黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第五話 (]-U)



 《そこ》に入った途端、千尋は噎せ返るような血臭に顔を顰めた。部屋の中には二人いた。いや、この場合は一人と数えた方がいいのだろうか。
 一方の人間はただの骸と成り果てて床に転がっている。二度と動くことはない。
 その傍で佇む老婆は血塗れた凶器を握ったまま、千尋を振り返った。
 執務室で見るときと寸分違わぬ平静に満ちた顔だった。
 目が合うとジェルバは小さく苦笑する。
「――…やってしまったよ。《テラ・ノマ》について情報を引き出すつもりじゃったんじゃがな」
「………何か」
 あったのですか、と千尋は僅かに困惑したまま問う。男の両手は背後で縛られたままだった。SLE能力も封じられている。それでも老婆に襲い掛かってきたのだろうか。
 老婆は「ああ」と、心底つまらなそうな顔をして、短刀を足元に投げ捨てた。
 そしてその右手に付いた僅かな血痕を見下ろした後、千尋の方へと少し差し出して見せる。
 意図がわからずに首を傾げれば、ジェルバは酷く薄い笑みを向けてきた。
「汚い色だと思わんか?」
「…………」
 ただ、ひたすらに紅いだけのそれ。
 千尋が何も答えられずに居ると、老婆は薄笑いを残したまま、手を引っ込めた。
 そのまま倒れ伏した男へと屈み、その血を男の衣服の端に擦り付けて拭う。完全に色が消えるまで、燗老は二度、三度と擦りつけ続けた。
「……吐き気がなぁ、したんじゃよ」
「…………」
 その行為の合間に色のない声が落ちる。
「これと同じ空気を吸っているかと思うと、吐き気がした」
 だからこうしたのだ、と老婆は無表情で告げた。
 男の血の痕跡を全て削ぎ落とし、ジェルバはただ沈黙するしかなかった千尋へと向き直る。明確に相手が《千尋》であることを意識した視線が、初めてその時向けられる。
「零殿の方はもういいのか?」
 今回の騒動の渦中であったジェナについては一つも触れない老婆に、千尋は少し顔を強張らせたが、そのことには何も言わず、ただ目を伏せて頷いた。
「ええ、体調も大分回復してきました」
「そうか」
 答えて、老婆は何やら思案に入る。その様を微動だにせずにじっと見つめていると、老婆がその視線に気を止めたようにこちらを見た。僅かに揺らいだ千尋の瞳を見て、その口元が皮肉めいた笑みに歪む。
「お主はどう思っておる。《アレ》が《そう》であるかもしれんことに」
「…………」
 千尋は目元を歪めた。そのまま沈黙し、その淵から、やがて声を細く上げた。
「そうでなければいいと、思っています」
「………ほう」
 ジェルバは片眉を上げて、興味深そうに千尋を見つめる。その目から逃れるように、視線を下へと向けて、千尋は噛み締めるように告げた。
「あの人は、あの子を変えてくれた人だから」
「……………」
 ジェルバはしばし、千尋を無言で見つめていたが、やがて小さく笑みを浮かべて言う。
「まあ……自ずと白か黒かは、すぐに分かろうて」
 あまりに視点の遠すぎる老婆の言葉に、千尋は眩暈にも似た視界の捻れを感じながら声を絞り出した。
「もし、そうだったなら、貴女は一体」
「くだらん問いじゃな」
 その問いを予期していたように、ジェルバは皆まで言わせず、切り捨てる。
 目を見張った千尋を見据えながら、声は無感動に続いた。
「実に、くだらない」
「……………」
 千尋の心の内に、波紋が生じる。僅かに逸る動悸は彼女の衝動を駆り立てた。
「燗老」
 固い声は真っ直ぐに老婆を射抜き、空気を震わす。
「契約は、お守り頂けるのですよね?」
 ジェルバは口端で笑った。細められた両目は同情でもするように千尋を見仰ぐ。
「そなたも疑り深いことよ」
「…………」
「約束は果たすさ。必ず、な……じゃから」
 お主は安心してやるべきことを為せと、清閑な空間に響いた言葉に、千尋は固く目を閉じた。



◇◇◆◆◇◇




「そこ、私の特等席なんだけど」
 仏頂面でそう呼びかけられて、シコウが振り返れば絶対安静の人間が上着を肩に羽織ってそこにいた。青年はそれを見て、軽く嘆息する。
「今日は空いているはずなんですがね」
「外の空気が吸いたくなったの」
「長居はしないでくださいよ」
 傷に障りますからと、忠告した言葉に、涼子は案の定眉間に皺を寄せた。
「あんたに言われることじゃない」
「私が言わなきゃ他に誰が言えるんですか、貴女相手に」
 呆れ顔でそう答えれば、涼子は眉をそびやかしたものの、反論はせずに、シコウの隣まで来て、手すりに身を凭れ掛からせて夜景を望む。それを見届けていた青年は、フッと息を吐き出すと、彼女に習って再び、夜景へと向き直った。
「まあ、ちょうど良かったです」
 告げて、ポケットから折りたたまれた紙切れを取り出すなり、涼子へと差し出す。怪訝そうな顔して、とりあえず涼子がそれを受け取ると、青年は軽く説明した。
「ジェナからです、頼まれまして」
「ジェナ? ……ああ、綾のこと」
 気が進まない、といった様子を取り繕う素振りもなく、涼子は惰性で手紙を開く。細いペンで書かれた文字はそれほど長くはなく、数行で終わっている。初めの一文は、彼女が下した判決文になっているらしい。
『すぐに会う機会はなさそうだから、手紙で伝えるけど、まあ、一応シコウ兄様の片翼であることは認めてあげるわ』
 今回の一件で少しは凹んだかと思えば、その文字は生意気さを失っておらず、まあ、いきなり殊勝な態度を向けられても気持ち悪いのでそれはそれでいいか、と思いながら涼子はその先を読み進めていく。
『でも、勘違いしないでよ。シコウ兄様の隣を譲ったわけじゃないんだから。今はシコウ兄様、貴女のこと好きみたいだけど、私はそんなの認めない。絶対に私の方に振り向かせてみせるわ。まあ、それまではせいぜい虫除けになっててよね』
 そして、最後の最後、紙の一番端に今までの文字の半分以下の大きさで『肩の、ごめんなさい』と添えられている。どこまで捻くれた謝り方だと、思わず失笑も漏れるといったものだ。しかし、それにしても、一つひっかかる箇所がある。
 涼子は手紙から傍らで手すりに凭れ掛かったままこちらを見ている青年へと視線を移す。
「シコウ」
「……はい?」
「あんた、私のこと好きなの?」
「…………」
 シコウの表情が、一瞬固まる。だが、それは本当に僅かな時間で、青年はすぐに人好きのする笑みを取り戻すと、そのまま軽い口調で告げた。
「それはまあ、相方ですから」
 その返答に、涼子は小さく首を横に振った。
「そういう意味じゃなくて、」
「…………」
 さざ波のように、青年の笑みがゆっくりと引いてく。その色を失った顔を黙って見つめていると、少しだけ長めの沈黙が流れた。その先で、僅かに小首を傾げた青年は、問いを口にした。
 真っ直ぐに見据えてくる、その紫炎の瞳は揺るぐことなく。
「――言ったら、……くれるんですか?」
 何を。一瞬問いかけて、その前に理解して。
「あげるわ」
 涼子はあっさりと頷いてみせた。
 それを聞いて、青年は……緩やかに笑った。そして、その柔らかい笑みで以って、言葉を返す。
「じゃあ、言いません」
 涼子と同様に、そうあっさりと告げたシコウに、涼子は少し首を傾げて、顔を顰めると、「何それ」と呆れ顔を見せた。
「訳わかんない」
「すみません」
 失笑気味に肩をすくめて謝ってくる青年に、涼子の眉間の皺が増える。
「ねぇ」
 馬鹿馬鹿しい質問だと思いながらも、どうしても聞かずにはいられなかった。
「あんた、寂しいの?」
 シコウの顔が純粋な驚きに彩られ、見張ったその目で涼子を見つめ返す。
「………どうしてですか?」
 さすがに唐突な質問だったらしいと、その顔を見ながら一抹、後悔を感じつつ涼子は仏頂面で答えた。
「そう見えるって言ってる奴がいたから」
 投げやりな態度はまるで拗ねた子供のようだと、自覚して、それに苛立ちを感じた。あんな男の迷い言を気に留めるなんて、馬鹿らしいと内心舌打ちする。一方で涼子の言葉を受け取った青年は「そうですか」と静かに答えて、黙り込んだ。けれど、すぐに涼子に、柔らかな笑みを向けて囁く。
「……涼子さんがいればいいですよ」
 夜風が彼の髪を揺らす。笑みの上にある、紫炎の双眸は薄暗い光の下ではよく見えなかった。
「私は、涼子さんがいれば、それでいいです」
 端正な指先が、涼子の左腕を掴んで、僅かに熱を伝える。じっと見上げる涼子に、シコウはそっと告げた。
「戻りましょう」
 言葉を送るなり、そのまま彼女の腕を引いていく。それを、逆に引き止めて、入り口へと歩き出した青年を振り返させて、その顔を見据えたまま、涼子は告げた。
「なら、私がずっと守ってあげる」
「――………」
 守ってあげる、と繰り返す涼子の目を見つめて、シコウはしばらく動きを止める。
 闇夜の中で、風が鳴っている。
 笑みも忘れたその顔が僅かに強張って見えたのは気のせいなのか。
 こちらの腕を掴んだその指が小さく震えたのは確かだったのか。
 涼子にはわからなかったけれど。
 ただ、しばらくした後に、「ありがとうございます」と返した青年の笑みは、少しだけぎこちなかった。





                            第五話:ハズウェル    終
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