そう くそう し
─── 蒼紅草子 ───





――遠い昔。辺境の村のそばに生い茂る「深海森」と呼ばれる森に一匹の天狗がいた。天狗が人前に現れると、きまって妖鬼も現れたため、人々はこの天狗を恐れ、忌み嫌った。そんなある日、村娘の一人が天狗と恋に落ちてしまった。彼女は森へと姿を消し、ついに戻ることはなかった。
今となっては、遠い昔のことである。――




緑深い森に囲まれた一つの村。
とりえというとりえもなく、ただ平凡な時が過ぎるだけの場所。
しかし、現在、平凡とはお世辞にも言えない災難がその村に襲いかかっていた。
たった今も、村外れの場所に村人がその災難による「犠牲」を取り囲んでいる。
そこにあるのは、その「犠牲」に対する哀れみの濃い同情と、次は自分なのではないかという深い恐怖の空気。隠すようにかぶせられたワラの隙間からその下の者の無念があふれ出すかのように、深紅がにじみでている。
長かったのか、それとも一瞬だったのか、その重い沈黙に耐えかねて男達のだれか一人が口火を切った。
「これで九人目だ。」
諦めの深い気配を含めたため息が言葉と共に漏れ出る。
皆、その誰かの一言を待っていたのだろう。
せきを切ったように男達のつぶやきがその場を埋める。
「これじゃあ、恐ろしくて村の外なんか出歩けねえよ。」
「だからって村の中に引きこもってるわけにもいかねえだろう。」
「どうすんだよ?」
「俺は嫌だぜ。妖鬼のえさになるなんざ。」
「その妖鬼をどうにかせんと……。」
妖鬼。この世界にはびこる魔性。人を襲い、食糧の糧とする人の天敵と言える存在。
人の力でどうにかできる相手ではなかった。それはその場の誰もが理解していた。
「妖鬼つってもなあ……。どんな姿とも知れんのに……。」
唯一知っている者はこのワラの下。あとは、すでに土に還っている八人といったとこだ。
「………つだ。あいつに決まっとる。」
長い沈黙の後、口を挟んだのは、一番後ろで哀れな「犠牲」を見つめ、一人沈黙を守っていた初老の男だった。その一言に、皆、つぶやきを止め、その初老の男の顔を見やり、そして目をふせる。男はなおも続けた。
「あの天狗の子がこやつらを殺したに決まっとる。」

その様子をすぐそばの丘の上から伺っていた少女がいた。漆黒の髪を結い、鮮やかな巫女装束に身を包んだ、美しい少女は、その整った顔に何の表情も映さずに呟く。
「……天狗の…子…」
その呟きは風に舞い、遠くへと流されていく。その行方を追うこともなく、少女は翻してその場を後にした。





一筋の風。それが村のそばに立ち並ぶ桜の木々の合間をゆるやかに通り過ぎる。
そして、かの少年が眠る桜のもとへとついに届く。
その者の訪れを知らせる風に、色素の薄い、透き通るような銀の髪を揺らされて、その深紅の瞳が静かに開かれる。そして、少年は、その視線をそらさずに、自らの座っている桜の隣へと足をすすめる少女への言葉を紡いだ。
「…何の用だ?」
一言。たったその一言の問いに、強く、鋭い拒絶が含まれる。
少女はそのことに知ってか知らずか…おそらく気づいているのだろうが、少しも気にかけるようでもなく、答えではなくて問いを少年に返す。
「お前が、村の者達が言っていた天狗の子とやらか…?」
その問いに、一瞬に、そして一気に少年の殺気がふくれあがる。少女は微動だにしない。
「…だったら、どうだっていうんだ?」
少年が初めてその視界に少女を入れる。
無垢な少女。
まさに純白と言える容貌。
薄紅、深紅、そしてその少女の肌と同じ純白の鮮やかな巫女衣装。
その白に対する漆黒の髪は一度結われ、それでも腰近くまで流れて、春風に波打っている。そして……、何より目を引きつけるのは、髪と同じ、いや、それ以上に深い漆黒の瞳・・・、それでいてその奥に強く輝く光を宿している。それこそが少年に彼女が何者かを確信させる。
「そうか、お前か…。村の奴らが言っていた、新しく来た巫女ってのは。」
少年の瞳に好奇心、興味の色が浮かびあがる。少女は少年の確信に肯定も、否定もせず、ただ、少年を見据えた。その沈黙こそが、肯定を表していたのかもしれない。
「何でも、類稀なる力を持ってるんだって? …で、村の奴らの話をまんまと鵜呑みにして俺を払いに来たってわけか。あれだろう? もう十人近く妖鬼に殺られてるってやつ。俺の仕業だって奴らがいってるんだろう?」
こちらに正確な判断力がないとでもいいたげな口調だ。
それでも少女は目元一つ動かさない。
その様子に少年は一瞬の間を置き、再び言葉を紡ぐ。その目には殺気が戻っている。
「いいぜ。闘ってやるよ。ただし、もしお前が負けたときはここから…」
「何を勘違いしている。」
少女は少年の言葉をさえぎって沈黙を破った。いきなり戦意をそがれて、少年はただ目を見張っている。そんな相手の様子に、少女は初めて口元を緩ませて……微笑んだ。
「私は萩羽(しゅうは)という。お前の言う通り、この村に新しく来た巫女だ。噂でお前のことを聞いてな。会ってみたいと思った。」
だから来た、そう言う少女、萩羽に少年は、やはりまだ目を見張っている。無理もない。今まで、天狗の子として忌み嫌われていた彼に会ってみたいなどと好意的に自分に近づいてくる者などいなかったのだから。萩羽は静かに桜の木の幹に手を伸ばす。
「お前は良い者だ。人の血の匂いもしない。あの騒ぎはもっと別の妖鬼の仕業だろう。」
真っ直ぐに少年を見つめ、確信のこもる声で告げる。少年の瞳にすでに殺気はなく、ただただ萩羽を不可解の意で見つめる。萩羽は笑みを深め、翻して、来た道へと足を出した。
「気にいったよ。お前は面白いな。…また会いにくるよ。爛火(らんか)…だったか?」 
天狗と人間の子、爛火は名の由来となった深紅の瞳を、不可解な少女、萩羽の背に向け、

「何だ? …あの女は……。」

目元を歪ませて誰にともなく疑問を問う。ただ一筋、風が吹き抜けてゆくだけだった。





村の中心にある見事な神社に、一人の少女がこの村の巫女となる儀式を終え、静かに黙想をしていた。閉じた瞳の裏に浮かぶのは、つい先刻、村入りした時に自分の進む道の両端に群がるように並ぶ村人達の顔。少女の十三年しかこの世で過ごしていないとは思えぬ神秘的な気配に皆、息を飲み、ただ少女を見つめる。それでも、そこには口にはされぬ強い期待が渦巻いていた。
この方ならばこの恐ろしい騒ぎを鎮めてくれるのではないか、この方ならあの魔性を……。あまりにも明白な、だからこそ強い村人達の願いに、萩羽は面には出さず、心の内で苦笑した。随分と皆、追いつめられているらしい。
「恐れ入ります。巫女様。」                           
彼女の思考をさえぎったのは、この神社に長く仕えてきたという男。漆黒の髪の隙間からやや白い髪がのぞいている。随分と今起きている騒ぎに苦心していたのだろう。顔はどこか疲れていて、生気があまり感じられない。                    
「着いたばかりでいきなりとは十分承知の上でございますが、巫女様もお聞きになられていると思います。ただ今この村が深刻な状況にありますことを。」          
巫女、萩羽はゆっくりと瞳を開き、男へと視線を移す。先ほどの思考とかぶる言葉に、ややため息が出そうになる。
「存知ている。私が敬杏殿の代わりにこの村へ来た理由がそれであるのだからな。」  
「…はい。敬杏様には、とてもよくこの村に貢献していただきました。ですが…、その、御年九十をお迎えになられました敬杏様には、今回のことは少々荷が重いのではと思いまして…。」                              
確かにそれは無理がある、と萩羽は声には出さずに思う。得たいの知れない妖鬼を老婆がどうにかできるほど、世は人に甘くできてはいない。はっきりいって自殺行為だ。   
「しかし、どのような妖鬼かもわからぬのでは、迂闊なことはできまい。」      
相手がこの言葉にどのような返答を返すかは、萩羽はおおよそわかっていた。わかっていて、敢えて言葉にする。脳裏には銀と深紅の色彩をその身に宿す少年が浮かぶ。    
「ご心配なく。すでに目星はついております。巫女様はご存じないと思いますが、この村には一匹の半妖鬼が住み着いております。その者の父親は天狗でございまして、この天狗こそがこの村を長年苦しめておりました元凶でした。それが数年前、他の妖鬼と争ったためでしょう。あの者を残して夫婦共々死にまして…。」             
要はその天狗の子がことを起こしていると言いたいのだ。
予想通りの返答に内心で苦笑する。そして、その天狗の死に隠すことなく喜びの光を瞳に浮かべる目の前の男に、少しの嫌悪を覚える。                            
「…鳥。」                                 
「は?」                                    
次に少女が告げるのは、その半妖鬼がことを起こしたという意見に、肯定を表す言葉だと確信していたのだろう。まったく関係のない単語に、男は素っ頓狂な声をあげる。そんな相手には目もくれず、少女は自らの言葉を続ける。                 
「鳥は、我が子を守るため、その身を以て雛を狙うものと戦うというが……、守られている雛はその自覚はあるのであろうか。……どう思う?」         
意味有りげな口調。そして瞳。その雰囲気に男は何も声が出ず、ただ少女の瞳から目を離せずにいた。一瞬だったのかもしれないが、男にはそれがとても長く感じた。それ以上、相手から何の返答も反応も得られぬと、悟ったのだろう。少女はその顔に笑みを浮かべ、男を一瞥し、「外に出てくる。」と言い残して部屋を出ていってしまった。その瞬間、男は止めていた息を一気に吐き出し、空気を求めて窓の傍へと駆け寄った。緊張の糸が切れたのだろう。その場に座り込み、外の見慣れた風景を眺めながら、酸素が十分にまわった頭で、少女の最後に残した言葉は例の意見に対する肯定の意味になるのではないかと知恵を絞る。が、結局、成果はなかった。当たり前と言えば当たり前である。                                               

その神社の中の男が見つめる遙か先の森の中。何かが木々の間を通り過ぎて行く。人ではない何か。それを視界に入れつつも、気づかない神社の男。後から思えば、それがこの村に迫り来る元凶の姿を事前に知る唯一の機会だったのかもしれない。奇しくも、誰も気づくことはなかったが…。   






                       BACK          NEXT