黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第四話(W)
香ばしい臭いが漂ってきて、マリーは鼻をピクピクと反応させてから目をゆっくりと開いた。寝起きでぼやけた視界の中で動くものがある。それはこちらが起きたのに気づいて近づいてきた。
「おはよう、マリー」
口端を吊り上げて告げたその人は、ぼんやりしているマリーの腕を取って、体を起こしてくれる。
「お…はよう、涼子」
明るい光がカーテンの向こうから部屋を照らしている。起きる直前に漂ってきていた臭いがまた嗅覚を刺激して、マリーは無意識にその出所を探した。すると、ベット近くの机の上に、トーストとハムエッグとサラダの素晴らしい朝食が二セット鎮座している。マリーの視線に気づいた涼子はクスリと笑みを漏らして、その背をポンポンッと叩いた。
「ほら、起きて朝食にしましょう。私のコーヒーが冷めちゃうわ」
「う、うん」
涼子の手に促されて、マリーは部屋の中にある洗面所へとたどり着き、顔を洗った。置いてあったタオルで顔を拭いていると、涼子から櫛を手渡される。ありがとう、と一言礼をして、それで髪を梳く。鏡の前である程度身なりを整えてから、涼子のいる部屋へと戻ると、彼女は片肘をついてコーヒーを飲みながらマリーを待っていた。その場で固まったままでいると、おいでおいでと手招きされて、マリーは涼子の向かいの椅子にちょこんと座る。チロリ、と涼子を上目遣いに見遣ると、微笑みを返された。
「さ、食べましょう」
「う、ん……えっと、頂きます」
涼子の視線にドキマギしながら、マリーはトーストに手を伸ばす。頬張る前に一応もう一度向かいの席に視線を向けると、涼子はフォークを手にとってサラダを突いていた。それを確かめた上で、マリーはトーストに齧り付く。昨夜の夕食同様、頬が落ちんばかりの朝食はあっという間に終わり、マリーは大満足の顔で空になったオレンジジュースのコップをトレイの上に戻した。
「ご馳走様でした! 美味しかったです」
「それは良かったわ」
涼子も笑顔で返してくれる。ふと気づくと、テレビがついていてニュースが淡々と流れていた。涼子はしばらくそれを見ていたが、やがて無言でそれを切り、手元にある小型装置で操作を変えて、画面を再びつける。すると、そこにはさっきと違って、セントルの情報が映し出された。翼の名前と今日の任務内容との羅列が上から下へと流れている。そういえば、涼子は仕事に行かないんだろうか、とマリーは首を傾げた。セントルの巫女や騎士は翼としてペアを組むはずだ。ということは涼子にも片翼がいるのだろう。涼子の片翼……、どんな人なんだろうと思いながら、涼子の横顔を見つめていると、ふいに彼女が立ち上がった。トレイを片づけるのだろうかとその様子を見守っていたマリーだったが、涼子は机の上には手を付けず、そのまま隣の部屋へと消えた。だが、こちらにすぐに戻ってくる。そして、その手の中に白銀に光るものが握られているのをマリーは認め、息を呑んだ。見知ったそれは、マリーにいつも恐怖を与えるもの、セントルの剣だった。何も言えずに涼子を注視しているうちに、彼女がその腰のベルトにセントルの剣を装備したのを見て、マリーは目を見張った。
「どこに行くの?」
昨日部屋を出て行く時には、涼子が剣を身につけることは一度もなかった。不安な瞳で見上げてくるマリーに、涼子はさらりと返答を返す。
「闘技場よ。相方が留守なせいで、ここ最近仕事に出てないから腕が鈍ってるの。片翼待ちの騎士の相手してやるのよ」
その言葉に、マリーはますます目を丸めた。
「騎士の相手って……その剣護身用じゃないの!? だって涼子って女の人だから巫女なんでしょう!?」
「は? 何言ってるの。私は騎士よ」
憤然と言い切る涼子に、マリーは開いた口が塞がさないっといった様子でパクパクさせている。なんせ、マリーはずっと涼子が巫女なんだと思っていた。セントルでは、女の人は巫女になるものだと聞いていたから。騎士は男がなるもの……であるはずだ。唖然と見上げるマリーを涼子は静かに一瞥して、笑った。
「まあ、女騎士は私だけだけどね。ついでにこのセントルでは私が一番強いわよ?」
セントルのトップということは世界でトップであるのと同意義だ。だが、不敵に笑って見せる涼子にマリーは急に顰めっ面をすると、拗ねた様子で睨み付けた。
「………」
「…何よ」
剣呑な視線を送ってくる意図が分からずに涼子が眉を顰めると、マリーはボソリと言った。
「…嘘、でしょ」
「……は?」
「嘘でしょ……涼子、私のことからかってるでしょ? 騎士なんて、大きな体の男の人とか一杯いるのに、涼子が勝てるわけないじゃない」
これに、涼子の眉間に盛大に皺が寄った。
「嘘じゃないわよ」
やや険のある口調で返えってきたが、マリーはまったく聞く耳を持たない。完全に涼子が自分を騙そうとしていると決め付けていた。
「嘘だよ、そんな話信じられない。子供だからってからかわないでよ」
「………」
頑として聞かないマリーの様子に、しばらく涼子は眉を顰めたまま沈黙していたが、ふと何を思ったか、クローゼットの方へと向かい、そこから奥にしまわれていた服を引っ張り出してきた。マリーが何だとその様子を見つめていると、涼子がその手に持っていたものをその顔面に投げつけてくる。咄嗟のことに反応できず、視界が一瞬真っ黒になってマリーは慌ててそれを顔から剥ぎ取った。「何なの!?」と、不満を口にしながら、その服を見れば、それはセントルの上着だった。心なしか涼子が着ているそれよりも一回りサイズの小さいものだ。呆然とそれを見下ろしているマリーの頭にさらに何かが押しつけられる。悲鳴を上げて顔を上げると、ムスッとした顔の涼子が帽子をマリーに被せていた。
「その上衣着て、髪の色は目立つから帽子の中に隠して」
「な…な、何で? 何? 何なの!?」
全く涼子の意図が掴めずにマリーは目を回しながら疑問を重ねる。涼子は相変わらず不機嫌な顔で告げた。
「私が騎士だって証明してやるわよ。闘技場についておいで」
有無を言わさぬ命令に、マリーは抵抗などできるはずもなかった。
※
「まあ、いいでしょ」
セントルの上衣を纏い、帽子を深く被ったマリーを見下ろして、涼子はそう言い放った。対するマリーは仏頂面である。こともあろうか、自分がセントルの服を着ることになるなんて。
「……」
「あんたはECの生徒ね、誰かに話しかけられたら見学だって言っておきなさい。ともかく、第一にくれぐれも目立たないように」
「EC?」
聞き慣れない単語に眉を顰めて聞き直すと、涼子は簡単に説明をくれた。
「セントルの騎士や巫女の候補生が所属する組織よ。あんたくらいの子供はまだ戦力にならないから実力がつくまでそこでお勉強するわけ」
また、子供扱いした、とマリーは一人顰めっ面をする。だが、涼子は気づいているのかいないのか、その不機嫌な様子を受け流した。行くわよ、と告げると、さっさと踵を返して扉の向こうへと行ってしまう。一瞬、その場で迷ったマリーだったが、ここに匿って貰っている以上、涼子の指示には従わなければならないだろうと思って、小走りにその背を追った。
一緒に並んで歩くと目立つから、という理由で言いつけ通り涼子の数メートル後ろを内心ドギマギしながらついていくと、嫌に開けた場所になっている階へと辿り着いた。その階まるまるが闘技場になっているらしく、ガラスの透明な壁の内側には、観客席に囲まれた段上で剣を交えている人間が見えた。涼子は手慣れた様子でガラス製の自動ドアを通り抜け、中に入っていく。ドアが一旦閉まったのを確認してから、マリーもそこを通る。涼子はすでに扇状になった階段を中心の段上に向かって数歩降りていた。
剣を交えていた若い騎士達が涼子に気づいて、動きを止める。訓練の様子を眺めていた他の騎士や巫女達も、ざわめいて涼子を遠くから指さし、隣の人間に注意を向けさせる。涼子は集まる視線の中、ただ淡々と階段を下りていった。周囲の涼子に対する過敏な反応に、マリーはしばらく入り口近くに呆然と立ちつくしていた。が、後ろから人が入ってきて、突っ立っているマリーを不思議そうに横目で見下ろしてきている視線に気づき、慌てて観客席へと向かった。ならべく後ろの方で人から離れた場所に席を取ってぎこちなく座る。落ち着いてから、改めて涼子のいる段上へと視線を向けると、先程まで訓練をしていた若い騎士達が涼子の前に一列に整列していた。五、六人だろうか、全員が涼子に向かって一礼すると、涼子は軽く片手を上げて何事かを一言、言ったようだった。そして、涼子から見て、右端にいる青年を指さし、それからスーッと地面から水平に一番左端まで騎士達を指さしていった。すると、青年騎士達は神妙に頷き、最初に指された右端の青年騎士以外は段上から降りた。どうやら、まずは彼と試合をするらしい。
今までの展開を見る限り、確かに涼子は騎士らしかった。信じがたいところはまだあるが、周りの反応からいって、確かに涼子は騎士なのだろうとマリーは認める。だが、セントル一の騎士、というのはまだ納得しがたい。それも試合を見ればわかるのだろうか、とマリーは段上の涼子と青年騎士を熱心に見つめた。
相手の青年は、何故かガチガチだった。動きはぎこちないし、目は泳いでいる。彼を見守っている他の騎士達も何故か真剣な趣で青年に声援を送っていた。細身の女性相手に、何をそこまで恐縮する必要があるのかとマリーは一人遠くから首を傾げる。相手に涼子が何事が言ったようだ。相手は引きつった笑みを浮かべる。固さの取れない相手に、涼子は小さくため息をついた。そして、剣を構えることもなく、右手を相手に向かって差し出し、指の先でチョイチョイッと合図をする。世間一般で「かかってこい」の意味を指すジェスチャーだ。相手の青年の顔が強張る。一瞬の躊躇があったが、直ぐさま足を踏み出して涼子に斬りかかった。
「……っ!」
思わず目を覆ったマリーだったが、そろそろと指の隙間から覗いてみると、涼子は軽々と相手の斬撃をかわしていた。続けざま、青年騎士が剣を振る。これもまたあっさりとかわす。相手がムキになって大きく踏み込んだ。その瞬間、地を這うように屈んだ涼子の右足が青年の踏み出したその足を掬い上げる。急に安定を失った足場に、「うわっ」と声を上げた青年騎士はその場に尻餅をついた。勢いよく打ち付けたのか、いたた……という仕草をする相手に、涼子がニヤリとした笑みを送る。青年騎士が顔を赤くする。周りで見ていた騎士達が野次を飛ばしたらしく、青年騎士が、外野に向かって何事か文句を叫んでいる。だが、涼子から立てと言われたのだろう、青年騎士が顔色を変えてさっと立ち上がって剣を構え直す。今度は涼子も剣を引き抜いた。それだけで闘技場一帯が先程と打って変わってシンッと静まりかえり、空気が緊張しているのが遠くのマリーにも伝わった。
数秒おいて、青年騎士が再び涼子に向かって剣を振る。涼子は己の剣でそれを受け止めた。そして、あの細い体のどこからそんな力が湧いてくるのか、逆に勢いよく弾き返す。反動で二三歩後ずさった青年騎士に、涼子は寸分置かずに間を詰める。相手は慌てて剣を翳し、涼子の斬撃を受け止める。涼子はすぐに剣を滑らせて、拮抗を崩し、今度は相手を横から攻める。青年騎士は焦燥の声を小さく上げながら体勢を低くしてそれを乗り切った。涼子がヒュウッとそれに短い口笛で賛美を与える。だが、相手はそれを喜んでいる暇もない。連続して今度は上からの斬撃。受け止めようか、迷った青年騎士は無理だと判断して後ろに大きく退いた。だが、その判断を読んでいたらしい涼子は、振り切ろうとしていた剣を途中で止め、代わりに大きく仰け反った相手の体に迫るようにして踏み込んだ。不安定な体勢のため、瞬時に動けない相手の、剣を握る右の手首を、涼子の左手が掴む。青年騎士が息を呑むのがわかった。涼子はそのまま相手の腕をぐんと強引に横へと引っ張る。反動で青年騎士の両足が床から離れた。勢いで相手が床に倒れ込む瞬間に、涼子の左手は離れ、代わりに左足がその手首を踏みつけて床に固定する。自由になった左手が、驚愕の顔を表している相手の口元をそのまま覆った。その一方で、右手の剣が仰向けにされた青年騎士の首の数ミリ先でピタリ、と停止する。
静寂が、闘技場の上に降りる。
にっこりと微笑んだ涼子が青年騎士に向かって何事か一言、言葉を発した。青年騎士は口を封じられたまま、真っ青な顔でコクコクと頷く。すると、涼子は相手の上から身を起こして青年騎士を解放してやった。上半身を起こした青年騎士は、最初と同じようにガチガチの様子だった。涼子が手を差し出す。青年騎士は恐る恐るその手を取って、何とか立ち上がり、涼子に一礼した。そのまま脱兎の如く段上から降りていく。
そこまで見送って、マリーは大きく息を吐き出す。その時に、自分が今まで息を詰めていたことに初めて気づいた。闘技場の上で一人剣をクルクルと回している涼子をじっと見つめながら、しばらくしてマリーはホウッと熱い息を吐く。
「……格好いい」
「でしょー!!」
知らず呟いていた言葉に、思いがけない力強い返答があって、マリーは驚いて横を振り返った。そこにはいつの間にか、金髪の女の人が満面の笑みで座っていた。急なことにマリーは言葉もなく、固まって相手を見つめる。相手はなんとも愛らしい顔でマリーに話しかけてきた。
「ねぇねぇ、君って、ECの子だよね? 見学?」
唐突に問われて、マリーは一瞬困惑したが、涼子の言葉を思い出して相手に頷く。
「やっぱりねー! 涼子見るの初めて?」
マリーは再びぎこちなく頷く。すると、女の人はマリーの頭に手を伸ばしてきた。帽子を取られるのではと、マリーは思わず恐々とする。だが、相手は優しくポンポンッと叩いただけだった。
「君、運がいいよー。涼子って、なかなか闘技場に来ないんだから、試合なんて見れないんだよ? 剣技大会以外じゃ、こんな機会でもないと戦うとこなんて見れないし!」
訥々と語る女性は、闘技場の上の涼子に視線を移し、にこにこ顔で言葉を漏らす。
「ここの所、煉様がいなくて仕事できないから、その内肩慣らしに来るんじゃないかなーって狙ってたのよねー。思った通りだわ!」
隣で大きくガッツポーズを取る女性を、マリーはおずおずと見遣った。女性は闘技場上の涼子を見つめている。どうやらECの人間と言うことでごまかせたようだと、内心、そっと安堵の息を吐く。すると、突然女性が立ち上がって大きな声で涼子に向かって手を振った。
「涼子ーーー!!頑張ってーーー!!」
あまりに大きな声だったので、闘技場中の人の視線がこちらに向いた。くれぐれも目立つなという涼子の言葉を思い出して、マリーは慌てて顔を伏せた。チラリと涼子を見遣ると、彼女もこちらを見ていた。その顔は、マリーと、その隣で声援を送る女性とを交互に見て、微妙な顔をしていた。だが、すぐにその顔は払拭され、にこやかな笑みを以て女性に手を振り返す。どうやらこの女性と知り合いらしい。女性は涼子の反応に満足したのか、また大人しくマリーの隣に座り直した。見かけによらず大胆なことをする人だな、と思いながらマリーは横目で相手を見つめる。だがすぐに、こっちを向かれたので、慌ててマリーは視線を逸らし、涼子を見た。彼女は二人目の相手ともう向き合っていたが、その視線がチラチラとこちらを見ている。どこか不安そうなそれに、マリーまで不安になってくる。何だろう。何か不味いことでも起こったのだろうか。さっきと変わったことと言ったら、この女性が隣に居ることくらいなのだが。
「お嬢ちゃん、二試合目始まるよー」
俯いて考え込んでいたマリーに、女性がにこやかな笑顔で教えてくれた。マリーは頷いて、視線を闘技場に戻した。涼子は相変わらず相手を余裕で捌いている。隣で女性がそれに黄色い声援を送る。
「………」
涼子の鮮やかな剣技を見ているうちに、マリーも何だか声援を送りたくなった。だって、本当に涼子は凄いのだ。強いし、何と言っても戦い方が綺麗だ。尊敬する兄と同じくらい。そして、気づいたら、マリーは隣の女性と一緒になって声を上げていた。涼子が一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに顔を引き締めてそれを隠す。女性もマリーを乗せてくるので、マリーはすっかりテンションが上がってしまって、涼子が送ってくる何か言いたげな視線も無視して女性と叫びまくった。大声の声援に、最初はいろんなところから視線を向けられていたが、その内皆慣れてきて、試合の方に集中するようになった。ただ、涼子だけが時折視線を送ってきたが。そうして三試合、四試合と、続けて、何試合目か分からなくなった頃合いに、涼子は剣を収めた。対戦相手達は壁際で息を乱していたが、涼子は涼しい顔をしている。そして、相手らが揃って一礼するのに、軽く手を上げて答えると、さっさとその場を後にして、こちらに向かってきた。あれだけ完勝しておきながら、何故かその表情は穏やかとは程遠い。
「……マ」
「お疲れ様ー! 涼子!」
涼子の言葉を遮って、女性が手にしていたタオルを差し出す。涼子はマリーから女性へと視線を移し、さらに差し出されたタオルを見て、「ありがとう」と小さく呟いて受け取った。うっすらという程度にかいた汗をそれで拭って、女性を見た。
「ラナマ、どうしたの? 仕事は?」
「今日は、お休みなのー」
ほんわかといった感じで答えた女性に、涼子は少し硬い顔で「そう」と口にする。マリーはこの状況でどうしたらいいのか分からずに困った。この女性の前でいきなり涼子と親しげに話すのはまずいだろうし、かといってどういう距離感で話せばいいのかわからない。涼子からの投げかけを待つしかないのだが、涼子はラナマと呼ばれた女性とばかり話をしていて、マリーの方を見ることはなかった。だが、しばらくすると、女性が声を上げた。
「あ、そろそろジャックと待ち合わせしてるから行かないと」
「ええ」
涼子が少しホッとした顔で答える。女性はにっこり笑って、不意にマリーの方へ向き直った。
「楽しかったよ、また会えると良いね」
「あ、はい」
慌てて答えたマリーに、女性は愛くるしい笑みで、帽子を被ったマリーの頭をさっきみたいにポンポンッと叩く。
「帽子、似合ってるよ。じゃあね、子猫ちゃん!」
そう告げて、彼女は踵を返した。マリーがよく分からずに首を傾げていると、涼子が体を強張らせたのが気配で伝わってきた。彼女を見上げると、汗を拭ったばかりだというのに、やたら冷や汗を掻いていた。
「涼子……どうしたの?」
「………なんでもない……っていうか、あんたねぇ」
その顔が憤怒のそれに切り替わる。右手で頭を鷲掴みにされた。
「『目立つな』っつったでしょ!? 何ラナマと一緒になって歓声上げてんのよ!?」
「だっ、だってぇー」
ぐりぐりと頭を苛められながら、涙声でマリーは抗議する。
「涼子が格好いいからっ、つい……それに、あのラナマって人も凄い応援してたから隣にいると流されちゃってぇ……」
しどろもどろに言い訳すると、長い嘆息が頭上から落ちてくる。
「黙認してくれたから良かったものの……あんた隙だらけ! 少しは警戒心を持ちなさいよ! 見かけで人を甘く見ないの!!」
「……ど、どういうこと?」
涙目で上目遣いに見上げてくるマリーに、涼子は苦い顔で言った。
「さっきの……ラナマだけど、あんな外見して、かなりの能力者なのよ? 一等尉だし、洞察力もかなりある。あんた絶対ばれてたわよ?」
「………嘘」
呆然と呟くマリー。どう見てもさっきの女性はそんな人物には見えなかった。
「まあ、根はまっすぐな子だから、悪いようにはしないでくれたけど」
小さく、息を吐いて、涼子は「まあ、いいわ」と呟く。真っ青な顔で固まっているマリーの手を取って引っ張った。
「帰るわよ、他の奴らに感ずかれたらまずいし」
マリーはコクコクと頷いて、涼子に従った。そして、ずんずんと進む涼子に小走りでついていきながら、少し迷ったような仕草をして、思い切ってそっとその裾を引っ張る。
「あの、ごめんね……涼子、疑って」
涼子の強さは本物だった。セントル一と言うのも頷ける気がする。謝られた涼子はチラリとマリーを見遣って、少し困った顔をした。
「いいわよ、別に」
そう一言だけ小さく呟くと、後は前を見据えて歩くばかりだった。
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