T: He meets her





薄暗く湿った小さな空間が自分のすべてだった。
嫌味なくらいに晴れ渡った青空の、あの日までは。

あの男が、消えるまでは。








「――行方不明?」
 外に引っ張り出されるなり、いつもとは違う広々とした場所で湯浴みをさせられ、仕舞いには高級質の衣服まで着せられて、知らない部屋に放り込まれた。そこで対面した、眉を盛大にしかめた黒髪長髪の男が切り出したその話を聞いて、思わず青年はそう聞き返す。
 男は彼の疑問の声に眉間の皺を深く刻んだまま「そうだ」とぶっきら棒に答えた。
「約二ヶ月前からいきなり消息を絶たれた。捜索には全力を尽くしたが、情報は欠片も得られなかった。もうすぐ集会もある。これ以上は周囲に隠すことも不可能だ」
 青年はふと眉を顰める。話を聞きいているうちに、この男の意図は嫌でも察しがついた。
「……それで、俺にあいつの代わりをと?」
 言いながら、皮肉げに歪んだ笑みが浮かぶのを抑えられなかった。
「あいつが見つかるまで、お前らの傀儡になっていろと?」
 ふざけるな、とでもいうかのような口調でそう問いただす青年に、男は表情ひとつ変えず返す。
「そうだ。下手に力のあるものを後釜に据えれば、主がお帰りになった時に面倒なことになる」
 青年は唇を強く噛み締めた。
「……俺がその代役とやらを承認するとでも?」
「貴様に選択権などない」
 男は冷酷な眼差しを差し向けて告げてくる。
「恐れ多くも、わが主を亡き者にしようと貴様の母親が企んだ際、本来なら貴様も処刑されるはずだったのだ。それをわが主の温情で今日まで生かしてやったのだぞ。その恩を今こそ返すところだろう」
「温、情…だと?」
 男の言葉に、青年は強い憤りに押し流され、冷笑を浮かべる。塔の小部屋に幽閉され、孤独の世界で生きることを余儀なくされた自分に、あの男が暇つぶしと称して現れては血みどろにしてくれたあの時間が温情だというなら、いっそ最初にあの狂った女共々殺してくれていたほうが余程慈悲深いと言えただろう。
 だが目の前の男は、青年の反抗的な目などまるで気にせずに卑下の視線で見下ろしてきた。
「断るとでも言うならば、今度こそその首を切り落としてやる」
「…………」
 随分と陳腐な脅迫だな、と青年は内心白けた心持で相手を見る。大体、今更落とされて惜しい首でもない。あのまま生き地獄の中で過ごす時間を思えば、こんな奴らに利用されるくらいだったら、いっそ命などくれてやってもいい。だが、ふと首をもたげた復讐心が、この男の歪んだ顔見たさに発しかけたその言葉を押しとどめた。
 そうだ。俺はこんな機会を待っていたのではないか、と。
「………わかった」
 勝手に居場所を残して消えた男。
 ならば、奪ってやろう。貴様の場所など。この俺が。
「引き受けよう」
 前髪に隠れた奥で、漆黒の目を鈍く光らせて青年は答えた。













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「まあ、スカーレット卿」
「これはこれはランドール夫人、本日も麗しいお姿で」

「スカーレット卿、私、ドレスを新調して参りましたのよ? 似合ってるかしら?」
「ええ、とてもお似合いですよ、ハゼット女史。あなたに相応しい華やかな色合いで。会場に入られた瞬間から他の方々とは違っていらっしゃったので思わず目を惹かれてしまいました」

「ねえ、スカーレット卿、今夜は私と踊って下さらない?」
「喜んで、私などでよろしければお相手を勤めさせて頂きますよ」

 笑みを貼り付かせて。
 目元を細めて。
 優しい言葉を返して。
 ――ああ、なんて……。

「スカーレット卿」
「スカーレット卿」

 なんて、煩い雑音。





「何処へ?」
 会場を出て、廊下を歩いていると、あの長い黒髪の男が相変わらず不機嫌そうな顔で問うて来た。心中で舌打ちして答える。
「気分が悪いから、少し休んでくるだけだ」
「公爵殿がいらっしゃる頃までには戻れ」
「……わかっている」
 吐き捨てる様に返して、相手に背を向けて足を進める。
 気持ちが悪い。体中にまとわりつく香水の匂いに苛々する。
 途中、蹲りそうになりながらも右肩を壁に擦りつつ、何とか自室の扉の前へと辿り着く。乱暴にそれを開けて、中に足を踏み入れた瞬間、我慢していたものが喉奥から迫り上がってきて、思わず大きく咳き込み、膝を折った。
「ごほっ!……かはっ……ごほっごほっ、げほっ!」
 最後の咳きを吐き出した瞬間、口内に鉄の味が充満して反射的に眉を顰める。ヒューと息を吸い込みながら口元を押さえていた右の手のひらを見れば、生ぬるい紅がべったりと付いていた。それを見て、一瞬の沈黙の後に、ハッ…と乾いた笑みがこみ上げた。すでに慢性化した、精神的ストレスによる胃炎だ。血を吐くのはこれで二度目。随分と荒れているらしい。
「……そのうち胃に穴が開くな」
 他人事のように呟いて、ベットの端に凭れ掛かる。見上げた天井には細やかな細工がされ、明かりの点けられていない室内でも窓から入り込む月の光にその姿を浮き彫らせている。目を閉じれば、さきほど会話を交わした女達の姿が思い浮かぶ。誰も彼もが自分をスカーレット卿と呼ぶ。かつてあの男がもっていた呼称で、自分を呼ぶ。最初は躊躇いを見せながらだったが、半年経った今となっては、なんの蟠りもなく、どの口もそう呼ぶようになった。
 ……それに達成感を感じていたのは、いつまでだったか。
「…………」
 手のひらの方にはまだ血の付いた右手の甲を、目の上に置く。物音ひとつ立たない室内はひっそりとした静寂が包み込んでいた。

『ところで、柘榴の君はまだ行方知れずでいらっしゃるの?』

「…………」
 丁寧に作り上げた笑みを一瞬にして凍りつかせた一言。その女に限らず、他の者も二言目にはその言葉を囁くようになった。そう、簡単なことだ。すり替われてなど、いなかったのだ。スカーレット卿と呼ぶ時は、単に今その地位にいる人間を呼んでいるだけで、あの男の上塗りの上にいるわけでは、なかったのだ。あの男が帰ってくれば、奴らはまた何の躊躇いも無く、あの男をスカーレット卿と呼ぶ。
「大した道化だ」
 自嘲の笑みに口端が歪む。散々、あの男を真似て、あの男以上に気遣ってやって、やっと手に入れたと思ったものは結局紛い物でしかなかった。あの男と同じ顔を持っていても、誰もあの男と俺とを対等に扱おうとはしない。俺を透かしてあの男を見ながら、頭を垂れて敬意を払う。
 反吐が出る。
 あの男がこの惨状を見たら、声を上げて笑うだろう。
「…………」
 ゆっくりと目蓋を押し上げる。そこには変わらず天井の細工が見えた。
 何もかもがどうでもよくなってくる。
 いっそ、テラスから身投げでもしてやろうかと思ってそちらを見やった瞬間、思わず固まった。人影が、そこにある。
「……誰だ」
 訝しげにそう問うと、その人影がゆらりと動いて窓へと近づいてきた。
 警戒しながら黙ってその動きを見守っていると、影の右腕が伸びて窓が押し開かれる。
 月光の逆光の中、佇むその姿は女のようだった。
「うわ、窓開けるとダイレクトに来るわね。ああ、でも本当に美味しそうな匂い」
 思いのほか明るい声が、その口からクスクスという笑い声とともに落ちる。ただし、その言葉の内容がさっぱり理解できない。ここには食べ物など置いてないし、会場からはかなり離れていて料理の匂いなど欠片もしないのだ。何をもって美味しそうな匂いなどと評しているのか。
 というか、この女、こんなところで何をしているんだ?
「ねえ、その血、あなたのよねぇ? 口端にも付いてるし」
 こちらが問う前に、女がそう聞いてくる。それを聞いて、面倒なものを見られたと青年は舌打ちした。
「……大したことはない。医者など呼ぶ必要も無い」
「あ、いや、そういうことじゃなくてね」
 女は目元を細めて、まっすぐにこちらを見据える。
「その血の持ち主は、あなたよね、って聞いてるの」
 捕食者の目。そう直感して、本能的にゾワリっと背筋が粟立つ。
 一瞬にして喉の奥が乾き、声が掠れた。
「お前、<何>だ……?」
「……あら」
 思わず身を引いて問えば、女が意外そうに目を見張った。
「感が冴えてるのね。私が<人間>じゃないって理解が早いじゃない?」
「…………」
「吸血鬼よ、存在くらいは知ってるでしょ?」
 明るく笑って告げる女。後ろで一つにゆるく結われた砂金色の髪が風にふわりと靡く。
 その鳶色の瞳の奥に、仄かに灯る赤い光。
 ……吸血鬼。
 宵闇の隙間に気まぐれに姿を垣間見せては、二つの牙跡だけを残して消える魔性の眷属。
 ゆっくりと寝台の反対側の端に置いてあるはずの剣へと視線を向ける。それを察したのか、女が困り顔で口を開いた。
「やだ、そんなに警戒しないでよ。別に取って食おうってわけじゃないんだから……、いや、食べることは食べるんだけど、殺したりはしないから」
「…………」
 警戒解かぬこちらの様子に、女はなおも優しく諭す口調と表情で畳み掛けてきた。
「ただね、ちょこっと血を吸わせてくれればそれでいいの。私ここ三日、血を補給できてなくて限界なのよ。ボランティアだと思って、ね?」
「――断る」
 端的にそう返すと、女は一変した不満顔で言葉を重ねる。
「何よ、本当にちょっとだけよ? 別に、吸われたら吸血鬼になるとかいうわけでもないし、傷もすぐにふさがるから」
「人に触られるのが嫌いなんだよ」
 取り付く島も無い口調でそう返す。女は一瞬目を丸めると、やがて苦笑を浮かべた。
「なんか……、あなたあの子と似てるわね」
「………?」
「でも、そうかぁ、友好的に行きたいところなんだけど、私もいい加減我慢できないし……それじゃあ、悪いけど力ずくってことになっちゃうわね」
 にっこりと微笑んだ女がこちらに一歩踏み出す。それと同時に青年は素早く動く。寝台の上に踏み上がると、反対側の床に置かれていた剣を手に取った。
 が、その柄を握った瞬間、青年の手以外のものも同時に剣を絡めとっていた。
「!?」
 薔薇の蔓、だった。棘を持ったそれが、何処からか床を這い、剣に絡まり、そして驚愕する青年の腕にまで一瞬で絡まっていく。その棘が肌に食い込み、滲み出す紅を伴って走る痛みに目元を歪めた瞬間、蔓が勢いよくしなった。
「――――ッ!」
 その反動で引きずられるように青年は体勢を崩し、ドッと、寝台の上に倒れこむ。その次の瞬間に自身の上に重みを感じて、ハッと青年が顔を向ければ女が覆いかぶさっていた。
「――……貴様ッ!」
「あら? ……あなた」
 真近で見下ろしてくる女が、青年の顔を見て目を見張る。薄暗い室内で見えにくかった女の顔がはっきりと目に映った。魔性の者とは総じてそうなのか、女は端正な顔立ちをしていた。
「あの人、じゃないわよねぇ? 驚いた、世界に三人は同じ顔がいるって言うけど……」
 ポツリ、と女が漏らしたその言葉に、青年は動きを止める。自分と同じ顔と言われて嫌でも思い浮かぶのはあの男。
「貴様……あいつのことを、知っているのか?」
「あら、知り合いなの? じゃあ親戚なのかしら。そっくりだものね。あの人は紅の髪だけれど」
「―――…っ」
 決定打、だった。目の前の女は、吸血鬼は、あの男を知っているのだ。つまり、あいつが行方不明となったのはまさか。
「お前が、あいつを襲ったのか?」
 目を見張ったまま、真実を問いただす言葉を口に乗せる。殺されても死なない男だと思っていたが、さすがに化け物相手では抗えなかったのか。
 女は慌てたように手を横に振った。
「やだ、私じゃないわよ? 私の友人の子がね……、あの子もそんなつもりじゃなかったと思うんだけど、あ、いえ、もちろん死んでないわよ? でも、運が悪かったっていうか、……むしろ、あの人の場合は良かったっていうか。まあ、いろいろと問題が生じてあの子のところに今いるのよ」
 つらつらと女は言い訳をするように並び立てる。どうやらこちらが身内に害を及ぼしたことに怒りを覚えるのではないかと危惧しているような口ぶりだったが、青年にとってあの男の安否などどうでも良かった。いや、そうではない。重要では、あったのだ。
 あの男は、死んでいなかった。
 この女の知り合いとやらのところで、今も生きているのだ。
 なんだ、と思う。なんだ、結局、戻ってくるのか。
「まあ、あの人のもかなり美味しそうではあるんだけどねぇ……私にはちょっと濃い過ぎるっていうか……、私としては、あなたくらいのがちょうどいいのよねぇ。うん、本当に理想的だわ」
 ぼんやりとしている青年の傍らで女はそう一人呟きながら、誘われるようにふと薔薇の蔓に絡め取られて固定されている青年の右腕を見やる。棘が刺さり、僅かに滲む血をその指先で拭い取ったかと思うと、そのままチロリと赤い舌で舐め取った。そして、その一部始終を呆然と見上げていた青年に向かって淡い微笑みを向ける。
「やっぱり、美味しい」
 その様を見届けて、青年は一気に顔から血の気を引かせ、抵抗することを思い出した。
「――離せッ!!」
 まだ自由な左手で女の肩を押しやろうと力を込める。だが女は笑ってそれを押さえ込んだ。とても女とは思えない力で。
「残念だけど、吸血鬼は怪力なのよ」
 クスクスと笑いながら、女は青年のシャツに手を掛けると釦を一つ、二つと外していく。青年は蒼白な顔をしながら、これではまるで悪漢に襲われている女のようじゃないかと自分の状況に思う。冗談じゃないと再び女を押しやろうとする手に力を込めるが、やはり女は微動だにしなかった。
 青年の抵抗を余所に淡々と行動し、三つ目の釦まで外した女はその白い指先でシャツを掴んで押し広げる。そして露にされた青年の首から鎖骨にかけての素肌を見ると、不満げに眉間に皺を寄せてみせた。
「やだ、そんな顔して肌まで綺麗なんて詐欺じゃない。むかつくわ」
 そんなのこっちの知ったことじゃない。青年はそう内心で悪態をつくが、同時に追い詰められたことで焦燥に駆られていた。
「やめろ! 離せ!!」
「はいはい、ごめんね、ちょっとチクッとするだけだから」
 注射を嫌がる子供をあやすようなことを口にしながら、女はさらに身をかがめて来る。顔が近づき、頬に女の髪が当たる。それに淡い香りが鼻腔を擽ったかと思うと、首筋に温かい吐息が触れる。その感触に思わず体を硬直させた青年に、さらに湿った柔らかな感触が襲った。そして、続いて硬質な何かが、二つ、肌を押しやり、そのまま痛みを伴いながら食い込んできた。
「――…ッ」
 下手に損傷すれば生命の危機もある場所だ。体は敏感にその痛みを強調する。僅かに呻いた青年は、奥歯を噛み締め、目を硬く閉じてその痛みをやり過ごそうとした。そうしているうちに、やがて痛みは徐々に麻痺していき、体の強張りも解けてきたが、女は一向に首筋から顔を上げる気配を見せない。ふと、女が掬いきれなかった血が、ツッと鎖骨まで伝うのを感じた。
「……っおい」
 長すぎやしないか。ちょっとだけだと言っていたのはどの口だ。非難を込めて呼びかけるが、返事はない。ただ、女の喉が小さくコク、コク、と鳴る音だけが聞こえる。
 どれだけの血が体から出て行っているのか、正確なところはわからなかったが、ただ多いということだけは分かる。その内、頭が重くなってきて、視界も僅かに霞みだした。
 本能が、危険を察知する。
「……っ、いい加減にしろッ!!」
 さすがにやばいと感じて、先ほどの抵抗の延長で掴んだままになっていた女の右肩を力の限り押しやる。相手の不意を突けたのか、女がそれでやっと首筋から剥がれた。
「………ぁ…れ?」
 青年のぼやけた視界の中で、女が数回瞬きをした後、呆然とした顔でそう漏らす。
 その口元が血に濡れているのが嫌に生々しい。
 肩で息をする青年は、そんな女に対して憤りの限りを物申してやろうと口を開く。だがその前に酷い眩暈に見舞われた。
「………ッ」
 体から力が抜け、シーツの上に埋もれる。そのまま遠のいていく意識の中。
「……合っちゃった」
 そう、唖然とした声で呟く女の声が聞こえた。





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