黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第一話 (W)


「随分とまあ、荒い歓迎ね」
 頬の血を拭って呟いた涼子に、男は沈黙を守った。暗色のマントにすっぽり身を包んだ出で立ちは、どこかうす気味悪い印象を与えてくる。涼子をしかと見据えているはずの両の目は何故か心ここにあらずのような虚ろさを宿していた。その意味を、涼子は経験上理解している。
「マーシュッド=R=ロナウド……だったかしら?」
 淡々と問えば、尋ねられた相手は、少しの間沈黙し、そしてその後。その不気味な視線を涼子から外すことなく、器用にも口元だけを動かして告げる。
「……意味のないことだ、お前はここで死ぬのだからな」
 ──…ありきたりな。
 男の呟きに、涼子は内心そう思って顔には出さずにせせら笑った。
 こういった輩に限って大したことはないのだが、まあ、この男の場合、さっきのSLE能力からしてそれは当てはまらないだろう。
 男の足下、その頭上、背後、自分との間の空間。
 男の気配の存在しうるすべてに意識を向けた後、涼子は自らの視線を再び男のそれと合わせる。
「まあ、ね。あんたのことは調べさせてもらったわ。あまり、チャーリーとは接点がないとこからいうと、誰かに雇われたって話でしょう?」
 シコウから聞いたこの仕事の背景の確認として、涼子は男に肯定を求めた。
 相手は答えない。
 否定しないところから、まあ図星と言って良さそうだ。
「それと……」
 涼子の目に剣呑な光が、その瞬間宿る。
「……一年前、一人騎士を殺ったわね?」
 殺気さえ纏う涼子の言葉にピクリ、と相手が微かに反応した。その場の空気が表情を変える。男が、冷酷というのに相応しい笑みを、感情のまるで無かったその顔の上に浮かばせたのである。そして、そこに現れているのは明らかに歓喜を含んでいるものであった。
「そうだ。……俺が殺った」
 静かな、だが、強い男の声が響く。
 そしてその手が金髪の前髪をサラリと掻き上げた。その額。
 明らかに刀によるものと思われる傷跡がくっきりと残っている。
「あの野郎がつけやがった」
「……ドルフ=K=エドワードのことね」
 涼子はすかさず口を挟む。
 ドルフと面識はなかったが、騎士闘技大会の時名前を見た覚えはあった。遠くからその試合ぶりを少しだけ眺め見たことも。
 荒い剣技ではあったが、それが時々良い結果をもたらしていたのも涼子の印象に残っていた。
 数ヶ月前に行われたそれに故人である彼の名が書かれることはなかったが……。
「さあな、名前なんぞ知らない。ただ、その時俺は決めたのさ。その忌々しい剣を持つ奴ら全員消してやろうってな……」
 ニヤリと笑みを深める男の目に宿る明らかに危険な光。
 狂ってる。
 男の様子を見て、涼子はそう確信した。この男はそこらで盗みなどを働いて満足している程度の犯罪者ではない。殺戮を楽しむ男だ。それが生き甲斐になっている男だ。……だがそんな事実を悟ったところで、動揺する理由にはなり得ない。少なくとも涼子にとっては。
「……ドルフの死体はどうしたの?」
 涼子はただ冷静に、淡々と聞く。
 当の男は、なおもその笑みを携えたまま。
「さあねぇ、どっかの海の底だろうよ。……いや、もう魚共に喰われちまったかな。その魚がお前の腹の中だったりするかもしれない」
 自分の言葉に、また男はうれしそうに笑みを深める。
 悪趣味な奴。
 涼子は軽蔑のそれとも言える冷たい視線を男に送り、そしてきっぱりと告げた。
「生憎、魚は嫌いだから食べないわ」
 にこやかに、だが、どこか嘲笑を感じさせる表情で言った涼子のその言葉に、男は少々目を見張り、呟く。
「そうか」
「ええ」
「それは残念だ」
「悪かったわね」
 笑い続ける男の周りの空気が軋み声を上げ……。
 目を伏せた涼子の剣がスラリと引き抜かれる。
 ──この瞬間、二人はお互いに戦闘態勢に入っていた。



 壮絶な剣圧と殺意の中、飛び散る深紅は両方のものであった。
 涼子の剣が男の肩を掠め、男の起す風の刃が涼子の右腕を掠める。
 あまりの衝撃に、床の埃は瞬く間にすべて吹き飛ばされてしまっていて、その下の床は見るも無惨に抉られ、刻みつけられていた。
「また傷をつけたな……」
 肩から流れる血を恨めしそうに見遣り、男は涼子への殺気を膨らませる。
「お互い様でしょう?」
 涼子は苦笑しながら言って再び剣を構えた。
 それにしても、まったくこの男、変質者のくせになかなかの腕だ。
 巧く風の刃はこちらの常に死角を狙い、そして確実に急所を突こうとしている。
 風といった形や色がないものはコントロールにかなり苦労するのだが、ここまで完璧に操るとは……。
 だが、怯んでいては始まらない。
 涼子は唇を噛みしめ、もう一度相手の懐に向かって駆け込む。
 それに対して男がすかさず風の刃を創り出した。
 次の瞬間にはそれらがすべて涼子に向かって空を裂いて斬進してくる。
 ……来る。
 その軌道を察した涼子は素早く身を屈め、それと同時に刃が涼子の頭上を通過した。
 安堵の息を吐く間も惜しんで、さらに涼子はそのまま体を右側へと強引に捩る。
 予想通り、流れる黒髪を少々切り裂いて大きめの刃が過ぎ去っていった。
 なるほど…ね。
 そこで確信を抱き、口元に余裕さえ感じ取れる笑みを刻むと、涼子は三度目の刃の襲撃を軽い身のこなしで避ける。
 その後の動作に迷いはなかった。向かいくる刃にも躊躇わずに大きく相手へと踏み込み、目の前に迫ったそれへと己の獲物を繰り出す。
 目を見開いた、男の顔が間近で見えた。
「っ!? ぐはっ…!!」
 不快感を誘う鈍い音が、その空間に響き渡る。
 四度目の襲撃を剣で捌き、その柄で涼子が男の鳩尾へと諸に打撃を入れたのだ。
 倒れ込み、腹を押さえて激しく咳き込むマーシュッドの前に立ち、涼子はカチャリとその剣先を相手の首元に据えた。それに対して男の瞳が苦悶の中から涼子へ向けられた。涼子の口元を笑みが彩る。
「ワンパターンなのよ、あんたの攻撃は」
 巧くカモフラージュしていたようだが、長年死線を潜り抜けてきた涼子には通用しなかった。やはり、風を操るのはそう簡単なことではないのだ。こういったタイプの能力者にありがちな、あらかじめその動きを設定しているという攻撃方法はこの男も例外ではなかったらしい。
 冷静に見極めれば、攻撃が画一化されたものであるのがすぐに見て取れた。
 涼子の言葉に男は応えず、ただ歯を食いしばっている。
「首ね、核は」
 一瞬間を置き、涼子は冷く言って剣を握る手に殺気を伝わらせた。
 同胞の敵でもある。
 核だけでなく、そのままその喉笛を貫いてやろうか。
 涼子がその手に力を入れた、まさにその時。
 ピシッ……ピシッ……バキッ
 いきなりその空間を囲んでいた壁が、音を立てて亀裂を走らせる。
「!?」
 そのことに気を取られた……その瞬間だった。
「っ! …がっ…!?」
 耳の奥で木霊するような低い音とともに、涼子の左頬を強い衝撃が襲う。
 涼子が見せた微かな隙を見逃さず、マーシュッドがその肘で涼子を殴り飛ばしたのだ。
 ――やられたっ!
 鈍痛に苛まれながら、何が起きたのか瞬時に判断して涼子は自らの失態に舌打ちする。
「こ…のっ……!!」
 吐き捨てて、そのまま涼子は剣を振り躊躇わず男の腹を貫いた。
 だが、予想通り、そこに感触はなく、相手の体はガラス細工のようにボロボロと崩れ落ちるだけ。
 本当に斬りつけたかった男は、抜け殻置いてその場から消え去っている。
 主を無くした空間が耳障りな音を立てて崩壊していった。
「涼子さんっ!!」
 崩れ落ちていく壁の間から引き離されていたシコウが駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか!?」
 微かに血の滲む肩を見て、青年は心配そうに聞いてきた。
 だが、涼子は彼女の前に散らばるガラスの破片を睨み続け、答えない。
 その様子に、言葉を詰まらせたシコウは聞くべきことを悟って、一つ息を置いてから、それを実行した。
「相手は……どうしましたか」
 聞かれた瞬間、涼子は目元を歪める。
 殴られた時切ったのだろう。口の中に鉄の味が広がって、口の端にも僅かに深紅が覗く。
「……逃げられたわ」
 その深紅を指で雑に拭って、涼子はその言葉を吐き捨てた。




「いいわよ、これくらい」
 マーシュッドにやられた肩の傷を治療しようとするシコウを涼子は軽く拒んだ。
 だが、それに応じる青年ではない。
 シコウはその声に眉をひそめ、涼子の制止する手を押しのけて肩に手を置いた。
「駄目ですよ。このままだと跡が残ります」
 そのまま、シコウは傷に置いた手に力を注ぐ。
 その手の甲の紋様が力を使っている際に生じる淡い光を浮かび上がらせた。暖かなものに包まれて傷の痛みが退いていく。
 数分の沈黙。そして……。
「……悪いわね」
 黙って治療を受けていた涼子が聞こえるか聞こえないかという細い声で呟く。
 これにはさすがにシコウも目を見開いた。
「何です? いきなり……」
 治療などいつものことではないか、と不可解そうな顔をするシコウ。
 それに、涼子は軽くかぶりを切った。
「せっかく追いつめたのに、逃がしてしまったことよ」
「ああ」
 シコウは何だそんなことかと、肩の力を抜く。
「何よ?」
 相手の反応に、涼子は不快そうな顔をした。
 せっかくこっちが(珍しくも)反省してやっているというのにその反応はないだろう。
 見るからに不快感を顔に張り巡らせる涼子に、青年は笑って肩をすくめる。
「謙虚な態度なんて涼子さんらしくないですよ」
「けなしてるの?」
 涼子が眉をひそめ、その拳を握ると、シコウはおや怖いとまた笑った。
「……シコウ」
 まったくふざけた態度の青年に涼子が声に怒りを込める。
 すると、急にシコウはその笑みを顔から外し、その紫炎の瞳で涼子を見据えた。
 深い色彩が真っ直ぐに向けられる。その視線に涼子が思わず息を呑んで相手を見つめ返すと、青年はフッと口端を緩ませて見せた。
「わかってますよ」
 微笑んで囁く青年。
 どこが、そして一体何がわかっているというのか。
 わけのわからない相手の言葉に涼子はあきれ顔になってしまう。
 だが、今はそのことに話題を深めていく時間がないのも事実。
 涼子は肩の傷が消えたのを見届けた後、一息ため息を漏らし……。
「……で、あいつがどこ行ったかわかってるんでしょうね?」
 その漆黒の瞳で相手を見た。試すような光がその奥で揺らめいている。
 その瞳に、青年は目を見張り、そして表情を引き締めて答える。
「目星はついてます」
「上等」
 不敵な笑みを浮かべ、言って涼子は立ちあがった。
 やられたままは性に合わない。
 涼子はふと、その痛みの消えた左頬に手で触れる。
 そして呟いた。
「倍返しにしてやるわ」





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