黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第三話(Y)


「話してくれない?」
 涼子は風に靡く髪を払いながら男に問う。だが、男は堅く口を閉ざしたまま、油断ならぬ光を眼差しに携えて涼子を見据えていた。その様子に、涼子少し苦笑して再び口を開いた。
「……まあ、だいたいの予測は付いてるのよ。あのリリィは実はあんたの家族か恋人。そこをあの馬鹿王子が横暴の限りを尽くして強奪、何らかの方法で彼女の記憶を操作してるってところでしょう?」
 吊された外套が風に揺れ、光が同調して揺れた。その光の下の男は目を伏せたまま、涼子の言葉を聞く。
 肯定はしないが、否定しないところから涼子は勝手に肯定と位置づけた。
 喉の奥がら嘲笑が込み上げる。
「はっ! あの王子がやりそうな非道だわ。……まあ、まんまと攫われるあんたも相当の間抜けだけど?」
「………」
 涼子の言葉に男の眉が微かに顰められる。
 そして、その体がゆらりと動いた。次の瞬間、涼子はセントルの剣を鞘から抜き出す。
 高い金属音と共に、男の短剣と涼子の剣がぶつかり合った。間髪おかずに男の左手が動き、もう一つの短剣が涼子の右側から襲いかかる。直ぐさま男の右手の短剣と拮抗していた剣を滑らせて、涼子は身を回し、男の短剣は涼子の髪先を僅かに散らすに留まる。そのまま涼子が大きく剣を振りきれば、男は大きく後ろに跳躍して刃を逃れた。
 ――…速い
 涼子は心の中で男をそう評する。身体的SLE能力無しにここまで動けるということは、特別な訓練を受けた者なのだろう。
「短気ね…いきなり斬りかかるなんてレディに失礼じゃない?」
 ゆっくりと体を起こして、そう口端で笑うと、男は再び短剣を構えてきた。その様子に涼子は思わず嘆息する。
「まあ、話を聞きなさいよ。誰もあんたの敵だなんて言ってないでしょ? それとも図星指されて怒っちゃったのかしら?」
「……黒鋼の翼、だろう? タダスの護衛の」 
 最後の嫌味を受け流して、男は確信の元にそう問う。
「ええ、かなり不本意ながらね」
「なら、敵だ」
 言い切る男に、涼子は思いっきり顔を顰めてやる。
「だから、人の話聞いてる? 『不本意ながら』って聞こえなかったかしら?」
「………」
 沈黙だけを返してくる男。そこに敵意が宿り続けていることに涼子はため息を吐く。
「間抜けの上に、頭の固い奴ね」
 呆れた口調を隠しもしない涼子に、男は益々眉を顰める。だが、相手が敵意を行動へと移す前に、涼子はフッと笑みを浮かべていってやった。
「……でも奪われたものを一応取り戻しに来たことは誉めてあげる。たった一人でってのも点数が高いわね。そこんとこを評価してやって手伝ってあげないでもないわよ?」
 口許で指を遊ばせる涼子が囁くように告げれば、男は訝しげな視線を涼子に向ける。
「……何故、お前が…」
 不審の色隠せぬ男の声に涼子は軽い笑い声を上げた。
「そうね…単に、あの馬鹿王子を失脚させてやりたい…ってとこかしら? あいつの被害に遭ってるのはあんたのお姫様だけじゃないのよ」
「………」
 男の無言を風にざわめく木々の音が埋める。
 カランカランと軽く左右に揺れ続ける外套も音を立て、それらが暗闇の中で風の存在を肯定していた。
 しかし、何に肯定されずとも、涼子の漆黒の瞳と男の蒼鉛の瞳は暗闇の中でも確かな存在を確立させている。
「………」
 男の口が何かを紡ごうと開かれた。
 だが、次の瞬間にその場に響いたのは彼の声ではなく、涼子にとっても男にとっても耳障りで忌々しい声だった。
「いくら冗談でもそれは酷いってものだよ、涼子君」
 ハッと振り返った涼子の目に眩しい光が乱入してきて思わず手を顔を前に翳す。自らの手の影の中で見たものは嫌味な笑みを露わにしたタダス王子、そして先ほどの警備員達だった。彼らの手の中のライトが涼子と男を照らし出している。どうやら根性はなくとも、告げ口する図々しさは持ち合わせていたようだ。
 涼子を捕らえていたタダス王子の視線が、不意に男に向けられた。憎たらしい侮蔑の笑みがタダス王子の口許に浮かび上がる。
「侵入者だ、捕らえよ」
「はっ!」
「ッッ!」
 男は闇の中に逃げ去ろうとしたが背後に潜んでいた数人の警備員に虚を突かれ、多勢に無勢で、その場に押し倒された。
舌打ちした涼子が反射的に動く。しかしその腕をタダス王子が掴んだ。
「……離しなさいよ」
 振り返った涼子の視線が氷の針のようにタダス王子に差し向けられ、怒気を露わにした低い声が命令する。
 しかしタダス王子は笑みを浮かべたまま彼女の腕を握る手に力を込めた。
「……そう冷たくあしらわないでくれたまえ。この男の処置は君次第なのだよ? 涼子君」
「………」
 目を見張った涼子を、タダス王子は満足そうに眺める。
 外套が揺れていた。
 けれどもその下にはすでに多くの光が混雑しておりそれ自体の光は掻き消えている。
「……話しをしよう、涼子君。僕の部屋についてきたまえ」





   ※

 全ての記憶を取り戻したリリィ────否、ライラは口許を抑えて放心したように固まっていた。
 そしてその瞬間に何もかもに吐き気を覚える。
 この部屋にも、あの侍女にも、着ているドレスにも。
 すべて、自分の敵だった。
 この場に自分の望むものなど何一つなかった。
 なのにどうして自分はああも平然と微笑んでいられたのだろう?
「……ライラさん」
 シコウの呼びかけで彼女はゆっくりと青年を見上げる。
 言葉が、喉を突く。
「私…ルードが好きなんです。」
 譫言のように告げると青年は穏やかな笑みを返した。
「そうですね」
「ルードを愛しているんです」
「ええ」
「ルードしかいらないんです」
「ええ」
「私……」
 ライラは静かに天井を見上げる。
 そこに彼と隣り合って仰いだ青空はない。
 けれど彼はいた。
 自分を迎えに、ここから救い出すために。
「私……ずっとこれが言いたかった」
 涙が頬を伝う。
 静かに。
「ずっとこれだけが言いたかった……」
 彼を愛している、と。
 貴方だけを愛している、と。
 こんなに当たり前のことを長いこと言えずにいた。
 誰のせいで?
 ……あの男のせいで。
 ライラの瞳に敵意が宿る。
 誰にも優しく暖かな感情で答える彼女が初めて抱いた敵意。
「……私、タダス王子を許せません」
 小娘一人が王子相手に何ができると一笑されるのが落ちだったとしても。
「許せません」
 シコウを見上げ、操り人形だった女性は糸を断ち切り断言する。
 シコウは笑った。
 けれど、嘲りのそれではなく、ただ彼女の思いに同調するような笑みで。
「では、ライラさん。…私と共に証拠品押収と行きますか?」
「……証拠品?」
 シコウの思いがけない言葉にライラは呆けて彼の言葉を繰り返した。
 銀髪の美青年は一癖ある笑みで手に持っていた紙をライラのベットの上に広げて見せる。
 ライラがそれを覗き込むとそれは見慣れた場所の見取り図だった。
「これは…この城の、ですか?」
 ライラが首を傾げて問うとシコウはにっこりと微笑んで答える。
「ええ、そうです。しかし、面立って教えてくれる見取り図は何かと不都合な物は修正されていましてね。この見取り図はちょっとここのコンピューターからハッキングさせてもらった裏の物です。城内からだとやりやすいものですよ」
「…ハ…ハッキン…?」
 田舎に住んでいた女性には聞き慣れない言葉にライラは疑問符を頭上で回した。
 シコウは苦笑して言う。
「とにかく、これは何もかもを正直に載せた見取り図だってことです」
 それで、ライラはなんとなく理解した。
 あくまでなんとなく、だが。
「はあ…でもそれがどうかしたんですか?」
「ここを見て下さい」
 言われてライラはシコウの指が指し示す場所を見つめる。
 城の各部にあるタダス王子専用の部屋の内、一階の一番東端にある部屋から矢印が引っ張っていて、取って付けたような四角い部屋へと伸びている。
 その部屋の下には<地下室>と書かれていた。
「ワインの貯蔵庫と牢以外に地下室なんてあったかしら……」
「ですから言ったでしょう? 面に出回っている見取り図からは<不都合な物>が消されている、と。おそらくごく一部の人間だけが知っているのでしょう」
 不敵な笑みを翳して語る青年をライラは真っ直ぐに見上げた。
「ここに証拠がある、と?」
 シコウは微笑む。
「十中八九」






   ※

 部屋を照らす灯りは天井ではなく壁に備え付けてあった。
 幾方からも仄かな淡い光が部屋の中の人物を照らし出し、金持ちの部屋にはお約束の鹿の頭の剥製なんかが無言で前を見つめている。
 派手な色彩で彩られた部屋はまさにタダス王子の自室らしいものだった。
 木製の丸いテーブルの上には年代物のワインが置いてある。
「あいつはどこにやったのよ」
 半ば強制的にタダス王子の自室に連れてこられた涼子は不機嫌なのを露わに口を開いた。
 部屋の中には涼子とタダス王子二人きり。
 おそらく部屋の外に何人か見張りが居るだろうが、部屋の中は二人きりである。
 だから涼子も余裕を翳しているのだ。
 まあ、たとえ警備員が何人いようと問題ないが……タダス王子一人なら相手にもならない。
 力の面では主導権は常に涼子にあった。
「一応、牢へ。今のところは危害を与えないように言ってあるよ」
 王室らしい優雅な足取りで椅子に腰掛け、タダス王子は涼子が生理的に受け付けない笑みを口許でひけらかす。
 それに涼子は嘲笑した。
「『今のところは』……ね。相変わらず味のない明け透けな男だわ、あんた」
「それはどうも」
「誉めてないわよ」
 笑ったまま返してくるタダス王子に涼子は眉を顰めて低く言い放つ。しかしそれでもタダス王子の見下すような視線に変化はなかった。
 ピリピリと痛みの走るような涼子の視線を受けながらテーブル上のワインボトルに手を伸ばし、グラスに血のような赤いワインを注ぐ。
 涼子はそれを嫌悪の感情を伴った視線で追った。
「飲むかい?」
「結構よ」
 首を傾げて問うてくるタダス王子に、涼子は即答する。するとクツクツと愉快そうに王子は喉を鳴らした。彼の手の中のワインもそれに揺れる。
「別に薬なんて入ってないよ」
「………」
 嫌な言い回しをしてくる王子に涼子はただ眉を顰めてその場に佇んだ。一口、タダス王子はワインを含み、味わうように喉の奥へと通して涼子を見遣る。
「彼らを助けてあげたいと言うなら、あの侵入者を逃して、リリィ……いや、ライラのことも自由にしてやってもいいよ」
 賭け事をするような視線でタダス王子は涼子を見つめる。
 涼子は無感情な瞳でそれを受けた。
「……ただでそういう親切な行いをしてやるような善良な男には見えないけど?」
 冷たい声で吐き捨てるように言えば、王子はニヤリと笑みを刻む。
「そうだね……、それ相応の代価が欲しいってところかな」
 言って、タダス王子は椅子から立ち上がり、涼子の方へと歩を進めた。彼は涼子の目の前に辿り着くと、スルリとその手で涼子の横髪を梳く。
 次いで、目元を歪めた涼子の耳元に口を寄せ、そっと囁いた。
「君を僕の物に」






    ※

 一階に下りたシコウとライラは東端の部屋へと廊下を進んだ。
 時々すれ違う使用人達が足を止め、二人に向けて頭を下げる。普段なら…リリィの頃なら笑顔で応対していたライラも、この時ばかりは強張った顔で俯いたまま前へと歩み続けた。シコウの影になっていたから、おそらく使用人達はその変化に気づいていないだろう。
「鍵は在りますか?」
 シコウの問いかけにライラは頷く。
「此処の部屋の鍵だけは私が渡して貰っていた鍵の中にはありませんでしたが、彼がよく使う部屋の引き出しにありました」
 シコウは微笑で答えて部屋の前に歩を進めた。部屋は何の変哲もない扉を携えていた。
「鍵を」
 言われてライラは鍵を取り出し、シコウの手に渡す。鍵はすんなりと鍵穴に受け入れられて一回転した。軽く音を立てて扉を開き、二人は部屋の中へと足を踏み出す。そしてすぐにシコウはその内装の派手さに苦く笑う。
「……何というか…タダス王子らしい部屋ですね」
「……」
 微かな呆れを含むシコウの感想にライラはただ顔を俯けて沈黙を守った。タダス王子の話はやはり気が向かないらしい。
 息を吐いてシコウは部屋の右奥へと行く。
 そこには寝台が誂えてあったが、シコウは土足のまま寝台の上に登った。これにはライラも思わず目を見開く。
「あの…シコウ様…」
「さあ、ライラさんも来て下さい。地下室への扉を開くとしましょう」
 躊躇するライラにシコウは手を差し出す。ライラは戸惑いながらもその手を取り、シコウと同じように寝台の上を踏みつけながら端へと向かった。壁の目の前につくと、シコウはその周りを見渡した。
 寝台の端に宝石箱のようなものがあり、シコウはその中に一つの指輪を見つける。
「この指輪を見たことは?」
「いいえ、王子がつけているのを見たことはありませんが……」
 シコウの問いにライラがそう答えると、シコウは微笑を浮かべてそれを手に取り、壁と寝台との隙間を探った。シーツに隠れた場所に奇妙な凹みの感触を見つけ、シコウはそこに指輪を持っていく。輪状のその凹みに指輪はしっかりとはめ込むことができた。
 ズッ……と一瞬音がする。
 その他は何の変化もない。
 ライラが見守る中、シコウは目の前の壁をグッと押した。すると壁の一部がドアのように開き、覗けば地下室への階段が奥に続いている。ライラは感嘆してシコウを見つめた。
「よくお分かりになりましたね」
「実は、昔同じような隠し部屋を作った人の書いた本を読んだことが在りましてね。どうやらタダス王子もその本を読んだらしい」
 苦笑してそうシコウは告げ、寝台からその地下室へ続く隠し扉の向こうへと降り、ライラにも手を貸してそこに降ろす。
「暗いですから足下に気をつけて下さい」
「はい」
 暗闇の中階段をゆっくりと二人は下っていく。階段自体はそう長いものではなかった。カツッカツッと靴の音が薄暗く冷たい空間に響き渡る。
 次第に明かりに照らされた、開けた場所に出た。
 酷く何かの刺激臭がし、コポコポと空気が水中から逃げ出そうとする音がいくつも重なる。
 その前で自分の研究の結果を見つめている老人が一人。
 無言で降りてきたシコウたちに、背を向けたまま何かを調合しているその老人が語りかけてきた。
「王子かい……薬は昨夜渡したばかりだろう? それとも効かなかったかね?」
 老人の手の中で青紫色の液体と黄緑色の液体が混ざり合って無色透明の液体へと変わる。
 その結果を見届けてから老人はこちらを振り返った。
「…………」
 試験管が床に落ち、ガラスが砕け散る音が響く。丸い眼鏡越しの老いた目が見開かれていた。
 皺の寄ってくたびれたその耳に、にっこりと微笑んだシコウの静かな声が届く。
「研究中失礼、プロフェッサー。私達のせいでせっかくの研究結果が台無しですね」
 砕け散ったガラスの隙間を縫うように液体が老人の足下で広がっていく。シコウは人当たりの良い笑みを浮かべたままゆっくりと足を前に出した。それに老人の顔が引きつる。
「おっ…お前は…確か…セントルのっ……」
「おや、私をご存じなんですか? 地下に篭もりっぱなしかと思えば、タダス王子から<外>の情報もしっかりお聞きのようだ。それとも特別に知らされていたんですか? タダス王子が思い人を得るための計画上での邪魔な人間……とでも?」
「……っ」
 矢次に述べられるシコウの台詞に老人が一際体を震わせて後退した。同じくライラも目を見張っている。
「シコウ様……これは一体どういう……」
 ライラの疑問に、シコウは微笑んで答えた。彼の白磁の肌が、薄暗い地下室の灯りの中で仄かに浮かび上がる。
「ここはタダス王子の秘密基地ってとこですよ。このご老体は彼に雇われてここで様々な研究をさせてもらっていたのでしょう。もちろんタダス王子の都合の良い研究を、ね。ライラさん、貴方が記憶を失い、王子の好きなように動かされて始めたのがいつか覚えていますか?」
 問われてライラは考え込んだ。
 記憶を探り、それが靄がかり始めた頃を思い出す。
「水を……閉じこめられていた場所で水を頂いた時だと……思います」
 そう言うライラの視界に先ほどこぼれ落ちた老人の足下の液体が映る。
 無色透明の、まるで……。
 まるで水のような……。
「っっ!!」
 ライラは気づき、青ざめて口許を抑えた。
「そういうことです」
 微笑して肯定するシコウ。ガタガタと震える老人はライラの様子に眉を顰める。
「リリィッ…お前まさか記憶が…!? 馬鹿な!!」
 さらに後退した老人の背は研究の台に当たり、様々な備品が床に落ちて耳障りな音を響かせた。けれど老人はそんなことには気を置かず、ライラを驚愕の眼差しで見つめる。その眼差しをライラはキッと睨むように受けた。
「ええ! 全て思い出しました!! 私はリリィなどではありません!! ライラです!! よくも人を物のように……っっ!!」
 ライラは自分の胸元を震える手で握りしめ、声を荒げる。そんな彼女をシコウは手を前に出して制止した。それにライラはグッと出しかけた言葉を呑み込む。そのまま俯いたライラを見届けて、シコウは老人に向き直った。
「プロフェッサー、貴方はさきほど昨夜王子に薬を渡したとおっしゃいましたね?」
「…わしはっ……王子の言われたとおりにやっただけだ!!」
「質問に答えて下さい」
 押し込まれるような声で告げられ、老人は顔を青ざめ、震えながら俯く。出た声は震えていた。
「……新しい薬の試作品だ。ほとんど完成していたが。少し前から急ぎで作らされていた。昨夜…今すぐ必要だと…王子が取りに来た……」
「王子は確かに『今すぐ』、と?」
「そうだ」
 シコウの確認を、老人はしっかりと肯定する。
 その瞬間、始終穏やかだっやシコウの眉が顰められた。
「シコウ様……」
 その変化にライラの不安げな声が掛けられる。シコウはそれに返事をすることなく、暫く考え込むと、急に研究室の端に置いてある機械へと駆け寄った。
「あっ…待て! 勝手に……っ!!」
「………」
 声を掛けてくる老人を無視して、シコウは通信制の機械に何かを打ち込む。それに応答して画面はさまざまな情報を並べ立てた。その羅列の中に、シコウは地下牢への捕獲者が追加されている情報を見つける。
 それはたった今起こったことだ。
「やはり、か。……王子は完璧主義者らしい」
 嘲笑にも似た笑みがシコウの口許に浮かぶ。その行動をライラは不可解げに見つめた。
「あの…シコウ様……どうなされたのですか?」
 問いかけにシコウは暫く沈黙する。画面上の情報を見つめながら、彼は思案した。その視線が不意に老人へと向けられる。
「…ひっ…!」
 怯えきった老人はそれだけで震え上がった。シコウはそれを見届けてから直ぐさま画面へと視線を戻し、また何かを打ち込んでいく。そして常の彼の動作からは考えられないような乱暴な扱いで横に備え付けてあった受話器のような装置をはぎ取り、繋がった相手に早口で言った。
「セントルですか? 黒鋼の翼のシコウ=G=グランスです。実は一人証拠人として身柄を確保しておいてもらいたい人物がいます。今こちらは手が離せませんのでそちらでお願いします。転移装置を使いますので準備を。はい、今すぐです」
 向こうから短い了承の言葉が続き、シコウは受話器を置いて転移装置を取り出す。そしてそのまま老人へと近づいていった。
「くっ……来るな!!」
 老人は慌ててそこから逃れようと暴れ出す。シコウに向かって手当たり次第に物を投げつけてなんとか距離を保とうとした。その内の試験管が机に当たって砕け、その破片がすぐ傍のシコウの頬を掠り、血の線がそこに浮かび上がる。
「シコウ様!!」
 ライラが悲鳴を上げる。
 だがそれに一番動揺したのは投げつけた本人だった。
 老人の顔から血の気が引き、その場で固まる。それでも減らず口は健在だった。
「……わしっ……わしに近寄るからだ!! これ以上痛い目を合わされたくなかったらさっさとここから出て行け!!」
 叫ぶように言いきると彼は弾かれたように再び何か備品を鷲掴みにしてシコウに向け、構える。
 しかし。
「……プロフェッサー」
 俯いたシコウの口から漏れる低い、声。
「貴方と遊んでいる暇はないんですよ」
 殺気すら感じさせるほどの視線が凍り付いた老人の手の中の備品を床に落とさせる。
 ライラも思わず目を見開いてシコウを見つめた。
 紫炎の瞳が、酷薄に細められて相手を射刺す。
「これ以上手を煩わせるようなら、手段を選びませんよ?」
「……ぁ……」
 老人はガタガタと震え、放心してその場に座り込む。
 それに、シコウはため息一つ落として彼の傍に腰を下ろし、老人の手首に装置を取り付けた。
 赤いランプが点滅し、準備ができていることを表す。シコウはまた受話器を取り、告げた。
「準備できました。今から転送します」
『了解』
 それから数秒後、赤かったランプの光が青く変化し、文字通り老人はその場から掻き消える。
「………」
 呆然と見遣っていたライラは不意にシコウが目の前に来たことに気づいてハッと顔を上げた。
 彼は常通りの穏やかな表情で微笑んでいたので、ライラは何処かほっとする。
「ライラさん、申し訳ありませんが貴方達のことまで面倒を見る余裕がありません。私の言うとおりにして頂けば上手くいくはずですので、ここからは一人で頑張って頂けますか?」
「あ……はい」
 シコウの言葉に、ライラは小さく頷いた。それにシコウも微笑んで応える。
「牢の場所はご存知ですね?」
「牢、ですか? …ええ、はい。知っています。」
 ライラは記憶の中を辿って答えた。その返事にシコウは頷いて、ライラに耳打ちする。
「では………」
そうして告げられた言葉に、ライラは唇を引き締めて、しっかりと頷いた。




    ※

「馬っ鹿じゃないの?」
 耳元で囁かれた甘い言葉に、涼子が開口一番返した言葉はそれだった。
 眉を顰めて、その反応を受け取るタダス王子を、見下すように涼子は見やる。
「何よ? その顔。まさか意外な返答だと思ってるわけ? ならつくづく本物の愚か者ね」
 嘲笑を交えたその声に、タダス王子はますます顔を顰めた。
「あの二人がどうなってもいいのかい?」
「別に?」
 即答だった。なんでもないように涼子は言葉を連ねる。
「あの見ず知らずの可哀相な恋人たちを、この身を捧げてまで助けてやる道理も義理もないし。私はそこまで犠牲精神に溢れた人間じゃないわよ」
 肩を竦めて言い切ると、タダス王子は口を閉ざして沈黙した。その様子を涼子は満足げに眺める。
 ――馬鹿だ。
 本当にその程度の切り札しか持っていなかったのか、この男は。
 大体、シコウが動いている筈だからライラは問題ない。一方の…あの男については、幾ら牢に繋がれているとはいえ、所詮普通の牢に過ぎない。SLE能力者である彼はどうとでもして抜け出すことができるはず。一度剣を交えた感触から言って、看守などが下手に手を出せば返り討ちに遭うだろう。タダス王子の持ち掛けてきた駆け引きなど、まったく無意味に他ならないのだ。
 涼子は相手の策略の薄っぺらさに呆れて罵る言葉も出てこなかった。
「とまあ……情のない女で失望したかしら? だったらもう二度とまとわりつかないでよね」
「………」
「じゃあ、私はもう帰るから」
 沈黙を守り続けるタダス王子に、ため息一つついて涼子は背を向けた。
 これ以上この馬鹿王子に付き合ってられない。
 そう思って扉のノブに手をかける。そして、後は軽く力を込めてそれを回すだけのはずだった。
 しかし、何故かそのノブはどれだけ力を入れても微動だにしなかった。
 ――……タダス王子が鍵でも閉めたのか?
 そう思って王子を振り返ろうとした涼子は不意に視界が垂直に落ちるのを感じる。
 力の入らない膝が折れてその場に倒れこんでしまったのだった。
 そこで涼子は理解した。
 ノブが回らないのではない。
 手に力が入っていなかったのだ、と。
「君らしい……いい解答だったよ、涼子君」
 動かぬ体で何とか視線を上げ、涼子はタダス王子を見上げる。そこには自分が勝利者だとでもいわんばかりの表情をした王子がいた。
「ッッ……あんた……何をッッ!?」
 驚愕しながら言葉を発する涼子に、タダス王子はただ満悦の笑みを浮かべる。
 それに涼子は唇を噛みしめた。
 ここに来てからは何にも手をつけなかったはずだ。さっきのワインも断った。
 なのに、何故……?
「昨日の夕食は美味しかったかい? 涼子君」
「ッ!?」
 目を見開いた涼子の顎を捕らえ、タダス王子は顔を向かい合わせる。
「何事も準備しておくものだな……昨日、夕食を口にした時点で君はすでにかごの中の鳥だったのだよ」
「……っっ」
 勝ち誇ったタダス王子の顔を涼子は嫌悪を露わに睨み付けた。王子はただ笑う。
「さあ、涼子君……さきほどの僕の願い、叶えてもらおうか?」
 タダス王子の碧眼が闇に染まった。




   ※

 冷たく薄暗い牢の中で男はただじっとしていた。
 端に座り込み、目を閉じて、まるで銅像のように微動だにしない。看守達はその姿を不可解げに見遣っている。
「おい、あれどうしたんだ?」
 一人がルードを指さし、ついに口を開いた。
「さあ? 諦めでもついたんじゃないか?」
 肩を竦めて応える同僚に、聞いた男は「ふうん」と適当な相槌を打った。その言葉を耳に入れながらもルードの思考はまったく別のことを考えていた。それは、これからどうするかについて。あの女は王子に何処かへ連れて行かれた。どうやら彼女次第で自分の処置は決まるらしいが、あまり期待はしていない。
 所詮他人だ。
 ならば、自分の手で此処は切り抜けねばなるまい。ライラも取り戻さなければならない。とにかくここから出ることが先決だ。
「……お?」
 ゆっくりと立ち上がったルードに看守達が視線を向けた。おもむろに開かれた碧の瞳が彼らを見渡す。
 一歩一歩、鉄格子へと近づく。
 3人の看守がこちらの動作をじっと見つめている。
 静かに、右手に力を集中させた。
 ……SLE能力。
「………」
 けれど発動させるその直前に。
「入りますよ」
 ドアの開く音、透き通った美しい声音。
 看守達はハッと入室してきた存在を見遣り、一礼した。
「これはっ…リリィ様…」
「!?」
 ルードは目を見開いて女性を見つめる。
 何故此処に彼女が……?
 ルードの困惑の視線を無視して、王子の婚約者の女性は看守達を見遣った。
「タダス王子の命でこの者を連れ出しに来ました。王子の所まで連れていきますので牢を開けて下さい」
 言われた看守達は慌てて鍵を開ける。
 彼らの職柄、このような高貴な女性に会うことはほとんどないらしく、戸惑っているのが手に取るようにわかる。鍵を開け、鉄格子の扉を開くと彼の腕に嵌められた手錠のついた鎖を持って女性はルードを外に出るように催促した。
 あまりに好都合すぎる状況に、ルードには訳がわからなかったが、これを逃してはならないと思い直し、素直に従いながら神経を集中させる。
「おっ……お気をつけて」
 看守達は緊張した顔で敬礼して二人が出て行くのを見送った。……この状況の不自然さにも気づかずに。
 外に出ると真っ暗な闇だった。
 外套がそこかしこに置かれているが、それでも夜の闇には打ち勝てない。ルードは静かに前を先導するライラへと手錠でまとめられた手を伸ばした。
 ――彼女をこのまま此処から連れ去る。
 記憶のない彼女にとっては自分は不審者でしかなく、抵抗されるのは目に見えていたが、それでも今はそうするしかない。彼女が望むのなら自分は身を退いただろうが、このような操り人形にされているのを黙ってみているわけにはいかなかった。
 伸ばした指先に相変わらず美しい流れを生んでいるその金の髪が触れる。
 そして悲鳴を上げないように手で口を覆って暗闇に乗じ、攫う……はずだった。
 だがそれを為すよりも先に。
「……っっルードッ!!」
 こちらから手を伸ばすべくもなく、不意に立ち止まったその金髪の主は男の胸に飛び込んできた。
 突然の抱擁にルードは目を見開く。
 彼女は今自分を何と呼んだ?
 ルードと?
 忘れさせられていたのではなかったのか?
「……ラ…ライラ……?」
「ルード!! 会いたかった!!」
 ライラは涙目でルードを見上げ、先ほどのとは表情を一変させた満面の笑みで微笑んだ。
「…君…まさか記憶が…!?」
 驚愕の表情で見つめるルードに、ライラは嬉々とした声で応えた。
「そうよ! シコウ様がっ……セントルの黒鋼の翼の方が私を救い出してくれたの!!」
「黒鋼……」
 男は眉を顰め、その脳裏にあの黒髪の女を思い浮かべる。
 彼女も確か、黒鋼の……。
「っ!!」
 男は驚愕に揺れる。
 彼女の言葉は真実だった。ライラを救い出してくれた。
 そして、彼女は今………。
「ライラ! 大変だ! その人の相方が王子に連れて行かれた。……俺たちのせいだ。助けに行かなければ!!」
 ライラの肩を掴んで訴えるルードに、しかしライラは穏やかな表情のまま首を横に振った。亜麻色の瞳が真っ直ぐにルードを見据える。
 あの、揺るぎない光。
「いいえ、ルード。私達はこのまま逃げるの」
「しかしッッ!!」
 言い募るルードを、ライラはしっかりとした口調で制した。
「大丈夫よ、ルード。涼子様にはシコウ様がついてるわ。今、私達が彼らの所へ行っては全てを台無しにしてしまう。邪魔になるだけよ。私達にできることはただここから逃げることだけ」
「……ライラ……」
 ライラはルードの手を握りしめ、彼を見上げる。
 蒼鉛の瞳、暖かな手。
 ……愛しき人。
「行きましょう、ルード。シコウ様の指示通りに」







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