翌朝。天気は晴天だった。それでも何とも言えぬ不快感が、萩羽にまとわりついていた。
ふと、窓の外を見やる。彼女の目に普通の者には見えぬ、村を取り囲んでいる青白い壁が映る。
「見事な結界だ。」
人知れず萩羽は呟く。あれほどの結界を張れる者は本殿にいる巫女達の中でもそうはいまい。自分の故郷に居る者達の顔が浮かぶ。浮かぶだけで、特に帰りたいなどとは思わないが。結界の方へ意識を戻す。確かに見事だが、かなり古い。張った本人がもうこの世にいないので効力も薄れている。張り直す必要がある。が、この結界が一度崩れないことにはどうすることもできない。張った本人でなければ強化はできないし、別の者が新たに結界を張る時は、前の結界が消えるのを待たなければならない。そしてこの結界、いつ崩れるかわからない。崩れた瞬間に妖鬼に侵入されたら大変だ。また、得体の知れない妖鬼がこの村を狙っていることはあの騒ぎで明らかだ。非常にまずい。…と、その時、萩羽の脳裏に少年が浮かぶ。そうだ、手助けを頼もう。この村で妖鬼に対する力を持っているのは、自分と、あとは彼だけだ。そう思い立って、スクッと立ち上がる。
「巫女様。」
外に出ようとした瞬間、誰かの声に制止され萩羽は足を止める。例の神社に仕えている男だった。
「またあの者のもとへ行かれるのですか?」
甚だ不満、と顔に書いてある。最初は何か企みあってのことと様子をみてきたのだろうが、いいかげん、萩羽に爛火を払う意がないと悟ったのだろう。異議を唱えることにしたらしい。
「村の者も不安がっております。貴方様があの半妖鬼に魅入られてしまったのではないかと、どうか、もうあの者と関わるのはおよしください。」
頭を深々と下げて懇願する。その様子に巫女は、己の過ちに気づき、「そうであったか、私としたことが、つい物珍しさに……。」と、男に頭をあげるように促す……はずだった。少なくとも、この男の頭の中では。ところが、返ってきたのは、そんなものではなく、深い深い呆れを含んだ…ため息だった。
「……巫女様?」
「…お前、前に私が言った言葉。…理解できたか?」
冷ややかな視線。やはり、男は言葉を失う。その様子に萩羽はまた深いため息を吐く。お前に構っている時間はないのだが。言葉にはさすがに出さないが、いつ崩れるかわからない結界に焦りを感じて思う。
「鳥は天狗。雛はお前達だ。天狗が妖鬼を連れてきたのではない。妖鬼が来たから、天狗が現れたのだ。…まったく、命を張って助けた者達にこうまで言われては、その天狗とやらは不憫この上ないな。」
男は放心している。萩羽が急いでいたので、早口であったためでもあろうが、今までの自分の常識であったことを根本から覆してしまうことを淡々と言われて、理解できずに混乱しているのだ。命を張って天狗が何を助けたと…? 妖鬼が来て、それで天狗が来たというなら、一体何のために? 混乱しきって収拾のつかない男をそのままに、萩羽はスタスタといってしまう。それに気づいた男は、思考を一旦止め、萩羽を追いかけようとする。
「お待ちください! 巫女様、説明をっ!」
「お前、それ以上喚くと馬に蹴られて死ぬぞ?」
その一言に男は凝固する。萩羽は、もうふり返ることなく自らの道を進んでいった。残された男はどうしてその単語が出てくるのかわからず口にしてみる。
「…馬?」
一方、この時からさらに時をさかのぼった森の中の明朝。爛火は夢の中に母と父の姿を見ていた。幼い少年もその輪の中にいた。幸せそうだった。彼らの他に誰もいなっかたが、それでも幸せそうだった。幼い自分は何も知らずに母に問う。なぜ村へ下りてはいけないのか、と。
母は悲しそうな微笑みを浮かべ、そして、泣き出してしまった。ごめんねと何度も繰り返しながら…。父も幼い自分の頭を撫でながら、その瞳に悲しみの光を宿す。それ以来少年は村のことを口にすることはなかった。聞いてはいけないことだったと幼いながらも悟っていたのだ。…そんな光景を見て嘲笑う声が、その夢の空間の中に響き渡る。
――誰だ?
その声の主に問う。目の前に影が生まれた。それは次第に大きくなっていく。そしてすぐ、形を表すまで待てないかのように、影から嘲りの声が木霊した。
“馬鹿だよなあ? あんな奴らさっさと殺っちまえばいいのに。”
笑い声がその空間を震わせる。
──―あんな奴ら?
“村の奴らさあ!わかってんだろ?あいつらに生きる価値なんかありゃしない!”
声はなお嘲りを増す。影はどんどん大きくなっている。すでに目の前の家族の姿はさえぎられてしまった。
───だが、約束したんだ。父と、あの村を守ると…。
声に強さはなかった。相手もその声を聞いて、さらに笑いを上げる。
“誰が約束したって?父親も期待してんだぜ? お前が奴らに復讐することをっ! 殺っちまえよ! そしたらお前の両親の無念もはれるってもんだろ?”
目の前の影が奇妙に動き回る。そして、次第に形を成していく。人の形だった。
───無念だとっ? そんなはずはない! 父も母もおだやかな顔をして逝ったんだ。無念であったはずがない!
叫ぶ。もう聞きたくなかった。頭が割れそうに痛かった。それでも影は笑い声を止めない。形はほぼ完成に向かっていた。
“お前が勝手にそう、思いこんでいるさっ! 思い出せよ! 両親の最期の顔を! 苦痛と憎悪に溢れたあの顔をっ!”
目の前に両親の顔が突き出される。影の言葉通りの歪みの顔が。思わずそれを振り払う。
───うそだっ! こんなのは違う! お前は妖鬼だなっ! 何者だ! なぜこんな幻を見せる!
“そうさ、俺は妖鬼だよ。醜く、邪悪な心を持った妖鬼さ! どんな顔をしているか見たいだろう? よく見てみろ。”
目の前の影はすでに影とは言えなかった。色彩をその身に宿していた。身に覚えのある色。胸に不安と恐怖が溢れてくる。それでも目の前のそれから目を離せない。爛火の意に反して、それは完成する。銀の髪、深紅の瞳、そこに……同じ存在が二人。だが、影だった者がその形相を変える。それは、妖鬼の顔。爛火は思わず息を飲む。その様子に、…それはニタリと笑みを浮かべる。
「俺は……、お前だよぉっ!」
ハッと目が覚める。汗だくだった。朝日はすでに昇っていて、爛火を穏やかに照らしている。夢…。わかってはいるものの…あの自分の顔が消えない。
「お…俺は……。」
言葉は続かない。否、続けられなかった。…いつもの春風が、汗を乾かしていく。ふと、目を閉じた瞬間、誰かに呼ばれた気がした。空耳かと思いはしたが、耳を澄ましてみる。何も聞こえない。かぶりを切って、立ち上がった瞬間、頭の中に直接その声が響いた。聞き覚えのある、そしてどこか愛おしい、自分を呼ぶあの声が…。覚えず、爛火は走り出していた。
急ぎ足で桜の並木道へと向かっていた萩羽は
、結界ギリギリの花畑の人影に気づく。あれだけ、言っていたのに。萩羽は、ため息をつき、方向転換をする。
「あーっ! みこさまぁー!」
自分の気配に気付き、その人影の主、こゆきはこちらに小さい手でめいいっぱい手を振っている。右手には、そこで摘んだのだろう、鮮やかな色彩の花々が握られていた。
「…こゆき。あれほどここには近づくなと…。」
「見て!みこさまっ! このお花きれいでしょう!」
こゆきは萩羽に飛びついてあの可愛らしい笑みを惜しむことなく、その顔に浮かべる。
「これねぇ、母様にあげるの! でね、これはあの綺麗なお兄ちゃんにあげるのっ!」
束ねた花の中から、一本赤い花を取り出して、萩羽の前に突き出す。
「お兄ちゃんね、おめめがとっても綺麗でしょ! こゆきね、赤大好きなの!」
幼い少女の言葉に、萩羽は思わず目を見張り、顔をがほころぶ。良い子だ。心から思う。
この子は良い子だ。
「そうだな、こゆき。後で一緒に渡しに行こう。だから今は…。」
家にお帰り。…そう言うつもりだった。だが、言えなかった。
そこの世界の空気が一変したのだ。
体が強張る。差しだそうとしていた手も、途中で硬直してしまった。
……結界が崩れた。
そして…招かれざる存在、体中の細胞という細胞が、萩羽の背後にいるソレに対する警告を発している。
目の前の少女の瞳に、ソレは姿を映していた。当の少女は魂が抜けたように固まっている。晴れていたはずの空は、いつのまにか薄暗い雲に姿を隠してしまっていた。
空気が一瞬にして、冷たく凍る。
息を飲み、ふり返る。
───聞こえるのは、歓喜にくれるソレの雄叫びとも言える笑い声。
───見えるのは、ソレの爪から弾け飛ぶ、深紅。
ソレは萩羽の腕をことごとく、その爪を以て引き裂いていた。
無意識のうちに萩羽は、その名を声にならない声で…叫んだ。
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