黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第一話 (V)

 疼く。
 この忌々しい傷が。
 男はその金髪合間に見え隠れする額の切り傷を、いや、もう傷跡となったそれをその手の血管が浮き上がるほど強く押さえつける。いまでも鮮明に思い出せるあの屈辱。仕留めたと、思った瞬間にこちらの油断をついてこの傷を作ってくれたあの男。最期に見せたあの憎たらしい満足げな笑み。
 忘れるものか……これは報復だ。
 そう、今から始まるのは復讐だ。正当で、意義のある復讐だ。
 一匹ずつ、一匹ずつ……あの小賢しい鼠共を片づけるのだ。
 ――…ニヤリと、男は人知れずその口元に残酷な笑みを刻む。
「早く来い…」
 どんな奴だろうか。最初に報復を受けるのは……。
 ……早く、始末してしまいたい。
 男はそう言って、薄暗い廃屋の中でその目を閉じた。
 その耳に届くのは、ポツリポツリと、どこかから滴る水の音だけ。
 それがどこか、誰かの笑い声に聞こえた。





 階数を知らせるランプが止まることなく上へ、上へと上がっていく。
 それを気にする必要は、今一人そのエレベーターを使用している者にはない。
 ついに、これ以上上がれない所まで達したランプはそのままそこで沈黙し、ただ使用者が降りるのを待った。それでも何もせずにいれば、数秒の間の後頼んでもないのに小さな音とともに扉が開く。
「おかえり、シコウ」
 開かれた扉の先に待ちかまえていた者が自分の姿を認めて、微笑みを浮かべる。
 艶やかな漆黒の髪はさっきまで共にいた者を連想させた。
 だが、それが肩上で切り揃えられているところはかの人物とは異なるもの。
「ただいま、千尋姉」
 こちらも笑みを以て答えた。
「どうしたの? 待ち伏せなんかして」
 そのままエレベーターを降り、自分の部屋へと足を進めながら、未だに入り口に寄りかかったままの女性にシコウは尋ねた。女性はにっこりと人受けの良い笑みを返す。
「涼子の話を聞きたくて」
「…またそれ?」
 シコウはカードキーを通しながら、毎度同じ話をせがむ女性に苦笑いを向ける。
「だって、涼子の話が一番面白いのだもの」
 千尋と呼ばれた女性はそう言って、何か思い出したのか面白そうにクスクス笑っている。
 それにシコウは困ったように肩をすくめた。
「いつもの通り、涼子さんに振り回される話しかないよ」
「それがいいのじゃない」
 ふざける千尋にシコウはしかめっ面をしてみせる。
「他人事だと思って……」
 言うが、千尋は笑うばかり。シコウはまったく、とため息をついた。そこでふと、部屋に本来いるはずの気配が無いことに気づく。
「他の二人は? 検査?」
「そう、あなたも後で来るように言われてるわよ」
 それを聞いた青年は注射を嫌がる子どものように眉を顰めた。
「つい、この前もしたじゃないか」
 そう何度も呼び出されてはたまらない。そういう響きを含む声。だが、千尋はその反応を予測済みだったらしい。青年の不満を小さな苦笑だけで受け流す。
「フフッ、そう言っては駄目よ。十老達も心配なの。外に出ることであなたの力に影響がでるのでは…ってね」
 どこまでも深紅の瞳が妖艶な光を帯びたまま、シコウの様子を伺ってきていた。対する青年は僅かに目元を細めて独り言のように小さく呟く。
「その力が大したこと無いから外に出したんだろうに」
「それでも、よ。だってあなたはセントル唯一の男の四仙なのだもの」
 すかさず、千尋は苦笑しながら返してきた。
 それにシコウは数秒視線を合わせ、そして開いた扉の先の闇にそれを移す。無機質な闇がそこにある。
「相変わらず狭苦しいところだな、ここは」
 冷たいその声色に、千尋はその笑みに今までにない哀愁の色を深めた。
「それをあなたが言っては駄目よ。あなただけがここから出る翼を手に入れられたというのに」
 悲しい響きを含むそれが彼女の口からこぼれ落ちる。沈黙に包まれる空間。それを打ち消したのは、青年の自棄気味な声だった。
「…確かに」
 シコウは自嘲の笑みを女性に残し、そのまま部屋へと姿を消す。千尋はただ静かにその背を見送った。その瞳は、どこか酷く切なそうに歪んでいた。




   ※

 式典前日。
 涼子は資料室で、シコウとともにデルタ・ヴァルナ全体を表した地図を広げていた。昼時なためか、他に人の影はなく、ただ空調機の音だけが部屋に響いている。地図の広げられた机の前にある椅子に腰を下ろしている涼子は、その傍で佇んで地図を見下ろしている片翼の青年を見遣った。
「……で? 相手のアジトは掴めたの?」
 問うた涼子の口調はどこか苛立ちと焦りを含んでいる。
 それも当然と言えば当然か。
 もう「前日」なのだから。
 仕事の条件は式典までに相手を何とかすること。なのに前日の今の今まで、これといった前進は見られないのだ。これはどう見ても計画はまかせてくれと言ったシコウに責任があると言えるだろう。だというのに、当の青年は焦った様子もなく、飄々とした趣でその場に突っ立っているのである。
「いいえ。掴めませんでした」
 この状況に涼子が苛立っているのを知りながら、シコウはあっさりとその感情を悪化させる返事をした。
 涼子の眉がピクリと反応する。どうやら今ので苛立ちは最高潮にきたらしい。ゆっくりと組んだ足を解いて椅子から立ち上がる…と、静かな動作はここまでで、次の瞬間部屋中を揺るがすような勢いで机が叩かれる。耳についていた空調機の音も吹っ飛んだ。
「『いいえ』って、…どうするつもり!? 前日よ?ぜ・ん・じ・つ!! わかってるの!?」
 まかせてくれと言うからまかせたと言うのにと噛み付く涼子にシコウは何とも悠長に様子で答えた。
「…わかってますよ。『前日だから』ここにいるんです」
 笑みさえ浮かべるその様子、そしてその言葉に涼子は不可解そうに片目を細める。
「…どういう意味?」
 聞く涼子にシコウは広げた地図を指さした。
「ここを見て下さい」
 言われるままに、涼子が目を遣った先。それは……。
「……G14区軍事倉庫?」
 これが何だと顔を上げると、シコウは持っていた資料を涼子に手渡す。
 素直に受け取ってそれを眺める涼子の様子を伺いながら、シコウはその口を開いた。
「ここはもう7年ほど前に閉鎖されています」
「……そうらしいわね。…で、何?」
 資料中の閉鎖の文字を見遣って涼子は肯定し、そしてその意味を尋ねた。
「いいですか、ここで注目すべきはG13区地下輸送線との位置関係です」
 キュッと、シコウは持っていたペンで地図に二つの円を書き込む。
 ほぼ密着していると言って良いG13区地下輸送線入り口とG14区軍事倉庫を囲む円。
 涼子はそれを見て、しばし沈黙し、「なるほど、ね」と納得する。
「ここが襲撃地点というわけ?」
「ええ、一カ所に止まることはないようなのでアジトと呼べる場所はありませんが、ここなら確実に式典直前に来るはずです」
 言ったシコウと、顔を再び上げた涼子との視線が交差する。
 そしてどちらともなくその顔に笑みを浮かべた。
「それで『前日』…というわけ…」
「ええ」
「OK、出発は?」
 聞かれてシコウは少々考え込んだ。そして告げる。
「夜の九時ってとこですかね。そう早く行っても仕方がないですし」
「…そうね」
 涼子も肯定する。
 その肯定が話し合いの終わりを意味した。






「涼子ってば、いいなーっ」
 同僚で友人の巫女、ラナマ=F=マーガレッタが食堂で羨ましそうに声を上げたのは、その日の夕刻であった。
サラダを口に運ぼうとしていた涼子は彼女の声に、その動作を一時停止して首を傾げた。
「いいって…何が?」
「何って……」
 まったく不可解そうな涼子の様子に一瞬、ラナマはその金髪によく映える愛くるしい緑黄の瞳に呆れの光を宿す。
「決まってるじゃない!! 煉様よ!!」
 ……言われた瞬間、どっと肩の力が抜ける。
「何だ、またそれ? まったく…この前もジェルバに同じようなこと言われたわよ」
 大概に嫌気がさす内容に、涼子はレタスを貫いていたフォークを皿に置いてため息をついた。自分の相棒は四仙である。四仙は巫女達の憧れであると同時に騎士にとっても手の届かぬ存在であるらしい。そんな彼らを自分の相方に…とは夢にも妄想にも恐れ多くて思えない…らしい。聞いた話によると、である。それをあっさりやってのけた涼子はいろんな意味で視線を集めた。そのことについてあれこれと口を挟んでくる者も多い。もうシコウと組んでから数年経つというのに、今でもこうやって話題に上げられるのだ。涼子はいい加減にしてくれと言いたいのであるが、周りはそう素直に頷かない。それだけ重大な事なのだ。一般的な観点からすると。
 そして、その一般的観点をお持ちの少女は涼子の投げやりな態度に身を乗り出して主張してきた。
「そりゃ、そうよ、涼子ったら!! 四仙なんて滅多にお目に掛かれないのにそれを片翼にしちゃうんだもの! しかも、それが唯一の男性の巫女、いえ、神子の煉様だっていうんだから!!」
「みっ…神子?」
 力説するラナマの言葉に涼子は顔を引きつらせる。
「いや、ラナマ。いくらなんでも…神子っていうのは……」
「いいえっ!!」
 苦笑しながら言いかけたのをラナマは素早く遮った。
「いいえっ、涼子!! あれはまさに神の子だわ!! むさ苦しい騎士じゃなかったのは本当に正解ね! 神もあそこまで美しい造形を騎士なんかにするのは忍ばれたのだわ……」
 ほう…、とシコウの姿を頭に浮かべて夢心地に浸るラナマを前に、涼子は一瞬言葉を失う。そして、彼女の言葉をよくよく頭の中で反芻して……引っ掛かった。
「ラナマ…そのむさ苦しい騎士ってのは私も含まれてるのかしら?」
 少々怒りも混じった声に、ラナマは一気の夢の中から目を覚ます。
 そして、この世の果てでも見たような顔をして。
「そんなわけないでしょうっ!!」
 その怒濤の叫びに、涼子は思わず一時抱いた怒りすらすっかり忘れて怯む。
 毎回のことながら、さすがの涼子もラナマには弱かった。何というか、とにかく戦意という戦意をこの少女を前にしては逸らされてしまうのだ。
「煉様を片翼にしたのが涼子っ、貴方じゃなかったら今頃巫女全員で抹殺計画を立てているところよ!?」
 すっごい比喩である。でもあながち在りそうな計画に、涼子はそれを否定はできる勇気はなかった。セントルの巫女はもはや四仙達を神として崇めていると言っても良いほどの心酔ぶりなのだ。中でも異性のシコウに対する憧憬の念は強いらしく、彼が涼子の片翼となって外に出るようになった初めの頃は、行く先々に人垣ができていたほど。そういった自身の経験から涼子は巫女達のシコウへの執着度をよく理解していた。それ故にラナマの言葉に「まさかぁ」などとは間違っても言えないのである。
「涼子の剣技といったら……もう、みんなで騎士闘技大会の時は歓喜感激したものだったわ。私だって、涼子と話せますように、お近づきになれますようにってセントルの繁栄そっちのけで礼拝のとき何度もお祈りしたのよ」
 ……いや、それはまずいだろう。
 後が恐ろしかったので、突っ込みは敢えて口にはしなかった。
 正しい選択と言えただろう。
 目の前で並べられる美辞秀句を余所に、もう一度涼子がフォークに手を伸ばした瞬間、一通りいろいろと言い終えたラナマが何かを思い出したようにあっと声を上げた。
「ところで、涼子。今日も仕事なの?」
 いきなりの話題の変更に一瞬涼子は反応が遅れる。
「えっ…ええ。…何?」
「…ううん、アップルパイ焼いたから夜お話でもしようかなって思ったんだけど」
 仕事なら仕方ないか…と残念そうに呟くラナマに涼子は微笑んで答えた。
「ごめんね、ラナマ。明日の夜は開けとくわ」
 その言葉にラナマは目を輝かせ、言う。
「良かった!! ……みんな涼子を呼べってうるさいのよ」
『みんな』…その人数がどれほどのものか知らず、涼子はこの約束を肯定してしまったのであった。





 涼子がセントル入口前の待ち合わせの5分ほど前に来た時、すでにシコウは来ていた。
「ああ、来ましたか」
 涼子の姿を認めて、シコウはそう声を上げた。
「……どうしました?」
 何も言わず、ツカツカと歩いてきてシコウの顔を凝視する涼子に青年は首を傾げる。
「…別に」
 神の子ねえ……。
 ラナマの言葉を思い出し、涼子はさらにジロジロと青年を眺めた。
 色素の薄い銀髪に、透き通るような紫炎の瞳。それらは、整ったその容姿にこれ以上ないほど合っている。
 巫女達が騒ぐのも無理もないことであるのは涼子にも、まあ、納得できるものである。
「…何なんですか」
 とても別に、という様子ではない涼子の凝視にシコウは眉をひそめるしかない。
「…あんたって、巫女達に随分人気みたいね」
 しばしの沈黙の後、やっと、話が合うことを涼子が口にすると、シコウは肩をすくめた。
「誰にそんなこと聞いたんです?」
「ラナマ」
 即答。もし、本人に言ったなどとあの少女に知られたら……恐ろしい想像が言った後に涼子の頭を過ぎる。
 しかしそうは言っても、一度口から離れた言葉は二度とその口に戻ることはないのも事実であった。だから、もう何も言わずに相手の返答を待ってると、その視線に青年は居心地悪そうに顔を顰めて目を逸らした。
「……皆、男の巫女が珍しいだけですよ」
 そう謙遜でもない、本音のような声色に、涼子は少々間を置いて「ふーん」と呟く。
 ふいに心を占める腹立たしい感情。涼子はその理由もわからず不快感に身を投じた。
「そんなことより、時間九時ですよ。急ぎましょう」
 そう言って、シコウは踵を返してしまう。
 それは、涼子にとっては話を逸らしたように映った。
 だが、引き留めて何を言うという考えもないのが現実。
 だから、青年の後に涼子も無言で続いたのであった。





 G14区軍事倉庫。
 それが7年間使われていないというのはその内装を見て納得できた。
 天井の蛍光灯の幾つかはついておらず、床にはびっしりと埃が敷き詰めていて、歩くと、まるで雪の上をそうしたように跡がついた。
「随分さびれてるわね」
 第一の感想を涼子が率直に述べると、シコウは返事はせずに床を見渡し、その様子に一つのことを確信する。
「どうやらまだ来ていないようですよ」
 床の上に涼子達の足跡を除いて誰かの侵入した形跡は見られなかった。
 床一面の埃。七年間誰も来なかったようだ。
「そうね」
「どうします? 待ち伏せといきましょうか?」
 涼子も周りを見渡し何もないのを確認して出した呟きに、シコウが提案したその時。
 ───来た。
 広い倉庫で、反響するような声が上から振ってきたとほぼ同時に。
 ……その場所が、否、空間が歪む。
「? …何っ!?」
 涼子が叫んだ次の瞬間、薄白い光の壁が倉庫の中を次々と区分けしていった。
 これは……!!
「…SLE能力!!」
 それを確信した直後。涼子とシコウの間にも一枚の壁が姿を現す。
「シコウッ!!」
 その名を呼んだ時にはその名の主の姿は壁に遮られて見えなくなっていた。
その状況に涼子が舌打ちした瞬間、鋭い殺気が自分に向けられたのを感じて、涼子は思わずその場から飛び退く。その直感が涼子の命を永らえさせることとなった。
 飛び退いた刹那、涼子が居た場所に、風の刃が凄まじい爪跡をつけたのだ。
 抉られた地面の欠片が飛び散り、涼子の頬を掠めて一筋の深紅が頬を伝う。
「……誰?」
 しばし下を向いたままで沈黙を創った後、涼子は静かな、しかし鋭い視線を殺気を纏わせて相手に向けた。
「…外したか…」
 さも口惜しそうな声の主が、涼子の視線の先に敢然と佇んでいる。
 見覚えの在る細目の顔。
 ──資料の一番上の写真の男、マーシュッド=R=ロナウドだった。





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