黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第二話(X)


 シコウとガンゾがいるのは、73階のDWY倉庫準備室だった。
 エレベーターが止まった今、唯一74階の倉庫へとたどり着ける場所。そこで、ガンゾはシコウを待っていたのだ。彼を足止めするために。そしてやって来たシコウに全てを暴かれ、それでもガンゾはそこを動かないでいた。
「そこをどいてもらえますか? 早く行かないと後が怖いんですよ」
 左手を腰にやり、右手を無造作に差し出してシコウが提案する。それにガンゾは笑って答えた。
「そうかい、じゃあ、どうぞ…ってわけにはいかねぇんだな、これが」
「…でしょうね」
 嘆息したシコウが妙に納得する。
「しかし、困りましたね。私はこの先に行かないといけない。貴方は私を行かせるわけにはいかない……いつまで経っても堂々巡りじゃないですか」
「良い方法があるぜ」
「おや? 何でしょう?」
 大して期待の込められていない声でシコウは問う。
「あんたがここでくたばってくれりゃー、全て丸く収まる」
 ──死んでまで援護に来いとはあの姉ちゃんも言わねーだろうよ。
 そう、告げるガンゾに。
 シコウは一瞬白けた目をしてから、笑った。
「なるほど…しかしそれなら私にも良い案がありますよ」
「何だ?」
「貴方にここで亡き者になっていただけば、それこそ円満に解決できます」
 声を立てて、「いいねぇ」とガンゾが笑う。端から見れば和んだ雰囲気。けれど、その深層は凍てついた氷河よりも冷たい。
「どっちも捨てがたいが…さて、どっちでいこうか?」
 夕食のメニューを選択でもするかのようにガンゾが聞いた。
「私としては後者がお薦めですね。涼子さんの場合、死んでも来いって言うでしょうから」
 冗談めかしくシコウが答える。
「俺は前者だ。意見が分かれたな…」
「そのようですね」
 瞬間。
 この空間の殺気が一気に膨れあがった。お互いのそれが反発し合い、吸収し合って急速に巨大化していく。圧力に耐えられず、その場が軋み声を上げた。
「こうなったら仕方がねえな」
「話し合いじゃ埒があきませんからね」
 同時に、二人の口元が笑みを深く刻み込む。それが始まりの合図だった。
 シコウが右手を一振りするなり、空気が振動してそこに鋭い風が生まれる。それは刃となり、ガンゾの心臓目掛けて飛び込んでいく。ガンゾは直ぐさま剣を鞘から引き抜くとそれで刃を受け止めた。だが、受け止めきれなかった余波が額と頬を掠め、深紅が小さく飛び散る。
「さっすが…四仙ってのも伊達じゃあねーな…」
 その血を無骨な指で拭ってガンゾが笑った。シコウは笑わない。ただ淡々と次の攻撃を仕掛けようとする。ガンゾはそのシコウの態度にため息ひとつ落として言った。
「そう急ぐなよ。今更もう遅い。あっちは多勢に無勢だからな」
「…それは<タラグス>お得意の人体改造の産物のことですか?」
 やはり笑うことなく、シコウが冷たく言い放つ。その内容にガンゾの顔を微かに強張った。
「よく…俺達がタラグスだとわかったな…」
「まあ、セントルの情報力もあながち捨てたもんじゃありませんよ」
「……おまけにあれのことも知ってるのかい」
 驚愕を含む呆れ声でガンゾが肩を竦める。それに対してシコウは何処までも冷めていた。風の刃を生み出しながら、その瞳に氷鉄の陰りが増していく。
「戦力強化は結構ですが、あれはいただけませんね。身よりのないSLE能力をもつ子供を攫って無理矢理脳を改造するなんて」
「犯罪組織相手に説教か?」
「警告ですよ」
「ほお、…無視したらどうなるのかねぇ?」
「……試してみますか?」
 言うなり、シコウの手の中の刃が増幅した。それを見遣ってガンゾが「おお、怖い怖い」とふざけた顔をする。そして、しばらく笑みをその顔に貼り付けたままシコウを見据えた。
「…ま、俺たちの身元がばれちまったからにはやっぱり生かしておけねーなあ」
「……」
 もはや、シコウは何も答えない。流れる沈黙の中、ガンゾは思考を巡らせた。
 相手は強い。自分よりも、である。これは仕方がない事実だ。…しかし、勝ち目がないわけではない。なぜなら、この男には身体能力がないのだ。巫女である以上、そのSLE能力は魔力的能力である。
 …そこに、つけ込む。
「…行くぜ」
 ガンゾが剣を握り直し、シコウに向けて構えた。青年の手の中では渦巻く風が唸り声を上げている。それを確認した上で……その空間を揺らすほどの大きな音ともに、ガンゾは大きく踏み込んで一気にシコウとの間合いを詰めた。そのまま手にした剣を大きく振りかぶってシコウへと叩きつけるように振り下ろす。剣が風を薙いだ鈍い音が響いて。
 ……その剣、が。
 シコウが眼前に翳した手に受け止められていた。正確に言えば、シコウの手の中にあった「風の塊」と拮抗していた。懇親の一撃を受け止められ、しかし、ガンゾの顔に焦りや驚愕はない。次の瞬間、ガンゾは自らその剣を放り出していた。
 これは策略。相手の不意を突き、剣ではなく素手で攻撃を仕掛ける。風の防御は、最初の剣の攻撃で無効化させることで突破できる。魔力的能力者は接近戦に弱い。素手とは言えど、SLE能力の身体能力を使えば、一発で相手を死に追いやることも不可能ではない。そう考えた上での行動だった。
 そしてガンゾは計画を実行した。
 握りしめた右手の拳を、シコウの左頬目掛けて繰り出す。その音はさっき、剣を振り落とす時に立てた音よりも重く、大きかった。やれると確信する。確信した…のに。
 ガンゾは次の瞬間、目の前の現実を疑った。自分の拳が、シコウの左手に受け止められていたのだ。それはもう、あっさりと。信じられぬことに、受け止めた瞬間、シコウの手は微動だにしなかった。まるでガンゾが寸止めしたかのようだった。
 けれど、そうではない。
 ガンゾは無心に拳を叩き込んだし、現に今もシコウの手を押し返そうと腕が震えている。ありえない、状況だった。さすがのガンゾも驚愕を隠せない。
「…なっ、何でだ!!」
 堪らず大声で叫んでいた。
 有り得ないはずなのだ、こんなことは。この男には身体的能力などないはず。自分の拳を素手で受け止めるなどできるはずがない。最初に会ったとき、少し胸板を小突いただけでよろめいたような男だ。
 その男が、…何故だ!?
 また何か、この不可思議な現実に口を開こうとガンゾがする。が、それを為す前に、ガンゾの視界の中で、無視できないことが起きた。
 シコウが、そのガンゾの拳を受けていた左手を、まるでドアのノブを回すかのように捻る。
 それと同時に。
 ゴッ…キンッ…
 鈍い音が……した。
「ぐあああああああぁあぁぁ────!!」
 ついで襲ってきた激痛に、空間を震わせるガンゾの悲鳴。
 その腕が在らぬ方向にねじ曲がって痙攣している。ガンゾは激痛に何も考えられなかった。頭の中は真っ白で、シコウが何を自分にしたのかさえ理解できない。その場に崩れ落ち、目を見開いて、ただ、左手で絶えず痛みを主張する右腕を握りしめた。
「貴方の失敗の原因は、二つですよ」
 そんなガンゾを冷めた目で見下ろしながら、シコウが言葉を紡ぐ。その声に、ガンゾは背筋が凍り付くのを痛感した。
 …違う、のだ。声の本質そのものが今まで耳にしてきたそれとまったく異なっている。今まで聞いたことのない…体の奥底から爪を突き立てられるような声。
 初めて、目の前の青年に恐怖を抱く。滲み出た汗が頬を伝っていった。
 シコウが、言葉を続ける。
「一つは、身体的能力を過信し過ぎたこと」
 言いながらシコウはゆっくりと身を屈めていった。恐ろしいまでに響くあの美しい声音が迫ってくる。
「もう一つは、子供達を…人を道具扱いしたことです」
 迫り来る恐怖、に。
 無意識のうちにガンゾはカタカタと体を恐怖に震わせていた。今までの空気が一変している。まるで世界が変わったかのようだった。屈んだ目の前のシコウを見上げることも出来ない。ただ、床を見詰めた。右腕の痛みは麻痺していた。何か言葉を紡ごうとしても喉が引きつって声にならない。
 …もはや、呼吸さえできない。
 そんな相手にシコウは「私はね…」と微笑んで言う。
「人間を道具扱いするのが何よりも気に障るんですよ」
 その手が、ガンゾの肩に触れた。
 それだけの感触に体が大きく震え、ドクドクドクと、煩いまでにガンゾの心臓が鼓動を大きくし、そして速める。耐えられない緊張感に、ゴクリッと唾を飲み込んだ。シコウが、そんなガンゾの耳に口を寄せた。
 麗しい口元が、ただ一言、言葉を発する。
「───止まれ」
 それは、命令。
 ガンゾへ、ではなく。
 ガンゾの内部へ、の。
 ……言霊として。
 急に。
 静かになった。
 …騒がしかった何かの音が消えたからだ。
 ――何が?
 ガンゾは呆然と考える。
 何の音が消えた?
 何が…ナニが…ナニガ・ナニガ・ナニガ・ナニ……。
 狂ったようにその言葉が頭の中を駆け巡り…。
 …プツンとガンゾの思考が途切れる。
 そこで、ガンゾは一瞬だけ理解した。
 止まったのは。
 ───心臓だ、と。
 「死」の一瞬前に、……そう理解した。






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