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ソレは、妖鬼そのものの姿だった。
肉塊。それでも、トカゲのような顔がかろうじて覗いている。その口に鋭く尖った牙が並んでいた。萩羽は傷ついた左腕を握り締め、術を唱えて止血をする。
後ろにこゆきがいて動けない。キッと、漆黒の瞳で相手を睨み付ける。
今できる最大限の抵抗。
妖鬼は薄気味悪い笑みでこちらを伺っていた。
「コレハ幸先イイ。記念スベキ十人目ノ心臓ガ巫女様トハ。」
グフグフと品のない笑い声を響かせる。萩羽は思わず舌打ちをする。最悪だ。こんなタイミングで結界が崩れるとは……。目の前の敵が再び爪を高く掲げる。
それが振り下ろされた瞬間、萩羽も言葉を放つ。
「縛止!」
瞬時に、相手の顔に驚愕が走る。妖鬼の爪は、萩羽から一寸もない頭上で止まった。その手はどうにか萩羽を引き裂こうと、働く力に反発して震えている。その間に萩羽はこゆきの手を引いて後ろに跳びすがり、妖鬼との間を取る。そしてすぐに、こゆきに右手をかざし、口の中で術を唱えた。すると、こゆきの周りに一瞬、青白い光が溢れる。次第にそれは空気に溶け込むように消えていった。
「…み、みこさま…?」
こゆきは、半ば放心しつつもかろうじて意識を保ち、萩羽をその瞳に映す。
「いいか、こゆき。決してそこから動いてはいけない。…守れるな?」
どうにかその顔に微笑みを浮かべて、幼い少女を安心させようとするが、やはり、焦りが隠しきれなかったようだ。こゆきはその目を涙で一杯にして、強張った表情でこくこくと頷く。
敵に振り返った瞬間、束縛の術が切れ、妖鬼は束縛から解放される。
どうやら、自らの結界を張る余裕はなさそうだ。妖鬼は自由を再び得たその右手らしきものを見つめ、感心にも似た色をその醜悪な顔に映す。
「ナルホド…、名バカリノ巫女デハナイトイウコトカ…。」
妖鬼は顔を歪める。笑っているのだろう。そして、萩羽に視線を戻した途端、妖鬼の殺気が先ほどと比べものにならないくらいに増大する。
「イイゾ…、オマエノ心臓ハ我ニサラナル力ヲ与エテクレソウダ。」
萩羽も笑う。ただ、こちらの場合は自らの不運を嘆く苦笑であったのだが。
萩羽はちらりと負傷した自分の左腕を見る。止血する前の血が滴り落ちていた。少し力を入れてみて、激痛に思わず顔を歪ませる。どうやら、使えそうにない。
はっと、見ずとも探っていた相手の気配が動くのを感じて、反射的にその場から跳びすがる。その瞬間、萩羽がいた場所にあの爪が突き刺さった。安堵の息をついている暇はない。
萩羽は、地面から爪を引き抜こうとしている妖鬼に右手をかざす。 
「電雷襲突!」
言い放った瞬間、黒雲から一筋の雷光が落ちて妖鬼に衝突した。
光が消えると、妖鬼は、左腕を失っていた。鼻を突く煙が左肩の傷口からあがっている。
…それでも妖鬼はその顔から笑みを崩さない。
次の瞬間、萩羽は言葉を失った。
その妖鬼の左肩から触手のようなものが何本か飛び出し、お互いに絡み合って元の形を成す。ご苦労なことに再生機能付きのようだ。妖鬼はまたもや嘲るような笑みを深める。
萩羽も、…やはり苦笑でその笑みに応えながら、冷静に状況を見極める。
こいつの核を見つけて、それを断ち切らなくてはきりがない。
萩羽は、フッとその瞳に青色の光を宿らせる。
どこだ?
相手を静かに、それでいて、食い入るように見つめる。相手の体の中に小さく、激しく光る輝きを見る。
…見つけた。問題はここからだ。どうやってそこに攻撃するか。
萩羽はふと、動かない左腕を恨めしく思う。両腕さえ使えれば、核を探らずとも一撃で相手をその核ごと細胞一つ残さずに倒せる術を使えるのに。
まあ、ないものねだりをしてもどうにもならない。
この状態で相手を倒す方法を見つけなくては。あの場所を狙うには…。
考えていたその時、妖鬼の意識がこちらから外れるのを感じる。
その意識が移った先は……幼気な恐怖に震えている少女。
萩羽は心臓が大きく脈打つのを全身で感じる。
いけない。そっちは駄目だ!
叫びそうになるが、言って聞く相手ではないし、返ってそうされるとこちらがまずいことを教えてしまうだけだ。こゆきはただ震え、目を見開いて近寄ってくるその存在を見つめる。
萩羽は焦る。もし、こゆきがその威圧感に耐えきれず、その場から走り逃げてしまったら。
もし、少しでもあの結界を張った場所から動くようなことがあれば。
……悲惨な結果が待っている。
萩羽は覚えず、駆け出す。そして、それとほぼ同時に…こゆきが動く。妖鬼が満悦の笑みで爪を振りかざした。しかし、それよりも先に萩羽の手がこゆきの腕をつかむ。それでも、妖鬼の爪は止まらない。萩羽は舌打ちをしてこゆきをグンッと後ろへ引きやった。自らも相手の攻撃を避けようと身をよじるが、こゆきを押しやった反動でうまくいかない。

……深紅が飛び散る。

爪は萩羽の左腕を再びえぐった……。

喉を通らぬ悲鳴が、その空間を震わせる。こゆきは、歯を食いしばり、肩を震わせて、元が純白だったとは思えぬ深紅に染め上がった左腕を握りしめる萩羽を、さっきよりさらに顔を青くして、震えながら見つめる。
「み…みこさっ…。」
こゆきは目の前の自分をかばった人の向こうに、人に在らざるものの笑みを見る。
歓喜か、嘲りか、幼い少女にはわからなかった。
何度も振り上げていたあの爪を、また今度も例外なく振り上げる。萩羽は動かない。ただ待っている。必然とも言うべき死の時を。
こゆきは思う。
自分も死ぬのだ、と。
……ふいに、萩羽の声が耳元で響く。
“いいか、こゆき。決してそこから動いてはいけない。…守れるな?”
自分はその問いに頷いた。
“いいわね?絶対に外へ出ては駄目よ。妖鬼に食べられてしまうわよ?”
母の言葉だった。自分はこの言葉にも頷いた。そして……。
止まっていた涙が熱を持って込み上げる。こゆきは呆然とあの爪が萩羽に襲いかかるのを見つめた。その小さな胸を、底知れぬ罪悪感で焦がしながら…。
その時、その瞬間。一筋の風が、二人を、萩羽とこゆきを……さらった。



「どうなっている。これは。」
何とも、不快そうな、不可解そうな声。その聞き知っている声に、激痛に耐えながら、萩羽は目を開ける。
「爛…火?」
その名を持つ者の腕の中で、萩羽は朦朧とした意識を必死になって繋ぎ止める。冷静になって、周りを見渡す。こゆきがそばで気を失っていた。その目元には涙が滲んでいる。ほっとした安堵感を覚える。妖鬼は……。視界の先に何とも口惜しそうにしているあの肉塊が移る。どうやら、爛火があの場から自分達を遠ざけてくれたらしい。
「・・・おい、わけがわからんぞ? 何だ? あいつは。」
爛火が、困惑の瞳でこちらを見ている。身をよじる。途端に走る激痛に顔を歪めながら、何とか言葉を絞り出した。
「…例…の騒ぎを、…起こした奴…だ。け…結界が崩れて…っ。」
「あいつ…が?」
爛火はあの妖鬼の方を見やる。今に飛びかかって来そうな形相だ。
ここで向こうが仕掛けてきたら、こいつらがやばいな…。
爛火は静かにその場に萩羽を降ろす。痛みに嗚咽が漏れる。それでも、萩羽がしっかりと肩で息をしているのを見届けて、爛火は妖鬼の方に歩き出す。向こうは目を細めてこちらを伺っている。適当な距離で爛火は足を止めた。
「オマエ、ナンダ? 人間? 妖鬼? ドッチモ匂ウ…。」
「半妖鬼。悪いが、ここは俺の領域だ。手を引いてくれないか?」
淡々と答える爛火の言葉にピクリと妖鬼が反応する。
「半…妖鬼…。知ッテイルゾ。オマエガアノ天狗ノ倅カ。」
今度は爛火が、妖鬼の言葉に反応する。眉を歪め、沈黙を守りつつも、その瞳にかすかに光が浮かぶ。妖鬼は続ける。
「知ッテイル。アレガ死ンダ後、オマエガ村ノ奴ラニ虐ゲラレタ…」
瞬間、妖鬼の目の前が突如炎に包まれる。顔が半分焼けただれる。
が、あの再生機能が働いた。回復しつつある右目はそのまま、妖鬼は、その手の上に炎を浮かべ殺気立っている少年をその視界に入れる。
「煩い。」
殺気という殺気が少年にまとわりついている。その手に燃える炎のような少年の姿に、妖鬼は満足そうな笑みを浮かべる。
なぜ笑う!
…何とも腹立たしい感情が爛火に相手への攻撃を促した。その意に逆らうことなく、爛火は炎の玉を妖鬼に目掛けて放つ。しかし、今度はその炎が妖鬼の体を燃やすことはなかった。肉塊の姿で予想できぬ俊敏な動きをする妖鬼はなお、せせら笑っている。チッと舌打ちをし、爛火は一気に妖鬼との間合いを詰め、力の限りの炎を打ち込む。妖鬼も今度は逃げない。いける。そう、爛火は心の中で確信する。だから、…その事態に愕然とした。
自分の炎はいつまでも目の前から消えずに、そこに在った。
燃え尽くすはずだった妖鬼の顔が平然とかざした手の向こうで笑っている。
…見えないこの妖鬼の力が爛火の炎と拮抗していた。爛火は悪態をつき、さらに炎の勢いを増そうとする。が、その前に妖鬼が口を開いた。
「小僧。ナゼ我ト戦ウ?」
爛火はその問いに眉宇をひそめる。
何を言っているのだ?こいつは。そんなの決まっている。それは、…。
「それはお前がこの村をっ……。」
言いかけた途端、言葉が途切れる。
……あの影の男が後ろにいるような気がした。
「ソウダ。我ハコノ村ヲ襲ウ。ソレガ、オマエニ何ノ関係ガアル?」
爛火は自分の目元が痙攣しているのを感じた。
そして、ついに…あの声が耳元で囁かれる。
───そうだ。お前には何の関係もないさ。この村の奴らがどうなろうと知ったことじゃねえよな? だってお前はっ…!        
「煩いっ!」                                
黙れ!心の中で叫ぶ。が、その叫びは何の意味も成さなかった。           
「ズット憎ンデイタンダロウ? アイツラ、何モ知ラナイデオマエヲ罵ッテ…。」  
───憎んでるよなぁ? あいつらを深く、深く…。               
「違うっ! 俺はこの村をっ……」                       
「共ニ滅ボソウジャナイカ! コノ村ヲッ!」                    
───殺しちまえよっ! この村の奴ら全員っ!                   
顔が引きつる。頭がガンガン鳴って、気持ちが悪い。どうしたらいいかわからない。
俺は……っ。
狂乱して両腕で頭を抱え込んだ瞬間、爛火の目の前が深い闇に包まれる。

静かだった。何もなく、ただ、あの影がいた。
一歩こちらに近づき、静かに言葉を紡ぐ。
「俺は妖鬼だ。」                                
爛火は何も答えない。ただ見守った。           
「俺はお前。そしてお前は俺。」
影があの不敵な笑みをその顔に浮かべる。何の感情も起きなかった。
もう、何だかどうでもよかった。ただ、必然とも言える次の言葉を静かに待った。
「だから、」
声が強く、はっきりとなっていく。爛火は目を閉じた。
「だからお前もっ…」
「お前は人間だ。」
断言の言葉。
爛火と影が在るはずのない声に目を見開いた瞬間、目の前が一面桜吹雪で埋め尽くされる。その隙間から驚愕に顔を歪めた影が見えた。次第に桜が地面に落ちていく。桜の絨毯の上に立っていたのは一人だけ。
影ではなかった。
その人がゆっくりと目を開く。
漆黒の瞳。
その中に強い、そして、やさしい光を宿している。…そして、やさしく、呟く。
「人間だよ。」
「……っ」
何をいわんとしたのか爛火にもわからなかった。次の瞬間、鋭い声が、爛火を一気に現実の世界に引き戻した。

「…縛っっ…止っ!!」
ハッと爛火が我にかえると、あの妖鬼がまさに自分に爪を突き立てようとして、寸前でその動きを止めている。何が起きたのかわからず、ふと、隣の存在に気づく。腕から溢れんばかりの血を流し、肩で息をしながら、その者は妖鬼を睨み付けていた。
「……っ萩…」
その名を呼ぼうとするが、それよりも先に少女が妖鬼に言い放つ。
「水っ雷、衒翔っ!」
ブワッと、妖鬼の周りに水と電光がほと走り、そして、一気に妖鬼の体に纏われる。
「ッギャアアアアアアアアアアアアアア」
全身を凄まじい苦しみに包まれ、妖鬼は転げ回る。しかし、苦痛を受けたのは、妖鬼だけではなかった。萩羽は嗚咽を漏らし、その場に思わず膝をつく。
「この馬鹿っ、そんな状態で術を使うやつがあるかっ!」
爛火は悲壮を顔に浮かべ、そしてその腕を萩羽に……と、しようと伸ばした腕を、逆に萩羽が力強く握りしめる。萩羽が、下を向いたまま、小さく呟く。
「信じ…られないか?」
腕がさらに強く、握り締められる。爛火はただ、困惑の色を顔に移す。
「お前が…、あいつの言葉に心を…乱すことはないんだ。」
あいつ。それは、妖鬼のことを言っているのか、それとも、夢の中に存在した、あの影のことを言っているのか。爛火にはわからない。が、そんなことは問題ではなかった。
「お前は半妖鬼だ。それ以外の…何でもない。けれど、そんなことどうだっていいだろう? お前はお前なのだから。爛火なのだから。」
幻の中の言葉と矛盾していた。あの中では自分を人間だと、断言していた。
だが、要はそんなことではない。そんなことではなかった。
「自分で…、自分が、信じられぬのなら、…私が信じてやる。」
爛火はただ眉をひそめて、呆然と少女を見つめた。
…信じる?俺を?お前は俺の何を知っているというのだ?
なぜ、…そう俺を救おうとする?
皮肉でもなければ、非難でもない。ただ、純粋な疑問だった。
その疑問に答える言葉が……あった。
「だって…お前は助けてくれた。あの森の中で…。」
たった、…たった一度だけ、萩羽は本殿を出たことがあった。だが、共の者とはぐれ、この深い森を一人で彷徨った。まだ幼くて力も使えず、妖鬼に襲われた。走っても、走っても森の出口は見えず、絶望した。いや、初めからしていたのかもしれない。他の者のためにその命はあるのだと、本殿で教え込まれていたから。自分のために生きることは許されぬのだと。その命を惜しむな、と。…そんなものならもういいかと思った。この妖鬼にくれてやって。どうせ、誰かの糧としての意味しかない命なら。そう思って。…だが自分は死ななかった。助かった。いや、助けられた。この少年によって。純粋に嬉しかった。自分の命が生きる価値があるのだと言ってもらえた気がして。だからずっと、すぐに消えてしまった少年を捜していた。その者のそばでなら、自分が自分のために生きることが許される気がして…。
「だからっ…、今度は私の番なんだ…。」
救いたい。助けたい。ただ、それだけ。お前を包む、苦しめる、その闇の中から…。お前の存在が、私が生きる意味。それだけなんだ。本当に。やっと得たこの生きる意味を手放したくはない。それだけ。だから…。
「たった一人きりでも…かまわない。他の全ての者を敵にまわそうと、失おうと……いいんだ。…私はっ」
…泣きそうな声。つかまれた腕から何か強い感情が流れ込んでくる。ゆっくりと…、その顔が上げられる。
「私は……、お前を愛しているよ。」
…静かな、はっきりとした声だった。その顔に他でもない、あのやさしい微笑みを浮かべた…。
───たった一人……。
耳元で囁かれる。母の声だった。昔、幸せそうに呟いていた言葉。
───たった一人でも、大切だと言ってくれる人がいると、幸せね…。
目の前の少女の瞳の中に誰かが、いた。…父だ。何かをその手に持っていた。
───だから。
母の声と父のそれとが重なる。
───そう言ってくれる人が現れたら…。                   
もう父は瞳の中にはいなかった。目の前で、……一振りの刀を差しだしていた。
受け取れと言うかのように。                              
───命を掛けて、…守ってやれ。
迷わず、……受け取る。迷うことなど、もうなかった。
「小娘ガアアアアアアアアアッ」
その時、妖鬼が怒りをあらわに叫び、襲いかかってきた。ハッと、萩羽は素早く振り返り、術を唱えようとするが、間に合わない。迫ってくる爪に思わず、硬く目をつぶる。瞬間、強い力で後ろに引き寄せられる。と同時にガキンッと、鋭い金属音が耳を衝いた。
……何が起こったのか。
静かに、目を開ける。自分は少年の腕の中にいた。
「爛…火?」
その名の少年の右手に赤い…、深紅の刃の刀が握られている。その刀と妖鬼の爪とが、拮抗していた。妖鬼は驚愕をその顔に走らしている。対する少年の顔には、何の迷いもなかった。
「コ・・・小僧ォ、ソノ刀ッ…アノ天狗ノッ!」
「お前はもう、いいんだ…。」
静かな、声。
いいんだよ…、もう。
そう繰り返す。妖鬼はその言葉の意味を理解できず、眉をひそめる。
だが、それは次の一言で…終わった。
「消えてくれ。」
苦悶の声も、悲痛の叫びもなく、妖鬼は…消えた。爛火の言葉通りに。
その左胸を、唯一の核を、爛火の深紅の刃に貫かれて。
ただ、その顔に、少年と、自分に起きたこととを信じられないといった表情に引きつらせたまま。
塵となった体は、風に流されていく。それを見届けて、…爛火は萩羽に視線を送る。
萩羽はただ自分を見て、目を見開いていた。
「………」
「…大丈夫か? 腕…。」
萩羽は、刀に目を遣り何か言いたそうにする。だが、思いとどまるように口を引き締めると…ふと笑って見せた。
「…誰に向かって言っている。時間さえあれば、術で一瞬だ。」
軽く見るな。そう言って、術を唱える。それでも随分時間がかかっている。気の抜けないさっきの状態ではさすがに無理に違いなかった。
「そうか…。」
爛火も微笑む。何だかスッキリした顔だ。終わったのだ、と萩羽はその顔に確信する。…その緊張が解けた時、二人はハッとそれらの存在にやっと気づく。村人達が、視界の遙か先に群がっていた。この騒ぎに気づいて集まってきたのだろう。ざわつきの中、一人の女性が悲鳴にも似た声を上げる。人垣を押しのけて、駆け寄って来た。
「…こゆきーっ!」
気を失った我が子を抱きかかえる。死んでいるかもしれないと思っていたのだろう。母の声に、ふと、目覚めたこゆきに安堵している。
「…母…様?」
「ああっ、こゆき! 良かった…!」
もう一度しっかりと娘を抱き、そして、こちらを見る。そして、口を開こうとした瞬間、村人の一人が叫んだ。
「お前ぇか! 天狗! お前がまたあの妖鬼をこの村にっ!」
強い敵意が爛火に向けられる。その反応はもう覚悟していたのだろう。爛火は何も言わず、悲壮な笑みをその顔に映しただけだった。
「親が親なら子も子だなっ!」
収まるところを知らない悪言に、萩羽が口を挟もうとしたその時、
「やめないかっ! お前達っ! 村の恩人に向かってその口のきき方は何だ!!」
一瞬にして、その場が静まりかえる。声を発したのは、あの神社の男だった。
「…阿良路。」
萩羽は初めて、その男の名を呼ぶ。男は萩羽に一礼し、爛火の前に足を進める。爛火はただ、目を見張っている。そんな爛火に、…男は畏まって、膝をついた。
「長年の非礼、どうかお許し下さい。私は萩羽様に助言頂き、そして今の貴方の戦いを目の当たりにし、初めて、自らの過ちに気づきました。どうか、無知で愚かだった我らをお許し下さい。」
その場にどよめきがおこる。当の爛火も、放心したように固まっている。阿良路はただ、深々と頭を下げた。
「…お兄ちゃんっ」
裾を引っ張られていたことに気付き、爛火はハッと振り返る。こゆきが何でもなかったかのように満面のあの笑みを浮かべ、あの状況で最後の最後まで手放すことのなかった一本のあの真っ赤な花を差し出している。そして、言う。思ったままの言葉を。
「みこさまと、こゆきを、助けてくれて…ありがとぉ!」
その瞬間だった。爛火が自分の身に起きている異変に気づいたのは。一筋の涙が、爛火の頬を伝っていた。
「……あ…?」
その事実を、爛火は理解できずにいた。なぜ、こんなものが流れるのか。
ただ途方に暮れる。それでも、どこからか押さえられない感情が込み上げてきて、逆らうことなくその頬を濡らした。
…その光景に村の者は息を飲み、言葉を失った。それでもただ一人、こゆきに駆け寄ってきたあの女性だけが爛火に近づいて、微笑んだ。
「この子を助けてくれて、ありがとうございました。」
また、込み上げてきてしまって、爛火はさらに困ってしまった。萩羽はただ、微笑んでいるだけだ。どうも、助けてはくれなさそうな少女を爛火は少々恨めしく思った。遠巻きの村人達は互いに目を合わせながらこの状況を推し量っている。どれくらいの沈黙だったろうか…、その沈黙に区切りを打ったのはどこにでも一人はいそうな、お祭り好きの男の剽軽な声だった。
「おい! 皆の者っ! 宴じゃあ! この村の無事と、この勇敢な小僧に祝杯するぞっ!」
その声に一同、豆鉄砲をくらったような顔をするが、それでも戸惑いは一瞬で、後に皆勢いに任せるように続く。
「そうじゃな…、そうじゃっ! ここはパーッといかねばな!」
「酒だっ! 有りっ丈の酒を用意しろっ!」
「皆、村の中心に移動しろっ! さっさと、いけいけっ!」
もはや、止まらぬ勢いだった。さっき、罵声を投げかけたやつらまでケロリとして、騒ぎながら移動している。…なんと調子のいい…。呆気に取られて放心している爛火の代わりに萩羽は思いっきり苦笑してやった。





日が傾き、西の空が朱色に染まっても騒ぎは収まる様子を全く見せなかった。何とか凄まじい誘導から逃げ切った爛火は一人、いつもの桜の上にいた。あまりに静かで、かなりの距離があるというのに、騒ぎの声が微かに聞こえてくる。爛火はまだ、何が起こったのかちゃんと整理できていなかった。幻の中で受け取った、それでも今この手の中に握られている深紅の刃の刀をただ見つめた。
「やはり、ここにいたか。」
気がつくと、隣でことの発端とも言える少女がこちらの様子を伺っていた。
「萩羽か…。」
少女はその顔にやはりいつもの笑みを携えている。どうやら今まで、村人達に捕まっていたらしい。ほとんどわからないが、どこか疲れている。
「どうした? ちっとも顔を見せないで。」
村の者が探していたぞと、こっちの気も知らないで言ってくる。
「別に…。」
…わざわざ逃げてきたのに、こっちから出向いてどうする。それに…。
「何だ? 泣き顔を皆に見られたのが恥ずかしいのか?」
ピシッ。
「お前……。」
自分の声が掠れているのがわかる。はっきり言って、図星であるからなのか…。
「いいじゃないか、別に。泣き顔の一つや二つ。」
言ってくれる。そうだ。それを言うなら…。
「お前こそっ、俺にあんなこと言ったくせに何平然と話しかけてんだっ!」
さすがにあの言葉をそのまま口にはできない。それがまずかったのか相手は首を傾げてしまう。
「あんなこと? なんだ? それは?」
それを聞かれると困る。あえて、避けたとこが返って浮きだってしまった。
「…っだから、言ったろうが! お前が俺にっ…!」
「私がお前に…?」
相手は首を傾げるばかりだ。だから、何を言ったのだと、真剣に問いてくる。
「だからっ、あ゛っ……」
「…あ?」
しばらくの沈黙。何とか続きを言おうと口をパクパクさせるが、喉の手前で行ったり来たりしてなかなか出てこない。そして一つの結論に至る。
結論。口が裂けても言えない。
「…もう、いい。」
全身に脱力感を感じながら、ため息と共に呟く。萩羽は不満そうな顔をしているが、爛火がどう言ってもそれ以上口を割りそうにないので、諦めたようだった。
「しっかし、あれがお前だったとはな……。」
爛火は遠い過去の記憶の中に、妖鬼から救った幼い少女を頭の中に浮かべる。変な少女だった。妖鬼に襲われた時は、何ともなさそうな顔をしていたのに、妖鬼から助けてやると、自分の姿を見るなり泣き出した。嬉しいのだと、理由を問いた自分に告げた。その答えに幼い自分はただ首を傾げたものだった。
「何だ。覚えていたのか。だったらそう言えば良かろうに。」
萩羽は淡々と言う。そう言うお前こそ、最初に言えば良かったのだ。こっちは昔と今の差異の大きさのために、全く気づかなかったのだから。そう思ったまま告げると、飄々と答えを返してきた。
「お前が気づくかどうかなど、私にわかるわけなかろう。責任転嫁はよせ。」
脱力感がまた襲う。
何だかもう、反駁しようとは思えなかったので、そうか、と納得してやった。少々しかめっ面だったが。
「巫女様ー?」
遠くで萩羽を呼ぶ声が聞こえた。萩羽はため息をつくとこちらを見やった。
「どうだ? 一緒に来ないか? 主役がいないのでは、皆が悲しむぞ?」
冗談、と爛火は肩をすくめた。
「いまさら、よってたかってちやほやされても、気分も悪いし、気味も悪い。」
右手をひらひらさせて渋面する爛火に、そうか、と萩羽は納得する。
「調子がいいと、腹が立ったりするか?」
苦笑しながら聞いてくる萩羽に、爛火は顎をついて遠くを見る。
「別に。俺は寛大だからな。」
「…寛大か?」
すぐさま聞き返してくる萩羽に、爛火は不敵な笑みを浮かべる。
「当然だ。口にわざわざ出すまでもない。」
その言葉に萩羽はただ笑った。そして、後でまた来るからそこにいるように言って、爛火に背を向けて、騒ぎの中心へと足を進める。その後ろ姿を爛火はじっと見つめた。
「お前が変えたんだからな。」
数歩行ったところで爛火が萩羽に呟いた。
…何を?
問う間も無く、爛火が続ける。
「お前が変えたんだ。村の奴らも、…俺も。」
そして尋ねる。…真剣に。
「責任取れよ?」
萩羽は、思わず目を見張る。そして、気づく。質問の意図に。…しばらく沈黙し、その顔に不敵としか言えない笑みを浮かべた。
「愚問、だな。」
「愚問、か。」
納得するような、少々愕然とするような声で爛火は萩羽の言葉を繰り返す。その声に萩羽は、瞳に悪戯っぽい光を宿らせる。そして、あの不敵な笑みのまま、言う。
「責任は取るさ。その代わりお前はその刀で私を守ってくれるのだろう?」
一瞬、それに目を見張る爛火。手に持つ刀の存在を強く感じた。
「半妖鬼など信用して…それでも本殿出身の巫女か?」
ちゃかすように、言ってやる。それに対する萩羽は相も変わらず例の笑みを浮かべて告げてきた。
「当然だ。口にわざわざ出すまでもない。」
聞き覚えのある言葉。爛火は、呆然とする。その様子に萩羽は笑みを深め、余韻を残して踵を返し、歩き出した。…そしてちょっとして、爛火はその台詞を思い出す。
「あいつっ…人の台詞盗りやがってっ!」
苦笑を含んだその声が、すでに離れたところを歩く萩羽に届いたかはわからない。それでも爛火は一人、桜の上で機嫌良さそうに苦笑した。


昔、一人の半妖鬼が緑深い「深海森」のそばにある村に住み着いていた。
人々はこの者を忌み嫌い、決して話しかけることも、その身に触れること
もなかった。対する半妖鬼も、村に好意を抱くことはなく、自分に流れる人間の血を嫌悪したりさえした。だが、……

「今となっては、昔の話だな…。」
呟きは、少女の黒髪を波打たせる一筋の風にさらわれていく。少女はその色の無い呟きの行方を、ともに流されていった一片の桜の花びらを目印に、いつまでも見届けた。その先の空は、沈みゆく夕日に朱に染め上げられている。ただ、朱、一色に。

   



〈終〉





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