黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第三話(V)



 婚約パーティーはこれ以上ないほど豪華に行われた。
 至たる都市の御要人達が招かれ、そのご婦人が宝石を散りばめたドレスに身を包み、財産力を誇示している。シコウからすれば、皆同じに見えるのも無理がないほどに妙な力の入れようなのである。
 だが、その中においても涼子は目立った。
 決して、彼女は婦人達よりも派手な衣装に身を包んでいるわけではない。反対にシンプルなデザインとさえ形容できる黒のフォーマルドレス。首にネックレスはしているが、大して大きな宝石が付いているわけでもなく、これまたシンプルに。そのシンプルさが返って素材を生かしているといった感じに纏まっていた。さらには、いつもの黒髪が纏めて結われたせいで、白いうなじが見事な曲線を描いているのが露わになっている。
 涼子は間違いなく誰もの視線を集めていた。
 女の嫉妬の視線。
 男の熱い視線。
 全く、男達のつばを飲み込む音が耳に聞こえそうである。だが、そんな彼女の視線は、只今、シコウ一人にだけ注がれていた。
「ふーん、グレーのカッターもなかなかね。ネクタイの色と合ってて上出来よ。パーティーで私の隣を歩くならこれ位じゃなきゃ役不足だものね」
 値踏みするような視線で上から下までシコウを眺め、満足そうに呟く。
 シコウはといえば、荒れ狂う男達の嫉妬の気配を感じながら涼子の言葉に肩を竦めてみせた。
「それはどうも」
 タダス王子主催のパーティーで彼女の隣をいつまで歩けるかは甚だ疑問ではあったが、とりあえず今は口を閉じておくことにした。厄災をわざわざ身に呼び込むことはない。
「じゃ、挨拶回りにでも行く? 一応私達、セントル代表みたいなものだし」
 スルリとシコウの腕に自身のそれを絡ませて涼子が笑って言う。
 シコウはその言葉に目を見張った。
「……珍しいですね。そういうの面倒だって嫌がるかと思ったんですけど?」
「たまにはいいじゃない。特にこういう場面では知らしめさせとかないとね」
 ――何を?
 とシコウが言いたそうな顔をしているのを無視して涼子は周囲に視線を馳せる。
 周囲、というよりもこちらを凝視している女性達にと言った方がいいだろうか。
 シコウに向けられる男達の視線と同類の、女達の涼子に向ける視線。
「ふん、ハイエナ共ったら油断も隙もあったもんじゃないわ」
「……ハイエナ?」
「こっちの話よ」
 不敵としか言いようがない笑みを浮かべて、涼子はシコウを金持ちの群衆の中へと促した。





「やや! 涼子君!!」
 涼子が思わず眉を顰めてしまう声が降ってきたのは、以前出張したことがある遠い都市の市長に再会し、シコウと並んで話していた時だった。
 振り返れば言うまでもなくあの男。
「タダス王子……」
 嫌々ながらに名を口にし、王子に対する敬意も何もあったもんじゃない怪訝な視線で睨む涼子に、しかし今更王子がたじろぐはずがない。出来ることなら、そんな細やかな神経を誰かこの男に移植してやって欲しいくらいだ。
 期待を裏切らず、涼子のそう言う態度に男は全く反応しない。それどころか勝手に妄想という名の白夢中に勝手に落ちていっていた。
「不思議だ……なぜ後ろ姿だけで君だと分かってしまったのか……ああ、運命を感じるね」
 男は自分に酔うようにうっとりとした表情を表し、さらにその視線をドレスに身を包んだ涼子に向ける。
「うんうん、涼子君の白い肌にはズバリ、黒が似合う! 最高の選択だ!!」
 満足げに頷き、タダス王子は聞かれてもいない評価を口にした。
 だが、涼子にとってはこの男の口から出るなら誉められようが貶されようが大して差はない。
 涼子はにっこり笑って、爽やかに返答を返す。
「それはどうも。あんたこそその真っ白な衣装、まるであんたの頭の中を表しているみたいでこの上ないほどお似合いよ」
「……涼子さん」
 相方の不遜な言葉を諫める役目は相変わらずの青年。
 しかし、涼子の前言撤回する気はサラサラなかった。
「いいのよ、このくらい。感覚神経無くしちゃってるようなヤツなんだから」
 ツンの顎を逸らしてそっぽを向く涼子に、シコウを深くため息をつく。
 我が道を行く彼女に遠慮など求めてはいけなかったのだ、という諦めのため息を。
「……ところで、タダス王子。リリィさんはどうされたんですか?」
 話を転換すべくシコウが口にした言葉にタダス王子も涼子も眉を顰めた。
 どうやら地雷を踏んだらしい。
「涼子君の前で他の女性のことなど、そんな無神経なことができるわけないだろう!」
「何よ、シコウ。あの女が気になるわけ?」
 鋭い視線を向けてくる二人にシコウはしまったと思いつつ、苦笑を浮かべて誤魔化すしかない。
 ――…逃げたい。
 切実にこの場から逃げたい。
 そう思ったシコウに何の罪があるだろうか。
 まあ、目の前の二人に掛かれば多種多様な罪名をつけてくれるのだろう。
 …無論、遠慮するが。
 とりあえずこのギスギスした空気を宥めるためにシコウは他のことを話題に乗せようと口を開く。
 その瞬間だった。
「きゃああああああああああ!!」
 会場にまで届く悲鳴。
 おそらくここから少し離れた場所からだ。
 涼子とシコウはさっと反射的に目の色を変え、呆然と立ちつくすタダス王子を押しのけて悲鳴の場所へと駆け出す。
「…シコウ!」
「…ええ、今のは確かにリリィさんの声ですね」
 ドレスにハイヒールという状態でいつもと遜色ない速さで走る涼子。
 そしてそのすぐ後ろに控えるようにしながら付いてくるシコウは、事態を確認しながら他の客達の合間を縫うように駆けていき、あっという間に廊下に出た。そしてそのまま迷うことなく右へと走り出す。
 何故右かと言えば、経験から来る勘というヤツだ。
 会場がちょうど盛り上がっていた時間帯だったせいか、廊下に人影はほとんど無かった。何度か角を曲がる内に、開かれたままの扉が目に付く。
「おそらく、あそこでしょう」
 シコウの言葉に無言で頷き、涼子は勢いよくその部屋に飛び込む。
「!?」
 ドアのすぐ傍に力無くリリィが倒れ込んでいた。
 その姿に一瞬目を奪われたが、すぐに涼子は部屋の中にその他の者の気配を感じて視線を向ける。
 そして……。
「……お前は誰?」
 涼子が鋭い視線を向けた先に、一人の闇に紛れた黒ずくめの男。
 ドアとは正反対の位置にある窓の傍で佇んで静かにこちらに視線を向けている。
 窓からの月の光の逆光のせいで顔は見えない、それ以前に大きな黒衣で覆われているから体系すら掴めなかった。
「………」
 男は無言だった。
 そして次の瞬間、素早い動きで窓から飛び出す。
「! ……っ待て!!」
 涼子は直ぐさま窓へと駆け寄るが、目を懲らして外を見渡しても男の影すら見出せなかった。
 ……逃げられた。
「……追いますか?」
 舌打ちする涼子の背後から、同じように外を見つめながらシコウが尋ねてくる。
 しかし涼子は肩の力を落とすようにため息を吐いて否定した。
「……いいわ。逃げ足早そうだし、仲間と待ち伏せしてるかもしれない。とりあえず今は彼女の方が優先よ」
 涼子の言葉に、シコウはドアの方を振り返る。リリィはさっきのまま倒れ込んでいた。涼子がそっと近寄って抱え起こす。金髪の下から覗く青白い顔が、月光のせいでさらに血色が悪そうに映った。
 涼子はザッとリリィの状態を見遣り、そして安堵の息を漏らす。
「……気を失っているだけね。外傷はないわ」
 そう、涼子が呟いたのにシコウが「そうですか」と安心したように返すのと、幾つもの足音が部屋に駆け寄って来たのとはほど同時だった。
「リリィ!」
「リリィ様!!」
 タダス王子を先頭に、使用人が数人部屋に飛び込んでくる。
 タダス王子は涼子の腕の中のリリィの傍に腰を下ろして彼女が息をしているのを確認し、ほっと胸をなで下ろした。
 そして、涼子に視線を戻して微笑む。
「有り難う、涼子君。君がリリィを助けてくれたんだね」
 涼子も、その微笑みににっこりと笑みで返した。
 そしてその笑みのまま言葉を紡ぐ。
「…気にしないで? あんたみたいな自分の身可愛さに使用人を何人も引き連れないと婚約者の危機に駆けつけられない男にはまかせられないだけだから」
 シコウがその台詞に思わず目を見開いた。
 いくらなんでも言い過ぎだ。
「涼子さんっ……」
「何よ、本当のことじゃない」
 絶対零度の視線と声で切り返してくる涼子に、シコウは一瞬言葉を濁らせるが、それでも食い下がろうと口を開く。
「しかしっ……」
「いいんだよ、シコウ君」
 その言葉に、シコウは目を見張ってそれを言った相手を見遣った。
 意外にもシコウの言葉を遮ったのはタダス王子だったのである。彼は小さく息を吐き、視線をシコウから涼子へと移した。
「涼子君の言うことも最もだ。しかし、涼子君、君は勘違いしている。私は別に使用人に付き添ってもらおうとしたわけじゃない。そこの廊下で悲鳴を聞いた彼らと偶然会って一緒に駆けつけたまでのこと。……君の誤解だよ」
 そのタダス王子の微笑のままに告げられる弁解に、涼子は目元をピクリと反応させる。
 そのまま彼女は何か言いたげな視線を向け、しかし無言で腕の中の女性を押し付けた。
 そして、ゆっくりと呟く。
「別にあんたがどういう行動をどういう動機で取ろうが私には関係ないことだわ」
 また何か言おうと口を開きかけたタダス王子を無視してスクッと涼子は立ち上がり、さっさと部屋から出て行った。
「行くわよ、シコウ」
「あ……はい」
 突っ立ったままだったシコウは涼子の言葉に促され、慌てて涼子の後を追う。
「………」
 その後ろ姿を見送りながら、タダス王子は唇を忌々しげに噛みしめた。
 そして二人が立ち去ったのを確認すると、涼子から押し付けられた女性の体を乱暴に傍にいた使用人に押し付ける。
「どこかに寝させておけ」
 ぶっきらぼうに言い放ち、呆然とする使用人達をそのままに彼はそんざいな態度で立ち去った。
 使用人達はただただ途方に暮れたように顔を見合わせた。




「……どう思う?」
 廊下を歩きながら涼子が問うてきた。
 目線は前を向いたまま、そして眉は顰められたまま、である。
 シコウはそれを横目で見つつ、簡潔に答える。
「怪しいってとこですね」
 何が、とは涼子は聞かない。
 シコウの言葉にウンともスンとも言わず、無表情のまま歩き続ける。
 途中、視線をやれば、大きな扉の向こうでは自分たちのお話に夢中になっている大物達の群れがあの悲鳴にも気づいた様子もなく、未だ会場でワイングラスを揺らしていた。
 …気楽なものだ。
 無差別殺人でも起こっていたらどうするつもりだったのだろうとシコウは苦笑した。
「調べたいならやりますよ?」
 その苦い笑みを讃えたままシコウが言えば、涼子はその足を止める。
 ゆっくりと振り返った女騎士は僅かに疑心を目に宿らせている。
「できるの?」
 青年はそれに笑った。
「できますよ。貴女の相方は優秀ですからね」
「……自意識過剰」
「事実を述べたまでなんですが?」
 穏やかな微笑を浮かべたままそう告げるシコウに、涼子はフンッと片眉を上げてから、ふと苦笑した。
「じゃあ、お願い」
「了解しました……あちらの方はどうしますか? おそらくSLE能力者だとは思いますが」
 シコウの言葉に、涼子がゆっくりと目を伏せる。その瞬間、彼女の白磁の肌に微かな冷気が纏われたことに気づけたのは仮に彼女の前に百人の人間がいたとしてもおそらくシコウ一人だけだろう。
 そこらの貴婦人よりも高貴な感を否めないセントル所属の女騎士は、一つため息をついて纏め上げていた艶やかな黒髪をバサリッと勢いよく下ろした。流れる髪は漆黒のシルクのように空気を滑って彼女の背に落ちる。
 それがいつものスタイルでシコウも見慣れているはずなのだが、ドレス姿ともなるとやはり一段と魅力的だ。
 思わず見惚れたシコウを振り返り、涼子は艶やかに笑みを浮かべる。
 爛々と光るその目は、獲物を前に舌なめずりするかのよう。
 その挑発的な笑みで涼子は言った。
「いいわ、後で私があぶり出してやるから」
 それにシコウは肩を竦めることで答えた。
 やがて、廊下が分かれているところまで辿り着くと、シコウは足を止めて、涼子を見遣った。
「ではすぐに調べてきますから…会場で待っていて下さい」
「ヘマしないでよ」
「大丈夫ですよ。15分程度で終わるような内容ですから」
 サラリと言ってのけて、青年は涼子に背を向け、曲がり角の向こうへと姿を消した。それを見送って涼子も会場へと足を進めた。






 たった一つの光だった。
 彼女は自分にとって、それほどの存在だった。
「ルード」
 そう笑顔とともに呼びかけられるたびに泣きたいほど幸せだったのだ。
 自分勝手だとは承知していたが、それでもこの時が永遠に続けば、と。
 叶うはずのない願いにただ身を沈めていた。
 それでも彼女はこの手を取ってくれた。
 何もかも捨てて、ただあの笑みだけを翳して。
「私、貴方と共に行くわ。───連れていって」
 その微笑みが全てを洗い流すかのようだった。
 ああ、もう他には何も要らなかった。
 彼女さえ在るならば。
 ――…なのに。
 憎悪を抱くことはもうしないと決めた。
 君に会って。
 そう誓った。
 だから、憎しみにこの身を焦がすことはしない。
 だが、諦めることなどできない。
 君だけは。
「────ライラッ……」
 ――…必ず、君を。
 闇夜に紛れる影に、風は全てを攫うかのように吹き荒れた。






  ※

 相変わらずにぎやかな会場の隅、扉の近くで壁に背もたれて涼子は一人、佇んでいた。涼子がシコウと離れ、一人になるところ狙っていた者も多かったが、少しでも彼女に近づこうとする素振りを見せれば容赦ない鋭い視線を彼女から送られるため、誰一人として声を掛けることの出来た者はなかった。そうしている内に、一人の人影が他の者達の合間を縫って、涼子に近づいてくる気配がする。迷わず、威嚇の視線を送ろうとした涼子だったが、その相手が誰であるか気づくなり、すぐにその警戒を解いた。
「久しぶりだね、涼子君」
「ダントル都市長」
 低い声。もう初老という年齢にさしかかってなお、その貫禄は依然と少しも劣らない男は、まさしく、この都市の王族の現在頂点に立つ者であり、あの王子の父親であるその人であった。どこをどうしたら、こんな立派な人物の遺伝子からあの男が生まれ得るのか常々涼子は不思議に思っている。それほど高い人格者だった。涼子やシコウからも一目置かれているこの都市長は、少し困ったような笑みで涼子を見た。
「どうやら…また、不肖の息子が迷惑を掛けているようだね」
「ええ、……まあ」
 何故、涼子がこの場にいるのかすぐに感づいた男はため息混じりにそう言い、対する涼子は「いいえ、そんなことはありませんよ」なんてことが言えるほど器が広いわけではなかったのであっさりと肯定した。
「すまないね、いつもいつも。私も忙しくてあの子を母親に任せっきりだったばっかりに、すっかり放任状態になってしまってね。母親も母親で随分甘やかして育てたようだからあの通り、我欲を通してばかりの人間になってしまった」
 あんなになる程とは、どれだけ甘やかしたんだと涼子は話を聞きながら顔を引きつらせてその母親とやらに渇を入れたくなった。だが、すでに彼女は亡くなっている聞いている。さすがに故人の悪口をその夫の前で口にするわけにもいかないので咳払い一つでそれを流し、相手に向き直る。
「そうは言われても、ダントル都市長。いずれはタダス王子が後を次ぐわけですからこのままにしておくわけにもいかないと思うんですが……」
「うん? ……ああ。そうだね、その通りなんだが。本当にほとんど口を聞いたことがないものでね。どう諫めたものかと悩んで居るんだよ」
 深く深くため息をつく、都市長の心労は他人である涼子にもよく伝わってきた。慰めの言葉の一つでも掛けてやるべきだろうかと涼子が口を開きかけたその時、都市長の後ろに位置していた扉がゆっくりと開き、そこから見慣れた顔が現れる。その人物は少し、会場を見渡して、すぐに涼子と目が合い、声を掛けてきた。
「涼子さん」
 その声に、都市長が振り返った。
「おお! シコウ君か!」
「ダントル都市長、お久しぶりです」
 歓喜の声を上げた都市長に、シコウは一瞬目を見張ってから、すぐに笑みを浮かべてそう挨拶をする。
 それに、ダントル都市長も満足げに頷いて、シコウを見た。
「シコウ君もスーツか、涼子君がドレスを着ていたから、もしや君もと思っていたが、随分男前になって……まったく、うちの息子と取り替えたいくらいだよ」
「あはは……ご冗談を」
 とんでもない爆弾発言に、シコウは乾いた笑みで返す。それから「あ」と声を上げて都市長に告げる。
「そういえば、さっき、そこの廊下でセンズエルの都市長と会いまして…ダントル都市長をお探しのようでしたよ?」
 そのシコウの言葉を聞いて、ダントル都市長は何やら思い出したようだった。
「ああ、そうだった。彼と話をすることがあったのだったな」
 年を取ると物忘れが酷くなってかなわん、と苦笑してダントル都市長は持っていたグラスをちょうど側を通りかかった使用人に渡した。
「ついさっきですから、まだ近くにいらっしゃると思いますよ」
「そうか、ありがとう。…では、もう少し話したかったが、ここで失礼するよ」
 片手を上げてから、去っていく都市長に涼子達も会釈で返す。彼の後ろ姿が扉の向こうに消えるのを見送ってから、涼子はシコウに向き直った。
「まったく、とても親子とは思えないわよね」
 ため息混じりの言葉に、シコウも心の中で同感であるのでこの場は苦笑するに止まった。
「で? 何かわかった?」
 腕を組み、改めてシコウに視線を向けた涼子に対し、シコウもふとその瞳に真剣な光を宿して「ええ」と答える。
「デルタ・ヴァルナにいた研究者が一人行方を眩ませているようです」
「研究者?」
 眉を顰めて詳細の説明を求める涼子に、シコウは一息吐いてから答えた。
「ええ、その研究者は数ヶ月前に学会から破門されているようでして。なんでも彼の行っていた研究が非人道的なものだったらしく……」
「非人道的、ね……」
「匂うでしょう?」
「匂うわね」
シコウの問いかけに頷き、涼子が視線を上げる。ふと、その時会場にマイクの音が響いた。
女性の叫び声さえその耳には届かなかった会場の客達へ、スーツに身を包んだ男がマイクを通して語りかけていた。
「えー…会場の皆様。さきほど不審者が城内に侵入致しまして、リリィ様は被害に遭い、今夜のパーティーには出席できない模様です。申し訳ありませんが、婚約発表は後ほど通達でお知らせすることになりました。よってメインイベントの婚約発表は中止になりましたが、今宵はどうぞパーティーを楽しんでいって下さい」
 この放送で初めて会場にざわつきが起こり、貴婦人達は「まあ、怖い」だの「お気の毒に」だの完全に第三者の立場を崩さずに囁きあっている。
 けれど最初から婚約発表などただのパーティーを楽しむ口実に過ぎなかったので誰一人として会場を去る者も非難する者もなく、また全員がおしゃべりに戻っていった。
「ホント、平和ボケした奴らね」
 その様子を会場の端で壁に寄り掛かったまま見遣りながら涼子は呆れたように呟く。
「そうですね。自分たちは大丈夫だと根拠もなく考えているんでしょうね」
 そう皮肉って、シコウも涼子の意見には反対せず、ポケットに手を突っ込んで会場の様子を眺めていた。
 ワイングラスを配っていた給仕の女性が涼子達にもグラスを勧めてきたが涼子が片手で制したので、一礼して人混みの中へ去っていく。
 目の前を通り過ぎる人の幾人かは「やあ、久しぶり」という感じで挨拶をしてきたが、涼子達には憶えもないし、適当に「どうも」と返すとそのまま通り過ぎていった。
 どうやら今は話しかけても相手をしてもらえないことは分かっているようだ。
 無意味なざわつきが占める中、涼子は落ちてきたら10人近くが犠牲になるだろうシャンデリアを吊している天井を見上げ、長い息をついき、それから不敵に笑った。
「こいつらも、もう一度サン・ラプスでも起これば少しは懲りるのかしら。絶対的な安全なんて誰も持っていないって事」
 それはさすがに言い過ぎだと説教がましい声が落ちてくるかと涼子は思ったが、意外にもシコウはただ苦笑しただけだった。
「…ところで、向こうの件は本当にお任せして良いんですね?」
 横目で表情を覗いて問うシコウに、涼子は口端を吊り上げて答える。
「ええ、そっちこそリリィのこと頼んだわよ。ちゃんと確証がいるんだから」
「わかってますよ」
 シコウも微笑しながら答えた。
 お互いの口許から、フッと漏れる笑み。
 それを合図に二人は同時にそれぞれが反対方向へと歩み出す。
 それぞれが一人になるところを狙っていた人物もいたが、雰囲気に気押しされて結局誰も近寄ることは出来なかった。





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