわ。」

私の心は悲しみに染まっていて、ちゃんとした返答を出してやるような余裕はなかった。
けれど、その返答は少年にとって予想通りだったらしい。
にっこりと微笑んで告げる。

「ね?」

少年の指先が私の胸元を指す。
白くて細い指。


「<ここ>も大事だろう?」


夕日の色に染まった少年の笑顔は、息をするのを忘れるくらい・・・涙を止めてしまうくらい、綺麗で、美しかった。

「・・・・心なんて、目に見えないわ。」

やっと出せた言葉は秋風に舞って流されていく。
少年は静かに微笑みながら、まだ少し涙の滲んだ私の目元に口付けを落とした。
柔らかな感触。明日には消えてしまう命の暖かさ。

「なら、目に見えるモノを通して感じて。」

少年の顔が優しい表情で夕日に向けられる。
向かい風に髪を靡かせて前を見据える横顔。
          
あかね
「例えば・・・そう。茜が、春に川辺の草むらで花を摘む時、夏に輝く太陽を見上げる時、秋に木の葉を拾う時、冬に雪で遊ぶ時・・・───」

少年の顔がこちらへと向き直る。
優しい笑顔はそのままに。

「そして・・・毎日の夕暮れに、この木の上でこうやって風に吹かれながら夕日を眺める時・・・───」

少年の嬉しそうな笑みはどこまでも私を引きつける。
・・・少年の手の中の木の葉が風に舞って流れていった。

   
あかね
「僕は茜の隣で同じことをしている。」




夕日が沈んでいく。
儚く、けれど強い存在感を示すように空一面を・・・そして地上までを朱で染め上げながら。


   
かず
「・・・・和はずるい。」

少年の紺の袖を握りしめ、私はその腕に額を寄せた。

「いつもそうやって私の言葉を上手に丸め込んでしまうのよ。」

拗ねたような声で紡がれたその私の言葉に、少年は「ははは」と声を上げて笑った。
今までずっと聞いてきたその笑い声。
明日の夕暮れにはもう此処には響かない笑い声。
私は少年のまだ暖かい腕にしがみつきながら、必死でその声を一生覚えていられるように心に刻んだ。



さようなら。

さようなら。



いいえ。

いいえ、そんな言葉は必要ではない。

彼はここにいると言うのだから。

彼は嘘などついたことはないのだから。


「ずっと・・・一緒ね?」

彼の腕に顔を埋めたまま問う。
あかね
「茜が信じてくれるなら。ずっと、明日も明後日も、来年も、一生ね。」

少年はただ優しく、淡く、微笑む。


「じゃあ、・・・明日も一緒に夕日を見ようね。」

「うん。明日も一緒に見よう。」


指切り代わりのママゴトのような小さな口付け。
頬を伝ってしまった一筋の涙は、紅い着物の中に吸い込まれていった。



朱色の西日に。
今、伸びるのは二つの影。
明日、伸びるのは一つの影。

それでも私は明日もきっと、彼を求めてこの枝に登るのだろう。

ずっと、明日も、明後日も、来年も、きっと一生。

彼の微笑みを思い出させる、夕日に染まるこの枝に────











    <fin>





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