黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第一話 (T)



──世界は一度、崩壊した。

それはたった一瞬の出来事。ただ一筋の美しい光の線が雲を裂き、天から地に堕ちた。
ただ、それだけのこと。
それだけのことに、世界は崩壊し、生き残った人口は元の半数であったという。
瞬きほどの刹那の間に、二度と命の芽吹くことのない荒野が世界の半分を覆い尽くし、母なる海は人々を嘲笑うように毒をその身に含ませた。世界のなれの果ての姿に、絶望に落ち込み膝を折らなかった者は誰一人といない。
『サン・ラプス』──…この悲壮な世界崩壊を、後に人はそう呼んだ。
友を亡くし、家族を亡くし、家を失い――だが、どれほどの絶望に見えようと、それでも人はいつまでも倒れたままではいられない。一人、また一人と傾けた体を引きずり起こし、前を、現実を見据え始めた。そうして数年の月日をかけ、世界はかの爪痕を克明に残しつつも一番被害の小さかった都市を中心に再建を始める。
「以前のように……」
その言葉を合い言葉とする再建の中で、ただ一つ、人々は「以前」と異なるモノを創りだした。……否、創り出さざるを得なかった、というべきか。
その名を『セントル・マナ』。
中心都市デルタ・ヴァルナに君臨するSLE(Sun Lapse Effect)能力犯罪者管理機関である。
何故、このようなものが必要となったのか。
理由はやはりあの光。サン・ラプスが残したのは単なる災害だけではなかった。かの光は、その後に生まれた一部の人間に、特殊な力を授けたのである。
しかし、その力は必ずしも人に利益だけをもたらす恩恵というわけではなかった。あまりに巨大すぎたのだ。その力を持たない者達にとって彼らが一方的な搾取者となり得るほどに。そして、その危惧を後押しするように、人というのは身に余るものを手に入れると、その力がある故に、不可能を可能にしてしまうが故に、奥で息づいていた欲が理性を揺るがし始める生き物なのである。そう、金や地位を持ちすぎた者達が狂いやすいように、その能力は人の心を狂わせるのに十分だった。
過剰な力はそれを得た者、つまりSLE能力者の心を堕落させる危険を伴ったのだ。
自らの欲を満たすために人はあらゆる手を尽くす。最後の最後には力業さえ厭わない者もいる。SLE能力は<力>で自分の意を通す方法を彼らに与えた。
世界崩壊の余韻が残るこの状況下で、そんな者が起こす犯罪行為は現在でも後を絶たない。
かといって、普通の人間では太刀打ちは不可能。
ならば……。
そうして創り出されたのが、政府管理下にあるSLE能力者による、SLE能力犯罪者を取り締まるための組織。セントル・マナである。
身体的能力を得たものは騎士に。
魔力的能力を得た者は巫女に。
騎士と巫女の二人一組での一対の翼として、このセントル・マナは中心都市デルタ・ヴァルナの犯罪事件を管理しているのであった。



 薄暗い月明かりの下、静寂の中に入り込んで来た異分子。その細長い影が煤汚れた建物の外壁の上を滑るように走る。それは、駆ける男の影。
 男は一人、未だに廃墟のままである壊れた高層ビルの合間を息を切らしながら走っていた。いや、正確には逃げていたと言うべきか。背後から寸分と置かずに追ってくる二つの影が徐々に迫ってくる、その感覚に焦りを募らせながら、ただ男はただただ逃げ続ける。それが今、男にできる行動の全てだった。
「……クソッ!! まだついてきやがる!!」
 背後にチラチラと揺れる影がまだそこにあることを確認して、男は歯痒そうに下唇を噛みしめる。縋るように前を見ても、ひっそりと夜の闇が包み込むその道は果てなく続くようにも思え、終わりの見えない逃走劇に今の今まで酷使してきた両足が疲労を訴えて喚き始めていた。
 男にとってこれはまさに最悪の状況。
 ――SLE能力のおかげで一儲けできると思ったら、セントルの奴らに勘づかれるとは……。
 そう、男は自分の不運を呪わずにはいられない。
 セントルに狙われたら最後。
 これは裏社会では常識のものとなっていた。その常識の中にたった今自分は身を晒しているのだ。これを不運と言わずに何を不運というのか。
「シコウッ!! 私を飛ばしなさい!!」
 突如その声が空気を揺るがしたのは、男が一瞬の躊躇の後、曲がり角を見過ごしてそのまま直線に走り抜けることを決めた瞬間だった。凛と響いたその声に体をビクつかせた男は、それでも思わず止めてしまいそうになった両足にありったけの理性を総動員させて前へと押し出す。たとえ何が起ころうとも止まるわけにはいかないのだ。その時点で己の運命が潰えることを男は知っていたのだから。だが、その直後だった。ふと自分を照らし続けていた月光が頭上を通る<何か>に遮られる。思わず天を仰いだ男の目に、今まさに後方から空中を渡り、自らの前進していた先に鳥のように降り立とうとする一つの影が映った。前を塞がれた男の足が緩やかに止まる。
 呆然と目を見張る男のその視界の中、膝をついて華麗に着地をしてみせた後、緩慢な動作でゆらりと立ち上がる、不敵な笑みをその顔に浮かばせた女の影。……いや、それは、もう影と呼ぶには相応しくなかった。この薄い月光の中で、透き通るような白い肌は男が今まで見てきたどの女のそれよりも美しかった。さらにその整った容貌に相応しい腰近くまで伸びる艶やかな黒髪を、女はその身に当然のように携えている。そして何よりもその髪と同じ、否、より深い色彩を落とした漆黒の双眸。炯々とした光が奥底で揺らめくそれは見る者を萎縮させる何かを内包していた。その二つの瞳が今、獲物に狙いを定めるように細められ、男を見据えている。
 その現実離れした女の様子に、当の男は自分の置かれている状況すら忘れて、しばし、その姿に見惚れてしまっていた。
 だが、ふと男は一つ、違和感を覚える。
 そう、女のその手には剣が握られていた。月光の駆け抜ける白銀の刃先にセントルの紋章が刻まれたその剣。
 <騎士>のみが持つことを許されたそれ。それを何故か「女」がその手に持っているのである。
「随分、遠くまで逃げられたものね。もう『未開地区』じゃない」
 惑う男の思考を遮るように、サラリと髪を掻き上げた女がその口をついに開く。
 内容の割に愉快そうな響きを含む声に、答えるべき者はその男ではなかった。
「涼子さんが面白がって、さっさとケリをつけないからでしょう?」
 呆れるような声とともに、男の背後から今まで建物の影にその身を隠していた者が、ゆったりとした足音を立てながら、二人が佇む月光の中へと近づいてくる。慌てて背後を振り返った男の視線の先、暗闇の中から淡い光の下に映し出されていくのは背格好からして長身の若い男のようだった。足下、胸元、そして、その男の顔までもが月光に晒された時、追われていた男はまたもや相手の容貌に絶句する。
 色素の薄い銀髪。その銀に映える紫炎の瞳。スッと通った鼻筋に一から綿密に計算され作り出された人形のような丁寧な造作。女が「動」の美しさを象徴するなら、この青年はまさしく「静」の美の象徴だった。
 ただ、この男、女とは違って何も手にしていない。
 その代わり、その手の甲に微かに何かの紋様が見えた。植物の蔦のような、あるいは古代文字の羅列のような不可思議な紋様。
 セントルの<巫女>がそれぞれに持つというそれを、「男」がその身に宿している。
「何なんだ…お前ら…一体…」
 男で在るはずの騎士の象徴をもつ「女」に、女で在るはずの巫女の象徴を持つ「男」。
 この理解不能な相手に追われていた男は混乱した。だがそれも数秒のこと。
──こいつらには絶対に目を付けられるな。女の騎士に男の巫女、「翼」の名は……。
「黒鋼の翼っ…!」
 いつぞやか、酒場で仕事仲間から聞いた警告。
 その時はデマだと笑ったそれを思い出し、男はその顔に恐怖の色を浮かび上がらせた。
「あら、自己紹介はいらないみたいよ、シコウ」
 震えを含んだ男の言葉に、女は戯けたように笑って言う。
「……はいはい。分かりましたからさっさと終わらせて下さいよ。私、報告書書かないといけないんですから」
 対するシコウと呼ばれた男の返答は素っ気ないものであった。
 だが、いつものことなのか、女にそのことを気にする様子はない。
「そうねぇ、もう少し遊びたいけれど……」
 夜更かしはお肌の美容に悪いしね……。
 ふざけて笑う女。その様子に、男は怯えながらも内心首を傾げる。彼女を見る限り、どうも仲間の忠告が正しいようには思えなかったのだ。この女がセントル一の騎士?この女が危険人物?こんな簡単にねじ伏せられそうな細い女なのに?何かの間違いではないのか……。
 だが、その見解は数秒と保つことなく次の瞬間に改めることを余儀なくされる。ふと、空気が一変し、男の背にジトリ、と嫌な汗が伝う。
 女が一変してその口元に冷たい、残酷な微笑を刻んだのだ。それだけの所作に、生暖かな空気が掠めるような冷気を孕んで笑んでいた。死線をくぐり抜けてきた者にしかわからない、その危うさを突きつけて。
「終わらせて、貰うわね?」
 疑問でありながら、相手の答えなど期待しないそれを女が男に言い放ったと同時に、剣を構えた女の足が勢いよく地を蹴った。その手に握られた剣の刃が月の光を受け、まるで女の殺気を感じ取ったかのように不気味に煌めく。
「……ッッ」
 その光を前に男は一瞬怯み、同時に一歩後ずさる。が、後ろにも敵がいる状態では無意味な後退に他ならなかった。静かに佇む背後の青年を見やり、そして今にも飛びかかってくる勢いの女を見る。逃げ道は、ない。あるならどれだけ良いかしれない。だが、ないものはないのだ。なら男に残された道は一つのみ。
 戦うしかない。
「……クソッ! 冗談じゃねえ!! こんなところで捕まるわけにはいかねぇんだよっ!!」
 腹を括った男は、湧き起こる震えを強引に押さえ込むように下唇を噛み締め、右手を前に翳してSLE能力を発動させる。一気に男の周囲の空気の水分が力によって凝縮され甲高い悲鳴を上げた。漂う冷気が男の頬を掠める。空気の温度を急降下させながら、硝子がヒビ割れるような音を立てて創り出された幾つもの氷の矢が、微弱な振動を繰り返しながら向かってくる女に焦点を合わせた。だが、女に怯む様子は微塵もない。それどころかうっすらと笑みを浮かべ、逆に速度を上げさえしていた。その挑発めいた女の余裕が男の神経を逆撫でした。
「死ねぇぇぇぇぇっっっ!!」
 舌打ちした男が叫ぶと同時に五つの矢が空気を裂いて、女をのみ目指し飛翔する。
「甘いっ!!」
 一つ目の矢は女の剣によっていとも簡単に粉砕される。
 二つ目は軽やかな身のこなしを前に掠ることさえなく避けられた。
 そして三つ目。
 これもまた、女の剣に弾かれたのだが、男が意図してのことか、はたまた、ただの偶然か。四つ目の矢が間髪を置かずに女に飛び込む。さすがの女もこれには反応できない。
──いけるっ!!
 男が確信の笑みをその口に表した。
 その、刹那。
「っ!?」
 音もなく、女を目前にしてかの矢が姿を消す。
 まるでその存在自体が偽りであったかのように。いや、そうではない。
 消滅「させられた」のだ。
──まさかっ……。
 男は驚愕を露わに背後の男を振り返った。シコウと呼ばれていたこの男。
 何もなかったかのようなその表情。
 だが、その手の甲の紋様は微かに淡い光を宿している。力を使ったときの余韻を表すそれを。
 男の視線に気づいた青年は小さな微笑だけを返してくる。
「おっ…お前っ…!!」
「余所見してる余裕があるの?」
 背後の男に言葉を紡ごうとした瞬間、ゾクリとする女の声が耳元で囁かれる。
 気づけば五つ目の矢はとっくに女の剣によって無に還されていた。
「しまっ…!!」
 失敗した。そう思った時にはもう遅かった。
 女の剣が、SLE能力者にとって死神の鎌とも言えるセントルの剣が、躊躇なく自分の力の核が存在する腹部に深々と突き刺さる。
 力が、掛け替えのないそれが吸い取られていく感覚に、男は愕然とし、襲ってくる睡魔に身を委ねざるを得ない状況に引きずり込まれた。その事実を前に、男は駄目だ駄目だと自分を叱咤する。この渦に巻き込まれたらそこで終わりだ、と。が、どれだけ必死に足掻いたところで、結局はその圧倒的な力にねじ伏せられる結末に変わりはない。
「ちく…しょうっ……」
 かの剣が引き抜かれ、男は忌々しげにそう呟いてその場に崩れ落ちた。
───これが、男が外の世界で呟く最後の言葉となった。


  ※
 その数分にも満たなかった一方的な闘争劇の後。
「それにしても、この剣どうなってんのかしら?」
 捕まえた男をセントルに転送する装置を、男に設置している青年の傍らで女は呟いた。
「斬ろうと思えば切れるのに核だけ壊そうとすると物理的には斬れないなんてね」
 実際、この男にもあれほど深く貫いたというのにその腹には傷一つない。
 不思議そうに自らの剣を眺める女に、対するシコウは深々とため息をつく。
「涼子さん……そんなのはその剣をつくった人に聞いてください。それよりも早く帰りましょうよ。さっきも言ったと思いますが報告書、書かないといけないんですから」
 本当に疲労困憊の様子で訴える相棒に、涼子と呼ばれた女は青年を振り返ると、さも悪気無く言い放つ。
「そんなの私には関係ないわよ」
 この自己中心もいいところである言葉をあっさりと言ってのけられたシコウは、ピクリッとその麗しい顔を引きつらせた。
 無理も無かろう。本来、報告書は騎士が書く物であるのだから。
「あのねぇ、涼子さん……」
 微かに怒りを含んだ声に、涼子はしかめっ面をする。
「はいはい、わかったわよ。帰ればいいんでしょ? 帰れば。…ったく、融通の利かない相棒だわ」
「その私を指名したのは涼子さんでしょうが。自分で言うのもなんですが私、一応、四仙の一人なんですけど。まったく……涼子さんぐらいですよ? 四仙を片翼にするなんて」
 じと目で涼子を見やり、シコウは甚だ不満そうに呟いた。四仙とは巫女の中でも格違いの能力を持った巫女のことで、現在4人しかいないので「四」仙と呼ばれているのだ。本来、四仙は騎士と組んで翼になったりはせず、それどころかセントルから出たりすることすらないのであるが、セントル最強の騎士、涼子=D=トランベルの希望となれば、上のセントルを仕切る長老たちも無視はできなかった。それでもかなり皆渋い顔をしたのだが、結局のところ幸いというか何というか、このシコウ=G=グランスは四仙の中でもそう能力が高いというわけでもなかったので、何とか許しが出たというわけだ。
「だって、ねぇ、面白いじゃない。女だてらに騎士の私に、男のくせに巫女のあんたとのコンビなんて」
 本当に愉快そうに笑う涼子にシコウは脱力するしかない。
「あなたって人は……」
 シコウは呆れ声と共にため息をつくのであるが、それらを完全に無視して涼子はシコウに背を向けた。
「じゃあ、先に行ってるわね。報告書よろしく」
 愉快そうないつもの笑みをそのままにシコウの返答を待たず、涼子は次の瞬間、その場から闇の中に姿を消す。
 どこまでも自分勝手な相棒に、残された男は今宵三度目となるため息を、
「先が思い遣られる」
 と、深くつくしかなかったのであった。
 白んできた東の空。都市の夜明けはもう、すぐそこまで来ている。





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