黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第三話(U)



 宛われた自室へと向かった涼子と別れ、シコウは宮廷の通信室へと一人歩みを進めていった。幾度かすれ違う宮廷の使用人がこちらに頭を下げる度、律儀に会釈を返しながら、教えてもらった道順を従順に辿っていけば、防音加工が施してあるのだろう右手の壁にやや厚みのある扉を発見した。あそこか、と思い、シコウがそちらに歩を進めるとこちらが手を伸ばす寸前で向こうから扉が開く。
 通信室から出てきたのは、そこの管理者らしき男だった。丁度、点検が終わったところだったのか気怠そうに手に報告書のようなものを数枚持ってシコウに気づかぬまま去ろうとする。シコウはその腕を取った。
「あの、すみません。捕獲したSLE犯罪者の連行についてセントルと交信したいのですが、今使えますか?」
 いきなり声を掛けられて男は大きく目を見開いたが、相手が今来訪中の黒鋼の翼の片翼たる存在であり、己が質問を受けたのだと自覚するなり息を呑み、すぐさま「ええ、大丈夫です」と強張った声で返してきた。そして慌てて身を退いて、ドアを限界まで開き、「どうぞ」と上擦った声で促してくる。そこまでしてくれなくても……と内心シコウは苦笑したのだが、下手なことを口にすれば相手は益々恐縮してしまうだけだろうと考えて口は噤んでおいた。
 相手はただただシコウが動くのをじっと待っていたので、とにかく礼を短く返してさっさと部屋へと入ることにする。「ごゆっくり」という言葉と丁寧にドアが閉められる音を背に聞きながら、青年ははグルリと部屋の中を見渡した。広くもなく、狭くもない丁度いい程度の大きさの部屋。そこには四つ程画面が付いた定置型通信機が設置してあったが他に使用している者はいなかった。
 そう、部屋にはシコウ、ただひとりである。
 「さて」と一息つくと、そのままシコウは一番手短な場所にあった一台の通信機へと近づきスイッチを探す。右手の横側に付いていた凹凸を見つけ、それをオンにすると機械特有の音を鳴らして幾度かの点滅のあと、青い画面が目の前に現れた。シコウはチラリと入り口の扉を見遣る。あの男はすでに立ち去っているらしくそこに人の気配はない。それを一応確認してから、シコウは画面上に出てくる指示に従ってセントルへの暗証番号を打ち込んだ。
 数秒間、画面は暗転し……。
 パチッっという微かな電気音とともに画面が一人の老婆を映し出す。
 シコウはセントルの鮮明な画像を映し出す通信機に慣れているので、ここの画像が少し乱雑に感じた。
 しかし贅沢は言っていられない。これでも、この機種がこの都市では最新型なのだろう。
「燗老、お久しぶりです」
 シコウは仄かな微笑を口許に携えて、画面上に映し出された老婆…ジェルバに挨拶をする。
 相手の口許にも、もはや定着しているのだろう意味ありげな…皮肉ったような笑みが刻まれている。
『おやおや、何をおっしゃる、煉殿。久しぶりと言うほど長い間会っていないわけでもあるまいに。……まあ、いい。ところで例の男は捕まったのかね?』
 苦笑混じりの老婆の言葉に、シコウは表情を変えず、抑揚のない声で返答を返した。
「ええ、その報告で今連絡を取っています。連行については転移装置を使って宜しいですね?」
 確認するように聞けば、老婆は一笑。
『もちろんだとも。何のための転移装置だい。…で、すぐにお前達も戻ってくるんじゃろう?』
 老婆が目を細めて尋ねてくる。
 それにシコウは苦笑めいた笑みを浮かべた。
 その態度が意味する所は明瞭で、無論それを見たジェルバの片眉が跳ね上がる。
『何じゃ、アレにでも捕まったか?』
 アレ、とは言うまでもなく王子様のことである。
 相変わらず勘が良い、とシコウは老婆に感心しながら愚痴に近い近況を口に乗せた。
「ええ、ご名答です。いろいろありまして捕まってしまいましたよ。おそらく、しばらくはここから出られないでしょうね」
 ため息が図らずとも口をついてしまう。
 考えればタダス王子と会うのも数ヶ月ぶりだ。
 しかもそれも公式の会談で仕方がない、といった状況でだった。
 プライベート……と言えなくもないこのおいしい状況で彼が涼子を簡単に手放すとは思えなかった。
 まあ、涼子がテコでもセントルに帰ると言い張るなら話は別だが……。
『煉殿?』
 黙り込むシコウに老婆が怪訝そうな顔をしてきて、シコウは我に返った。
「……あ、すみません。えー…っと、とにかくまた状況が決まってから連絡します。今のままではまだはっきり言いきることは出来ませんので。それと、次の仕事の分は他の翼に代行してもらった方が無難でしょうね。そこのところ、調節お願いできますか?」
『構わんが』
「ではお願いします」
『ところで……』
 不意にジェルバが口を挟む。
 その老婆の瞳の中にある光を見いだしたシコウは微かに顔を強ばらせた。
「何でしょう?」
 ならべく平常を保って静かに問う。
 老婆は相も変わらず笑っていた。その笑みを穿いた口元が言葉を紡ぐ。
『あの子に何か変わったことは?』
 シコウは息を詰めた。もちろん相手に悟られるような落ち度はないが。不審がられぬよう、シコウは適度な間を空けて端的に返す。
「いいえ、特には」
 そして数秒の沈黙。
 視線は外さない。まっすぐに老婆の目を見つめる。
 そんなものでは疑心は拭えないだろうが。
『そうか…ならいい』
 やっと、ジェルバがそう言葉を発した。
 シコウは心中でひっそりと息を吐く。
「では、後ほど」
『ああ』
 それからは二言三言会話を交わしてシコウは通信を切った。
 真っ暗に染まった画面にうっすらと自分の姿が映っている。
 その自分の目を見つめながら、シコウは黙した。
 ――千尋姉…か…。
 思考の末、その結論に至る。
 ――ユーリが反応したのなら、あちらがそう考えてもおかしくない。
 活動の余韻を残す機械音の中、シコウは苦く笑った。
 時間は刻一刻と迫っているというわけだ、と。
 それは仕方がないことだし、覚悟もできている。
 だからシコウはすぐに今考えていたすべてを頭の外に追いやった。
 考えたところで無意味なのだから。
 そして通信機から踵を返すと、颯爽とドアを開けて出て行く。
 その瞬間、だった。
「きゃ!」
「!」
 ドアを開けた瞬間、外にいた人間と思わずぶつかってしまう。
 その叫び声からして若い女性だった。
 慌ててシコウは反動で倒れかけたその女性を引き寄せる。
「すみませんっ、大丈夫ですか?」
「えっ…ええ…御免なさ……」
 頬を赤らめてシコウを見上げたその女性は、視界に彼を入れるなり、そのままシコウに釘付けになった。
 ただでさえ恥ずかしさに上気してた頬がさらに薔薇色に染まり、その瞳は見開かれたまま大きく揺れながらただ一人、シコウだけを見つめている。
「………」
「……あの、大丈夫ですか?」
 物言わず自分を見つめる女性に、シコウは首を傾げる。
 その声にハッと我に返った女性は慌てて、シコウから離れた。
「御免なさい、私ったら……」
 両手で頬を覆い、顔を赤らめてシコウを上目遣いで見上げる。
 その乙女らしい態度に普通、男はクラリとくるものなのだが、如何せん、シコウは違った。
 その振る舞いはあくまで紳士的。
「怪我はありませんか?」
「…ええ。貴方もどこか痛めませんでした?」
「ああ、大丈夫ですよ」
 にっこり微笑んで返すシコウに、女性はまたポウッと夢心地の目になる。
 シコウはといえば、また黙ってしまった女性に首を傾げるばかりだった。
「………」
 無言で見つめ合う男女は端から見ればまるで恋人同士。
 涼子がきつめの美人ならば、女性は柔らかな雰囲気を携えた美人だった。
 そんな女性とシコウ。
 それぞれ美しさを持った二人の絵になりそうな光景が此処にできあがっている。
 …が、その場は一人の存在の出現により跡形もなく崩壊することになる。
 突如として響く、全てをぶちこわしにするほどの強烈な打撃音。
「きゃッ!!?」
 ぶち壊れるのではないかと思うほどの威力で、背後の壁が打ち叩かれていた。
 その音に大きく目を見開いて小さく悲鳴を上げた女性。
「……失礼、お邪魔だったかしら?」
 とてつもない怒りを内包したその聞き覚えのある声にシコウが振り返れば、涼子が拳を壁につけたまま笑みを浮かべて立っていた。
「私の目が届かないところで女を口説くなんて良い度胸じゃない、シコウ」
 にっこり、としか形容できないのだが、それではこの緊迫感を表せないだろう笑みで、涼子は言った。
 細くしなやかな腕は胸元で組まれ、片足のつま先がカツカツと不気味なリズムを刻んでいる。
 一方シコウには何故ここまで涼子が怒っているのか分からない。
 だから……。
「……何のことですか?」
 と、至極不可解げに尋ねたのもシコウにとっては自然の流れであった。
 それに涼子の片眉が跳ね上がる。
「あら、白を切るの?」
「だから、何のことを言ってるんですか」
 問い返せば、今度は涼子の目元がかすかに反応する。ここまで言わなければわからないのか、と呆れながら。
「この状況のことを簡潔に述べているのよ。そこのお嬢さんと二人の世界を創ってたじゃない」
「……は?」
 なおも訳がわからなくなってシコウは呆然とそう呟いた。
 その呟きがますます涼子の機嫌を傾けていく。
「何? その反応。もしかしてあんた自覚なしでやってるの?」
「……自覚? 涼子さん、だからさっきから一体何を……」
「あのっ!」
 何やら険悪な雰囲気になっていく二人の間に女性は出来るだけの声を上げて割り込んだ。その声にスッと視線を涼子から向けられ、女性は思わず怯んだが何とか言葉を口にする。
「……その、黒鋼の翼…の方ですよね?」
「……そうだけど?」
 素っ気なく聞き返すと、女性はやっぱり、と言いたげに微笑みを浮かべた。
「あの、夫がお世話になっています。私、リリィ=L=ハザックと言います」
 言いながら握手を求めてくる相手に、涼子とシコウは思わず顔を見合わせる。
 L=ハザック……どこかで聞いたような……。
「……夫?」
「ええ」
 肯定した女性は朗らかな笑みでこう続けた。
「私、王子・タダス=L=ハザックの妻です」




   ※

「……確かに」
 涼子とシコウの前でその男は何気なく口を開いた。
「リリィは僕の妻だね……というよりまだ婚約者なわけだけど」
 あっさりとそう言い放つタダス王子に涼子はもちろん、シコウも呆気に取られる。
 一方、隣のリリィは無関係そうな顔でタダス王子の様子を眺めていた。
「婚約者って…あんたねぇ……」
 だったらなんで私のこと追いかけ回すのよ。
 言いかけた非難を、しかし、タダス王子の次の一言で涼子はどこかへ吹っ飛ばしてしまうこととなる。
 タダス王子は涼子の引きつった顔を見事に都合良く解釈してくれたのだ。
「むっ……ああ、そうか! いやいや、安心したまえ、涼子君。正妻の座は君のために開けてあるとも!!」
 晴れ晴れとした顔で、何の躊躇もなく飄々と男は言ってのける。
 涼子の引きつった顔にさらに理解不能な解答に対する怒気が追加された。
「………は?」
「いや、いいんだ。君が言いたいことは分かっている。さぞや心苦しい想いをさせたことだろう。けれども私の真実の愛は唯一、誰でもない、君だけのモノだ!!」
 いや、いらないし。
 ……何、こいつ、一夫多妻制でも作り上げる気なわけ?
 しかもその内の一人に自分を据えようなどと馬鹿すら聞いて呆れることを考えているのか?
 ここまでくるともはや涼子も、絶句…としか言えない。
 というか、そんなことよりも。
 チラリ。
 涼子は横目でタダス王子の隣にいる女性を見遣った。
 目の前で、婚約者の男が他の女性に求愛宣言。
 男の爆弾発言にさぞショックを受けていることだろう……と思っていた。
 なのに。
「………」
 見遣ってみれば、彼女は終始無言かつその表情に変化無し。
 未だに微笑みさえ浮かべて王子を見つめていた。
 涼子は思わず、シコウと視線を合わせる。
 彼も苦笑を僅かに浮かべるだけでこの状況が理解できていない様子だった。
「……ところで涼子君。もののついでなんだけどね」
 急に、タダス王子が切り出してくる。
 返事をすることなく視線を向けることで返答すると、タダス王子はにっこりと笑みを浮かべた。
「実は今夜、リリィとの婚約パーティーがあるのだが……あ、君がもし嫌だというなら今すぐ中止にするん……」
「ああ、結構。大賛成よ」
「………」
 即答に、さすがのタダス王子も一瞬、言葉を詰まらせたが、「つれないなぁ」などとかわして言葉を続ける。
「とにかく、だ。その護衛として君に出席して欲しいんだよ。此処だけの話、SLE能力者が暴動を犯すという噂が出てきてね。まあ、ただの噂なんだが、備えあれば憂いなしというからね」
 頼むよ、と言わんばかりの相手の様子に、しかし涼子が怪訝そうな態度で視線を送る。
 この手の口実は聞き飽きている。要は涼子を長く引き留めたいだけだ。
「ふ〜ん……SLE能力者の噂…ねえ?」
「……あ、疑ってるのかい? 本当だよ、本当。信じられないというなら宮廷中の人間に聞いてみると良い。みんな周知の事実なのだよ。」
「……って、あんた。此処だけの話じゃなかったの?」
「そのつもりだったんだがどこからか漏れてしまったのだよ。全く人の口とは怖いものだねぇ〜」
 ハッハッハッと後ろめたそうな様子もなく高らかに笑う男に、涼子が思わず脱力したくなったところで致し方ないだろう。
「じゃあ、よろしく頼むよ。衣装は宮廷に在るものをどれでも好きに使って良いからね」
 軽やかな動作でさっさと契約書とペンを差し出すタダス王子。
 その紙面上に刻まれた契約金は申し分無い。
 よって…まあ…断る理由もない。
 ――なんっか…流されてるわよね…。
 そう思いながらも、涼子はため息と同時にペンを取るのであった。




   ※

「衣装部屋は私が案内致します」
 相変わらず、笑みを浮かべたリリィはそう言って涼子達を部屋の外へと導いた。
 小柄なその後ろ姿について行きながら、涼子はそっとシコウに話しかける。
「どう思う?」
 聞かれたシコウは視線を変えずに一言答えた。
「変だとは思いますが」
「……よねぇ」
 考え込んで、涼子は眉を顰めた。
 いくらなんでも無反応過ぎるだろう、彼女の態度は。
 暗闇でも浮かび上がりそうな金髪の巻き毛。儚さを際だたせる白い肌。
 タダス王子の婚約者というこの女性。
 婚約者が目の前で他の女性にあからさまな愛情表現をして、眉一つ動かさないような女性か居るだろうか?
 それとも政略結婚なのだろうか?
 彼に愛情は抱いてない、と。
 それでも、彼女の瞳にタダス王子への慈しみはある。
「ねえ……」
「はい?」
 ふわりと振り返ったリリィに涼子は率直な疑問を投げかけた。
「タダス王子のこと本当に愛してるの?」
「! ちょっ……涼子さん!」
 いきなりであからさまな質問に隣を歩いていたシコウがギョッとする。
 しかし、涼子はまるっきり無視。
「で? どうなの?」
 問いただす涼子に、しかしリリィはにっこりと笑った。
「もちろんです。涼子様。私はタダス王子を誰よりも愛していますわ」
「……のわりにはアッサリしすぎてない?」
 怪訝そうな顔を露骨に現して涼子は問う。
 今までの状況からしてそんなことを言われても納得できるわけがない。
 だからこその疑心に、それでもリリィの表情が崩れることはなかった。
「妻たる者、夫の行為には寛大でなければなりません。夫が望むことは私の望むこと。夫が貴方を迎え入れたいとお思いなら、私も協力したいと思っています」
 実に清々しく、何の躊躇いもなく女性は言ってのけた。
 なんてものわかりの良いというか、ある意味非常識というか。
 涼子は相手の言葉に最早絶句だった。相手と自分ではまるで価値観が違うのだ。
「理解できないわね」
「あらそうですか、残念です」
 アッサリと言葉を紡ぎ、リリィは微笑みを保ち続けた。
 その間も歩く速度が変わることもなく、気づけば目的の場所。
「ここです」
 そう言って彼女が立ち止まったのは変に派手な装飾の為された扉の前。
 誰の趣味かは想像するまでもない。
 涼子は目元を歪めて呆れた顔をしたが、その感情を言葉に出す前にリリィが口を開く。
「ドレスもスーツも多種に渡って揃っておりますのでお好きなものをお選び下さい」
 そう言うなり扉を開き、リリィは涼子達を中へと催促した。








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