黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第五話 (]-T)



 両腕を後ろ手に縛り上げられ、床に転がされた男は、グラグラと揺れる視界に顔を歪めてから周りを見渡す。いっそ簡素なほどに何もない一室に、ただ一つ椅子が置かれており、そこには一人の人物が腰掛け、男、ロウを見下ろしていた。
「貴様……ッ」
 薄ら笑いを浮かべている、その老婆の正体を悟って、男の顔が引き攣った。
「燗老……!!」
「いかにも。気分はどうだね? 《ハズウェル》の頭よ。……随分と手酷くやられたようじゃが」
 その言葉に、ロウは自分がここに至った経緯を思い出した。四仙の煉たるシコウ=G=グランスを捕らえるべく、セントルの闘技場に侵入し、そこでどういう幸運か、綾の方を見つけて、そして、そこにあの女騎士が割り込んできて。
 そして、自分はあの女騎士に、……核を。
 屈辱に、総毛だった。血走った目で老婆を見上げて激情に叫ぶ。 
「――っの野郎!! あの女を出せ!! 殺してやるッ!!」
 唾を吐き散らしながら、鬼気迫った表情で要求する男に、老婆はひたすら冷めた視線を返した。背もたれに凭れ掛かりながら、ロウの怒りを助長するようにのんびりとした口調で問う。
「能力を失ったことがそんなにショックか」
「うるせぇ! 婆!! さっさとあの女を出しやがれッ!!」
 激昂してそう言い返す男に、老婆は目を細めると、そっと静かな声で囁いた。
「そう喚くでない。……安心しろ、お前の能力は封印されとるだけじゃ」
 男の動きが一瞬で固まる。そして、何か信じがたいものを見るかのように老婆の顔を凝視したかと思うと、直後、噛み付くように身を乗り出してきた。
「……何っ!? なんだと!?」
 期待通りに食い付いてきた男に、ジェルバは満足げな表情を浮かべる。そしてその手元にある懐中時計の蓋をカチッカチッと開け閉めしながら、さらに言葉を紡いでいった。
「公には、セントルの剣で核を突かれた場合は、核を破壊されたことと同義としておるがな。……実のところは能力を使用不可能状態にしておるだけで核が壊れるわけではない」
 訥々と語る老婆はそこで、フッと笑みを漏らす。
「まあ、このことは一握りの一部の者しか知らぬ、それこそセントルの騎士や巫女達も……貴様を倒したあの涼子でさえも知らぬことだがな」
「どういう……ことだ」
 それだけの極秘裏の事を捕らえた人間に話すという意図を測りかねているのだろう。男は期待に揺れながらも訝しげな視線を投げてくる。老婆は笑って答えた。
「捕らえられた犯罪者は、選別される。基準はごくごく簡単じゃ。能力値が低いか、高いか、それだけじゃ」
「………」
「低ければ、その者の核はエネルギーとして全て取り出される。最もその工程を受けた人間はほぼ廃人になってしまうがな」
 その後の末路は言うまでもないだろう、と老婆は嗤ってみせる。男は固い表情のまま問いを口にする。
「高ければ……?」
「有効利用するだけさ。余計なものを排除して」
 言い切ると、ジェルバは芝居がかった仕草で両手を開き、男に囁きかけた。
「喜べ、お主は後者じゃ。さすがにSLE能力者達の組織を束ねるだけのことはあるな。この選別はかなり厳しいものじゃからな、中々それだけの能力を認められるものは出てこない。」
 一方的な祝福を受けた男は、まだ唐突な展開についていけずに、ただ困惑の表情を浮かべた。
「ちょっと待て、つまりどういうことだ? 余計なものを排除と言ったな?」
「翼を組む騎士や巫女とは別の、特別な任を負う者になるのさ」
 告げた老婆は、さらに、言葉を続ける。
「そして、排除するものは……自我じゃ」
 男の目が大きく見開かれる。
「自我……だと?」
 聞き間違いだろうと言わんばかりの表情に、老婆は薄く笑う。
「犯罪に走った者の心理など残すわけにはいかんだろう?」
 呆然と、男は言葉を失ったまま、ジェルバをしばらく見上げていたが、全てを理解した途端、憤怒の形相を浮かべ、歯を剥き出しにして怒鳴る。
「ふざけるな!!」
 結局は、廃人にされるのと同じ末路ではないか。ただ、その後、体を利用されるか捨てられるかの違いだけで。
「そんな馬鹿なことが承諾できるか!」
 だが、怒声を浴びせられた燗老は可笑しそうに笑った。
「承諾? 別にそんなものは求めとらんよ。ただ、用のついで決定したことを報告してやっただけのことじゃ」
「貴様ッ…!」
「そうそう、お主には聞きたいことがあってな。そのためにここに連れてきたのじゃ。知っておるかのう、未開地区にある組織について《テラ・ノマ》という……」
「煩ぇ! んな事はどーでもいいんだよッ!! 俺は今俺の話をしてんだ!!」
「…………」
 歯をむき出しにして威嚇する男を、ジェルバが白けたように見下ろして、ため息を落とした。
「能力はあっても、あまり賢くはないようじゃな。……のう、いい加減、状況を理解したらどうじゃ? 小童よ。《ハズウェル》ではお主が王であったかもしれんがな、今ここでの支配者はお主ではない、わしじゃ。わしが立てと言えば、立て。聞けと言えば聞け、話せと言えば話せ。要求するな、質問をするな、口答えをするな」
 翡翠の双眸が冷酷な光を宿し男を見る。
「わしを前にして、この場でお主にいかなる主体もない」
 言い切った老婆の見下しの目を見て、男は一瞬言葉を失い、そして……この上ない屈辱に晒されているという事実を認識するなり、その顔が大きく引き攣った。
「貴様が、支配者……だと?」
 怒りに震える声が、戦慄く唇から漏れ出る。噛み締められた奥歯が軋んで悲鳴を上げた。
「調子に乗るなよ、この薄汚い成り上がりが! よく聞け! オレはロウ=J=クレイバーだ! 貴様が生まれる前からこの地を治めてきたクレイバー家の子孫だ! 本来なら俺こそ貴様など足元にも及ばぬ支配者なんだよッ!!」
 そう、男が吐き捨てた言葉は、いっそ、不自然なほどにその場に響き渡った。
 パチン、……と鳴った、それを最後に。
 ジェルバの手が、今までずっと会話の傍らで懐中時計を弄んでいたのを、ふいに中止する。その後落ちた沈黙は、二秒だったか、三秒だったか。
 決して長くはないそのカウントの果てで、ポツリと声は落とされた。
「――……クレイバー?」
 老婆が表情を無くして、首を傾げた。それと同時に壊れだしたものの音を、おそらく男は聞くことができなかった。
 クレイバー、…と再度その名を舌の上で呟き、「はて、」と零した老婆の声は、まるで幼子のようにぼんやりとしていた。
「……どこかで聞いた名、じゃなぁ?」
 呟き、コンコンと人差し指でこめかみを突きながら、ジェルバは男を見下ろす。
 暗闇に沈んだ底から、音もなく這い上がってきた内なる声が、そっと囁く。
『覚えているか』
 あの足音を。あの声を。あの顔を。
 あの日、を。
「ああ」
 老婆の目に、鈍い光が灯る。
「――…覚えているとも」
 ジェルバは一人、答えた。不意に腹の底からこみ上げてきた笑いの衝動をククッと噛み殺しながら、目元を手の平で覆い、唇の両端をこれ以上ないほどに吊り上げて。
 明らかに常軌を逸したその様子に、ロウは顔をしかめて、ジェルバを見入る。
 その、蒼の老いた双眸と目が合って。
 戦慄に、身を震わせた。
 凍りついた男の、その顔を見下ろしながら、老婆は、笑う。皺のよった細長い指先が、ロウの顔へと伸び、その顎を捉えた。
 唐突に、老婆の顔から笑みが剥ぎ取れる。残された無表情の上で「なんと、まあ」と、呟くのは呆れにも似た表情で。
「まだ、しぶとくも生き残っていたのか」
 潰しても潰しても、ほら、まだいた。
 老婆は狂気を撒き散らし、憎悪と侮蔑で飽和した視線を向け、暗い目の奥底から吐き捨てる。
「あの、忌まわしい貴奴らの血が、」
「! ―――…ッ」
 ロウは無意識のうちに後ずさっていた。それで老婆の指から逃れたものの、感情のコントロールができずに、顔が強張り、体中が震え上がっている。本能が、逃げろと訴えていた。この老婆は、駄目だ、と。前にしてはいけない。いけな、かった、のに。
 男が必死に空けた一歩分の距離を笑いながら埋めなおし、老婆は首を傾げる。
「何を恐れる、この老体一人に」
「…………」
「なあ、お主。三名家の罪状を知っているか」
「罪、状……?」
 掠れた声でそう問い返せば、ああそうだ、と老婆は頷く。
「一人の娘を殺し、一人の男を狂わせた」
「…………」
「ああ、否、違う。狂わせたのは二人であったな」
 己の言葉を投げやり気味に訂正する老婆の目は、どこか遠くを見ていて。
 ロウは無意識のうちに、その問いを、投げかけていた。
「……貴様、何を知っている」
 老婆の視線が、男へと戻る。無表情で首を傾げ、その目で続きを問う。
「――サン・サプスの、死の地からの唯一の生き残り」
 ロウが掠れ声で吐き出した言葉に、老婆は静かに口端を吊り上げた。
「何、大したことはない」
 細められた目は、遠い過去を見つめて。
「わしが知っておるのは――小さな小屋が、壊れた音だけさ」
 囁かれた声音は、軽かったのか、重かったのか。ただ、老婆の口から笑みは絶えなかった。ロウは息苦しさを覚える。そこで無意識に息を断続的に止めている自分に気づき、呼吸を正常に戻そうと思ったのだが、意識すればするほど浅いそれになってしまう。
 それを感慨なく見下ろす老婆が、ため息のような息を吐いた。男がその顔を見返せば、僅かに頬の筋肉を動かすだけの笑みを向けられる。
「――さあ、せっかく名乗って下さったのだ。望みどおり、先ほどの話は全てなかったことにしよう」
 その、言葉の意味を問う間もなく。
 老婆の手が肩に触れる。
 トスッと乾いた音がした。と、同時に、体が勝手にビクンッと引き攣った。目の前の老婆を見開いた瞳で見つめて、ゆっくりとその腕を辿っていく。それは自分と繋がっていた。
 老婆の右手に握られている短剣と。自分の左胸に突き立てられた短剣とが。
 同じものであるが故に。
「………ぁ……?」
 老婆へと視線を戻す。能面のように表情のないその顔に向かって、何かを言おうとした。けれど、その前に、短剣が容赦なく引き抜かれ、夥しい血が残された場所から溢れ出してくる。喉が熱い血に焼けて、言葉どころか悲鳴も出ない。陰になった老婆の目元の奥に炯炯とした二つの目がある。ただ、それを見つめるだけだ。
 皺に侵食された唇が、ポツリポツリと音を落とした。
「ああ、あの音を、貴様にも、聞かせてやりたかったがなぁ………残念じゃ。情けないことに、わしの忍耐がそれに耐え切れんのじゃよ」
 髪を掴まれ、顔を寄せられ、これ以上ないほど純粋な……殺意を目の当たりにする。
「一秒でも早く死ね」
 激痛に苛まれる中、老婆を呆然と見上げる男の視界が鮮血の色から完全に暗転するまで、時間はそうかからなかった。






◇◇◆◆◇◇





 あの場から連れ出された後、ジェナは真っ直ぐに最上階へと向かわせられた。エレベーターの扉が開くなり、待ち受けていた千尋に抱きしめられて、不安そうな顔で、怪我はないか、気分は悪くないか、と質問攻めにされた。
「ごめんなさい、少し、いろいろ見てみたかったの」
 護衛である涼子を撒いて勝手に行動した言い訳をそう告げる。本来、ここは誰かに連れて行かれた、と言って涼子の不始末を問う予定だったところだが、とても今ではそんなことはできそうになかった。かといって、涼子に責任を押し付けてシコウの片翼を辞めさせるつもりだったのだと本当の意図を言うこともできなくて、中途半端な言い訳になってしまう。
 千尋は複雑そうな顔をしたが、「そう」と言ったきり、それ以上は何も問わずにただ抱きしめて頭を撫でてくれた。
 後はただ会話もなく、疲れたから、と部屋に閉じこもって、悶々と考えこんでいるうちに、時間だけが過ぎて。
 数時間も経った後、シコウが帰ってきた。
 それを察するなり、ジェナは部屋を飛び出す。そして自室の前に立っているシコウを見つけて「シコウ兄様」と呼びかけた。
 視線が合うと、シコウもまた笑みを浮かべて名前を呼んでくれる。
「ジェナ」
「涼子は?」
 ずっと気になっていたことを口に出して問えば、青年はそっと頭を撫でてくれる。
「ああ、大丈夫だよ。決勝戦も勝ったし、その後はすぐに医療室に行って、ちゃんと治療してもらったから」
「……そ、う」
 ホッと息を吐き出す。すると、青年は身を屈めて少女の顔を覗き込んできた。
「本当に、怪我とかなかった?」
 優しく気遣うように尋ねてくるシコウに、ジェナは小さく頷く。青年はそれに「よかった」と安堵の息を漏らした。
「最後、涼子さんを助けてくれたんだってね、ありがとう」
 ジェナはその言葉を聞いて、悲しさと焼け付くような嫉妬を覚えた。シコウは彼女と同じ四仙で、ずっと昔から一緒にいる身内のような存在のはずなのに、その言い方はまるで彼が涼子の立場から言っているようだ。セントルの貴重な人材を守ったことへの「よくやった」という誉の言葉ではなく、ただ己の大切な人を守ったことへの感謝。
 それが、ジェナの心を痛めつけた。
「別にッ……、わ、私のせいで、怪我させてしまったし……あの人に貸しあるままなんて、嫌だったし!」
 気まずさを振り払うかのように、そっぽを向いて早口にそう捲くし立てる。そんな様子の少女に、シコウは薄く苦笑を浮かべてその頭に手を置いた。
「そうだね、悪かったとわかってるなら、もう勝手に行動しちゃいけないよ? 四仙という立場は、それだけで良くも悪くも注目を集める。ジェナが消えた時、千尋姉なんか酷く心配してたのだから」
「………シコウ兄様は?」
「俺も心配したよ」
 もちろん、と告げる青年に、ジェナは唇を噛み締めて首を左右に振る。
「それは、ちゃんとわかってる。そうじゃなくて、シコウ兄様は大丈夫なの? 兄様だって四仙だわ。外にいて、危険じゃないの?」
 翡翠色の瞳が真っ直ぐにシコウを見上げる。シコウは少し目を丸めて、すぐに笑った。
「うーん、まあ、俺は四仙の中でも一番能力値が低いからジェナ達ほどではないよ。……常に涼子さんも傍にいるから相手も手を出しにくいしね」
「…………」
 ジェナは目元を歪めて、顔を伏せる。
 以前なら。
 少し前の自分ならば、きっと、そんな人当てにならない! と叫んでいたところだろう。だが、ジェナは既に涼子=D=トランベルという人物を、その強さを、知ってしまった。そして、同時に自分の弱さも。
『あ、そう』
 チリチリと胸が痛む。
 強くなりたい、と思う。このままでいたくない。まだ、負けたなんて思いたくない。まだ目の前の人を、諦めたくない。
 そっと手を伸ばし、青年の服の裾を捕まえると、その体に寄り添う。何も言わずに慰めるように、青年の腕が肩を抱いてくれる。暖かい。ずっと子供の頃からこの人だけを見てきた。この暖かさだけを望んできた。
 あの人も、そうなのだろうか。あの人も、これだけを望んでいるのだろうか。
 ……そして、シコウ兄様は、あの人を望んで?
「シコウ兄様は、あの人と……結婚したいの?」
「…………」
 大きく見開いた眼が、絶句して少女を見つめる。しばらく奇妙な沈黙が落ちたが、やがて、青年は不意にプッと吹出すとそのまま声を上げて笑い出した。珍しい……、というより、生まれて初めてそうやって笑うシコウを見たジェナは、ただ呆然とするだけだ。
「に、兄様?」
「ふっ…ははっ……いや、ああ、うん、ごめん」
 涙目になっているその目尻を拭いながら青年はジェナの頭をポンッポンッと叩いてやる。
「そんなこと、考えたこともないよ」
「………」
 眉宇を顰めた少女は「じゃあ」と探るように続ける。
「シコウ兄様は、あの人にどうして欲しいの?」
「どうして欲しいって?」
「だから、つまり、その、傍にいて欲しい、とか、……こ、恋人になりたいとか……」
 ジェナの言葉を聞きながらも、シコウの口角は可笑しそうに吊り上ったままだ。少女がもじもじとしながら返答を伺っていると、青年は顎を掴んでもっともらしく考え込む仕草をつくった。
「……そうだなぁ」
 そう、呟いて、ジェナの顔を見下ろすと、青年は笑顔のまま言葉を連ねる。
「とりあえず、半分くらいは報告書を書いて欲しいな。あと、仕事を決めるときはこっちにも一言断って欲しいしね」
「……は!?」
 つらつらの述べられる言葉の内容に、そんなこともやってないのか、あの人は、とジェナはあまりのことに呆れ顔になる。自分勝手な人間だとは思っていたがそこまでとは。いや、というか、こっちが聞きたいのはそういった事ではなくて……。そう思うものの、なかなか言えずにいる少女の傍らで、青年は「……あと、」と小さく呟いた。
「俺を見つけて欲しい、かな」
 少女に聞かせるというよりも独り言のように呟かれたそれに、ジェナは青年の顔を見る。
「見つける?」
 どこから? と視線で問うと、青年は実に柔らかな笑みを見せて告げた。
「この世界から」
「………」
 あまりに綺麗な表情で言われて、ジェナはしばらく言葉を失う。けれど、その美しさは皮膚一枚の上だけ。そのことは何となく分かるものの、ではその奥はどうなのだと自問するが、結局どんなに青年の顔を見つめようと、その先は少女には見えなかった。
「……よく、分からない」
 ポツリとそう漏らして少女は俯く。
 シコウはただ、笑った。
「それでいいさ」
 形の揃った青年の手が、少女の頭を撫でて、離れていく。その離れていく手が、遥か遠くまで遠ざかってしまうような、おかしな感覚に、ジェナは深い焦燥に駆られたが、なぜか指先ひとつ動かすことができなかった。






BACK    
NEXT