黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第四話 (V)



 マリーが目を覚ますと、一緒に寝ていたはずの涼子の姿はなくなっていた。寝起きではっきりしない頭で寝台に身を沈めたまま、マリーはそっと涼子がいた場所に手を伸ばす。そこはすでに冷たくなっていて、どうやら大分前にこの場を後にしたらしかった。泣き疲れて眠ったせいか、目の周りが腫れぼったい。ずるずると体を起こし、寝台の上でボサボサの頭のまま、薄暗い部屋を見渡す。簡素な部屋は眠る以前と少しも変わっていなかった。変わっているとすれば、ハンガーにかけられていた涼子の上着がなくなっていることくらいだろうか。
 どこに行ったのだろうと、マリーは不安になった。今更に警備員を呼びに行ったのだろうかとも思った。が、何故か、彼女はそうしないだろうという漠然とした安心感があった。背中を優しく叩いてくれた手が温かかったからかもしれない。幼い頃、夜の闇が怖くて、泣きじゃくっていた自分を宥めてくれた兄のそれと同じだったから。
「お兄ちゃん」
 そっと呟いて、恋しさに目頭が熱くなる。きっと一杯心配をかけているだろう。あれだけ一人で外を彷徨くなと言われたのに、約束を破ってこんなことになってしまった。帰ったら怒られるだろうな、と思ったが、もう一度会えるならそれでもいいと両手で膝を抱き寄せてその上に顔を埋めた。その時、シュンッと音を立てて扉が開いた。思わず身構えたマリーだったが扉を開いた先にいた人物が涼子であることに気づいて少し警戒を解く。涼子はマリーの反応などお構いなしにさっさと扉を閉め、薄暗いままにしてあった部屋の電気を点けた。
「何、起きてたなら明かりつければいいのに」
「い、今起きたの」
「そ、はいこれ」
 ポンッと寝台の上に何かを置かれる。視線を向けると、柔らかそうなパンと瑞々しいサラダ、そしてまだ温かそうな何かの肉料理がトレーの上に鎮座していた。視覚的にもさることながら、嗅覚にもその魅惑の匂いが漂ってきて、マリーは思わずゴクリと唾を飲み込む。
「夕食、持ってきてあげたから食べなさい」
「え!?」
 マリーは大仰な様子で涼子を見上げた。過剰な反応に涼子の方が目を見張る。
「…何?」
「だって……、これ、わ、私が食べて良いの……?」
「他に誰が食べるのよ」
「りょ、涼子は……?」
「私はもう食べてきたわよ。何? 食べたくないの?」
 ならいいけど、とトレーに手を伸ばしかけた涼子から、マリーは必死になって目の前の御馳走をガードする。そして、ぶんぶんと首を激しく横に振って訴えた。
「食べる! 食べます!」
 しばらく無表情でマリーを見下ろしていた涼子だったが、すぐにフッと、笑みを見せ、そのまま何も言わずに上着を脱ぎ始める。涼子が眠る前と同じようにそれをハンガーにかけるのを横目に見ながら、マリーはそっとトレーを引き寄せた。パンに恐る恐る手を伸ばして手に取った瞬間、あまりの感触の柔らかさに驚く。思わず、これは本当にパンだろうか、と訝しんでしまった。だって自分が食べ知っているパンは形こそ似ているけれどもっと堅くでパサパサしているものなのだ。こんな簡単に千切れるものではない。だが、この場でマリーにとって、それがパンであるのかそうでないのかは大した問題ではなかった。美味しそうな食べ物、それだけで十分だ。一口、口に入れて美味しいとすぐに感じたが、あまりに美味しすぎて顎がおかしな感じになった。気持ち悪ささえ感じられるその顎の緊張のおかげで一口目は大した味覚の満足が得られないまま喉奥に流し込まれてしまう。だからマリーは慌てて二口目を口に投げ込んだ。そのまま連続して三口目四口目と夢中で食べていると、涼子から苦笑を受けた。
「あんたね、パンばっかりじゃなくてもっとバランスよく食べたら?」
 寝台の直ぐ脇にある椅子に座り、机に肩肘をついてこちらを見遣っていた涼子の視線に今更ながら気づいて、マリーは顔を真っ赤にして俯く。そして、慌てて涼子の言う通りスプーンを手にとり、肉料理を掬い、口に頬張った。だが、その予想を超えた美味しさに、驚きの余り、マリーは喉を詰まらせてしまう。涙目で噎せ返るマリーを見て呆れ顔になった涼子がほら、と水を差しだしてくれた。震える手でそれを受け取って、飲み込み、マリーは何とか窮地を脱した。
「もっと、落ち着いて食べなさいよ。誰も盗ったりしないから」
「う……うん」
 失態ばかりを曝して、マリーはもう恥ずかしさで涼子の顔を直視することができなかった。俯いたまま、夢のような食事を何だか妙に居心地が悪い中で食べ終えて、マリーは小さな声で「ごちそうさまでした」と呟く。すると、涼子がトレーを持って立ち上がった。
「これ返してくるから、良い子で待ってるのよ?」
 マリーは素直にコクンと頷く。涼子は小さく笑って出て行った。扉が閉まって、マリーは大きく息を吐いた。そこで自分がすごく緊張していたことに気づく。ご飯は美味しかった。すごく美味しかった。あんなの食べたことがないくらい。だが、それはマリーの意識の中では二の次だった。
「……涼子って…すごい綺麗なんだもん」
 マリーは火照った頬を両手で覆って呟く。最初に廊下でぶつかった時は状況が状況で顔なんてそんなに注視できなかったし、気を張りつめていたから意識しなかったけれど。改めて、確認してみるとこちらが恥ずかしくなるくらい涼子は美人だった。顔立ちもそうだけれど纏っている空気だとか、仕草だとか、上手く表現できないが一つ一つが魅力的で、そんな彼女にじっと見つめられながら食事だなんてどうやって緊張せずにいられるだろうか。おまけにさっき、あの腕に抱きくるまれて自分は眠っていたのだ。今更ながらにドキドキしてきた。これで涼子が男だったら、マリーは自分が恋をしているかと思っただろう。
「でも、<ここ>の人は、悪い人なのに……」
 戸惑う心に揺れ動きながら、マリーは一人そう漏らす。自分を攫って、牢屋に閉じこめて、そして脱走した後追いかけてきたのは確かに<ここ>の人達だ。だが、彼らから隠し守ってくれたのも<ここ>の人間である涼子だった。マリーは何をどう考えればいいのかわからなくなって困ってしまった。でも、きっと涼子は敵じゃない、と思う。そう、思いたいという自分がいた。
「……お兄ちゃん」
 困惑の中、呼ぶのはいつも同じ人。早く会いたかった。何でも知っている優しい兄はきっと自分の疑問にも答えられるだろうと思った。祈るように、マリーは胸にかけたペンダントを握りしめる。そうして考え込んでいる内に、マリーはまた寝台の上で眠りに誘われてしまっていた。





 何故、放っておけないのだろう。
 マリーが完食した食器を乗せたトレーを片手に、涼子は自問する。最初にマリーに何故助けたのかと聞かれて、気まぐれだと適当に答えたが、それは涼子自身、自分の行動の理由がよく分かっていなかったから。脱獄犯を匿うなんて違反もいいところだ。下手してばれたら面倒なことになるのくらい涼子も十分に分かっている。それでも、何故かあの少女を放っておけなかった。
 まだ、幼いから? 同情? 良心?
 そんなわけが、ない。子供だから無条件の庇護を受ける権利があるなど、考えたこともないし、そういう生き方は自分自身してきていない。SLE能力者ならなおのこと、自分の身は自分で守っていかなければならないのが普通だ。それだけの力は持っているのだから。それが無理だというなら、さっさとセントルなり他の都市のSLE能力犯罪者管理機関なりの門戸を叩けばいいのだ。子供なら即戦力にはならないだろうが、成長後にセントルに所属するという契約をすれば、アカデミーのようなシステムはある。いろいろと制約はあるだろうが、身の安全は保証されるだろう。それを捨てて、外で自由に生きたいというなら、それも自由だが、その結果犯罪に手を染めざるを得なくなってセントルに捕まるなら自業自得というものだ。
だと、思う、のに。
「………」
 涼子は長く息を吐く。思考では、簡単にその結論に行き着くのだが、現実にはマリーをどうこうしようという気にならない。マリーの性格が犯罪者のそれとは今一重ならないという違和感もあるのだろうが、妙にマリーに肩入れしている自分がいた。そこでふと、涼子はレザルダントの研修生の一件を思い出した。あの脳を弄られて自己を失った子供達。あの時、子供達に同調してレインらに厭に腹が立ったのは記憶に新しい。あれも、思えば今のマリーに対する感情と同じような気がする。ならば、涼子自身が幼い頃同じ境遇にいたから、同じ苦しみを知っているから、とでもいうのだろうか? マリーや彼らへの肩入れは。レザルダントの一件の時はそうだと思った。だが、今現在、マリーに対する自分の行動を考えると、それもしっくりこなくなっている。
「涼子? こんなところで何考え込んでるの?」
 考え込んでいる最中に後ろから声を唐突にかけられて、涼子が振り返ると、不思議そうな顔をしたラナマがいた。
 ラナマの視線は涼子の顔からその手元へと移る。
「食堂の食器? 涼子、夕食はさっき一緒に食べたでしょう?」
「あ……これは……」
 首を傾げで問うてくるラナマに、涼子は顔を引きつらせる。まさか廊下でラナマと会うなんて思わなかったから、言い訳を考えてなかった。
「えーっと、ね、猫を……」
「猫?」
「そう、猫を拾って……その食べ物を、ね」
 その言葉に、ラナマは眉をピクリと反応させた。その視線が、涼子の手の中のトレーの上、コップ、パンの載せてあった薄い皿、肉料理の入っていた深い器、サラダの入っていた透明な器へと順々に巡って、再び涼子へと戻ってくる。
「定食を? パンだけじゃなくて?」
「あー…け、健康のバランスを、考えて……」
 ラナマの眉間の皺が一層深まった。
「涼子が、猫のために?」
 そんな面倒なことを?と言外に聞かれて、涼子は口ごもる。確かに自分のキャラではない。猫を拾うのも。その健康を考えた餌を用意するのも。ラナマの視線がさらに怪訝そうになる。
「………涼子、その猫見に行ってもいい?」
「………」
 嘘だという確信をもったのだろう、ラナマは完璧な作り笑顔で言った。涼子は冷や汗を掻きながら、うまい拒否の言葉を考える。だが、相手がここまで疑っている状態では何を言ってもごまかしにしか聞こえないだろう、と直ぐに察して諦めた。
「ごめん……ラナマ、これについては触れないで」
 正直に観念して、許しを乞う。ラナマは片眉を上げた。
「………どうしても?」
「……どうしても」
 ラナマはしばらく黙って涼子を見つめていたが、小さくため息をつくと、苦笑して「わかった」と言ってくれた。涼子が顔を上げて彼女を見ると、にっこりと微笑まれる。
「一番の親友として、涼子に隠し事されるのは好きじゃないけど、涼子を困らせるのはもっと嫌だからね」
「……ありがとう、助かるわ」
「でもこれだけは聞かせて」
 ホッとした顔をした涼子に釘を刺すように、ラナマが鋭い声で遮る。涼子が顔を強張らせて何かとその言葉を待つと、ラナマは真面目な顔で問うた。
「男じゃないでしょうね?」
「………」
 涼子は時間を止めて、首をぎこちなく傾げる。
「……は?」
「だから浮気なんてしてないでしょうねって言ってるの! 涼子には煉様がいるんだからね!?」
「いるんだからねって……なんでシコウがそこで出てく……」
「男なの!? 男じゃないの!?」
「……違い…マス、が…」
 浮気って何だとか、何やら突っ込みたいところは沢山あったが、ラナマの激しい勢いに押されて涼子はそれだけしか言えなかった。その返答に、相手はにっこりと笑う。
「なら良し!!」
 ラナマは満足げに頷くと、涼子が持っていたトレイを取り上げた。涼子がキョトンとした顔でその行動の意味を掴みかねていると、眩しいほどの笑顔を向けられる。
「私、どうせ下に行く用事があるからついでに持っていってあげる」
 そのまま、トレイを片手に、ラナマはさっさと踵を返して去っていく。その足取りが嫌にご機嫌なのが涼子の疑問を誘ったが、考えたところでわかることでもないので、小さくを息を吐いて、自分も部屋に戻ろうと踵を返した。
 ラナマになんとか理解してもらえて良かった。これがシコウだったら、なかなか素直に頷いてはくれなかっただろう。一件物わかりの良さそうな風貌をしている涼子の相方は、結構見かけによらず強情な面があるのだ。特に涼子が何か隠し事をしていると知ると、それは顕著になる。青年から言わせてもらえば、それはいずれ自分にも火の粉が飛ぶ可能性が十二分にあるせいだから、なのだが、涼子には理解されない理由だった。
「……あ」
 シコウのことを考えていて、涼子はそう口を右手で覆う。
 そういえば、彼は近いうちにセントルに戻ってくるのだ。他ならぬ自分の要求によって。彼が帰ってきたなら、マリーのことはすぐに知れるだろう。あの青年相手に隠しきることは不可能だ。
 涼子は立ち止まり、顎に手を当てて、フム、と頷く。
「あいつにも協力させる、か」
 脱獄犯を逃がすなど、かなり小言は言われるだろうが、最後にはきっと折れるだろう。なんだかんだ言ってあの青年は涼子の我が儘に付き合ってくれる。どうせなら共犯者が多い方が都合がいい。マリーを逃がすのは、シコウが帰ってきて直ぐがいいだろう。脱走からかなり時間が経っているせいか、追跡者達はマリーが既に外部に逃げ出したと踏んでいるらしいと聞いた。セントル内の警戒はかなり緩んでくるはずだ。
 そう考えを巡らしながら歩いていれば、自分の部屋の前に辿り着いていた。カードキーを通してドアを開くと、明るいままの部屋のベットの上で、昏々と眠っている少女の姿。その様に、涼子は呆れて口を開けたまましばらくその場に立ちつくしていたが、大きくため息を吐くと、さっさと部屋の中に入ってドアを閉める。ベットの傍まで近寄ってあどけないその寝顔を見下ろした。
「呑気なもんねぇ、脱走犯のくせに」
 苦笑とともに、その額を軽く叩いてやると、「うん」と唸って、顔をシーツに押しつけてしまう。その様を見遣って、涼子は笑った。
 笑って、守りたい、と思った。この少女を守ってやりたい。ずっと。ずっと自分の傍らにおいて…。
「………」
 自分の思考の異変に気づいて、思わず硬直する。笑みが引きつった。
「何考えてんのよ」
 乾いた笑みを浮かべて、頭を横に振る。今のは間違いだ。そんなこと思っていない。思うはずがない。しばらくの沈黙の後、涼子は大きく息を吐き出して、明かりを消し、マリーの隣に倒れ込んだ。荒れ狂う思考の波から、全てを忘れてられる眠りの中に逃げるために。




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