黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第四話 (U)
目を覚ますと、そこは白一色の世界だった。
マリーはだるい体を引き摺るようにして起こし、そっと周りを見渡す。大して広いわけではない、むしろ狭いと形容できる一室。あるのは寝台代わりの段差くらいで、シーツも何もなく、そんな場所に転がされていた体は鈍い痛みを感じていた。そして、腹部に走る鈍痛。そういえば、腹を殴られたのだと思い出して、マリーは顔を顰めた。気を失うほどに叩き込まれたのだからそう簡単に痛みは消えない。そして、状況を確認するために、もう一度顔を上げた。四方を取り囲む壁は真っ白でシミ一つない。それが物理的によりも精神的に圧迫感を与える。否、四方ではなかった。色は白いに違いないが右側の側面は壁ではなく格子が嵌め込まれている。どうやら個室の牢の中に閉じこめられているらしい。
「やっぱり、セントル・マナ……なんだよね」
そっとため息を吐きながら呟いた言葉に返答はない。だが、少女は確信していた。それと同時にゆっくりと立ち上がる。捕まったことを嘆いていても状況が改善されるわけではない。終わったことは終わったこととして、打開策を考えた方が余程有益だ。
手を掲げ、意識を集中させてみる。駄目もとで試してみたその行動は、残念ながら、やはり失敗に終わった。この牢の中ではSLE能力は無効化されてしまう。マリーは大きく深呼吸をして、自分の上着の裏に手を忍ばせる。在るかどうか、解らない。もしかしたら見つけられて没収されているかもしれない。一抹の希望に縋り付くように、内ポケットの中に手を入れる。指先に、堅く冷たい金属の感触が当たった。希望の、感触だ。
「…あったぁっ…」
深い安堵の息を吐きながらその場にしゃがみ込む。だが、時間を無駄にはできないから、すぐに立ち上がって、格子に近づき、そっとその外の様子を伺った。見張りが一人いる。こちらに背を向けた状態で、透明硝子に仕切られたドアの傍に立っている。そして、外側の格子の隣の壁に、灰色の小さな箱が付けられていた。見張りに気づかれないよう、静かに格子の間から手を伸ばして箱の様子を確かめる。マリーの、子供の腕でギリギリ通る格子の隙間、マリーの身長でギリギリ届く箱の位置。全ての偶然がマリーに味方していた。後は、見張りに見咎められぬように事を成せるかどうかだ。
「……っ」
必死に、手を伸ばし、指先に触れる感触で目的の箇所を探す。奥の方の側面に、微かな凹凸の感触を見つめて、マリーはこれだと確信した。そして、一旦腕を引っ込め、今度は内ポケットから取り出した小さな金属片をその手に持つ。さっき触った感触から、凹凸の幅を推測しながら、スライドさせてサイズの変更できる金属片を調節した。口を引き締め、金属片を見つめて、覚悟を決めるように一人、頷き、マリーは再び格子の間から腕を伸ばす。見張りの背中に、どうか振り向かないでと祈りながら、命一杯腕を伸ばした。人差し指と中指に挟んだ金属片。下手をして取り落とせば次はない。緊張に震えながらマリーは手を伸ばす。カツン、と箱に金属片が当たる。そして、意を決して指先に力を込めて金属片をその凹凸の中へと押し込んだ。それと同時に見張りの男がこちらを振り返った。咄嗟に引っ込められたマリーの腕を見つけて、怪訝そうに眉を顰め、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「おい、何をしていた」
すぐ傍までやってくる足音に、マリーはその場にしゃがみ込み、手を合わせて祈る。
――…お願いっっ!上手くいって!!
見張りの影がマリーの前まで来た時、少女の祈りは通じた。灰色の箱、SLE能力を無効化するための装置が突如高い機械音を上げる。その音に驚いた見張りがマリーから視線を逸らした瞬間、マリーは右手に意識を集中させ、それを見張りの男に向かって放つ。
「ぐあっ!?」
バチッという音と共に、感電した男はその場に崩れ落ちた。数秒遅れて、再び装置から機械音が上がり、格子の扉が開く。気を失った男を目の前に、マリーは緊張の糸が切れて座り込んでしまいそうな自分を奮い立たせて、牢の外へと飛び出す。そして嵌め込んだ金属片を再びその手に取り出して、感謝の口づけを落とした。
「サズ……ありがとう!」
金属片の発明者であり、悪戯に上着ポケットからこれをちょっと拝借させて貰っていた相手である、機械関係に精通した仲間の青年の顔を思い出しながらマリーはそう告げた。
直接お礼を告げるためにはまだまだ乗り越えなければならない壁がある。先端技術を持った、セントル・マナだ。脱獄したことはすぐに知れるだろう。マリーは金属片をポケットに直し、そして首から下げていたペンダントを両手で包み込んで額に当てた。
「大丈夫、きっと抜け出せる……私、頑張るよ」
ペンダントを贈ってくれた人、大切な大切な、優しい兄の顔を思い浮かべながら、マリーは自分に言い聞かせるように呟く。そして唇を引き締めて顔を上げ、出口へと駆けだした。
※
涼子はジェルバの部屋を後にして、自室へと一人廊下を歩いていた。本来、騎士である涼子は、騎士の寮に部屋を持っているはずなのだが、只一人女性である彼女を男達の住処に入れるわけにはいかない。まあ、かといって、彼女相手に騎士達が何かできるはずもないが。とにかく、彼女の自室は騎士の寮でも巫女の寮でもない階に孤立して与えられていた。その階は涼子の自室と、特に人の出入りが頻繁にあるような部屋もないためか、人気はほとんどない。現に涼子の他に今、廊下を歩いている者は一人もいなかった。そうして涼子が、ヒールの音を無人の空間に響かせていると、突如、警告ランプが慌ただしく点灯を始める。それと同時に緊急放送も流れてきて、思わず涼子も足を止めた。
『緊急連絡、緊急連絡。SLE能力犯罪者が一名、仮拘留場より脱走しました。セントル内を逃亡中の模様です。騎士及び巫女は対象を見つけ次第、拘束してください。対象は十代前半の少女、身体特徴は小柄で、青い髪に緑の瞳。特出SLE能力は電雷系統類であると思われます。繰り返します……』
しばらく、放送機の方を見上げていた涼子は、大体の内容を聞くと、無関心に自室へと足を進め始める。既に出入り口は封鎖されているだろうし、騎士や巫女がうじゃうじゃいるセントル内では身柄が確保されるのも時間の問題だろう、とあくび一つしながら考えていた。そして部屋の前へと辿り着き、カードを差し込もうとした、その時だった。角隅にある涼子の部屋のその角の向こうから小さな影が飛び込んできて涼子に衝突したのだ。相手は勢いづいていたためか、反動でその場に尻餅をついてしまった。涼子が唐突の出来事に目を見開いていると、相手がぶつけた顔を押さえて、頭を上げる。そして、その瞬間にその体が強張った。
「あ……」
一気に青ざめるその表情。青い髪、緑の瞳、十代前半の小柄な少女。涼子の中で一致はすぐに為された。その時角の向こう側から慌ただしい足音が複数聞こえてくる。おそらく彼女が今の今まで撒いてきた連中だろう。迫ってくる追跡者達に気づいた少女がビクリと体を震わせ、視線を後ろに向け、それから涼子へと戻す。怯えきったその大きな瞳が絶望に揺れて、涼子を見上げている。
「………」
涼子は相手を見下ろしながら、しばらく思案していた。が、もう間もなく、足音が傍までやって来るという時、少女がぎゅっと目を瞑ったその時に、涼子の腕が素早く動いた。
少女の手を掴むと勢いよく引っ張り、またすぐにグンッと放り出す。既にカードを通し開いていた扉の中へ、小さな悲鳴と共に少女の体は吸い込まれていった。ドサッと少女が中に倒れ込む音を確認して、涼子は直ぐさま、カードキー横のボタンを押し、ドアを閉める。その数秒の事の後に、角の向こうから騎士達が姿を現した。彼等は、涼子の姿を認め、あからさまに驚愕の表情を浮かべる。
「これはっ、トランベル一等尉! あ、あの、こちらに少女が来ませんでしたか?」
戸惑いながらも、問うてくる相手に、涼子は素知らぬ顔で返した。
「少女? さあ? 今部屋から出てきたところだから…見てないけど?」
「そうですか……実は脱獄者で、今こちらまで追ってきたところだったのですが」
「ああ、さっき放送されてたヤツね。まあ、セントル内にいるならすぐに捕まるでしょう」
「はっ!では、失礼します!」
敬礼し、彼らは再び駆け出す。そして、その背と足音が遠ざかっていくのを見送って、しばらくの沈黙を置いてから、涼子はゆっくりとドアに向き合い、再びカードを通す。人工的な音とともに開いたドアの向こう、暗闇の中、廊下から差し込む光に照らされた、ただただ呆然としている少女の顔がそこにあった。
「………」
「………」
「…な、なんで……?」
戸惑い隠せずにそう問う少女に、無言で涼子は電気のスイッチを押し、背後のドアを閉める。そのまま、少女の存在を無視するように、その脇を通り過ぎて、上着を脱ぎ、ハンガーにかけた。
「ねぇ、…ちょっと……貴女、セントルの人なんでしょう? 何で助けてくれたの?」
警戒しながら、ゆっくり腰を上げて、少女は涼子を見つめる。涼子は、静かに少女に視線を返した。
「……気まぐれ」
「え?」
「何となく、よ。ま、あんたみたいなガキ一人見逃しても大した実害にはならないだろうし。それに、まあ、ね。私もあんたくらいの年頃でいろいろやっちゃってたし」
涼子の言葉に、マリーはカッと顔を赤らめて言い返す。
「べっ、別に私は悪い事なんてしてないもん!」
「あー、はいはい。まあ、そう思うわよね、大体」
私も今でも悪いことしたなんて思ってないし、と続ける涼子にますますマリーは声を荒げた。
「ほんとに何もしてないったら! …っていうか悪いことしてるのはそっちじゃない!」
その言葉に一瞬、涼子は目を丸めて少女を見つめる。だが、次の瞬間には声を上げて笑った。
「アハハッ、そう、確かにそうかもね」
本気で取り合わない涼子の態度に、マリーは頬を膨らませて拗ねる。その様を面白そうに見遣って、涼子はその頭を軽く叩いてやった。
「まあ、ほとぼりがさめるまでここでじっとしてなさい。警戒が緩くなったら秘密の出口から出してやるから」
「秘密……?」
何それ、と視線で問う少女に、涼子はニヤリと笑った。
「秘密は秘密よ、お嬢ちゃん」
顔を顰めたマリーを無視して、涼子は寝台に身を投げる。そのあまりに無防備な様子に、マリーは拍子抜けした顔をした。しかも、そのまま涼子が動かないのでマリーは所在なさげに視線を彷徨わせることになる。その視線が怪訝そうに部屋を一周するのに数秒。すぐにやることのなくなったマリーはじっと横になった涼子の顔を見つめた。
「あの……」
戸惑いながらかけられる声に、涼子は閉じた瞳をうっすらと開いてマリーを見遣る。少女はどうしようかという仕草で少し悩んでから上目遣いに涼子と視線を合わせて口を開いた。
「で、電気…消した方がいい?」
間の抜けた言葉に、涼子は思わず吹き出した。そして、身軽に起き上がると、さっさと電気のスイッチを切り、寝台に戻るついでに少女の手を取って、そのまま一緒にシーツの上に転がる。唐突なそれに少女は驚いて小さな悲鳴を上げ、身をよじって涼子の腕から逃げようとしたが、それを押さえつけ、涼子はマリーの耳元に囁いた。
「あんた、名前は?」
低い声音で問われて、マリーは顔を真っ赤にしながらしどろもどろに答える。
「……マ、マリー」
「マリーね。私は涼子よ」
涼子、とマリーが確かめるように小さく呟く。涼子は小さく笑ってそれに「そう」と応えた。
「とりあえず、寝ときなさい。夕飯時には起こすから」
それっきり涼子から言葉をかけられなくなって、マリーがそろそろと顔を上げて涼子の様子をうかがうと、既にその両目は閉じられていて、眠りの体勢に入っているようだった。どうやら危害を加えられることはないようだと分かって、マリーはそっと息を吐く。そして自分を包み込む暖かな腕に、今までの張りつめた緊張がほぐされてしまって、気が緩んだ。
「………」
ぐすりっと啜り泣く声に涼子は閉じた瞳を再び開き、腕の中の震える小さな体を見下ろす。そしてそのまま、すぐにまた目を閉じると、ポンポンと背を叩いてやった。やがて啜り泣く声は小さくなり、規則的な寝息へと変わる。目を閉じたまま、涼子はそれを確認してから一つ嘆息を吐いて、ようやく自分も眠りの世界へと足を向けた。
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