黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第四話 (T)



 駆け抜ける、その小柄な体は満身創痍というに相応しかった。
 苦しげに顰められた眉は決して緩むことなく、口から息を吸い込む度に空気に晒され乾ききった喉がひりひりとした痛みを訴えてくる。吹き出した汗が蒼の美しい髪を頬にへばり付かせ、おまけに幾度も転んだせいで膝は擦り剥け、服は煤汚れてしまっていた。
それでも、少女はその足を止めようとはしなかった。死にものぐるいで瓦礫と言っても相違ない廃墟の中を走る。そう、少女は何処まででも走り続けるつもりだった。限界が来て、その場に気絶して倒れ込むまで、絶対に自分から諦めるつもりはなかった。
「!? っきゃッッ!」
 唐突に、グンッと思いっきりスカートを引き留められ、少女は危うくつんのめって派手に転けそうになる。何とか体勢を立て直し振り返れば、崩れ落ちた瓦礫から剥き出しになっていた鉄筋にスカートの裾が引っかかってた。少女は咄嗟に背後を見遣り、そこに人影がまだないことを確認して慌ててスカートを解こうと手を伸ばす。ところが焦りのためか手元が震えて上手くいかない。おまけにその鉄筋に沿うようにもう一本細い棒が突き出ていたらしく、先の尖ったそれは見事に少女のスカートを貫通していた。複雑に突き刺さったそれは引っ張れど至る所に引っかかっていて全くとれそうにない。
「やだもうッッ……何これっ……!」
 顔面蒼白になった少女はしきりに背後を見遣りながら必死に手元を動かす。その視界の端に、錯覚か現実か、影がちらついた。それだけで少女の顔からざっと血の気が引く。もはやスカートなど構っていられなかった。大切な人がくれたスカートだったが、こうなっては仕方がない。意を決した少女は、その裾を両手で掴み、鉄筋に絡まってしまっているところから勢いよく生地を引き裂いた。無惨に避けてしまったスカートに、これをくれた人の顔が浮かんで胸がチリッと傷んだが、この状況でいつまでも感傷に浸っているわけにはいかない。少女は唇を強く噛み締めると、辛さを振り切るように再び地を蹴って走り出す。だが、少し走って再びその息が切れだし、一つの角を曲がったその瞬間、少女は、壁ではない何かに勢いよくぶつかった。倒れこそしなかったものの反動でよろめいた彼女の視界が陰る。その影を作り出している眼前の人という壁を見上げて、少女は呆然と「あ…」と掠れた声を出した。そして、青ざめた表情が悲鳴に繋がる寸前、少女のみぞうちに大きな拳が遠慮無く叩き込まれた。幼気な体はあまりの衝撃に低く呻き、その場に崩れ落ちる。その非情な行いを眉一つ動かさずに為した長身の男は、倒れ込んだ少女を無感動に見下ろしながら、右手に持っていた通信機を口元に寄せた。
「SLE能力者の少女一名捕獲しました」
 短い機械音の後に、「了解」の一言だけが返ってくる。男はそのまま通信機を切ると気遣いの欠片もない所作で少女の体を担ぎ上げる。気を失っている少女は物言わずぐったりと男の肩に乗せられる。近くに待機しているだろう仲間のもとへと歩き出したその男の腰には、日の光を受けて閃く、白刃のセントルの剣が無言で揺れていた。







 最上階より一階下の階に、十老達の自室があった。もちろん、燗老ジェルバの部屋もここにあり、当人はまさにそこで机一杯の書類と向き合っているところである。その背後には壮大な空が広がっていた。というのも、入り口と向かい合うように置かれたジェルバの机の後ろの壁は全面硝子張りとなっているからである。
 カツン、と何かがその開くことない巨大な窓に当たる音がする。ジェルバがそれを無視してなおも机上を見下ろしているとさらにカツン、カツンと断続的に音は続く。やがて、その音を聞くのが両手では数え切れなくなるほどになった時、ジェルバは気怠げに視線を上げた。
「いい加減にしないかい、涼子」
 呆れたように告げるジェルバの視線の先では、セントル唯一にして最強の女騎士、涼子=D=トランベルが横長のソファーに寝そべった状態で丁度できたての紙飛行機を飛ばそうとしているところだった。重要書類で構成された純白の薄っぺらい機体は無言で宙に押し出され、ジェルバの脇を通り、先端を透明な硝子にぶつけて床に墜落した。そこにはすでに己と同じ運命を一足早く経験した先駆者達が横たわっている。件の機体は例に漏れず、文句も言わずにその中へと埋没した。それを気怠げに見送って、一呼吸置くと、涼子はまた近くの書類の紙を掴み上げては、適当に折りたたんでいく。ジェルバの言うことなど我関せずと言わんばかりの態度に、老婆は深いため息を一つ。
 ジェルバ自身、これが不機嫌な理由は誰に言われずとも自分でよく分かっていた。この気分屋の娘を苛立たせる方法は幾らでも存在するが、その中でも抜群に眉間に青筋を立てさせられるのが、今回のように、とある人物に関することについてだ。
「仕方なかろう。煉殿にしかできん仕事なのじゃからの」
「いけ好かない餓鬼のお守りが?」
 機嫌の傾斜加減を存分に伝えてくる低い声が間髪おかず返ってくる。しかもかなり端的かつ乱暴に。燗老は少しの頭痛を覚えながら、相手の暴言を諫めた。
「口が悪いぞ。ヒラリー令嬢と言え」
 ピクリ、と涼子の体が反応する。そしてゆっくりと上げられたその顔が形取ったのは見事なまでの満面の笑みであった。嫌味なほどに、否、嫌味そのもののために造り上げたにこやかな笑顔をジェルバに向けながら、両頬を引き上げている紅唇が開かれる。心なしか、一気に室温が低下した。
「親馬鹿の父親にこれでもかってくらいに花よ蝶よと甘やかされながら温室の中ぬくぬくと成長あそばせて、口を開けばあれが欲しいこれが欲しいの我欲丸出し我が儘姫様で、終いには父親とセントルとの話し合いにはこの私の片翼が来ないと受け付けないからなんて馬鹿なこと言いだし、そんな横暴な意見を許すような理性の欠片もないお先真っ暗のご立派なアゼル都市長様をお父上にお持ちのヒラリー令嬢のお守りが、そんなに重要なお仕事なのかしら? ねえ、私に断り一つ無く、あいつを行かせた燗老様?」
「…………」
 どこもかしこも棘だらけの言葉に、ジェルバはもう黙するしかなかった。その無言の空間に涼子が意識を向けていたのは数秒で、相手から満足のいく返答など塵ほどにも期待していない女騎士はさっさと貼り付けた笑みを剥ぎ取って再び折りかけの紙飛行機に手を伸ばす。これから目を通す方ではなく、既に処理を終えた書類の山からばかり工作の素材を選ぶのは、あからさまな嫌がらせだろう。
「わかった」
 その嫌がらせが実害に及ぶ前に老婆はそう防波堤を立てる。ようやく手を止め、自分を見遣った涼子に、ジェルバはただ大きなため息を吐き出して告げた。
「わかったからやめろ、涼子。今すぐアゼル市に連絡を取って煉殿にもすぐに帰ってくるよう伝えようて――――じゃから、とりあえず、今持ってるその書類を置け。それが一番面倒なやつなんじゃよ」
 老婆の言葉に、涼子はチラリと自分の手の中にある書類を見る。それからふんっと鼻を鳴らしてその面倒だという書類を元の場所に戻してやった。その様を見届けて、老婆が安堵の息をつく。だが、涼子のその手が書類を置いたその状態のまま、まだ離れずにいることに気付いてその頬は再び緊張した。
「追加条件」
 短く呟いた女騎士のそれに、ジェルバは片眉を上げる。
「今度からは私に必ず通すこと、OK?」
「………善処しよう」
 苦く落とされる一言。確定的な返答が出てこなかったことに、涼子はかなり不満そうな顔をしたが、それがこの老婆にとってぎりぎりの妥協であることはわかったのでそれで許してやった。書類の上に固定していた手を外し、全身をソファーに預ける。
「全く、シコウがいなきゃ仕事も受けられないし、退屈この上ないわ」
 大きなため息と共に呟かれたそれに、老婆のペンがふと止まった。
「…ああ、そうじゃ。仕事と言えばな、涼子」
 一度は手元の書類に戻した視線を再び上げたジェルバに、涼子も視線を返す。
「近頃、未開地区が厄介なことになっていそうじゃ」
「厄介?」
「ああ、組織ができかけているとの噂がある」
 ジェルバの言葉に、涼子は明らかに拍子抜けしたように片眉を上げて見せる。
「そんなこと? SLE能力犯罪組織なんて幾らでもあるじゃない。それこそこの前のレザルダントの件みたいに」
「タラグス、な。……あの程度ならまだ良い。組織とは言っても結局は己の欲望に沿って各々が動いている状態じゃからの。問題は組織全員をまとめ上げるリーダーが出てきた場合じゃ」
 老婆は右手のペンをコツンと机に軽く打ち付ける。よく意味が分からないと首を傾げる涼子に、ジェルバはゆっくりと口を開いた。
「SLE能力者をまとめるのは、なかなか難儀なことよ。一般人と比べて力がある分個々の個性が強いからな。当然、その規模が大きくなるのに比例してその難易度も上がる。わしも身を以て経験しておるから、よくわかる。じゃから、なかなか完成度の高い組織というのはないものなんじゃが……まあ、偶におるわけじゃよ」
 セントルを仕切る老婆が不穏な笑みを浮かべる。
「奴らを纏め上げるカリスマ性を持った奴がな」
「………」
「総じて、そういった組織は手強いものじゃ」
 ジェルバはそう呟いて背もたれにもたれ掛かった。影になったジェルバの表情は窺い知れなかったが、その目の鋭い光だけは炯々としていて、涼子は黙ってその目を見つめる。長い沈黙が落ちた。
「……まあ」
 ふと、苦笑混じりの老婆の声がその沈黙を破るように呟かれる。
「このセントルを揺るがすほどではなかろうがな」
「………」
「とりあず、その時はお前の活躍に期待しとるよ、涼子」
 猛禽類を思わせる老婆の目に、涼子はただ沈黙で返すだけだった。




 ※

 中心都市と言えど、未だ手つかずの地域が存在する。蔓延る闇の色。溶け出す罪悪にすら視線を向けもせずに新たな罪が生まれる。そこにはサン・ラプス以後、廃墟と化した修復されぬままの建物が建ち並び、多くの表舞台には立てぬ者達の巣窟となっていた。そのため、犯罪管理組織セントル・マナでさえ不用意にこの場所へは干渉できない。仮にこの地区そのものを一掃しようと手を伸ばせば、普段は個々で好き勝手やっている輩が揃って牙を剥くかも知れない。いや、確実にそうなるだろう。その際に予想される犠牲はさすがにセントルも不用意に差し出せるものではない。だからこそ、未開地区は未だその存在を暗黙に見逃されていた。巨大な懐に、様々な思惑に埋もれる人々を抱きながら。
 その未開地区の廃墟の一つ。さらにその隠された地下通路の奥の一室に複数の人の影が沈黙の中にいた。とってつけたような長テーブルを囲むように座る者達。誰もが机上に視線を落とし、言葉を交わすどころか視線すら合わせずにただじっと待っていた。此処に集ってから、一体どれだけの時間が過ぎたか。何人かが沈黙に耐えきれずに、ため息をつきかけたその時、前触れ無くその部屋唯一の扉が開かれた。開けたのは一人の男だった。この場に置いてリーダーとも言うべき存在の男。彼と初めて見えた者はその外見に誰もが一瞬息を呑む。黒衣に身を包み込んでいるところまではいい。問題は、手も足も顔も例外なく、肌という肌を全て隙間なく覆う包帯だった。そしてその隙間から覗く漆黒の双眸。切れるほどに鋭く強い意志を宿したそれは、視線を向けただけで相手を黙らせるほどの威圧感があった。
 男は一瞬で集まった仲間の視線を一身に受けながら、その闇色の瞳で薄暗い部屋をゆっくりと見渡した。秒刻みで流れる時間が、男の言葉を待っている。彼は一呼吸空けてから言葉を放った。
「マリーが、捕まった」
 ザワリ、と一言で沈黙に沈んでいたその場がざわめく。人々の顔に、「やはり」という呟きと共に落胆と困惑が巣くい、頭を抱えてしまうものまでいた。
「目を離すんじゃなかった」
「だからあの時一人にするなと……」
「どうするんだ、これから」
 様々な言葉の中に過去を悔いる言葉と未来を案じる言葉が落とされる。彼らの反応を無言で見守っていたリーダーたる男は後者に応えた。
「俺が単独で助けに行く。マリーは俺の妹だからな」
 組織に迷惑をかけるつもりはない、と男は淡々と言い切った。だが、その言葉に他の者達は一層戸惑いを見せる。行くと言うからには彼はいくら引き留めても行ってしまうだろう。だが、彼に万が一のことがあったらと思うと、気が気じゃない。かといって、敵に──セントルに、正面切って戦いを挑むには時期尚早過ぎる。そう不安を如実に伝えてくる仲間の顔に、男は一つ、息を吐き出した。
「大丈夫だ。上手く紛れ込んで必ずマリーを連れて帰る」
「だが、いくらなんでも一人でなんてッ……」
 声を上げたのはこの中で一番若い赤毛の青年だった。黒衣の男はその青年に鋭利な視線を向ける。それだけで、青年は体を震わせて息を呑んだ。
「俺が、自分たちのリーダーが信じられないのか?」
「……ッ」
 反論も出来ず、きつく唇を噛み締めて青年は俯く。もはやほとんどの者が何かを言いたげにしながらも堅く口を閉ざして同じように視線を落としていた。その中で唯一声を上げた男がいた。
「わかった」
 一言、そう告げたのは組織の中で一番年長の初老の男。その言葉に幾つかの批判的な視線を向けられたが、男はそれを受け流して、リーダーの男を見据えた。
「行ってこい、カース。だが、必ずマリーと一緒に戻ってきてくれよ。お前がいなきゃ俺たちの組織はお終いなんだからな」
 苦笑とともに向けられる言葉に、受け取った男も笑みを浮かべた。包帯の下から覗くその笑みは不敵そのもので、この場の誰もの視線を惹きつける。
「ああ」
 短い返答を返し、カースと呼ばれた男は踵を返す。扉の閉じる音を聞きながら、彼らは祈るように男を背を見送った。





BACK    NEXT