黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第三話(X)



 清々しい風が丘の上を遊ぶように吹き抜ける。
 ジャムを作るために摘みに行ったベラグの実を袋のなかに持ったまま、ゆっくりとそこを下っていった。大きな青空見上げていると、向こうの通りで馬車を動かしている農夫がこちらに気づき手を振ってくる。
「ライラ! 今日も元気かい?」
「ええ、ラグナーおじさん! 今日はとってもいい天気ね!」
 遠い距離を埋めるように大声で叫び合い、二人は笑顔を交わし合う。その農夫の背中がさらに小さく遠ざかっていくのを見送りながらライラは青空を仰いで深呼吸をした。手の中の袋から漂ってくるベラグの実の香が甘酸っぱく、ライラはより清々しい思いに浸った。
 けれど、ふいに異質な匂いが混じっていることに気づき、ハッと周囲に視線を馳せる。
「これは……血……?」
 そう思うなり、実の入った袋をそこに置いて風上……森の方角へと走った。ガサガサと茂みをかき分け、シンッと静まりかえった森の中を見渡す。より濃くなる血の匂い。ライラが目を閉じ、耳を澄ませると微かに、本当に微かだが苦しげな呼吸が聞こえた。
「誰か! 誰かいるんですか!?」
 叫んで呼びかけるが返事はない。
 不安はあったが、こんな田舎に盗賊が出たこともなかったし、ライラは絶対に怪我人がいるのだと思い必死にその辺りを探した。声を掛けながら、駆け回っていると不意に低く喘ぐ声が聞こえて、ライラはその場所へと駆ける。
「!!」
 一つの茂みをかき分けると、ライラはそこに肩に深い傷を負い、多量に出血して倒れ込んでいる男を見つけた。
「大丈夫ですか!?」
 すぐに駆け寄ってライラは腰を下ろし、彼を抱き上げる。
 俯せの上体から仰向けにさせられて傷が痛んだのか、男は呻いた。
「……離っ…せっ……」
 微かに開いた目でライラを視界に確認すると、男は低く、しかし途切れ途切れに牽制した。けれど、ライラはそれに怯むことなく、自分のスカートの裾を引き裂き、それを止血のために男の肩の傷へと巻き付ける。
「……ッッッ!」
 締め付ける瞬間、男の顔が激痛に歪む。
 ライラは青ざめながらも必死に応急処置を施した。
「動けますか? 此処は冷えます。傷に障りますから移動しましょう」
 そう言って、怪我をしていない方の肩に身をくぐらせて男の体を支え、ライラはその場から歩き出す。男は最初拒絶の反応を示したが、傷が痛んで呻き、今まであの傷で倒れていたために体力を消耗しているのか、次第に力無くライラに従った。




 一瞬の油断だった。
 いつも通りに<オーナー>の指示で標的を待ち伏せし、予定通りの時刻にヤツがそこを通った時、SLE能力を使って襲った。しかし相手も襲撃を危惧していたのか、SLE能力者を雇っていた。そのせいで早めに終わらせるつもりが予想外に手間取り、相手の応援が来て逃げるしかなくなった。
 必死に逃げたが、相手もしつこく何処までも追ってきた。おかげで都市を出て、辺境まで逃げ込む始末だ。
 <組織>には戻れない。戻ったところで任務失敗で殺される。
 そういう場所だった、あそこは。
 途中酷い傷を肩に負って、命からがら逃げ切った。だが悪あがきもそこまで。
 追っ手がいなくなったところでこの怪我で彷徨っても助からない。
 もう駄目だと思い、しかし何処かでこの荒みきった人生を終われることに安堵しながら森の中で突っ伏した。
 そして声が聞こえた。
 天国に着いたのかと思ったが、まさか自分がそんな場所に行けるはずがないと苦笑した。しかし、まだ聞こえるその声は地の底のそれにしては清く透き通るように美しい声だった。瞬間傷が痛み、痛覚が戻ってきて呻いた。
 その直後、誰かが駆け寄ってくる音。
 そして暖かな手が自分を抱き上げた。
 ああ、人の手とはこんなに暖かなものだったのだろうかとその時不意に思った。
 自分の人生の中で人間など、汚くて冷たい生き物でしかなかったから。
 同時に傷がまた痛んだ。
 それに反応して気遣う声がまた響く。うっすらと目を開くと、そこには天使がいた。
 天使でなくてなんだというのだ。
 人間はこんなに美しくない。
 人間はこんなに温かくない。
 人間はこんなに純粋な優しい目をしていない。
 彼女は確かに神の御使いだった。
 その手が自分に触れている。
 ―…許されない、そんなことは。
 彼女のような汚れ無き存在が汚れきった自分に触れるなど、在ってはならない。
 だから離せ、と。
 絞り出すように言った。
 けれど彼女は聞かず、傷の手当てを始めた。拒否しようとしたが、痛みが襲ってきてそれどころでは無くなった。次第に意識は薄れていった。
 ――そして、再び開くはずの無かった目をゆっくりと開く。
 何かが床に落ちる音が聞こえた。
 その音の方向へ視線を馳せると、あの女性が目を見開いてこちらを見つめていた。落ちたのは料理をかき混ぜる道具の何かだった。何という名称なのかは知らないが。女性は急いで自分へと駆け寄ってきた。
「良かった!! 目が覚めたんですね!!? もう3日も眠ったままだったから助からないかとっ!!」
 そう涙ぐんだ瞳で嬉しそうに微笑み、自分の手を握りしめてきた。
「君は……?」
 周囲を見渡すと、小さな一軒家らしい。自分はその寝台の上にいた。
 一つしかそれがないことから、彼女の一人暮らしなのだろうか?
 では、3日も自分が此処を占領していたというなら彼女は何処で寝たのか。
「私はここに住んでいるライラというんです。昨年病気の母が死んで、ここでずっと一人で暮らしています。覚えていますか? 貴方はそこの森の中で倒れていたんですよ?」
 心配そうにこちらの肩を見つめながら女性は問うてくる。傷は手厚い手当が施されており、包帯で巻かれていた。まだ動かすと痛むがそう大したことはない。
「ああ…そうだ…君が助けてくれたんだったな」
 夢だと思っていた事を思い出し、そう言って男はじっと女性を見つめた。
 その視線があまりにも真っ直ぐに向けられるものだからライラは少し恥ずかしげにたじろぐ。
「…あの…私、何か顔についてます?」
「あ、いや…」
 頬を赤らめて上目遣いに聞いてくるライラに、男は躊躇い勝ちに言う。
「すまない、君のことを天使だとばかり思っていたものだから。…やっぱり人間だったんだな。まさかこんな綺麗な人間がいるとは思わなくて」
 男がそう言った瞬間、ライラは一瞬放心し、内容を理解するなり一気に顔を真っ赤にさせた。
「てってててっ天使だなんてッ!!」
 熱くなった頬を両手で覆い、ライラは声を上擦らせる。
 その反応に男は首を傾げた。
「悪い……気に触ったか?」
 その男の言葉にさらにライラは慌てふためいて両手を横にブンブンと振った。
「いえ! そのっ…綺麗だとか天使だなんて、い…いいっ…言われたことないから!! びっくりしちゃって!!」
「そうか? …俺はそう思ったんだが…」
 都市にも一般的に<美人>とちやほやされる女はいたが、ドレスや宝石で身を包み他人と比べたり卑下して自分を誇張するような彼女らを男は綺麗だとは思ったことは一度もなかった。現に、漆黒の髪に碧眼で端麗な顔立ちのこの男に言い寄る女は多かったが、男がその内の誰かの手を取ることはなかった。
 男の言葉にライラはさらに顔を真っ赤にさせ恥ずかしげに俯く。
 そしてそれをじっと見守っていた男を、しばらくして鼓動を落ち着かせた後に見上げ、問う。
「それで、…その…貴方の名前はなんて言うんですか?」
 それに男はキョトンとして、頭の中で自分の名前と呼べるものを探した。
「……組織の中ではNO.49と呼ばれていた」
「な……ナンバー49?」
 怪訝そうに聞き返すライラに男は悲哀の笑みを浮かべて答える。
「俺は小さい頃に親に売られて暗殺集団の組織に入れられたんだ。今回もその仕事の途中でしくじって逃げてここまで来た。もう組織には戻れないだろうけどな」
 そう告げると、ライラの表情が凍り付いた。まさか、自分が暗殺者だったとは予想していなかったのだろう。
 でなければ、今までの対応など有り得ない。
 予想通りのその反応を苦笑しながら見つめ、男は続ける。
「せっかく助けてくれたのにすまない。俺は君に命を救われていいような人間じゃないんだよ。……あそこで野垂れ死ぬべきだったんだ」
 そう何処か静かな様子で男は自分の右手を見下ろした。
 それが血に濡れて見えるのは今に始まった事じゃない。
「多くの人間を殺した。どいつもこいつも金しか頭にないような屑みたいな奴らだったが、……そいつらに比べても俺は最低の人間なんだろうな」
 ゆっくりと開いていた手の平を男は握りしめる。けれど体力を消耗しているせいか大して力は入らなかった。
 そのことに男は自嘲げに笑うと、一度目を瞑り、再び開いて不意に立ち上がる。やはり、ふらついたがこの程度なら少しは歩けるはずだ。
「世話になった」
「……っ」
 弱々しい笑みを浮かべて、男は強張った表情で自分を見つめるライラに告げた。ライラは言葉を返せぬまま、壁に手を突きながら危なっかしくドアへと向かう男を、揺れる眼差しでじっと見据える。
 そして男の手がドアノブに触れた瞬間、ライラは意を決して唇を強く噛み締め、弾けたように男へと駆け寄った。
「…っ…待って!」
 背中に飛びついてきたライラに思わず男はよろけながらそれでも驚愕の表情で振り返る。
「きっ…君?」
 戸惑いながらそうどうしたのかと呼びかける男に、ライラは顔をグッと上げ、言った。
「<ライラ>です」
「………」
 微かに涙ぐんだ、しかし強気な瞳でそう言われ、男はさらに困惑する。
「それはさっきも聞いたが……」
「ライラです!」
 なおも強く言い募られ、男は少し圧倒されて彼女の言葉を復唱した。
「ラ…ライラ…?」
 口にするとライラは花が咲き誇るように微笑む。
 それに目を見張った男の手を、ライラはしっかりと両手で包み込んだ。
「はい、……私はライラです。昨年死んだ母は薬剤師でした。その娘である私が怪我人をちゃんと治療せずに外に放り出せません」
 言われた言葉に、男はしばし瞬きを繰り返し…そして意味を理解して眉を顰めた。
「しかしっ、言っただろう!? 俺はっ……」
「貴方が何者かなんて知りません」
 ライラの言い切りに男は呆然とする。
 俯いて、ライラは言葉を紡ぐ。
「私は……貴方が過去にどんな罪を犯したかなんて知らない」
 彼女はゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。
「でも……貴方の手はちゃんと温かい」
 優しく、囁くように言ってライラはそのまま彼の手に口付ける。
 男はさらに目を見開いた。ライラは静かな笑みを讃えたまま続ける。
「母が死ぬ時どんどん冷たくなっていって……貴方も最初氷のように冷たかったから、このまま死んでしまうのではないかとずっと怖かった。……でも、今、貴方の手はちゃんと温かい」
 ライラはじっと男の目を見つめた。
 その暖かな光を宿した瞳が、男の心の奥まで躊躇なく進んでくる。
「辛い思いをして、可哀想な人。貴方の過去の過ちは消せないけど……でも、せっかく助かった命だから……大切にして」
「……ッッ」
 男は顔を歪め、そしてその腕でライラの体を引き寄せ、力の限りに抱き締めた。唐突な抱擁に、彼女は少し驚いたようだったが、こちらが泣いているということに気づくと、何も言わずにそっと背に腕を回して母のように抱き返してくれた。
 初めて、こんなにも優しく暖かな人間に会った日だった。触れてはいけないのだと分かっていたが、それでも抱き締めずにはいられないほどに。
 そして、決心した。
 傷が癒えるまで、と。
 傷が癒え次第すぐにここを出て行こう、と。
 必要以上に彼女の傍にいては行けない、と。
 この温もりを忘れないようにしっかりと抱き締めながら、そう心に決めた。




「ルード! こっちよ!!」
 太陽の日差しに照らされて眩しいほどの笑顔を振りまくライラを、男は目を細めて見遣る。
 あれから彼女は<ルード>という名を男に提案し、彼も喜んでその名を受け入れた。彼女の口からその名が紡がれる度に高揚していく自分の感情をルードはただただ純粋に嬉しいと思った。
「あまりはしゃぎすぎると疲れるぞ」
 苦笑しながら彼女の場所へとたどり着くと、ライラは朗らかな笑みを携えたままルードの右腕に自分の腕を回す。怪我をしていた彼の左肩には衣服の隙間から白い包帯がまだちらちらと覗いていた。
「だって、ルードがやっと外に出られるまで回復したんだもの!! 早く私の大好きな故郷の自然を見て貰いたくて!!」
 そう言う彼女の金の髪が丘の上で風に揺れ、美しい流れを生んでいた。亜麻色の瞳がまっすぐに自分に向けられて、嬉々とした光を宿している。その光景に微笑ましいものを感じながら、ルードも微笑んだ。
「ああ、とても綺麗だよ」
「でしょう!? 都市なんかのネオンライトなんかとは比べようがないわ!!」
 ルードの言葉にライラはそう得意げに胸を張ったが、それにルードは苦笑して付け加える。
「君が、ね」
「………」
 ライラは暫く笑みを携えたまま固まり、瞬時に顔を真っ赤にゆで上げた。
「ルルルルッッルードったら!! いつもそんなこと言って私をからかって!!」
「からかってなんかないさ。本音だ」
 心外そうに言い返すルードにライラはさらに頬を朱に染め上げる。
「もっ…もう! ルードったら、天然のたらしなのね!!」
 そう言ってツンッと赤くなった顔を隠すようにライラは顔を逸らした。その可愛らしい態度にまたクスクスと失笑しながらルードは言う。
「違うよ。こんなことライラにしか言ったことない」
「…………」
チロリ、と疑うような視線をライラが向ける。
それにルードはこれ以上ないほどに優しい笑みを浮かべて続けた。
「ライラにしか、言わないよ」
 そう甘く囁くとライラがじっと上目遣いに見つめてくる。
「…本当?」
「本当」
「本当に本当?」
「本当に本当」
「本当に本当に本当?」
「本当に本当に本当だ」
「ほんっ……きゃ!?」
 まだ言い募りそうなライラを、ルードは微笑んだまま引き寄せて抱き締めた。ライラはそれにまた朱を頬に足したが、ルードはそれでも強く彼女を抱き締める。慌てていたライラも次第にほだされて、ゆっくりと躊躇い勝ちに彼の背中に両手を回した。丘の上を風が吹き抜け、二人の金と漆黒の髪がその中に靡く。
 風にうねる草たちがサアアァァァァァと遠くで音を立てていた。
 暖かな感触に、ライラはそっと目を閉じる。
「……ルード」
「……何?」
 不意な呼びかけにルードが優しく問い返すと、ライラはその顔をルードの胸に埋めたまま呟く。
「ずっと……私の傍にいてくれる?」
「………」
 ピクリッと彼女に回していた手が震えた。それに、ライラはしがみつくようにルードに回した手に力を入れてくる。
 彼女は、気づいていたのだ、とルードはそれに悟る。
 自分がその内此処から姿を消す気でいることを。
 いつも罪悪感に苛まれながら、苦しんでいることも。
 必死に引き留めようとするかのように背中に回され、力を込められたその細い腕に、ルードは胸を締め付けられた。
「ずっと傍にいて。……何処にも行かないで」
「っ……ライラ! 俺はっっ……!!」
 悲痛に顔を歪めながら体を少し離して、ルードは見上げてくるライラの目を見つめ告げようとする。
 だが言葉は紡げなかった。
 その前に、唇を彼女のソレが塞いでいた。
「………」
 ゆっくりと離れていく彼女の顔を、ルードは目を見開いて呆然と見つめる。
「ラ…イ…」
「……好きなの」
 亜麻色の瞳が、じっとこちらを射抜く。
「ルードが好き。離れたくない。……行かないで」
「………っ」
 ルードは困惑に顔を染め上げながら、逃れるようにライラから顔を背けた。もはやあの亜麻色の瞳を直視することは出来なかった。長居しすぎたのだ、彼女のもとに。
 彼女が……自分に対して特別な好意を抱いてくれていることはなんとなく気づいていた。だがそれは一時的な感情だと割り切っていた。彼女はきっと怪我人に対する慈愛の心と恋愛感情とをはき違えているだけに過ぎない、と。きっと自分が姿を消せば、最初は悲しむことになるだろうが、きっと本当に側にいるべき誰かを見つけて己の勘違いに気づいてくれるだろうと思っていた。
 だから、自分も短い束の間の幸せを後悔の無いように味わおうと思っていたのだ。
 だが、その前に彼女が自分の意図を知ってしまうなんて、予想外だった。
 …拒絶せねば、ならない。彼女のことを考えてやるならば。
 自分などと一緒にいていい存在ではないのだ、彼女は。
 言うべきだ、口に出して。
 ――…俺は君のことをそういう対象では見れない、と。
「ライラ……俺……は……」
 助けてもらったから、その負い目で優しくしていただけ。
 そこに特別な感情はない、と。
「君のことを、そういう風にはっ……」
 自分のことなど忘れて、他の男と幸せになって欲しい、と。
 言わなければ………。
「……ルード……」
 彼女の手がそっとこちらの袖を握る。
 その手は微かに震えていて、見上げてくるその目は懇願するように。
 ――ああ
 ……きっと彼女を手放しては生きていけない。
 気づけば、彼女の体を引き寄せて抱き締めていた。そして白い透けるようなその頬に手を滑らせ、その唇を奪う。
 何も考えられない。この瞬間が永遠に止まってしまえば、と。
 ただそれだけ。
「………っ」
 深く激しい口付けに彼女が縋り付くようにこちらの肩を掴みシャツを握りしめた。それに肩の傷が少し疼いたはずだが、ほとんど何も感じない。
 ただ無心に彼女を求めた。
「………ルード」
 ゆっくりと唇を離すとライラは少し切れた息を吐きながら名を呼ぶ。
「君を愛している」
 その瞳をじっと見つめながらルードはそう言いきった。
 美しいその金の髪も。
 何にも汚れないその暖かな手も。
 誰も惑わせない、真っ直ぐなその瞳も。
「愛している」
 涙が頬を伝う。
 丘の上の風が二人を包み込むように、何者にも奪われぬように吹き荒れた。
 過ちも何もかも全てただこの一時だけは忘れてしまえるように。





 それからはずっと幸せな日々が続いていた。
 平凡で、ありきたりで日常的な幸福。
 けれど他には何も要らなかった。
 彼女さえ、笑っていてくれたなら。
 それだけで十分だった。
 街に買い出しに行った彼女が血相を変えて家に帰ってくるあの日までは。
「ルード!! どうしよう!! どうしッ……!!」
「ライラ!? どうした!? 何かあったのか!?」
 青白い顔で震えながら飛び込んできたライラは震える口許を手で押さえ込んで涙を流していた。その背をさすりながら落ち着かせ、問うと彼女は絶望に眩んだ瞳でルードを見上げる。
「王子がっ…タダス王子が私を娶るとっ…町中で私を見つけて決めたと…!!」
 言われた言葉をルードは一瞬理解できなかった。
「…王…子…?」
 呆然と繰り返すルードにライラはコクコクと頷いた。
「そっ…その場は何とか言い繕って逃げてきたけど…此処ではきっとすぐに見つかってしまう!!」
 彼女はそう言ってわっと泣き出す。ルードは放心したように立ち尽くして、ライラの言葉を解した。
 王子が、ライラに求婚した。
 有り得ないことではない。
 彼女は美しいから、王子の目に叶ったとしても何の不思議はない。
 ――…潮時ではないのか?
 いいきっかけではないのか?
 ルードの心の奥底に沈めていた言葉が這い上がってくる。
 いつまでも彼女の傍にいられるとでも?
 血に汚れたお前が。
「……ライラ」
 か細い呼びかけに、ライラは顔を上げた。見上げたルードの顔が次に何を言おうとしているのかを表していた。
 だから、彼女はルードが言葉を発するよりも先に。
「嫌よ、ルード」
「!」
 ルードは目を見開いてライラを見つめた。
 ライラはただゆっくりと首を横に振る。
「私、王子のところになんて嫁がないわ」
「ライラっ…」
「ルード…連れ去って」
 ライラは揺るぎない瞳で言いきった。
 ルードは悲痛に顔を歪めながらその視線から顔を逸らす。
「ライラ……ここは君の愛した故郷だ。此処から出て行くと言うことはこの家も故郷も捨てると言うことだぞ」
「王子に嫁いでもどうせ此処には戻れないわ!」
 必死に諭すルードの言葉をライラは叫ぶように否定した。涙を流す瞳がただただ真っ直ぐにルードを射抜く。
「なら、貴方しかいらない。私、貴方と共に行くわ。────連れていって」
「……ライ…ラ…」
 ライラに握られた手を、ルードは一度硬く目を瞑った後に強く握り返した。
 彼女を突き放す力など…ルードは持っていなかった。



 深夜の森は異常なほどに静寂を抱えている。
 その入り口で馬を待たせながらルードは静かに目を閉じていた。
『君に選択肢を渡す』
 蘇るのは先ほどの自分の声。
 連れ去って欲しいと哀願する彼女に発した言葉たちだ。
『よく考えて欲しい、これは大事なことだから。もし本当に俺と行く気があるなら今夜、君が俺を見つけ出してくれたあの森の前に必要なものを持って来てくれ。夜が明けるまでに君が来ないときは一人で行く』
 告げた言葉に、彼女はじっとこちらを見つめていた。
 その眼差しが答えだと言うかのように。
 そして彼女が小さく頷いて、自分は家を出た。馬を用意し、食料や、必要なものを用意してから、日暮れの頃に森へと向かった。
そこで彼女を待ちながら心の中で葛藤していた。
 来てくれるな、と。
 来てくれ、と。
 渦巻く思いに気が狂いそうだった。静寂の中で何度も嫌な声を聞いた。
 自分自身の声を。
 夜は不気味なほどに静かに更け、そして開けていく。
 ……彼女は、来なかった。
 考え直したのだろう、と。
 彼女のことだから、自分に迷惑をかけたくなかったのかもしれない、と。
 東から差し込む朝日を見上げながら、安堵している心の中に喪失感が同居しているのを見て見ぬふりをした。
 さあ、あとはこの馬に跨ってここから消え失せればいい。
 彼女は王子を城へ迎えられて幸せになる。
 絵に描いたような幕引きじゃないか。
 そう自嘲げに心中で呟いて、馬に乗ろうとしたその時だった。
「ルード!!」
 老人の掠れた声に呼びかけられて、振り返ると、ひどく慌てた農夫がいた。身寄りのないライラに目をかけてやっていた、近くに住む老人だった。老いた体に鞭打って走ってきたのだろう。激しく息を乱して、目を見開いていた。
「お前さんっ、こんなところで何をしているんだ!!」
「何をって……」
 不可解そうに眉を顰めるルードに、農夫は縋るようにしがみついて来た。
「いいから早くっ!! 大変なんだ!! ライラがッ…!!」
「!?」
 その言葉に、ルードは目を見張ってすぐさま彼女の家へと駆けだした。
 …嫌な風が、ルードの脇をすり抜けた。


 カシャン…カシャン…と、開かれたままの扉から吹き込む風に、吊されていた料理道具たちが重なり合って音を出している。テーブルは横に倒れ、その上に飾ってあった花瓶は砕け散り、華と水がそこに混ざり合っていた。こじ開けられた扉の鍵は変形し、引きちぎられたテーブルクロスなど、随所に抵抗の跡が見られる部屋は在るべき主を持っていなかった。
 呆然とそれらを見つめるルードの後ろに、追ってきた農夫が息を切らしながらその場に座り込む。
 その瞳は深い悲しみに染まり、次第に涙を浮かべ、豆だらけの手がその両目を覆った。
「…王族の奴らが…昨晩押しかけてきてな…ひどく騒ぐ音がするもんだからライラの家の方を見てみると、ライラが無理矢理連れて行かれておった。…止めようと思ったんじゃが、この老いぼれの足では馬には追いつけんかったよ…」
「…………」
 ルードはただ放心したように突っ立っていた。
 農夫の言葉が右から左へと流れていく。
 それでも頭は逃すべきでない情報を理解していた。
「……王…族」
『タダス王子が私を娶ると……』
『此処ではきっとすぐに見つかってしまう…』
 ライラの言葉が蘇ってくる。
 同時に押さえようもない怒りも。
「タダスッ……!!」
 長いこと消えていた殺意という炎が目に浮かび上がる。
 暗殺者として、常に携えていたもの。けれどかつてはこんなに熱い感情ではなかった。冷え切ったなんの感情もない殺意だった。
 けれど、今は違う。
 抱いた原因が私憤故に。
 殺してやる、と。
 思った瞬間。
『……せっかく助かった命だから大事にして』
 手のひらに包み込まれる暖かな感覚。
 涙を浮かべながらそう懇願した少女の姿が視界を覆う。
 優しき人。
 ああ、駄目だ。
 これではいけない。
 このままでは昔と何も変わらないではないか。
 ルードは静かに顔を覆う。
 殺意を消す。
 もはや誰にも抱かぬと決めた感情を。
 それでも。
「…ライラ…」
 君だけは……。
 ――渡せない。
 ルードという名を得た青年は、静かに彼方の城を見据えた。






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