─ CLOWN JOKER ─
vol.1
「統率者」 後編
エルファーレの覇者。
一つの世界の神。
王気纏い、空を自由に駆け抜け、他の獣達に畏怖され、崇拝される。
──狼神・ギャリートロット。
ルカリアが今目にしているその存在。
けれど、初めてまみえる彼女にもはっきりとわかるほどに、そこに神だと讃えられた面影は…ない。
「これは……」
思わず、口元を押さえる。
光薄い、琥珀の瞳。
衰弱した、その四肢。
瀕死の老狼が、自身を支えることすらままならずユラリと揺れている。
「……随分と長く此処に止まっていたらしい。」
オリヴァー=レンブラントが隣でため息とともに呟いた。
その肩で、バサリッと使い魔のアベリーが翼を一旦羽ばたかせる。
「どういうことだ、オリヴァー。」
女が握った手を、強く握りしめて問う。
男は女に視線を移すことなく、ただ目の前の獣の王の成れの果てを見据えながら応える。
「言っただろう? ここは死の集まりだと。……死は常に生に憧れる。こんな所に長いこと居ればたちまち群がってきて生気を吸い取られるだろうよ。」
言いつつ、一歩前へと歩みを進める。
ギャリートロットがそれにピクリと反応し、一歩後退した。
オリヴァー=レンブラントはそれに目元を微かに細めて口を開く。
「聞け……ギャリートロット。お前の世界は此処ではない。戻れ、エルファーナの獣達は混乱しているぞ。」
鋭い声がその場の者全てに突き刺さるように響く。
けれども、ギャリートロットはジリジリと後退し続ける。
オリヴァー=レンブラントの黄金の双眸と、ギャリートロットの琥珀のそれが交錯する。
「帝国だ……分かるな?」
絶対の命令。
それを男は無情に突きつける。
それでも、生気失った覇者は譲ろうとしない。
威嚇の視線で、こちらを睨み付けたまま。
男の口から漏れる嘆息。
次の瞬間、その手は愛剣を引き抜いていた。
どんな闇夜よりも暗い、大理石の如く艶のある漆黒の刃。
魔剣・アンドラス=ルーグ=ヴィシュヌ。
それをこの男が振るった後、何も残らないという。
細胞一つ残らない、と。
「強情を張るというなら、こちらも力尽くで行かねばなるまい。」
その口元、讃えるは冷笑。
男が今まさにその笑みを以て為そうとしていること。
それを握りしめたまま放さない女の手が妨げた。
「……待て」
「……何故(なにゆえ)?」
久方ぶりに合わせた視線は冷たいものを帯びていた。
これがこの男。
オリヴァー=レンブラントの瞳。
「おそらく理由があるのだ、それを聞かねば…。」
「必要はない。」
「私が、『聞きたい』と言っている。」
「………」
言いきった男に、ルカリアはそれに劣らぬ鋭利な声で告げる。
しばらく無言の睨み合い。
諦めるようにため息をついたのは……オリヴァー=レンブラント。
「…好きにするが良い。まったく、君の強情さには敵わんよ。」
ため息をそのまま言葉に変えたように言って、剣を鞘に収める。
それを見遣って、女は視線を男からギャリートロットへと移す。
それは未だ警戒解けぬ様子で唸り声を低く上げていた。
「ギャリートロット」
決して優しい声ではない。
けれど心揺らがずにはおれない響きで悠海の姫君は名を呼ぶ。
母なる海のように慈悲深き、存在。
荒ぶる闘気を纏い、炎のように滾る、烈火の姫君と相対する……対になる天空神。
帝国の安定のシンボルとして、宮廷で庇護されるルカリア=レイ。
「何故此処に来た? ……何を求めている。」
「………」
「此処には何もない。お前も分かっているはずだろう?」
「………」
「ギャリートロット……エルファーナの獣の覇者が此処で何をしている。」
「………居る」
一言。
けれど、低い声が確かに言葉を紡いだ。
それを耳にして、ルカリアは微かに眉をひそめ、一歩足を進めた。
「居る? 此処に、か?」
「……此処に、居る。」
ギャリートロットの琥珀の双眸が、細められる。
「シルヴィリアが、居る」
瞬間、ルカリアの背後でオリヴァー=レンブラントが柳眉を反応させる。
対するルカリアには意味が解せない。
「シルヴィリア?」
「ギャリートロットの妻だ。」
疑問の声にオリヴァー=レンブラントが応える。
彼は何やら納得し、そしてやや呆れているような雰囲気を醸し出していた。
「ギャリートロットの妻? ここに居るのか?」
「いないな。在るとしたならばそれはかつては彼女の魂だった『死』だけだ。」
「では彼女は……」
「少し前に死んでいる。」
何の感慨もなく男が言い放てば、獣の鋭い殺気が彼に向けられる。
「……死んではない。たとえそうだったとしても、シルヴィリアは此処に居る。」
「それは『死』だけだ。それも他の『死』と混ざり合って原型すら残しておらんぞ。」
「黙れっ!!」
今までふらついていたとは思えぬ迫力でギャリートロットが罵倒した。
それはやはり、王たる威圧感。
ここに彼の治める世界の獣達がいたならば、怯え震えて四散するだろう。
けれど迎える男はそれすらも超えていく。
ため息一つで獣の神の怒りを受け流していく。
「幻想に溺れるのはそちらの勝手。だが、あくまでそれは他を侵すことのない範囲で許されることだ。……お前の幻は世界を越えた。」
黄金の瞳が、光り輝く。
「許されんな、これ以上は。」
再び、その双眸に殺気が戻ってくる。
魔剣が微かに光を帯びた。
けれど、次に動いたのは彼ではなかった。
途中からやりとりを黙って見ていた女──ルカリアが何の躊躇もなく、怒りに高ぶっている狼神へと歩みを進めたのだ。
「………」
無言で、しかし途絶えることのない威嚇と殺気を迸らせて、ギャリートロットは近づいてくる存在を睨んだ。
それでもルカリアが怯むことはない。
一歩。
また一歩。
攻撃を行う機会を逃している内に、女は目の前に来ていた。
その手が剣を引き抜く。
魔剣とは正反対の銀鋼で純白に輝く刀身。
聖剣ティビアティーン。
それを女が振りかぶった時、ギャリートロットは迷わず攻撃しようとした。
その口内では、荒ぶる閃光が用意されていた。
けれど。
「ギャリートロット」
そう女が名を呼んだ瞬間。
何かが衰弱した体を駆け抜けたのだ。
閃光は音もなく消え去った。
それに優しく微笑んで、女は剣を振り下ろした。
ザンッ!!
鋭い、音と光。
それがギャリートロットを包み込み、そして一瞬のうちに離れた。
死んだ、と思った。
けれど体を苛み続けていた疲労感がいつまで立っても消えない。
不信感に駆られて、二度と開くことはあるまいと思っていた琥珀の瞳をゆっくりと開く。
視線をやれば。
聖剣は狼神ではなく、その足下の地面に突き刺さっていた。
呆然とそれを見て、そしてギャリートロットは気づく。
自身に纏わりついていた、邪気が綺麗に消え失せていることに。
彼が妻の魂であると、だからこそ自分を慕って寄り添ってきたのだと、思っていたそれが消えていた。
「聖剣は死気を殺す。」
ふいに女が眼前で囁く。
「あれらがお前の妻であったと言うなら、今、私が殺した。」
断言に、ギャリートロットは声の落ちる所を見上げた。
蒼鉛の瞳には慈悲が溢れていた。
「許せぬと思うなら恨め。だがその代わりに……」
一息。その瞳にさらに光を強く宿して。
「……戻れ、エルファーナへ。王としてのお前を必要とする者がまだいる。」
「…………」
獣の神・ギャリートロットはその存在をただ見詰めた。
窶れた琥珀の瞳には読み取れぬ光が揺れ、それでも逸らさず、見詰める。
長い沈黙の後、向こうで沈黙を守っていた男の肩で、鷹が一声鳴いた。
それが合図であったかのように。
ギャリートロットは口を開いた。
「……妻は…」
女から視線を外し、地面へと…眼を伏せる。
「……シルヴィリアは死んだか…。」
客観的意見を求めて、問うた。
自分でも驚くほど、弱い声音。
見なくとも、すぐ傍で自分を見下ろす視線に悲哀が帯びたのが分かった。
けれど、落ちてくる声は…凛としていた。
「…死んだ。」
「魂も…」
「ない。」
勢いのままに言いきられる現実に。
「………そうか。」
完全に眼を閉じる。
「…そうか。」
もう一度言い聞かせるかのように肯定して。
「帰る。」
数秒の沈黙の後、ギャリートロットは悠然と言い放った。
もう一度、その琥珀の宝玉が開かれた時。
もはやその中に弱いと呼べる光も気配もなかった。
「すまぬ…手間を掛けた。」
その体は生気に溢れ、しかしそれに群がる死気は跳ね返される。
此処に、死者に焦がれる者はもうない。
在るのは間違いなく獣が崇める、──神。
多を守るために個を捨てる。
たとえその個が自分であったとしても。
…想いを殺すのが、自分だったとしても。
未練なく、捨て去る。
──その王たる存在は在るべき場所へと戻った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「我らの出る幕はなかったな、アベリー。」
館に帰るなり、その男は客を前にその身をソファーに投げ出していた。
無造作に掲げられたその腕には一羽の鷹。
バタバタと翼をばたつかせて、主人の言葉に応えているようだった。
「お前が強硬手段を取ろうとするからだ。無駄な殺生は極力避けろと言っているだろう?」
ルカリアは、自室で緩慢にくつろぐその姿を非難めいた顔で睨みつける。
だが、男に反省の色は……ない。
ただ、困ったようなふりをして渋面している。
「うーむ…慈悲深い君を仕事に連れていくのは、いささか面倒があるな。」
「では連れていかなければよかろう?」
「だが、付いてこずとも仕事で殺生をすことを諫めるのだろう?」
「無論だ。」
即答で言いきれば、男は肩を揺らして苦笑する。
「ならば、どうしようもない。それに君が来なければ私も楽しくないからな。」
男は言いながら鷹を乗せた腕をそのまま一回しする。
すると、数枚の羽を空中に散らばらせて鷹は姿を消した。
唯一オリヴァー=レンブラントの手の中に残ったのは、鷹の爪の首飾り。
その過程にルカリアが見惚れていると、男は優美な笑みを浮かべてきた。
「君は宮廷に閉じこめておくにはもったいない。」
「またそれか」
聞くなりルカリアは呆れたように眉をひそめる。
けれど、男はそんな反応も何処吹く風。
寧ろそれすら楽しんでいるかのように、クツクツと喉を鳴らしている。
「そうはいってもその美貌だ、他の男も放ってはおくまい。だというのに興味がないなどと……ルカリア嬢は本当に罪作りな方だ。」
「…その言葉、そっくりそのままお前に返してやる。」
憤然と言い放つと、男は「おや」と心外そうな顔をする。
「私は自分の利点をふんだんに使っているつもりだが?」
浮かべた笑みは、まさに殺人並。
それを見たのがルカリアでなければ、この場で全ての女性は卒倒するに違いない。
だが、それはルカリアであった。
よって、落ちるのは感嘆の吐息ではなく、ため息。
憮然とした顔で非難がましく言ってやる。
「ふんだんに使ってはいるが、本気になったことは一度とないだろう?」
「……む」
核心を突かれて、男は珍しくも言葉に詰まった。
その反応に女は何だか優越感を感じる。
初めて、この男に「勝った」と思った。
調子に乗って、もっと言ってやろうと思案していると、しかし、男が眼の色を変えた。
「確かにその通りだ」と開き直り、キラリと妖しい光が浮かぶ。
「では、ルカ」
敢えて女の愛称を以て、魅惑的な笑みはそのままに。
「君が本気にさせてくれるのかな?」
傲慢にも、男はそのまま、ルカリアの華奢な体を引き寄せた。
そして目を見開いた女の唇に慣れた手つきで己のそれを重ねようとして。
……首筋に悪寒。
男が、その原因を視界の端に収めて顔を引きつらせる。
「……ルカリア嬢、首が…寒いのだが…」
冷や汗を流して固まった男は、堅い声で言った。
その首元には白銀の鋭利な輝き。
反射的にルカリアは聖剣を男の首筋に押し付けていた。
「あ? …ああ、すまん。いきなり引っ張られたものだから…つい癖でな。」
自らの行動を客観的に振り返って、女は軽く謝罪する。
…天然か?それとも確信犯、か?
男は思うが、どっちにしても結果は変わらない。
ただ道のりは険しいというだけである。
肩を落とす男を余所に、時計を見遣った女は引き抜いた剣を鞘に収めた。
「そろそろ、帰らねば…シヴァが心配する。」
「…ご苦労、次の仕事の時も頼んだぞ。」
立ち直りの早い男はクルクルとその鷹の首飾りを回しながら、言う。
その言葉にルカリアは苦笑を浮かべた。
「配達係だけなら願い下げだが…次も私を連れていくというなら話は別だ。」
「…交換条件という訳か。」
「まあな。」
笑って言う女は極上の微笑み。
自覚がないのか、それともやはり…確信犯なのか。
この自分を以てしても分からないが、まあ…それも悪くはない。
その謎解きはこれからゆっくりやっていけばいい。
そこまで考えを行き着つかせて、苦笑ながらも男も笑う。
「では付いてくればいい。旅は道連れ、だ。」
「……言っておくが、口を挟むぞ。」
念押しのように聞いてくる女。
その様子に男は失笑し、肩を竦めて告げた。
「どうぞ、我らが愛すべき天空神の御心のままに。」
THE END
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