黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第三話(Z)



 床に崩れ落ちた涼子の体を抱き上げて、タダス王子はゆっくりと寝台の上に横たえる。その目は満足そうに涼子を眺めていた。
「この外道ッ!!」
 その王子を涼子は唯一自由を許された口を開いて罵倒した。しかし、それさえもこの状況ではタダス王子を小気味よくさせるだけだった。
 見下ろすようなその視線が涼子の神経をさらに逆撫でする。
「はっ! けっきょく薬を使わないと女一人物に出来ないわけ!? そりゃそうよね! あんたみたいな能無し王子に近づいてくる女なんて王女っていう地位目当てばっかりでしょう!」
 嘲笑の声を上げても、タダス王子は眉を顰めさえしない。
 余裕という余裕をひけらかして涼子の頬に手を伸ばし、愛しむように撫でる。
「そう、手負いの猫のように殺気立たせなくてもいいよ、涼子君。安心したまえ、君の記憶を消すなんて無粋なことはしない。君は君であるからこそ美しいのだからね」
「……どういう意味よ」
 眉を顰めて問い返す涼子に、タダス王子は心底満足げに笑んだ。
「君の意識を消さず、君の体だけが僕の意志通りに動くようにするんだよ。こんな風に……」
 言いながらタダス王子の手が涼子の襟元に伸びて、衣服のホックを外していく。
 その行動に涼子が嫌悪を露わにした。眉を顰めて射刺すような眼光で王子を見上げる。
「触るなっ、この変態!」
 血反吐を吐き出すように言うが、タダス王子はそれさえも愉快そうに受け流した。
「ほらね、そうやって君が抵抗の意を表しても君の体は君の意志に反して動かない」
 クツクツと喉奥で笑いながらタダス王子は涼子の耳元に唇を寄せた。ひどく機嫌のいい声が涼子の耳の奥へと流れ込んでくる。
「いずれ、君の心も頂くけどね…今は体だけで満足しておくよ」
「……っ」
 涼子は鋭い視線でただ薄気味悪い笑みを翳す男を見上げた。
 肌に触れてくる感触。
 虫酸が走る。
 けれども、涼子はただ歯を食いしばりながら相手を見上げている。唯一自由を得ている口でさえ抵抗しない涼子に王子は満足そうに涼子を見下ろしながら肌に手を滑らせた。涼子の肌は白く、その滑らかさに王子は感嘆する。そして、それが自分のものになるのだということに彼はこの上ない優越感を味わっていた。
「さあ、涼子君……」
 王子の手が涼子の胸元を押し広げようと彼女の襟元を掴む。
 ……けれどその瞬間。
 ヒヤリ、と。
 タダス王子の首筋に冷たいものが触れる。
 思わず目を見開いたタダス王子に、聞き知っている……しかし、通常のそれとはかけ離れた冷たい声音が落ちてきた。
「王子……その手を引いて下さい。じゃないと、後で彼女にめったざしにされますよ?」
 囁かれる声にその先を見上げれば逆光に照らされながら微笑する銀髪の青年。
 セントルの四仙、シコウ=G=グランス。
 そしてそのシコウによってタダス王子の首筋に添えられた物は、床に落ちていたはずの涼子の愛剣の剣先だった。
 その事実にタダス王子は一気に血の気を引かせる。王子である彼に剣先を向けた者など今まで皆無だっただけに、驚愕と憤怒が湧き上がってきた。
「シコウ!! お前、何故ッッ!?」
 首筋の剣先に声を上擦らせながらタダス王子は怒りの眼差しでシコウを睨み付ける。この青年がここにいるはずがなかった。見張りを付けていたし、彼らから特別な連絡も特にない。その罵声にシコウはにっこりと微笑んで返す。
「大切な任務はもっと使える部下に命じた方がいいですよ」
 そして、シコウが右手にひけらかせてみせたのは通信機だった。そこにはハンファレルの印が刻まれている。そう、シコウを監視するように命じていた部下に持たせていたもの。その事実に、タダス王子は血が出るほどに唇を噛み締めた。そして未だ、己の首もとに剣を差し向ける青年に怒鳴りつける。
「貴様ッッ……私を誰だと思ってる!! こんな無礼を働いてただで済むと思って……」
 その言葉を遮るように、シコウは薄く笑う。
「王子……貴方が触れてようとしている人はセントル一の女騎士ですよ?」
 瞬間、紫炎の双眸が薄暗い逆光の中で鋭さを帯びた。
 空気が凍てつく。
「まさか……彼女に手を出してただで済むとでも?」
「────っ!」
 その警告とも言える絶対零度の囁きにタダス王子は顔を強張らせて思わず身を震わせる。
 それに涼子の憎々しい加減の十二分に出た声が吐き捨てられた。
「もう充分めったざしよ」
 その声にシコウの笑みに微かな苦笑が混じる。
「……だそうですよ?」
 それでもやはりシコウの瞳の鋭さが先ほどと寸分の違いもなく、タダス王子はワナワナと口を震わせ、喉元の剣先から逃れるように少し後退してから、勢いよく扉の方へと駆けた。扉を開けば、そこには重なるように倒れている護衛達。その様子に、タダス王子は憎々しげに目元を歪め「役立たずめ!」と罵倒する。
「シコウ! このままで済むと思うなよ!! この場所で私に逆らったこと、後悔させてやる!」
 そう王子は部屋の中を振り返り、静かにこちらを見つめる青年へと憎悪を露わに吐き捨てた。だが、それに青年が萎縮するような反応はなく、ただ笑って応える。
「どうぞ、ご自由に」
「……ッッ」
 結果、目元を憤怒に歪めてそのまま何処かへ駆けていくタダス王子の惨めな後ろ姿を見送りながら涼子は呆れ顔になった。さらにあんなのに一杯食わされたと思うと無性に腹立たしくなった。
そうこう考えていると、同じくタダス王子の行方を見送ったシコウがゆっくりとこちらを振り返る。
その顔はまさに渋面。
「ったく……油断するからですよ?」
 表情と同じく苦々しい声がシコウのの口許から漏れた。
 さきほどタダス王子の喉元で殺気立たせていた彼の手の中のセントルの剣は、横に放り出される。
 人の剣を不作法に扱うなと言いたかったがこの状況では言えない。
 まんまとしくじったのは自分だ。……だが、不可抗力だったのだ、この状況は。
「仕方ないじゃない。昨日の夕食に薬混ぜられてたのよ。そんなのわかるわけないでしょう? …私のせいじゃないわ」
 不機嫌顔丸出しでそう言い捨ててそっぽを向けば、シコウの眉がピクリと引きつる。そして、その口から薄く長く、息が吐き出される。
「……ええ、そうですね」
 一度、そう涼子の意見に肯定を示し…。
「明らかに裏があるタダス王子の行動を解っていながら、勝手に彼を侮ってノコノコと個室についていって、そのせいで私がどことも知れない貴女の居場所を膨大な部屋の中から探し回る羽目になったこと以外は、涼子さんのせいではありませんね」
「………」
 そこはかとない静かな怒りを込めた声に、涼子は反論の言葉に詰まって沈黙する。その様子に、シコウは今度は大きく息を吐き出した。
「……これ見よがしに見張りが部屋の前に立っていなかったら、わかりませんでしたよ」
「………」
「私が来なかったらどうするつもりだったんですか」
 ゆっくりとした足取りで涼子が横たわされた場所の傍に辿り着き、シコウはさらに問いただす。
 涼子はそれに苦虫を噛み潰したような顔でそっぽを向いた。
「口づけて舌でも入れてきたら噛みきってやったわよ」
 涼子が吐き捨てるように言えば、一瞬の沈黙の後、シコウの明らかに怒気が膨れあがった低く冷たい声。
「……そんなことをしたら、彼を殺してしまいますよ」
 この状況でもやはり王子への敬意をわすれないのか、と涼子はシコウの言葉に思わず苛立った。
 自分は貞操の危機にあったというのに、その態度はどうだ。
 あんなヤツ、舌噛み切られて死んだってどうってことはない。
 イライラする。むかつく。
 ここで彼を苛立たせるのは王子の方でなくて自分であるのがさらに腹が立つ。
「もともと殺る気よ」
 だから機嫌の悪さを隠さない声で言い切れば、即答が返ってきた。
 静かな、けれどやはり殺気さえ感じさせるほどに低い声。
「……私が彼を殺るって意味ですよ」
 その言葉の真意に辿り着いた瞬間、涼子は思わず目を見開く。
 彼を見上げれば、無表情の顔に冷たい熱を持った瞳。
 言葉が出ず、ただ涼子は青年を見つめた。
 その青年の視線が少し涼子の顔から下がる。
 そこには王子に乱された胸元から涼子の白い肌が浮き上がっていた。
 ゆっくりとシコウの手が無言で其処へと伸びて……目が合う。
 交差し、絡み合う涼子の漆黒の瞳とシコウの紫炎のそれ。
 横たわる、息を忘れるほどの数秒の沈黙。
 先に視線を逸らしたのはシコウ。
 顔を背け、乱れた涼子の服を少し乱暴に整えた。
「…自重してください」
 小さくそう囁いて、シコウは涼子を抱き抱える。
 無言でそのまま部屋の外へと歩き始めた青年に、その腕の中で涼子は唇を噛み締め、聞こえるか聞こえないかほどの声で言った。
「……悪かったわよ…」
 そのまま涼子はゆっくりと薬の影響で意識を闇に沈めた。
 シコウはそれに答えることなく、無言でその部屋を後にした。





   ※

「どういうことだッ!?」
 恐縮する部下たちを前にタダス王子は狂乱気味に叫ぶ。
 あり得ない状況だった。少なくとも彼が想定していた状況ではなかった。
 リリィ……ライラは姿を消し、さらに看守たちの言うことには彼女があの侵入者の男を連れ出して牢はもぬけの殻。終いには、隠し地下室に抱えていた研究者も姿を消している。
 何が起こった?
 何を間違った?
「王子、セントル・マナから通信が来ています」
 頭を抱え込んだタダス王子がその言葉にゆっくりと顔を上げる。
「セントル・マナだと?」
 王子の記憶に銀髪の青年が蘇る。王子たる自分に剣先を突きつけるという無礼をなした忌々しい男。
 思い出して苦々しく舌打ちした。
「後にしろ! 今はそれどころじゃない!」
 切り捨てるように言い切れば、しかし部下は困惑した顔で食い下がってきた。
「しかし……」
「なんだ、しつこい!!」
 振り返った先の部下の顔は強ばっている。
 それは消してタダス王子に怒鳴られたからではなく……。
「燗老、直々に…通信が来てます」
 タダス王子の目が見開かれる。
「……何だと?」
 燗老といえば十老の中でも権威の高い存在だ。滅多なことでは公的な場に出てこない。
 それが今何故、こちらに直接通信などを寄越すのか……。王子は不可解げに思いながら受信機を手に取った。
 モニターに映し出される画像。受話器の向こうから流れてくる声。
 ――燗老・ジェルバ。
『初にお目にかかるか……セントルの十老が一人、燗老のジェルバだ』
「……存じております。…それで、わざわざご連絡を頂くとは…何か?」
 問えば、相手はくぐもった笑いを漏らした。
 相手をひどく萎縮させる、嫌な笑いだ。
『そちらに今うちの者が2人いるだろう? 黒鋼の……』
「……ええ、いますが」
 シコウのことをまた思い出してタダス王子は眉を潜めながら答えた。
 その反応を見てジェルバがまた愉快そうに笑う。
『その様子ではすでに牽制を受けておるようじゃの』
「…………」
 タダス王子はさらに顔を顰める。
 何を言っているのだ?この老婆は。
 何が言いたい?
『お前さんは……』
 スッと不意に老婆の目が細められる。
 それだけで何故か背筋が凍る。…ぞっとする。
『あやつの逆鱗に少々触れてしまったようだ』
「………」
 タダス王子は一瞬にして固まった。
 放心したように、老婆の後ろにいる存在を見つめた。
 見慣れた顔。
 虚ろな目。
 自分が抱え込んでいた研究者。
 ――…何故、ヤツがセントルにいる?
 王子の疑問を余所に、ジェルバの言葉は続いた。
『なにやら、公にはできぬ物を造らせていたそうじゃな。惚れ薬と言えば可愛らしい言い方にはなるが……王子とも在ろう者が一般市民の娘の人格を無視するようなことをなさるとあっては…いろいろと都市の運営に支障が出てくるじゃろうて』
 ジェルバの口元が歪む。
 悪寒を感じずにはいられぬ笑み。
『……これより先、我々と対等な外交は期待できぬと思いなされ?』
 一方的に切れる通信。闇に塗りつぶされた画面を呆然と見つめていたタダスの王子の耳に部下のざわめく声が聞こえた。ゆっくりと振り返れば、扉に佇む父の姿がある。
「父上……」
「タダス」
 男はただ、その都市長としての目でタダス王子を見据えた。その中に明らかに宿っている失望の光。
「残念だよ」
 一言。その一言に全ての意味が注ぎ込まれていた。
「父う…」
「残念だ」
 断固とした眼差しで、男は言い切った。
 ……視界が眩んだ。






   ※

 涼子を抱えたまま、シコウは転移装置を使い、セントル・マナの地下に設けられている転移室へと移転した。
 薬の副作用で眠る涼子はシコウの腕の中で静かな寝息を立てている。
 それを見届けて、シコウは青白い光の壁に覆われているその部屋の外へと足を進め、セントル・マナのフロアへと通じる階段をゆっくりと上がっていった。
「あ、煉様!」
 フロアに出るなり、呼びかけられて、シコウは振り返る。
 時間はもはや深夜なので、他の者は自室に戻っており、そこにはシコウに呼びかけた人物しかいなかった。
 彼女もおそらく、シコウたちがくることを知って、ここに来たのだろう。
「やあ、ラナマさん……でしたか?」
 シコウの言葉に、金髪の髪の少女は可愛らしい笑みをにっこりと浮かべた。
「嬉しい! 覚えていて下さったんですね!! 煉様に名前を覚えて頂けるなんて光栄だわ!!」
 妙に高いテンションの相手にシコウは苦く笑う。彼女が涼子と親友で在るのはよく知っていることだった。おそらく、涼子が友人と呼べるのは彼女だけではないだろうか。涼子はあまり群れたがらないから、必要以上に人と親しくはならない。
「燗老から言われて?」
 シコウが問うと、ラナマは小さく笑って軽く肩を竦めて見せた。
 それが肯定を意味する。
「ちゃんと戻ってきてるか報告するように、と」
「では、ちゃんと戻ってきたと報告お願いします」
「了解しました」
 ラナマはふざけたように敬礼の姿勢で答えた。それにシコウも軽く笑う。ラナマも失笑して、それからシコウの腕の中の住人を覗き込んだ。睡魔に身をゆだねる女性を、ラナマは優しい母のように見つめる。
 そして、思ったままの言葉を発する。
「涼子って、本当に煉様のことが大好きなのね!」
「……は?」
 突然のラナマの言葉にシコウは固まった。それを見て、ラナマは嬉しそうに微笑む。
「だって、いくら薬の影響だからって涼子は簡単に人の前で熟睡なんてしませんもの! そうやって安心したように涼子が腕の中に収まってあげるのは煉様に対してだけなんです!! だから煉様だけに心を許してるってことですよ!」
 ラナマの言葉にシコウは腕の中の涼子を見遣って苦笑する。
「…そうでしょうか?」
 ラナマはうんうんと強く頷いて見せた。
「絶対そうです! …だから…」
 ラナマはシコウを輝く瞳で見つめる。
「これからもずっと涼子の傍にいてあげて下さいね!!」
「─────………」
 空気が…僅かに気配を変えた。
 シコウの髪を揺らすように、誰かに開かれたフロアのドアから風が吹き込んでくる。
 その時浮かんだシコウの表情に…。
 …ラナマは笑みを固まらせた。
「あ、ラナマ!」
 ドアを開けた主、ラナマの片翼である青年が彼女の姿を見つけて手を振る。
 しかし、ラナマは呆然を立ちつくし、視線すら動かせずにいた。
「………それでは、失礼します」
 シコウは穏やかにそう告げて踵を返してエレベーターへと歩き出す。
 その後ろ姿をラナマはやはり微動だにせずに見つめていた。返答がないのを不審に思ったラナマの片翼の青年がラナマの傍に駆け寄ってくる。
 その顔を覗き込むと、彼女はまるで放心しているかのようにシコウの去った方向を見ていた。
「ラナマ? …どうしたの?」
「どうしよう…ジャック、私…何かいけないこと言っちゃったのかもしれない……」
 表情と同じ質の声がラナマの口から零れる。
 ラナマと同じ金髪の青年は首を傾げた。
「何? 煉様怒らせたの?」
 目を丸めて聞いてくる相方に、ラナマは小さく首を「ううん」と横に振った。
「ただ……」
 もはやそこに姿のない青年のさっきの表情を、ラナマは瞼の裏に見つめる。
 思い出すだけで胸が詰まる、あの……。
「煉様、今にも泣きそうな……すごく悲しそうに笑ってたから」






 涼子の上着から取り出したカードキーで彼女の部屋を開け、シコウはゆっくりとした足取りで室内に足を踏み入れる。
 ベットに腕の中で眠りに落ちている女性を横たえ、上着を脱がせてハンガーに掛けた。そして風邪を引かないようにシーツを彼女に掛けてやる。
 彼女は始終穏やかな表情で眠っていた。
 息を吐き、ベットの傍に置いてあった椅子に腰掛け、シコウは涼子の寝顔をじっと見つめた。電気をつけなかったので部屋は薄暗い闇に包まれている。それでも涼子の顔はシコウの目にはっきりと映っていた。
───……これからもずっと涼子の傍に……
 蘇る少女の声に、シコウは静かに微笑みを口許に讃える。
 それは、悲哀の笑み。
「……きっと、私は最後の時に貴女の隣にはいられないんでしょうね」
 手を伸ばし、涼子の顔に掛かった髪を払いながらシコウはそう囁いた。
 漆黒の絹糸が指の間をすり抜ける。
「ねぇ……涼子さん」
 その手をそのまま彼女の頬に添え、シコウは噛みしめるように言葉を紡いでいった。
 愛しい人は静かに意識を沈めている。
 ……ただ、静かに。
「……<私>を、見てはくれませんか?」
 それは愚かで、罪深い…想い。
 断罪してくれればいい。
 その漆黒の瞳で。
 其処に宿る揺るぎない光で。
 それは罪だと。…そうあることを望んだのは自分だろう、と。
 断ち切ってくれればいい。
 そうすれば、諦めもつくのに……。
 ――貴女はそれさえも許さない。
「……────涼子」
 ……重なる影。
 名を呼び、静かに重ねたその唇は……同じく静かに離れる。
 そうして、掠めるような口付けは、隠されるように暗闇の中に混ぎれこんだ。
 青年はただ微笑んだまま彼女の頬に手を滑らせる。
 そしてゆっくりとその手を離し、踵を返した。
 余韻もなく青年が去った部屋は、ただ闇の中に一人の女性を包み込む。
 僅かに開けられたカーテンの隙間から、月光が冷たい光を床に落としていた。






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