黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第一話 (U)


 SLE能力犯罪管理機関セントル・マナ。
 その管理、運営は十老と称される十人の長老達によって為されている。
 その中でも曲者と名高い「燗老」の称号を持つジェルバ=T=ガウルは、今、その自室に一人の騎士を呼び出していた。セントル唯一にして最強の女騎士、涼子=D=トランベルである。
「まったく、お前のお転婆にも困ったものよのう、涼子」
 見るからに腹に一物ありそうな老婆が敢然と座っている前に、話し掛けられた涼子は敬意の全く見られない様子で佇んでいた。腰に手を当て、相手の言葉に不快そうに眉をひそめている。
 このセントルにおいて絶対的な存在である「十老」の一人を前に、である。
「あら、ジェルバ。何を根拠にそんなことを言ってるの?」
 いかにも心外だという顔をして涼子は老婆に向かって首を傾げてみせた。
 敬語すら使わないその返答。
 他の者が聞いたなら対する老婆の反応が恐ろしくてその場から逃げ出すに違いない。だが、当のジェルバはその顔に呆れた表情を乗せただけで、ほとんど涼子の不遜な対応に気分を害した様子はなかった。幼い頃から目をかけてやっていた老婆にとって、この涼子との関係は上司と部下という関係より身内的なものであったのだ。
「四仙の煉殿を片翼にしたところで十二分にお転婆じゃろうが」
 苦笑しながらの老婆の言葉に、涼子は一瞬、不可解そうな顔をする。
「煉? …ああ、シコウのことね。まったく、シコウのくせに称号呼びだなんて生意気だわ。どうせ四仙の中でも四番手でしょ?」
 買い被り過ぎだと両手を腰に当てて非難する涼子の答えにジェルバはカラカラと、さも面白そうに笑った。
 それもそうだろう。このセントルで四仙をここまで見下す者はこの涼子を置いて他にいないのだから。他の十老からすれば思わず眉を顰めてしまうのだが、ただ一人、このジェルバは涼子のこういった何にも媚びず、物怖じしない態度がお気に入りであった。
「よく言うのう、涼子。だからお前はお転婆だと言うんだ。四仙である時点ですでに格別なのさ、煉殿は」
 その手にある懐中時計の蓋をカチンッ、カチンッと無意味に遊ばせながら、ジェルバは相手を見遣って言う。相手の反応を楽しむ、そういう悪趣味な目であった。
 対する涼子は相手の言葉に反省するどころか、さらにしかめっ面をするだけ。
「四仙、四仙って。何で巫女ばっかり特別視されるのよ。私だって騎士のトップなんだから称号が欲しいものね」
 いい加減、老婆の言い分に苛立ちを感じたのか。
 そっぽを向いって言葉を吐き捨てる涼子に、おやおやとジェルバは肩をすくめた。
「それがセントルの意向なのじゃから仕方なかろう? それにお前だって十分権力はあろうが。四仙を片翼にしたいなどという要求、お前のものでなければワシらの耳に届く前に揉み消されとるさ」
 笑いながら言葉巧みに言い訳をする老婆に、涼子はしばし相手の顔を見つめる。
 と言うか、睨む。
 だが、老婆はその顔にニヤリと笑みを刻んだまま。
 しばしの沈黙の後、どうやらこれ以上何を言っても仕方がないらしいと涼子は割り切り、「もう、いいわよ」と、ため息をついた。
「で、私を呼んだ用件は何?」
 そう問いかけた瞬間、老婆は懐中時計を遊ぶ手を止める。
 そしてその老いた瞳に生じた、長年付き合ったものしか見て取れぬ光の変化。
「…ややこしい、話かしら?」
 老婆の反応にピクリと何かを感じ取った涼子はその口元に笑みを浮かばせて聞く。
「お前は勘が良いから仕事の話が進めやすいよ」
 ニヤリと、老婆は涼子の言葉に笑みを深めた。
 ……最初から勘づくことに気付いていたくせに。
 涼子は、確かに曲者の名に相応しい老婆を前に、そう思ったのであった。


  ※

「これを見てごらん」
 老婆が差し出したのは何やら分厚い資料のようだった。
 面倒事が嫌いな涼子はその分厚さを前に目元を不快そうに歪める。
「これ、全部読まなきゃ駄目ならこの仕事降りるわよ? こういう面倒なのは嫌いなの」
 今にも投げて返しそうな女騎士に老婆は、まあ聞け、と諫めた。
「そう言うだろうとは思ったさ。見て欲しいのは一番上の写真だけだ」
 言われた涼子はふと、その視線を資料の右上にある写真に落とす。
 そう若くもないが中年と言うのは行き過ぎといった微妙な年齢の男の顔だった。
 細い目がいつぞやか見たニュースキャスターに似ているなどと考えていると、こちらの反応を見ていたジェルバが口を開いた。
「マーシュッド=R=ロナウドだ。……知っているか?」
 聞かれて涼子はもう一度写真を見遣り、記憶を探って首を横に振る。
「いいえ。こいつが何?」
 涼子の問いにジェルバは神妙な趣で告げた。
「チャーリー=D=レオンの命を狙っておる」
「…チャーリーの?」
 涼子の声に僅かながら緊張が走る。無理もないだろう。
 チャーリー=D=レオン。
 世界を立て直すに至って、どうしても必要なのが皆をまとめる統率者であった。
 その時、名乗り出たのがこの男である。彼は自らのカリスマ性を武器にこの中心都市デルタ・ヴァルナをここまで再建し、民衆の尊敬の的となったのだ。
 そして現在、彼はかなり年をとってはいるが今でも統率者としてこの都市をまとめている。その重要人物たる彼の命を狙う者。それは無謀と言えた。なぜなら彼の周りには常に数人の身辺護衛が付き従い、その彼らの前ではチャーリーの許しが無い限り一定の範囲以上は近づくことすら叶わぬほどの徹底した護衛ぶりなのだ。だが、それは相手が普通の人間ならば、の話である。
 ということはこの男……。
「SLE能力者、ね」
 目を細め、確信を含んだ声で涼子は呟いた。
 その言葉にジェルバが頷く。
「そうだ。今度、チャーリーがG13区からF3区を繋ぐ地下輸送線の開通の式典に参加することになっておる。それまでにその男を何とかせねばならぬ」
 ──できるか?
 その鋭さの消えぬ老眼にこちらの様子を探るような視線を向けられ、涼子はしばし沈黙した。
 ……正直言って、面倒事は御免だ。
 その上都市の管理者の安全が関わってくるとなれば失敗は許されないのは明白。
 避けたい部類の仕事ではある。ではあるが……。
 一時の間。そして、ため息をつき、涼子はジェルバに向かって苦笑する。
「どうせ依頼主から黒鋼を指名されてるんでしょう?」
「まあ、な」
「じゃあ、仕方ないわね」
 あきらめるように言って、涼子はその手の資料を老婆の机の上に投げて寄こした。
「詳しく見なくていいのか?」
 その資料を持ち上げて、そのまま部屋を出ようとする涼子にジェルバは尋ねる。
 それに涼子は肩をすくめて当たり前のように言った。
「言ったでしょ? 面倒事は嫌いなの。シコウに渡しといて」
 …つまり、シコウに面倒事は回せ、と。
 予想を上回る相手の傍若無人ぶりに一瞬言葉を失ったジェルバを残し、涼子はパタンッと扉を閉めて部屋を後にする。そこに横たわるのは静かなる沈黙のみ。
「……まったく。煉殿もお気の毒に。」
 その沈黙に一言落ちる老婆の呟き。今はもうその部屋から消えた存在を思い遣り、その手綱を引く者の苦労を考え、十老ジェルバは同情の念を抱かずにはいられなかったのであった。



 それは仕事をジェルバから受けた日の夕刻であった。
 この中心都市デルタ・ヴァルナにおいて、最も高い建築物であるセントル・マナから見る夕日は誰もが例外なく感嘆する神秘的なもの。
 ではあるのだが、そう毎日見ていると感覚は麻痺してくるものである。
 日夜仕事に忙しく励む騎士や巫女達にとってはそれはもう足止めする理由にはなり得なかった。それはもちろん、涼子も例外ではない。
 夕日の仄かな光が差し込む廊下を涼子はただ、前だけを見て歩いていた。
 ちょうどその時。
「涼子さんっ!!」
 聞き慣れた声が背後から自分の名を呼び、涼子は足を止めて振り返った。そこには予想通り相棒の青年。
「あら、シコウ。何?」
「『何?』じゃないですよ! 何ですかあの資料の山はっ! 仕事は受ける前に相談して下さいって言ったでしょう!?」
 おそらく今まで涼子を捜し回っていたのだろう。
 息を切らせながらシコウは涼子に非難の声を上げた。
「そうだったかしら?」
 ヒクリッ。
 まったく記憶にない、見るからにそういう態度の涼子にシコウは顔を引きつらせる。
「あのねぇ、涼子さん!!」
「まあ、待ちなさいよ」
 いい加減にしてくれと言わんばかりのシコウに涼子は目を閉じて諫めた。
「どうせ私達を指名してきてるんだから、仕方ないでしょう?」
「それはそうですけど…、しかしですねっ…」
 なおも異議を申し立てようとするシコウを、涼子はその右手を相手の前に差し出して制止させる。
「小言なら後で聞くわ。それより時間がないの。資料見たでしょう? 式典まであと4日しかないし、できるだけの情報を集めて欲しいのよ」
 さりげなく、涼子が最低限の情報は把握していることに青年は目を見張った。だが、その前の言葉までは信用がおけないのは、やはり、日頃の行いといったところか。
「後でって…そういつも言って…」
「今度は本当よ」
 一瞬の躊躇の後、ため息混じりに言いかけるシコウの言葉を涼子はきっぱりと遮る。
 しばしの沈黙。
 さっきもジェノバとした睨み合い。
 落ちるか、落とされるか。結果は二つに一つ。
 ……だが今度折れるのは相手の方だった。
 強い眼差しをそのままにシコウが口を開く。
「……終わったらその小言、本当に聞きますか?」
「ええ。約束するわ」
 もう一度きっぱりとした口調で言った涼子に、シコウはため息をつき、肩を落として何かの紙の束を差し出した。何かの資料と思われる紙の束。見覚えの全くないところから例のシコウの方に回させた資料ではないらしい。
 促されるままに受け取って、何だと首を傾げた涼子にシコウは腰に手を当てて自棄気味に告げる。
「その『できるだけの情報』ですよ」
 涼子はその言葉に一瞬目を見開いた。
「……早いわね」
「例の男の噂を聞いた時嫌な予感がしたんで、調べといたんです。まあ、都市長関連ならうちにオファーがくる可能性が高いですからね……」
 …できれば当たって欲しくなかった予感だったんですけど。
 言外にそういう響きを残してシコウは肩をすくめる。
 涼子はそのシコウの情報に目を遣り、一通り目を通した。
 そしてまたシコウに視線を戻し、ニヤリと笑みをその美しい顔に刻む。
「さすが私の片翼だわ」
 その言葉にシコウは肩をもう一度すくめてみせるだけだった。





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