黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第三話(W)


「ご苦労様」
 涼子は会場を出て城の外で警備に当たっていた警備員達ににこやかに微笑んでそう告げた。
 動き辛いドレスは着替え、いつものスタイルで佇む。
 その貴婦人と見まごうほどの優雅な挨拶を受け、男達は一瞬魂の抜けたような顔をしたが、容姿から彼女が「涼子・D・トランベル」と気づくやいなや、急に張りつめた態度で敬礼する。
「はっ、トランベル様も護衛お疲れ様です!」
「ほんと、あんな馬鹿の護衛するぐらいなら豚に餌でもやってたほうが楽しいわよね」
 涼子のにっこりとした笑みに、警備員達は反射的に「はっ!」と同意の言葉を述べそうになった。残念ながら途中でなんとか呑み込んだようだが。
 涼子はそれに影で舌打ちして、警備員たちに向き直り、告げた。
「そうそう、警備だけどもう結構だそうよ。侵入者の件は私が引き受けることになったし、もう警備も必要ないから戻って良いわ」
 嘘八百。
 警備員たちもさすがに勝手に戻って良いものかと不安なのかお互いに顔を見合わせ、涼子に怪訝そうな顔を向ける。
「あの……しかし…タダス王子の…」
「ねぇ、お前と私…どっちが上でどっちが下かしら?」
 言いかけた一人の警備員の言葉を、涼子は微笑んだまま遮った。
 一瞬で警備員達は言葉を失い、強張った顔が青ざめていく。
 その様子に涼子は笑みを深め、言った。
「よーく、聞きなさい。この世は弱肉強食なのよ? 特にサン・ラプス以降はね。下は上の言うことを素直に従う事だけが生き残る条件なわけ。自分の意見を通したいなら這い上がるしかないの。で……」
 一旦言葉を切って、涼子はその場の固まっている警備員達を見渡して続けた。
 セントルの愛剣をちらつかせながら。
「お前達は上? それとも下?」
 数十秒後のそこに、暗闇の中、外套が微かな灯りをともし、その場所に立っていたのは涼子だけだった。
 慌てて逃げ去った警備員の防衛武器が何本がそこらに落ちている。
「こんなんじゃ、都市長が引退した後にクーデターでも起こったら兵士のほとんどが尻尾巻いて逃げ出しそうね」
 嘲笑しながら言って、涼子はゆっくりと暗闇の向こうを見つめる。
「まあ、仕える王子があれじゃあ、仕方がないか。ねえ?」
 涼子の見つめる先、暗闇の中の<何か>が呼びかけられてピクリと反応する。
 涼子は不敵に笑い、続けた。
「あんたもそう思ってるんでしょ? 侵入者さん…いえ」
 風が吹く。木々が揺れさざ波にも似た音を出す。
「……奪還者さん、かしら?」
 涼子の言葉に、それがゆっくりと前へと歩み出て、外套の下に姿を現す。
 その手が全身を覆っていた黒衣のうち、顔を隠していたフードを取り去って、その顔を露わにした。
 涼子と同じく漆黒の髪。
 そして深みのある、蒼い瞳。
 鋭利な瞳が涼子を見つめる。
 涼子はクスリッと笑って言った。
「あら、なかなかハンサムじゃない?」





   ※

 会場を一度離れれば、廊下を包む異空間のような静寂。
 そこでは自らの足音だけが鳴り響き、他には全くの無音が占拠している。
 絨毯式の床は踏みつけられる度にただ篭もった音を吐き出していた。
「…無音、か」
 自嘲げに言って、シコウは其処を歩く。
 無音の中の唯一の音。
 憶えのある、感覚だった。
 半透明の色彩が全てを暈かし。
 まとわりつく、幾つもの線。
 ………水中で空気の漏れる音。
 ────『お前は─────……』
 足音が途絶える。
 立ち止まったシコウは開いた右手を見下ろした。
 そしてゆっくりと握りしめる。
 同時に目を閉じ……開く。
 ……紫炎の瞳に微かな殺気。
「今はどうでもいいこと…だな」
 振り切って、シコウは歩き出した。




   ※

 瞼が異様に重かった。
 それでも起きたからにはそれをどうにかして上げようとしてしまう。力をいれてゆっくりと持ち上げると、視界がぼやけていた。幾度かの瞬きを繰り返し、焦点が次第に合ってくる。
「…リリィ様?」
 視界よりも早く、耳に他者の存在を証明する声が飛び込んできた。誘われるように視線を横へ動かすと、見知らぬ顔。
「まあ! 良かった! お目覚めになったのですね!!」
 満面の笑みで喜ぶ女性。
 ああ、そうか。見知らぬ、ではない……彼女は私の侍女だ。
 どうして知らないなどと思ったのだろう。
 数度ゆっくりと呼吸を繰り返して、上体に力を入れて起き上がる。
「ああっ、リリィ様っ……無理をなさらないで!」
 直ぐさま侍女が手を差し伸べて手助けをしてくれる。ありがとう、と言ったつもりだったが少し掠れて彼女には届かなかっただろう。纏め上げていた髪は下ろされているらしく視界に幾筋か金髪が遮っている。
 ……何があったのだったか。
「リリィ様、覚えていらっしゃいますか? リリィ様は侵入してきた賊に襲われて黒鋼の翼の方々に助けて頂いたのです。彼らがいなければどうなっていたことか…!!」
「黒…鋼?」
 涙ぐんだ瞳で言う侍女を、リリィは呆然と見つめた。
 黒鋼の翼……セントル・マナの……。
「……シコウ様……」
 白銀の髪の青年が視界に浮かぶ。
 優しい、穏やかな…人。
 ――…けれど、違う。
 彼、ではない。
「タダス王子も心配しておられましたっ。私が今すぐお知らせに……」
 言いかけた侍女の言葉を、コンッコンッとドアを叩く音が遮る。
「あら、噂をすればかしら?」
 そのノックの音に、そう優しい微笑みを残して侍女はパタパタとドアに駆け寄っていく。リリィも力無く笑みを浮かべ、じっと扉の方を見据えた。 
 ……彼ではないだろうと思いながら。
 カチャリ…とドアを開けた途端、相手はタダス王子だとばかり思っていた侍女は目を丸くしてドアの向こうにいた者を見つめる。銀髪の眉目秀麗な青年が微笑を携えて侍女の視線を受けていた。
「失礼します。リリィさんにお話をお聞きしたいのですが」
 言いながらも、シコウの視線は侍女には向いていなかった。部屋の向こうで、自分を見据えているリリィへと向けられていた。その二人の間に横たわる空気に気押しされながら、侍女は困惑した様子でシコウとリリィを見つめる。彼女はしばらく言葉を探しあぐねいていたがシコウへと向き直って口を開いた。
「あの…シコウ様、申し訳ありませんが、リリィ様は今お気づきになったばかりで…」
「いいえ、私は大丈夫です。どうぞお入り下さい」
 か細いながら、リリィの声ははっきりとした意志を持って侍女の言葉を遮る。それからリリィは目を見張ってこちらを見つめる侍女を一瞥し、柔らかく笑みを浮かべて言った。
「ありがとう、お前はもう下がって良いわ」
 しばらく侍女は戸惑ってその場で立ちつくしていたが、開きかけたドアをシコウがさらに開くと、弾かれたように二人に一礼して部屋から飛び出していく。
 その後ろ姿が角の向こうに消え去るのを見送って、シコウはもう一度部屋の奥のリリィに視線を送った。そのリリィの顔にはすでに先ほど侍女に向けた微笑みは拭い去られており、ただ静かにシコウを見据えていた。
「……どうぞ」
 囁くような声で告げたリリィにシコウは淡い笑みを浮かべて部屋へと足を踏み入れる。
「失礼します」
 シコウがリリィが横になっている寝台の傍までいくとリリィは視線を自らの手元へと落とした。
「お体の加減は如何ですか?」
 優しい声音で尋ねるシコウに、リリィも弱々しい笑みを浮かべ、シコウを見上げる。
「ええ、大丈夫です。ご心配をお掛けしました」
 柔らかな印象の亜麻色の瞳が、シコウの紫炎の瞳に吸い込まれるように向けられた。シコウはやはり静かに笑みを浮かべたまま「いいえ」と返す。
「侵入者は警備員が一層警備を強めていますので心配はありませんよ」
 ゆっくりと紡いだシコウのその言葉に、リリィは一瞬呆けた顔をした。
「……侵入者?」
「ええ……覚えていらっしゃらないんですか? あの黒ずくめの……」
 首を傾げてシコウが問うと、リリィはしばし俯いて沈黙した。そのまま、微かに震えた声で独り言のように呟く。
「侵入者…そう、侵入者でしたね……」
「リリィさん?」
 リリィの顔が少々青ざめているのを見て、シコウが訝しげに名を呼ぶ。その声にリリィはハッとしてシコウを見上げた。
「あ…いえ、ごめんなさい。何でもないんです」
 強張った笑みでそう言うリリィを、シコウはその時何かに気づいたかのように眉を顰め、暫くじっと意味深な眼差しで見つめた。
「…………」
 そのシコウの視線に、リリィは笑みを次第に薄め、やがて強張っただけの表情に戻る。そして、その視線から逃れるように顔を俯けた。シーツの上に置かれていた彼女の両手は微かな震えを伴いながら、そのままシーツを握りしめる。
 深呼吸にも似た深い呼吸を繰り返し、リリィは息を呑んだ。
 ───駄目よ…言っては駄目。
 何かが制す。けれども、それはあまりにも弱い。
「……シコウ様」
 しばらくの沈黙のまま、リリィは意を決したようにそうシコウを呼ぶ。
「…何ですか?」
 シコウはただ静かに返す。
 リリィはそんなシコウをゆっくりと見上げ、揺れる亜麻色の瞳をまっすぐ青年に向けた。
 ───駄目っ……彼は<違う>のに!!
 ───ああ、でも。
 ───私は他に術を知らない。
「私を連れて…逃げてはくれませんか?」
 有りっ丈の勇気を振り絞るように告げられた、その女性の言葉に、シコウは微かに目を見張った。
「リリィさん……」
 名を呟かれたリリィは直ぐさままた顔を俯け、じっと固まる。
 溢れ出すのは罪悪感。
 違うのに縋ってしまう自分が情けなくて、馬鹿なことを、と後悔が迫り寄ってくる。
 その様子をシコウは、しばし見つめ……そして苦笑するように微笑んだ。
 そしてそのまま震える女性の肩にそっと手を添え、言う。
「貴方がそれを伝えたいのは私ではないでしょう?」
 その言葉に。
 リリィは顔を俯けたまま、目を見開いた。
 そして震える手で同じく震える唇を押さえ、自分を確認するように一度硬く目を瞑った。
 ――彼ではない。
 この人は彼ではない。
 分かっていたのに。
 分かっているけれど……。
 シコウはそんなリリィを見つめて、もう一度名を呼ぶ。
「…リリィさん…」
「…ッッッ!!」
 その声に弾かれたようにリリィは顔を上げ、勢いよくシコウにしがみついた。
「分からないっ、シコウ様!! …分からないんです!! 私っ……」
 止めなく溢れる涙で頬を濡らしながら、リリィは思いを吐き出す。
 もう止められなかった。
「愛すべき人がいましたっ……この想いを口では表せないほどに愛していた人がっ…!」
「その手を取ることができましたか?」
 静かな問いを掛けるシコウに、リリィはシコウの胸から顔を上げ、そしてゆっくりと顔を横に振った。
 また、涙が溢れる。
「いいえ……いいえ! シコウ様!! 出来なかった……私はちゃんと取ろうとしていたんです!! 取ろうとしたのに!! あと一歩だったのに!!」
 シコウの上着の袖を握りしめ、リリィはそこでまた顔を俯けた。
 叫び声に近かった声がまた平静に戻るが、震えは一段と大きくなる。
「シコウ様と会ったとき……貴方だと思いました…記憶の断片の人に貴方の姿が重なって……」
 優しい物腰。
 柔らかな光を宿した瞳。
 ああ、この人だと……。
「でも……でも、違ったんです……何が違うのか分からない……でも違う」
 呆然と放心したように呟くリリィに、シコウは微笑みを讃えたまま答えた。
「……でしょうね。それは私ではないのだから」
「………」
 リリィはそのまま沈黙に身を沈める。
 もはや、その手は震えを伝えることなく、ただシコウの袖を握りしめていた。
 何も音のない静寂。
 シコウはただ自分に縋り付き、項垂れる女性を見下ろす。
 そしてゆっくりと目を閉じ、同じくゆっくりと開いた。
 ――やはり……そういうことか。
 欠片は揃った。
 あとは組み合わせるだけだ。
「リリィさん……いいですか、私の質問に一つ答えて下さい」
 掛けられた声に、リリィは力無く顔を上げる。
「……何でしょうか?」
 そして一瞬彼女は息を呑む。
 其処にあるシコウの顔はもう笑みを携えてはいなかった。
 リリィの反応をものともせず、シコウはただ腕の中の女性を真剣な眼差しで見つめた。
「私の目から視線を逸らさずに……何も考えずにただ私の質問だけに集中して下さい」
「………はい」
 不安の色を瞳に浮かべながらも、リリィは小さく頷く。
 シコウはじっとリリィの瞳を見つめ、ゆっくりと、ただゆっくりと言葉を紡いだ。
「……貴方の本当の名は何ですか?」
 問われた言葉を、呆然と聞きながらリリィは繰り返す。
「わ…たしの…名?」
 それにシコウは静かに頷いた。
「そうです、貴方の名を……」
 ――今更何を…?
 私の名前はリリィです。
 そう頭の中で思いながらも、しかしリリィはその問いにすぐに答えられなかった。
 青年の神秘のような紫炎の瞳がそれを許さなかった。
 何かが頭の中で悲鳴を上げている。
「私…は……」
 譫言のように呟きながら、見つめる紫炎の瞳の奥に、リリィはついに一人の姿を見つける。
 宮廷に忍び込んだ……不審者。
 その身を黒衣で包み……酷く……切ない目をしていた。
 あの時……彼が自分を呼んでいた。
 思わず叫ばずにはいられないほどに衝撃を受けた…あの名は…。
 名…は……。
「………ライラ」
 全く憶えのない名を、しかしリリィは確かにその口で紡いでいた。





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