─ CLOWN JOKER ─
vol.1
「統率者」 中編
世界は数多と存在する。
その事実を知ったのはごく僅かないくつかの「世界」の住人だった。
それぞれの世界が独自の個性を造り出し、それを無意識の内に必死に死守している。
……独自の個性、などという言葉ではいささか現実味にかけるかもしれない。
そう、ある意味、世界と世界は全くの「異世界」である。
一方の世界では到底信じ得ぬことが、また他方の世界では常識として存在する。
本質的なところからして袂を分かつ、「世界」と「世界」。
それが言葉通り、星の数ほど存在しているのだ。
そして、先に述べたとおり、その真実を知る「世界」は少ない。
一握りの「世界」を除く、ほとんどの世界が「自身以外の世界」の存在を仮定してみることはあっても実際根拠を持って知っていはいないのである。
まず。
初めに記しておこう。
ある一つの「世界」の住民が、どれであれ、他の「世界」へと干渉することは許されない。
その「世界」が「自身以外の世界」の存在を知っていようがいまいが、である。
法律がある、とかそういうわけではなくて──実際形式上在るのではあるが──自然の摂理として許されない。
「世界」と「世界」の干渉は時にどちらか一方の、あるいは双方の破滅を意味してしまうことがあるからである。
ただし、例外のないルールはない、というのもいわば自然と摂理というもの。
数多と輝く「世界」の中でたった一つ、他の世界への干渉を許された「世界」がある。
全ての「世界」を知っており、また「管理」している。
「帝国」たる存在に支配された「世界」。
「始まりの世界」
それは日々生まれる世界の中で「最古の世界」と言われている。
誰がいつから始めたのやら。
その「世界」は「世界達」の上に君臨するものとして、「世界」間で生じる問題を解決してやっている。
跨ぐことがあってはならない世界の敷居。
故意にしろ過失にしろ、それを為した者が在れば直ぐさま駆けつけて基本的には強制送還。
「帝国」を称する組織が支配する世界。
それが支配する数多の「世界」。
「帝国」に従事する者達は今日も「世界」と「世界」の間を奔走している。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ギャリートロット、か。」
自室に入るなり、自分の椅子に気怠そうに腰掛けた男は封筒の中の書類を斜め読みしながら呟いた。
その部屋の様子を眺めていた女はその呟きに首を傾げて振り返る。
「ギャリー…ト…?」
「ギャリートロット、だ。」
オリヴァー=レンブラントはさらに、文面を眺めながら女に応答する。
「何だ、それは?」
両面の壁が本棚で埋め尽くされた部屋の中を、──よくもまあ、こんなに集めたものだと半ば感心、半ば呆れながら──真っ直ぐに男の方へと足を進めて女は再び問う。
一番奥の机の前、男の座る椅子の前まで辿り着くと、男がやっと視線を上げる。
「世界の地軸…とでも言おうか。」
「世界の地軸?帝国のことか?」
「『此処』のことではない。」
すかさず訂正を入れると、男はそのまま文章を机の上に放り投げた。
これでまた、机の上に聳える紙の束の山が標高を上げることとなる。
「獣が神の世界さ。名は確かエルファーナだったか…。」
自分の記憶に自信がないのか。
ギシリッと椅子を回して、男が本棚を見遣りながら考え込む。
説明しやすい本でも探しているのかと思えば、その視線は数秒後には本棚から外れてしまった。
椅子は本棚に向いたまま、男は顔だけをこちらに向けて言う。
「簡単に言えば、こうだ。……獣が世界の中心のエルファーナという世界があってな。その神たる存在ギャリートロットが失踪した。」
「どこへ?」
「エルファーナにいないのだ。その他の世界へ、と考えるのが妥当だろう。」
言いつつ、男が手を数回叩く。
いい音が響いたと思った瞬間、一度閉めた扉が丁寧に開く。
使用人だった。
否、使い魔、というのが正しいか。
ほとんど人間としか思えないが、どこか人外の空気を纏った者。
その両手にはティーセットが芳香な香を漂わせている。
そういえばさっき、昨日良い葉が手に入ったと言っていた。
「とりあえず、そこに座り給え。ルカリア嬢。」
椅子を勧める男に、ルカリアと呼ばれた女は微かに眉をひそめた。
「ルカと呼べ……といつも言っているだろう?友人に他人行儀されるのは好かない。」
「…とは言われてもな。仮にも天空神の片割れを軽々しく愛称で呼ぶわけにはいくまい。だが…ああ、そうだ、友人より親しくなった時に呼ぶことにしよう。」
またもや意地の悪い笑みを携えてふざける男に、ルカリアは嘆息した。
「わかった。ならば、一生ルカリアと呼ぶがいい。」
「おや、不老の我々に一生とは長すぎる。残酷なことをおっしゃる方だ。」
「……言葉遊びは十分だ。どうせなら仕事について聞かせろ。」
茶の準備をするなり、また音もなく使い魔が出て行くと、ルカリアはその手にティーカップを取る。
確かに良い香だ。
口を付けるとさらに上品な味が口内に広がった。
視線を男にやれば、あちらも紅茶を味わっていた。
こちらの視線に気づくと、あの魅惑的な笑みが口元に咲き誇る。
「では、それについて話そう。まずギャリートロットについて、だが。」
「獣の世界…というとその神たるギャリートロットとやらも獣なのか?」
確かめるように問えば、男は小さく頷く。
「そうだ。その世界では神と崇められているが、こっちからすれば狼の化け物と言ったところだな。一声吼えれば大地が揺れ、二声吼えれば太陽を生むと言われている。」
「太陽を生む?」
おかしな物言いに女は眉をひそめた。
対するオリバー=レンブラントは苦笑を浮かべる。
「単なる比喩、だ。ギャリートロットはその吼え声で空気を振動させる超音波のようなものを出し、また閃光を生み出すという。それを神がかった文句に仕立て上げたのだろうよ。」
「……で、他の世界へと失踪したと言ったな。どの世界だ?」
真髄を突こうとするルカリア。
その視線が悪戯な光を宿す黄金の視線と合う。
「ケルヌンノス」
その視線の主が言い放った言葉にルカリアは柳眉をピクリと反応させる。
聞き覚えがある世界の名であった故に。
「ケルヌンノス……死を司る世界、か。」
男は肯定も否定もせず、無言でティーカップを口に付ける。
その沈黙こそが肯定を表したと言える。
「そんなところに何をしに行くのだ?」
聞けば、男は一笑。
「それをこれから調べるのだろう?書類にもギャリートロットとケルヌンノスの名しか無い。ここから先は自身で調べろというわけだ。……まあ、ここまで下調べがついているのは帝国にしてはよくやったと誉めてやれるがな。」
この「世界」を支配する「帝国」を侮辱する言葉をなんともなしに口にしてくれる。
そう、何があってもこの男の態度が崩れることはない。
彼は「帝国」と結びついてはいるが、「帝国」に従事しているわけではないのだ。
「帝国」お抱えの魔術師。
そして、「帝国」が唯一恐れる存在。
オリヴァー=レンブラント。
どこから来たのか、何を考えているのか。
知っている者はいない。
ただ、こうやって「帝国」では処理できなくなった問題を回されては、いとも簡単に解決してくれる。
冷笑しながら他人を欺く、自由奔放な男。
そんな彼に、呆れながらもルカリアは渋面した顔で諫めた。
「……陛下が聞いたらお怒りになるぞ。」
「聞いていないのだから問題はなかろう?」
…こういう男だ。
ため息を呑み込むように、女は紅茶を啜った。
幾分冷めてしまったが、そう悪くはない。
男はというと、既にティーカップは空らしい。
器用にも空になったそれを指先でクルクルと回している。
子供じみたその行動も、この男がやると優雅に見えるのだから美貌というのは恐ろしい。
「いつ出るのだ?」
飽きたのだろう。
ティーカップを受け皿に無造作に男が戻すのを見遣って聞いた。
「さて、これからすぐにでもいいと思っているが…。」
言っていた男の手がティーカップから離れるなり、それは空気に溶け込むように消えていった。
何処へ行ったかはルカリアは知らない。
おそらく食器洗い器かなにかの中だろう。
そんなことを考えながら黙って紅茶を啜っていると、男の低いテノールの声が問う。
「今回も付いてこられるか?」
「お前が構わないならば、是非そうしたいが。」
「構わん。」
「ならば共に行こう。」
男の言い切りに自身も微笑みを浮かべてルカリアは即答する。
そして、女は再び芳香な香に顔を近づける。
……最早そこに紅茶は残っていなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
随分と靴音が大きく響く。
螺旋状に構成された地下への階段をゆっくりと下って行った。
「手入れしているのか?随分埃っぽい……。」
隣の壁に手をつけると煤で手が汚れてしまうので、困った。
こういった階段を手すりなしで降りていくのは至難の業だ。
だというのに、なかなか進まないルカリアとは対照的にオリヴァー=レンブラントは慣れた足つきで優雅に降りていく。
「実は使い魔の一匹が在ることで拗ねてしまってな、まったく仕事をしてくれなくなってしまったのだ。ここの掃除もそいつが担当していたものだからな。」
「使い魔も主人の命に背くのか?」
「背くさ」
苦笑しながら応えて、男は階段を下っていく。
彼が歩みを進めるのに従って、先の灯火が宿り、後ろのそれは消えていく。
まったく、魔術とは便利なものである。
別に羨ましくなどはないが。
下の下まで行き着くと、大きな地下室に出た。
何度か来ているのでルカリアにはここも見慣れたものであったが、やはり似合わないと思ってしまう。
初めて来た時は巨大な魔法陣でもあるのかと期待していたのだが、そこには二つの扉が存在するだけだ。
確かに繊細な装飾が為されてはいるが、玄関のものと比べると見劣りする。
まあ、らしいような物があるとすれば、両側を威圧感ある様子で佇む銅像達と言ったところか。
「どちらだ?」
二つの扉を前にして女が男に問う。
「右だ。」
特に考える様子もなく、即答。
何が規準で決まるのかは、ルカリアにも分からない。
……もしかしたらどっちでもいいのかもしれない。
この男にならあり得ることである。
「アベリー」
流暢な足取りで右手の扉の前まで行くと、オリヴァー=レンブラントはその名を口にした。
・・・バサリッ
それとほぼ同時に今降りてきた階段の方から何かが羽ばたく音がする。
二・三度同じ羽ばたきが聞こえると、焦げ茶の物体が地下室に勢い良く入り込んでくる。
この場を一周旋回して、それはオリヴァー=レンブラントの肩に留まった。
大きな鷹(たか)だった。
普通のものと違うとするなら、その鮮血の如く紅い双眸ぐらいだ。
そしてその嘴には鍵の束。
「良い子だ」
それを受け取って、男は優しく鷹を誉めてやる。
鷹が一声鳴く。
「さて、行こうか。」
鍵の一つで扉を開け、男はルカリアを振り返って笑った。
扉の向こうは空虚。
「世界」へと繋がっている。
帝国の中枢である宮廷にしか基本的にはないその入り口を、この男は埃被った地下室に携えていた。
彼が造り出したのか。
はたまたもともと在った場所に館を建てたのかは謎、であった。
この男のことは、考えるだけ無駄に終わるのだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
空虚の中は言ってみれば冷然とした暗闇。
ただ無意味に靴音だけが高く鳴り響き、反響している。
暗闇でありながら、しかし自分の姿ははっきり視界に映る。
自分の姿も、前を颯爽と歩いていく男の姿も。
そこだけ暗闇が切り取られたようだった。
「世界と世界の狭間は不安定だ。自己を決して見失うでないよ、戻れなくなる。」
淡々と呟く男に、ルカリアは少々顔を顰める。
「何度も聞いた。見くびるな、そんな弱い精神など持っておらん。」
強い口調に、後ろ姿の男は少し失笑しているようだ。
声も笑いが帯びて「ごもっとも」と連ねる。
「そういえば、烈火の姫君はいかがお過ごしだ?」
思い出したように聞いてくる男は振り返ることもない。
「シヴァか?元気だ。昨日も近衛兵15人と手合わせしていた。」
「1対15で、か?……結果は?」
「たかだか15人、言うまでも無かろう。」
憤然と告げればまた失笑。
この男の笑い所はどうもルカリアにはつかめない。
「相変わらず剣技に長けた双子でいらっしゃるな、君とシヴァ殿は。帝国の安定の象徴たる天空神がその様子では、陛下も心強かろう。」
男の茶化すような響きが空虚を揺らす。
だが、それはルカリアの感情を揺らすことはない。
「戯れ言を。お前の方が我らよりも強いだろう?」
「それは偶々、運が味方しただけのこと。」
「では、私は運に見放されているようだ。今まで一勝もしていないからな。」
ルカリアは拗ねた態度で顎を逸らした。
オリヴァー=レンブラントは、やはり、苦笑。
「そう言うな。女に剣技で負けたとあっては良い笑い者だ。」
「では昨日15人の笑い者が生まれたという訳か。」
嫌味で言い返せば、男は飄々と。
「そうなるな。」
言ってくれる。
何だか、近衛兵達が哀れに思えてきた。
最早言うことを言い尽くして黙々と歩いていると、不意に前の男が腕を掴んできた。
「どうした?」と声を掛けようとしてルカリアは空間の変化に気づいた。
暗闇であることには違いはないが、性質が変わっている。
空虚、というよりは、黒い霧の中という感じだ。
纏わりついてくる感触が気持ち悪い。
「出口だ、此処は迷いやすい。手を離すなよ。」
「此処がケルヌンノスか?」
「正確にはその一歩手前だ。……ああ、だがもうすぐそこだがな。」
男が言い終わると、霧の濃度が薄くなる。
だが、纏わりついていた死気や邪気は一層深まる。
視界には荒れ果てた大地が公然と広がっていた。
「…何もないな。」
「ああ、何もない。」
ルカリアが呆然と呟けば、男が肯定する。
「もともとケルヌンノスは世界と呼べるギリギリのラインだ。生物は存在しない。かといって死者の魂も存在しない。」
「だが、死を司る世界だと……。」
「死はある」
敢然と言いきって男は荒れ地の果てを眺めた。
「言い換えれば、『死』しか存在しない。…世界中至る所に死者は居る。それらが輪廻の輪に入れず、自我すら喪うとき、死者の魂は単なる『死』となり世界を通り抜けて、世界と世界の狭間を彷徨う。それらが行き着いたのがケルヌンノス…此処だ。」
謳うような口調で言葉を紡ぎ、ゆっくりとその場から動き出した男。
ルカリアは従って歩き出す。
「ここは、空虚の一部だったのだ。それが彷徨い続けた死が集まり、世界と呼べるまでになった。」
「……そんな世界に何故ギャリートロットがいるのだ?」
「……さて…。」
ニヤリと口元を艶やかな笑みで飾った男が立ち止まる。
その視線の先をルカリアも見遣る。
薄がかった霧の中に一つの影。
「それは本人に聞いてみらんと、な。」
そういった男の言葉の語尾と、視線の先の影──狼の神たるギャリートロットの咆吼が重なった。
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