鳥の囀りだったのか、はたまた、隙間を通り抜けて迷い込んできた風だったのか。
何らかの柔らかな刺激を受けて、スルフェは自然と目を覚ました。
まだぼやけた視界に飛び込んでくる光は、昨日まで彼女を守護していた月光のようなとはまた違った、ただただ慈愛に溢れた暖かな朝の陽光だった。身を包み込む暖かさの原因はそれだと認識して、スルフェはほうっと息を吐く。けれど底知れぬこの安堵感はそれだけで為し得たのだとは納得し辛くて、ふと肌に触れる陽光とは異なる暖かさに意識が向いた。

「・・・・・・・」

ああ、と思った。
同時にそうだったと今度こそ納得した。
目の前で安らかに眠る青年。
いつもは飄々としていて、つかみ所のない行動でこちらの上手を取ってばかりだったから、あどけないその表情は何処か幼さを感じられて失笑を誘った。
そっと閉じこめられた彼の腕の中から自分の腕を抜き出し、静かな寝息を立てる青年の輪郭を辿るように触れる。自分でも驚くほどの優しい手つきにまた笑みが漏れる。

「何をそんなに笑ってるんだ?」

不意にその手を捕まれて、驚きに目を見張ると、悪戯な光を宿した漆黒の瞳と視線が交わった。

「・・・いつから起きていたの?」

予想だにしなかった展開に声を上擦らせながら問えば、青年はクスリと笑って捕らえたスルフェの手を口元に引き寄せる。

「あんたが目を覚ます直前、かな?」

言いつつその唇をスルフェの指先に押し当てた。愛おしさを存分に伝えてくるその所作にスルフェは頬を朱に染め、それでも相手の悪戯に歯がゆさを覚えて唇を噛み締める。

「寝たふりなんて、ずるいわ。」

精一杯上目遣いに睨み付けたのだが、青年は気に留めた風もなく、喉奥で笑って見せた。
朝日に照らされた天幕の中は穏やかな光に包まれていて、彼の笑った顔が数段優しさを感じさせる。
何故か、妙に心が温かくなって、彼の肩に頭をもたれかけさせ、目を閉じた。このまま眠ってしまえれば、きっと優しい夢を見れるだろう。

「本当に、夢みたいだ。」

落とすように呟かれた言葉にスルフェが青年を見遣ると、彼は穏やかで、しかし真摯な瞳を持ってこちらを見つめていた。あまりに真剣なそれに目を逸らせなくてスルフェは胸の詰まるような想いを噛み締める。
愛されてる、そう思うだけで心が焼けるような熱を訴えた。

「夢じゃ、ないわ。」

生身の暖かさを伝えるように、スルフェは掴まえられていたその手でオランザの頬を包み込む。それに彼は一瞬切なさを露わにした瞳をして、そっと彼女を腕の中に包み込んだ。

「・・・本当に、良かったのか?」

消え入るような声で問われて、スルフェは息を小さく呑む。
彼の艶やかな髪が頬を撫で、それさえもが暖かさを伝えてくる。

「・・・精霊宮が恋しくないかと言われて、いいえと言えば・・・嘘になるわ。」

彼の自分を抱き込む腕が微かに震えた。
この体勢では見えないけれど、彼の顔はどんな表情をしているだろう。
殺せと叫んだ彼の姿が記憶に蘇って、胸が痛むと同時にそれほどまでに想われていたのだと不純な喜びが込み上げてくる。

「でも・・・貴方の傍を離れるほうがもっと辛い。」

自らもオランザの背に手を伸ばし、そっと力を入れて抱きしめる。

「離れると、考えるだけで身が引き裂かれそうよ。」

精霊宮を恋しく想うのも事実なら、彼の傍にいたいと想うのも事実だ。
今でも母や姉たちのことを想うと切なくて堪らない。会いたいとも思う。
けれど、それはオランザとの別離を意味した。汚れを祓うということはオランザを殺すと言うこと。それが精霊宮へと戻る唯一の道。
・・・できるわけがない。
こんなに愛おしいのに。たった片時も、離れることすら耐えられぬというのに。

「悪いと思っているなら、離さないで。」

泣きそうになるのを堪えながら告げれば、オランザがそっとスルフェの頬を捕らえて視線を合わせた。

「離すものか。」

熱の篭もった声で囁かれて、返事をする間もなく、唇を奪われる。
その熱さに眩暈を感じながら、スルフェも青年の首に腕を巻き付けて応えた。





オランザが天幕から外へと足を踏み出したとき、太陽は既に一番高い場所へとたどり着こうとしていた。天幕の外は人々が行き交いそれなりに賑やかだ。昨日と特に変わらない。

「タル・オランザ」

強張った声が見計らったように掛けられた。
視線をやれば、同族の女が、浅黒い肌を顔だけ青くしてこちらを見ている。

「・・・サナン」

「・・・あの娘は?」

何度も言い寄り、何度も拒絶を受けた女は堅い口調で問うてくる。
オランザはため息にも近い息を吐き出した。

「まだ中だ。」

「貴方の天幕の?」

「俺の天幕の。」

「・・・・寝たの?」

女の漆黒の目が一層揺れる。

「あの女を、抱いたの?」

「サナン」

言い募る女を真っ向から見据えて、オランザは言葉を紡ぐ。
その双眸には明らかに剣呑とした光が浮かんでいた。

「・・・今度、あいつに手を出したらただじゃ置かない。」

囁かれた言葉はどこまでも本気で、サナンはぞくりとして身を震わせる。
彼は知っているのだ、と。あの時あの女を罠に嵌めたのがカーズだけではないと。
身を固まらせているサナンに、オランザは嘆息を一つ落として背を向けた。
賑やかな喧噪の中に埋もれていくオランザの背中を、サナンは絶望的な思いで見送った。



「カファス、入るぞ。」

断りを入れて、妹の天幕を捲ると、想定していなかった人物がいた。

「・・・マナ・カランス」

寝台に横になっている妹の隣に腰掛け、なにやら話をしていたらしい義兄は小さな微笑を持ってオランザを迎え入れた。
スルフェが襲われたあの夜、この兄の夕食を飛び出してから何となく気まずい空気があった。そのせいでろくに手紙を入れることもしなかったのだが、スルフェを手に入れた今、オランザの顔は憑きものの取れたように精悍としていて、それに気づかぬはずもないカランスは何処かホッとしたものを感じる。
義弟は心を殺さずに済んだ。そう思っただけでカランスの憑きものも払拭されたのだ。
八部族ではないよそ者の娘が相手というのはやはり口惜しいところではあるが、それでもこの弟が幸せであるならばそれで良いと納得できた。

「お早う、オランザ。遅い朝だな。」

微かな揶揄を混ぜ込んだ挨拶に、時期首長たる青年は少しばかり目を見張ってしかし次にはいつものように口端を吊り上げて見せた。

「お早うございます。どうしたのですか?ジルクの民は・・・・」

「あれが采配してくれているから民の方は心配ない。どうせすぐに戻るからな。」

軽く返されて、オランザは少し首を傾げたまま上げたままだった天幕を下ろし、そっと傍によって自身も腰を下ろす。

「お兄様の話をしていたのよ。」

穏やかな笑みを浮かべたカファスにそう告げられ、オランザは少なからず目を丸めた。

「俺の?」

「あれっきり連絡もないからな、どうなったかと心配で夜も眠れん。まあ、今お前の顔を見て徒労に終わったのはわかったがな。」

小さく頷いた首長は苦い笑みを讃えてオランザを見つめる。
この場で紅一点のカファスはというと、いまいちカランスの言葉の意味を解せず、不思議そうに首を傾げて両者を見遣っていた。

「・・・ランルの首長の話は断っておいた。」

首元をくつろげるついでのように告げられた言葉にオランザは目を見張る。
誰よりもあの申し込みを喜んでいた人物が義兄だっただけに。

「・・・兄上」

「いいな?」

確認を取るように聞かれ、オランザは口元を引き締めて、頭を下げる。

「・・・ありがとうございます。」

つくづく、迷惑ばかり掛けていると思った。それでも頭を上げた先に見た義兄の顔はただただ満足そうに微笑んでいて、余計に胸が締め付けられる。

「ランルって・・・あの婿入りの話!?断ったのね!?」

嬉しそうな声を上げてカファスが目を輝かせた。一年前からは想像も付かないその生気に溢れた表情に、オランザもカランスも少しばかり苦笑して同時に頷いてやった。
カファス愛らしい漆黒の瞳はさらに輝き、押さえがたい歓喜の光を浮かび上がらせる。

「良かった!!そうよね!スルフェがいるものね!ああ、どうしよう・・・私凄く嬉しいわ!ずっと不安だったことが一番素敵な形で解決したのだもの!!」

「人の心配をしている暇があったら自分の健康に意識を向けて欲しいものだな。」

今にも飛び跳ねて喜びそうな妹の様子に呆れたように笑って、オランザは釘を刺す。
それが気に障ったのか、カファスはその愛らしい頬を膨らませて抗議した。

「まあ!もう宝珠なしでも全然平気なのよ?いつまでも病人扱いしないで。」

「無理はするなと言われているだろう?」

「無理なんてしてないわ。」

言い切ってそっぽを向いたカファスに、オランザはカランスと顔を合わせて肩を竦める。
見かけによらず、妹は頑固な面が多々あった。まあ、そのどれも可愛いと思ってしまえるのだから血の絆というのは凄いものだ。妹というだけで簡単に許してしまう。

「ところで、オランザ。民の方へはいつ戻る?」

ふと、真摯な目を向けられ、オランザは咄嗟に口を引き締めた。
カランスと会え次第、口にするつもりだった言葉を紡ぐ。微かな緊張が体を走った。

「・・・スルフェと共に部族にあることを許して下さいますか?」

否と言われれば、スルフェを選ぶ。
その意志を強く宿した瞳に、カランスは心中で嘆息した。

「最初は・・・あまり皆いい顔をせぬだろう。首長の妻がよそ者というのは前例がないからな。・・・非難に耐え、あの娘を守りきる自信があるか?」

答えなど、決まっている。

「あります。」

迷いのない即答に、無表情を保っていたカランスはしばし睨み合うような沈黙の後、ふと表情を和らげた。そのまま手の中にある酒を静かにオランザに向けて掲げる。

「ジルク族首長の名において・・・お前達を祝福しよう。」





馬が草原を駆ける。
手綱を引くのはオランザ、共に馬の背にあるのはスルフェ。
昨日と同じようにスルフェを遠出に誘い、オランザは西日を受けながら馬を走らせた。
もはや、人目に付かぬところで賭をする必要は無くなっていたが、それでもオランザは遠くへと馬を促す。
今だけは二人だけの空間が欲しかった。
振り返ってもスヤの定住地区が見えなくなったところまで来て、オランザは静かに馬を止める。慣れた様子で馬から降り、スルフェの手を取って彼女も馬から降ろしてやる。
彼女の銀の髪が草原の風にさらわれて、フワリと靡いた。
菫色の瞳は優しく微笑んでこちらを見上げている。

「夕日が綺麗ね。」

地平線のすぐ上で朱の光で大地を照らす太陽を指差し、スルフェは微笑む。
それに、オランザも穏やかな笑みで返し、そっと彼女の体を抱き寄せた。
どれほど望んだか知れぬその温かさを優しく抱き締め、オランザは静かに目を閉じる。
───どれだけの時が過ぎたか知れない。
何も言わず、包容に身を委ねていた恋人達はどちらとも知れずに、そっと身を離した。
漆黒の宝石と菫の宝石がお互いを見つめ合う。

「落ち着いたら、民の元へ戻る。」

そう口火を切ったのはオランザ。
その言葉にスルフェの瞳が微かに揺れた。
震える唇から漏れるような声がこぼれ落ちる。

「・・・スヤで共にいられないの?」

「俺はジルクの次期首長だ。ここにいつまでもいるわけにはいかない。・・・民と共に生きるのが俺の責務だ。」

「・・・・・・・・」

スルフェの瞳が陰っていく。
俯きそうになるその顎を捕らえ、オランザは掠めるような口付けを落とした。

「あんたも、つれていく。」

スルフェは目を見開いてオランザを見上げた。
何かを言いかけようとするその唇は小さく開き、それでも言葉を出せないでいる。
その唇をそっと撫でながら、オランザは口端を吊り上げた。無邪気な笑みだった。

「離さぬと、言っただろう?」

呆然としたまま、数秒の時が過ぎる。
スルフェは放心したような顔で、絞り出すように掠れた声を零した。

「・・・皆、嫌な顔をするわ。」

「だろうな。」

「貴方を非難する人も出てくるわ。」

オランザは飄々とした顔で、また、「だろうな。」と相槌を打つ。
スルフェは唇が震えるのを止めることが出来なかった。そっと添えられている彼の指先はそれを感じているだろう。分かっているが、止められない。

「カファスが・・・寂しがるわ。」

「・・・・・・・・」

初めてオランザは思わずその顔を硬直させて、唸るように「・・・だろうな。」と返した。だが悩んでいた顔はほんの数秒で、すぐさまくすりと笑ってみせる。

「いつでも会いに行けばいい。馬を飛ばしてやる。」


・・・・後はスルフェ自身無意識だった。衝動に任せるがままにオランザに抱きつき、彼もそれに応えて抱き返してくれた。風が舞って、髪と服を靡かせて、どこまでも遠い空の果てへと去っていった。

「愛しているわ。」

「知っている。」

尊大な返事が返ってきて、スルフェも思わず笑った。
その声さえも、風は攫っていく。
未だ沈みきらぬ太陽が大地を照らす中、うっすらと空の端に浮かんだ月が静かに二人を見下ろしていた。
加護を得ていた時と寸分違わぬ優しさを、スルフェはその光の中に感じていた。


                                          

<fin>



精霊宮の宝珠のその後を書いてみました。
実は、私、いくら探してもこの本を見つけられずに、ちーちゃんにわざわざ本を送ってもらって読むことが出来たのです。(>_<)
そういうわけでちーちゃんには本当に感謝しておりますvv有り難うございましたvv
まあ、拙いところも多々ありますが、読んで下さって有り難うございます。それでは。



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