黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第二話(V) 


 運良く、次にやってきたエレベーターには誰も乗っていなかった。
 神も少しは情けがあるらしい、と涼子は皮肉っぽく笑みを浮かべてそれに乗り込む。入るなり、縦に二列で並んだ番号の羅列を見ることもなしに慣れた感覚で74の番号を押した。扉がゆっくりと閉じて、ランプが上へと上がっていく。それを見上げながら、はあ、と涼子はため息をついた。
 あと数秒の自由だ。
 次に扉が開いた時、あの二人が待ち受けていると思うと大変やる気をなくしてしまう。
 大体、ガンゾという男は何かと口が悪い。自覚があって直らないだけにタチが悪いというものだ。おまけにあの大きな図体で後を付いてこられると圧迫感があって息が詰まる。
 ……はっきり言ってしまえば。
 レインと引けを取らず、気に食わない。
 その結論に辿り着くなり、横たわる疲労の沈黙。
「……やめだわ、やめっ!」
 考えれば考えるほどテンションが底なしに落ちてしまった。とにかく、さっさと終わらせるにこしたことはない。諦めが肝心、というやつだ。
「………」
 そう割り切った涼子。考えながら、ふいに抑えようもない違和感が頭を過ぎった。
 まだ、着かないのかしら…。
 74階が目的地だというのに、遅すぎる。伏せていた目を首を傾げて、見上げた。ランプはすでに74という数字を通り越している。
 押し間違えたか?
 否、視線を下げれば74のところに明かりがほんのり灯っていた。
 では、何故止まらない?
 涼子の疑問を余所にランプはどんどん階の数を上げていく。
 止まる気配は微塵もなく。
 どんどん上がる。
「………」
 ついには、最上階…へ。
 ――ガタンッ…
 その一歩手前で大きく揺れてエレベーターが停止する。
 故障、ではない。
 涼子は分かっていた。
 この感覚。
 エレベーターを包む、この異様な感触。
 あまりにも感じ慣れたものだった。
 ――……SLE能力。
 心の中で断言するやいなや、涼子は天井の非常口に手を伸ばす。
 開かない。
 予想していたことではあったが。
 …ったく。
 一息、ため息を付いた。そして未練もなく、涼子はその手を引っ込めて、自らの腰元へと。そこにあるのは、セントルの騎士だけに持つことが許された剣。それを引き抜いて、トンッと壁を足で蹴る。軽やかにその細身が宙に舞った。そして、天井とその身を平行に並べたところで、涼子の瞳に鋭い光が走る。 
 振り切られた、その斬撃とともに金属が断ち切られる音。
 それが響くとともに、天井から金属の塊が落ちる。切り取られた、天井の一部だった。頭上に落ちてきたそれを、器用にも地から足が離れたところでありながら身を捩って避ける。そのまま、開けた場所に手を掛けて、涼子は体重の反動を利用してクルンッとエレベーターの上に出た。
 視界は最高。
 全て真っ暗だ。
 皮肉げな笑みを刻み込むと、涼子は足下のエレベーターに注意を向けた。だんだんSLE能力の波動が弱くなってきている。
 それら全てが消えた時、何が起こる?
 簡単な法則だ。
 自らを支えていた枝から切り離されたリンゴは地に落ちる。子供でも知っている重力の働き。おまけに、ここは最上階。
 さて、どうなる?
 結論を述べる時間すら無意味で、少ない時間の浪費に他ならない。
「最上階…なのよね…?」
 確かめるように、涼子が口に言葉を乗せた。そして視界が定まらないまま、目の前の壁に向かって足を進めていく。感覚で目と鼻の先に壁があるのを認知すると、左腕をゆっくりと上げ、指先で壁を左端からそのまま水平になぞっていった。煤のせいで触れた指先は真っ黒になっているのだろう。しかし、それにも構わず、涼子は指先を滑らせていく。
 そして、在る場所を境に。
 指先が、空気に触れた。
 それを感じて、涼子はニヤリと誰が見るわけでもない暗闇で笑みを刻み込む。
「当たり…ね」
 言いながら、その空洞の端を辿っていった。それは正方形の形をしていて、涼子の体形ならば余裕を持って奥へと進めそうだ。
 これは…通気口。
 以前に涼子は一度だけここを通ったことがある。最上階までエレベーターが上ってくれたのが幸運だった。ご苦労にも唯一の抜け道の目の前で止まってくれたのだ。
 セントルの剣を腰に戻すと、そのまま涼子は通気口の中に身を入れていく。つま先まで入って、30センチほど行ったとき。
 ――カタンッ…
 小さな音が響く。
 それは本当に小さな音。だが、この後の轟音の始まりとしては十分だった。
 瞬間、涼子のすぐ背後で、鼓膜を直接刺激するような轟音が響き渡る。SLE能力が途切れ、エレベーターが落下を始めたのだった。あと数秒でも遅かったら、涼子はそれとともに運命を共にすることになっていた。だが、当の涼子はその音に眉をうるさげにひそめただけで、振り返ることさえない。
 気にすべきは仮定の話ではなくこれからの問題。
 この通気口を抜けきるのが先決だ。
 埃っぽいのが少々耐え難かったが、まあどうしようもないのでそのまま進む。ザラザラとした感触を手の平に感じながらしばらく真っ直ぐ行った。ふいに、目の前に壁が立ちはだかる。左側に手をやるとやはり壁。
 では右は?
 右手を伸ばすと、どこまでいっても壁はなかった。
 右手に曲がっているのか。
「そういえば、一回くらい曲がってたわね…」
 呟いて、導かれるままに右側に歩みを進める。だんだん、目が暗闇に慣れてきた。まあ、見えたところで狭いこの通路の中で視界に入るものは大変限られているのだが。それから数分進んで、涼子は立ち止まる。
 床が、斜めに上がっていた。
 どうやら坂道になっているらしい。
 これも憶えがあった。記憶が間違っていないならばこの先には……。
「やっと出口だわ…」
 坂の上で目が痛い程の光が輝いている。出口から漏れ出でる光であった。
 滑り落ちないように涼子がゆっくりとその坂を上がっていく。さっきの倍の時間、同じ距離を行くのにかかった。そのまま、行くところまで行き着いて。
 最早目の前にある差し込んでくる光に、涼子は目を細める。暗闇に目が慣れてしまったせいで、今度は明るい場所に目が拒絶していた。左手を目元で翳し、右手を以て、そこにある出口を遮断している鉄板に手を掛ける。それには柵上に穴が開いていて、そこから光が漏れ出ている。その穴の隙間に指を差し込んで握り、そのまま押す腕に力を入れる。
 ガキンッ!と鋭い音を立てて、意外にも簡単に鉄板は取り外せた。
 おそらく、涼子が以前、力ずくで開けたときから修理されていない…いや、緩くなっていることにすら誰も気づいていないのだろう。開けた空間から、これまで以上に容赦なく光が涼子の目を襲う。
「…痛ったぁー…」
 目の奥を刺激するような痛み。涼子は目元を擦りながら顔を顰めてその痛みに耐えた。何度か瞬きを繰り返す内に視界が回復してくる。
 そのことに息をつこうとしたとき。
「………」
 気配を感じた。
 すぐ目の前…に。
 ゆっくりとほぼ視力の戻った目で見上げていく。
 そこには相変わらず、青々しい自然が、制圧されることなく、かといって野放し状態に茂っているわけでもない絶妙な均衡が取られた形で存在していた。一部の巫女の間ではエデンの園だとか呼ばれているらしい、四仙達の庭。まるまる最上階は彼らの住居となっているのだが、その中でもこの庭はセントルを造り上げた建築者が一番力を込めた場所だろう。どこをどうしたら、セントルの中にこんな空間を作り出せるのか、涼子には甚だ疑問なのではあるが、そこはまあ、その建築者達が智慧に智慧を絞って頑張ったのだと思われた。その神話にでも出てきそうな、神秘性溢れる場所。
 その、これまた素晴らしい細工のなされた噴水。たった今通気口から上半身を出した涼子の目の前にそれはあった。それは問題ない。それがあることは涼子も記憶していた。
 重要なのは…。
 そこに人がいることである。
 噴水に腰掛けた女性が、目を明らかに見張って…涼子を見つめていた。
「………」
「………」
 お互いにただただ、絶句する。どれだけの時間が経ったのだろうか。先に動いたのは噴水に座った女性。何を言いかけたのか、口を開いて…。
「……あ…」
「待って!」
 それを直ぐさま、遮ったのが涼子の凛と響く声だった。煤で黒く汚れた右手をズイッと差し出して、制止する。女性はその勢いを押されて一度開いた口を摘むんだ。焦りで涼子の頬に一筋汗が流れる。
「こんな状況で言ってもかなり説得力はないと思うけど、怪しい者じゃないのよ」
 声は真剣だった。
 ここで大声で悲鳴でも上げられたらたまったものではない。いくらセントル一の騎士である涼子といえど、四仙の「聖域」に踏み入れることは堅く禁じられているのだから。始末書どころの問題ではなかった。だから、必死に説得する。
「いや、ここに来ちゃいけないのは知ってるわ。ただ、今は非常時で…」
 そう、必死に状態を説明しようとする涼子。
 だが……。
「実はさっきエレべーターが…、……?」
 そこまで言って…涼子は口を止めた。
 クックックックッ、と。
 女性が肩を震わし、腹を抱えて、笑いをかみ殺しているのに気づいたからである。
「………ちょっと」
「あっ、ご…っ御免なさいっ…ふっ…いえ、とりあえずそこから出たらどうかしら? …ね?」
 不可解げに眉をひそめた涼子の疑問の声に、何とか笑いを堪えながら女性が答える。
 通気口から上半身だけ這い出し、突き出された真っ黒に染めた手の平。
 言われてみれば、いまの涼子の体勢はこれ以上ないほど、間抜けと言えば間抜けだった。
「あ…そ、ね…」
 さすがの涼子も思わず赤面して苦笑いをする。とりあえず、女性に涼子に警戒している様子はなさそうだ、と安心した。どちらかといえば、好意すら感じられる。否、好奇心…だろうか。
 とにかく、まず通気口から出る。
 周りに極力当たらないように進んできたせいか、手と膝以外はそんなに汚れてはいなかった。全身を軽くはたいて、もう一度女性に視線を移すと大変上機嫌そうな顔でこちらを見ている。
「で? どうしたの? そんなところから出てくるなんて」
 笑みをそのままに尋ねてくる女性に、涼子はああ、とその顔を思い出した。ずっと見覚えがある、と考えていたのだが。
 …彼女は『魁』(かい)だ。
 四仙の一人で、彼らを統率する立場にある者だった。つまりは四仙で一番の実力者である。実際に口を聞いたことはないが、何度か見かけたことがあった。
「…エレベーターがね、74階で降りるはずだったんだけど止まらなくて…。ここのちょっと下で止まったもんだから抜け出してここの通気口使ってはい出てきたのよ」
 ──その後すぐにエレベーターは落っこちちゃったんだけど。
「あら…エレベーターが? …故障かしら?」
 首を傾げる女性に、涼子は小さくかぶりを切った。
「いや、SLE能力を感じたから故障じゃないわね。できるならその方が良かったんだけど…。ま、この職業じゃ、いろいろ恨み買うから別に大したことじゃないわ…」
 言いながら涼子は周りを見渡す。
「…他に人は?」
 そこに涼子達を除いて何の気配もないことを確かめて、涼子は問いを口にした。この場、「聖域」で「誰か」を述べるならそれは必然的に「四仙」を指す。
「いないわ。一人は今検査にいってるから…。もう一人は…部屋ね」
 うっすらと笑みを浮かべて女性はすんなりと答えた。涼子が「そう」と自分の答えに頷いたのを見遣って、今度は女性が聞いてくる。
「シコウはどう? 貴女とうまくいってる?」
 …涼子は、それに少し目を見張った。
 ここにきて、まだ涼子は自分の名を名乗っていない。今までもこちらが見かけたことはあっても対面したことはないため、彼女は涼子のことを知らないはずであった。遙か昔、一度だけ涼子が優勝した剣技大会の決勝戦にシコウと共に彼女が顔を出したことはあったが、それにしても遠い場所からであったし、かなり昔の話でそうそう一人の騎士の顔を覚えているとは考えられない。
 なのに。
「…よく私が、『涼子=D=トランベル』だと分かったわね」
「こんな破天荒な行動、シコウからよく聞く『涼子』としか考えられないもの」
 キッパリ、と。
 クスクスと笑って、女性が即答する。それに涼子がピクリと顔を引きつらせたのは言うまでもない。
 先ほどとは明らかにトーンの下がった声で「そう」と呟き…。
「…あいつが私のことをどう言いふらしてるか…よぉーく分かったわ」
 堅く心にそのことを留めておくことを涼子は自身に誓った。そうはもう、しつこいまでに。
 さらなる不幸を青年に振りかけた女性は何の罪悪感もなさそうな様子でただただ微笑んで涼子を眺めている。その視線が、涼子にとって何だか気まずい。
「あー…と、……貴女は、魁よね?」
 嫌な沈黙を消し去ろうと、涼子が幾分か前に気づいたことを口に乗せた。女性はやはり、笑みのまま頷いた。
「ええ、その称号で呼ばれてるわ」
 にこにこ、にこにこと。
 何が、そんなに面白いのは涼子にはサッパリである。また、始まった居心地悪い沈黙に、涼子は途切れてしまった会話を何とか繋げようと口を開いて…不意にあることに気づいて閉じた。
 なんでこんなことをしなければならないのか。
 別に彼女と会話を弾ませる必要はないのでは?
 至極もっともな疑問だった。ここで時間を潰すことはない。
 自分は忙しいのだという事実をすっかり忘れていた。
「出口、分かるかしら? レザルダントの研修生を置いてきたままなのよ」
 聞くと、女性はもの悲しそうな顔をする。
「あら、もう行くの?」
 ──もうちょっとゆっくりしていけばいいのに…。
 隠すことなく、顔に表れる言外の言葉に涼子は失笑した。ここまで明快に好意を向けられると、まあ、悪い気はしない。それが、「聖域」から出たことのない彼女の好奇心が呼び起こすだけのものだったとしても。
「…また、来るわ。もし、そっちが歓迎してくれればの話だけど」
 ふざけたような口調で告げた言葉。冗談だ。そう何度も四仙の聖域に忍び込むわけにはいかないのだから。だが、そう言うと、女性が目を微かに見張って、…微笑んだ。それはまるで、野バラが咲き誇るような笑み。
「まあ、嬉しい。もちろんよ、涼子。歓迎するわ」
 紡がれた言葉は、本当に嬉しそうで、思わず涼子は後ろ髪を引かれる思いになる。
 ――例の男達と一緒にいるよりも、この女性と話している方が何倍良いだろう。
 そんなことを考えてしまう。
 まあ、どうしようもないことは分かっているのだが。
 左手奥の扉を指さして、女性が進むべき道を示してくれた。
「出口はそこの扉を出て、左の道に沿っていけば良いわ。ああ、監視カメラには気をつけてね」
 思い出したように付け加えられた女性の言葉。
「…監視カメラ」
 それが、外部からの侵入に対するのはもちろんのこと。だが、ここでのそれのメインの役割は内にある者の監視である。四仙が外に出ることがないよう、最先端のもので造られた物だ。しかし、今まで死線を戦ってきた経験豊富な涼子には意味のないとしか言いようがない。
「大丈夫、それには慣れてるわ。それじゃあね、…有り難う、魁」
 笑って告げると、女性がふいに涼子の手を引いた。
「魁?」
 首を傾げると、艶やかな笑みで女性が告げる。魅惑的な声だった。
「千尋よ。これからは名前で呼んでちょうだい」
 その囁きと共に。
 サラリと、艶のある髪が揺らめく。
 涼子と同じ、漆黒の髪。
 肩口で切りそろえられたところは涼子とは異なっているけれど。
 そしてその色に映えるような深紅の瞳。
 妖艶としか言い表せない大人びた雰囲気には誰もがため息をつくだろう。
 シコウが「煉」の称号を持つように、「魁」の称号を持つ女性…千尋。
 その存在に今日、涼子は初めてまみえた。
 ───これが始まりだと、気づいた者はなかったけれども。






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