U: Contract to live



 ゆっくりと瞼を上げると、ぼやけた視界が一度くらりと眩んだ。
 眉をひそめて目を閉じなおし、不快感がどこかへ流れたところで再度目を開ける。ぼやけていた視界も何度か瞬きを繰り返すうちに透明度を増していき、豪奢な天蓋が見えてくる。
「…………」
 見覚えが無い。形も柄も。真正面に向けていた視線を横に流せば、さらに見覚えの無い家具類と部屋の壁が映る。どこぞの令嬢の屋敷に招かれた覚えも無い。昨日の夜会はまさに自分の……というかあの男の館で行われたはずだから、自分が目を覚ます場所も見覚えのなる自室でなければならない。
 そうこう思考を巡らせていると、唐突に昨夜の記憶が浮上してきた。
「――ッ!!」
 砂金色の髪が頬を掠めた感触。何より、首筋に走った痛覚。
 慌てて右手を襟元に突っ込んで記憶の痛みの元を探る。が、指先はそこを滑らかに流れ、何の傷跡も見つけられなかった。そこでハッとして右手を目の前に翳す。
 棘に傷つけられた無数の小さな傷……それすら、ない。
 夢だったのか。だとしたらリアル過ぎる夢だ。
 ならば、ここは一体何処だ。
 寝起きの気だるい体を起して寝台の上から改めて室内を見渡す。広さは自室とほぼ変わりない。白い壁はシミ一つなく、深緑のカーテンは両端に纏めれて今は夜の帳が下りるのを静かに待っている。白いレースカーテンは開け放たれた大窓から流れ込んでくる風に膨らませては萎むをひどくゆっくりと繰り返し、ガラスの容器の内側に蝋燭を携えている照明は今はひっそりと身を潜ませて、室内はただ大窓から差し込む暖かな日差しで満ちていた。
 どこから見ても完璧な朝の風景は、やはり見覚えのあるものではなかった。レースカーテンが揺れる毎にちらつく外の豊かな緑の風景からしてここは一階らしい。日差しの入り具合から言うと、南側にあたるようだ。館全ての部屋を網羅しているわけではないが、少なくともここは館内にありえる部屋ではないような気がする。
 外に出ればわかるかと寝台の端に足を下ろそうとしたちょうどその時、左奥の扉がガチャリと音を立てて開く。
「あら、起きたの?」
「ッ!!」
 現れたのは、見紛うはずないあの女。思わず息を呑んで身を引いたこちらに苦笑を一つ落として、女は室内に踏み入れ、後ろ手に扉を閉める。その腕の中には大きなガラス容器に入れられた水とグラスが一つ載ったトレーがあった。
「お前……」
「うん、まあ、言いたいことはわかってる。とりあえず寝起きで喉渇いてるでしょ?」
 はい、と女はテーブルに置いたトレーの上でグラスに注いだ水をこちらに差し出す。確かに喉には渇きを覚えていたが、すんなりと受け取るほど無用心ではない。
 無言でグラスではなく女の目を見据えていると、女は困ったように眉宇を顰めて小さく息を吐き出す。
「別に変なものはないってないわよ」
「…………」
「力づくで飲まされるのがお好み?」
 にっこりと微笑んで、女は低い声を出す。昨夜その細腕に押さえ込まれた感覚を思い出して、小さく舌打ちし、そのグラスを乱暴に受け取る。よしよし、と満足げに言う女の声に苦々しい思いをしながら水を半分喉奥に流し込んだ。そのおかげで、幾分、言葉が通りやすくなる。
「――……ここは何処だ」
 グラスを手に握り締めたまま、搾り出すようにそう問うと、女はあっさりと「私の家」と答えた。
「何故、貴様の家に俺がいる」
「貴様じゃないわ、私はサティン。覚えておいて」
「必要ない」
「まあ、そのはずだったんだけど、そうもいかなくなっちゃったのよね、これが」
 意味深な言葉を告げて、女は寝台の端に腰掛ける。距離を取ろうと体を動かしかけたが、視線を向けられるとそれだけで身動きが取れなかった。
「私が吸血鬼だってことは、覚えてるのよね?」
「……ああ」
「昨夜、貴方の血を吸わせてもらったことも」
「随分と無遠慮にがっついてくれていたな」
「…………」
 皮肉を利かせて答えると、女は黙り込んで視線をそらす。その顔を見据えながら、危惧していることを問う。
「で、何故俺はここにいる。まさか吸いすぎて吸血鬼になったなんぞ言うわけじゃないだろうな」
「……違うわ。血を吸われても吸血鬼にはならない。というより、混血ならまだしも、基が純粋に人間である以上、何をしても吸血鬼になるということはないの」
「じゃあ、何故だ」
「………合っちゃったのよ」
 ポツリと女は漏らす。意味がわからずに眉宇を顰めていると、女はゆっくりと説明を始めた。
「私達、吸血鬼は人間の血を吸って生きてる。普通の食べ物も、人間と同じように食べるけど、それに加えて血も生きていく上では必要なの。それで、それぞれに血の好みっていうのがあるんだけど……その中でも特に血の相性がいい場合があるのよ」
「………」
「本当に確率としては低いんだけど、人間の中に一人いるかいないかくらいの割合で、自分にぴったりはまった血を持ってる人間がいて、そういう人間を《孤客》って呼ぶの」
 話を聞きながら嫌な予感がひしひしと背筋を迫り上ってくる。今までの話を総合すると受け入れがたい事実が浮かんできた。
「――つまり、俺が貴様の《孤客》とやらだと?」
 女はしばらく沈黙した後、小さく頷く。頭を抱えたくなった。
 ……とんだ災厄だ。滅多にない吸血鬼に襲われるという経験をしたと思えば、さらにその吸血鬼の舌に適った血を持っていたなど。
「……それで、なんだ。極上の餌として持ち帰ったというわけか」
「……それだけなら話はそうややこしくないんだけどね」
 女は深刻は顔で息を吐き出す。
「《孤客》っていうのは、その吸血鬼にとって一番美味しい餌なんていう単純なものじゃないの。むしろ、できれば近寄りたくないくらい」
「……どういう意味だ」
 さらに話がややこしくなってきて、疲労感が肩にのしかかってくる。女は窓の外へと視線を移しながら言葉を続けた。
「《孤客》の血は言ってしまえば、合い過ぎるの。あんまりにも合い過ぎて、一度その血を口にすると、それ以外を受け付けなくなる」
「………」
「一人だけの血しか吸えなくなるっていうのは、吸血鬼にとっては結構致命的なの。万が一、その《孤客》が死んだりしたら、その吸血鬼は血を得る術を失って、そのまま飢え死に間違いなし」
 ため息交じりにそう告げて、女はこちらを見据える。
「《孤客》の血から解放される方法はただ一つ、《孤客》の心臓の血を吸うこと。文字通り、心臓を抉り出して、その血を啜るの」
「………」
 空気が凍りつく。絡んだ視線が緊迫する。
「だから、普通、吸血鬼は《孤客》の血を口にしてしまった場合はすぐにその《孤客》を殺して心臓の血を飲み、血の効力を消すわ」
 女の手が緩慢な動きでこちらに伸び、左胸の上に置かれる。青年はじっとそれを受け入れる。ただ、視線だけがぶつかり合う。
「……逃げないの?」
 女が薄い笑みを浮かべて問う。
「そうしたところで、逃がしてもらえるのか?」
 青年が口角を上げて問い返す。
 女が吸血鬼であり、自分が人間である限り、抵抗は意味を為さない。女の手の内にある以上、自分の命も女次第だ。主導権は向こうにある。女はクスリと笑みを漏らす。
「頭いいのね、下手に暴れたりしないだけ、やりやすくて助かるわ」
 優しい声音で告げると、女はにっこりと親しみやすい笑みを浮かべた。
「結論から言うと、私は貴方を殺さないわ」
「…………」
 無表情で、その言葉を受け取る。女はさらに続けた。
「私は穏健派だから、人間殺すのはちょっとね。まあ、私にも落ち度はあるし。最初に味見した時に気づけば良かったんだけど、少量だったから、わからなかったのよね。実際に噛み付かせてもらったら、もう血に酔っちゃって、我を忘れてたし……ああ、あの時引き剥がしてくれて助かったわ。噂には聞いてたけど、《孤客》の血って凄いのね。あのままだったら貴方の血が枯れるまで吸い続けてちゃってたわ」
 さらりと怖いことを言ってくれる。口元を引き攣らせて聞いていると、女が笑みを取り除いて真剣な目を向けてきた。
「さっきも言った通り、貴方の血がないと生きていけなくなっちゃったから、申し訳ないけど、貴方には今後も血を提供してもらうことになるわ。同時に、《孤客》の血って言うのはそれだけ上等のものだから他の吸血鬼からも目をつけられやすいの。私の目の届かないところで死なれたりしたら困るから、貴方にはこれから私の家にいてもらうことになるわ」
 一生ね、と女は告げる。
「できれば、受け入れて欲しいの。私も生きていく上でどうしようもないから、貴方が私に歯向かうというなら、最悪、その心臓をもらうことになるけど……それは、避けたいところだわ」
「…………」
 青年は沈黙で言葉を受け取る。しばらくして小さく息を吐き出した。
「……わかった」
「ありがとう……ごめんなさいね」
 ホッとした表情で、女は相好を崩す。それに無感動な声で返した。
「別に、いい。どうせ、あちらに未練はない」
 投げやりな口調に、女は少し首を傾げた。あれだけ豪奢な館に住んでいたのだ。人間の社会の中でも上位に位置する人間だったことは察しがつくはず。そんな人間があっさりとその居場所を捨て去ることが理解できなかったのだろう。
 だが、まあ、自分の預かるところではないと割り切ったらしい。そのことには何も疑問を言わずに、女は笑って告げた。
「そう、それなら良かった。……貴方の名前は?」
 少し迷った。迷って、もはや何のしがらみもない場所で、もはや意味を成さない肩書きめいた名は切り捨てて、ただ自分が生まれた時から纏っていた名を口にした。
「……鎖縛」
「鎖縛、ね」
 女が鸚鵡返しにそう呼んだ時、言い知れぬ感覚に襲われた。長年使われなかった名前。自分ですら久しく口にしたのだ。ましてや他人の口がその名を紡いだのは、唯一の接触者たるあの男が消える以前のことだった。
 不快なのか、それとは逆の感情なのか。判断できずに、身震いしそうな己の体を両腕で押さえつける。
「……鎖縛?」
 呼ぶな。そう言いたかったが、声にならなかった。ただ、強張った表情で相手に視線を向け、小さく返した。
「……なんでもない」
 女は首を少し傾げたままだったが、「そう?」と疑問を飲み込んだようだ。それから、ゆっくりと右手を差し出してきた。眉を顰めてその意図を測りかねていると、女は人好きのいい笑みを浮かべて告げる。
「これからよろしくね、鎖縛」
「…………」
 その手を取ることは若干躊躇われたが、こちらがそうするまで頑として退きそうにない女の様子に、嘆息をついてから右手をその白い手に預けた。
 触れたその細い手が、思いの外温かかったのが、少しだけ意外だった。





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