黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第四話(X)


 翌日の寝起きの気分はあまり良くなかった。
 涼子はもやもやした気分を抱えたまま、体を起こす。そして、隣で小さな寝息を立てている少女を見下ろして、小さく息を吐いた。
 気分が良くないのは、昨日の一件のせいだ。マリーの軽率な応援を怒っているのではない。それ以前に、つい意地になってマリーを公の場に連れ出した自分の軽率さこそに歯痒い思いをしているのだ。マリーに見くびられるのが、妙に癪に障って許せなかった。だから衝動的に闘技場へと連れ出してしまった。おかげで同僚のラナマに感づかれてしまう始末だ。 
 再度、ため息を大きくついて、涼子は上衣と一緒にかけられている帽子を横目で見遣る。確か、ラナマからもらったものだった気がする。彼女が気づいたのはこれが決め手だったのだろう。最後のマリーに対する子猫ちゃん呼ばわりは、確実に涼子の言った猫を拾った云々の言い訳から持ってきた言葉に違いない。廊下での事といい、闘技場の事といい、なんだってあの少女は神出鬼没なんだと涼子は頭を抱える。これからはあの少女といつかち合っても問題ないように対処しておかなければならないなと考えたが、もうばれているのだからどうこうする必要もないかと思い直す。巡り巡る思考に悩まされていると、マリーが小さく呻いて目を開けた。ぼんやりとしたその目と視線が合って、涼子は「おはよう」と呟いた。マリーはそれにふんわりと笑みを浮かべて、「おはよう」と返した。
 その様子を見て、純粋に可愛い、と涼子は思う。そして次いで欲しい、と続けかけた思考に気づいて慌てて考えを中断する。
「朝食取ってくる」
 雑念を振り切るように寝台から抜け出して、着替える。マリーはまだ眠気が抜けていないらしく、ふにゃふにゃとシーツの上に丸まっている。涼子はさっさと着替え終わって、マリーを意識的に見ないようにして部屋を出た。早足にカツカツと廊下を歩いているとどこからかラナマが出てきそうな気がしたが、さすがに今回は会わなかった。食堂で二人分の朝食をトレイに乗せて部屋に引き返す。ついでにフロアの掲示板で脱獄犯についてのニュースもチェックしておいた。やはり、セントル内の警戒は弱められている。マリーを追うために翼が二つ割り当てられていた。涼子は一人頷き、エレベーターを目指した。その、途中で。
「……ッ…?」
 左胸に突然走った鋭痛に、涼子は思わずその場に立ち止まる。内側から針一本突き刺されたような痛み。一瞬で通り過ぎ去ったそれは何の余韻も残さなかった。
 左胸、……定期的に行われる健康診断では何の問題もなかったはずだ。涼子は神妙な顔で自分の胸元を見下ろす。そして、しばらくの沈黙の末、きっと大した事ではないだろうと判断した。体だっていつも万全なわけじゃない。何かの手違いで、小さな痛みを感じることだってあるだろう。だから、涼子はすぐにその痛みを記憶の隅に押しやってエレベーターへと乗り込んだ。
 部屋に戻ると、マリーはちゃんと起きていて、身支度も整えていた。涼子に気づくと子供らしい笑顔で「おかえり」と告げる。涼子が朝食を机の上に置くと、その目があからさまに輝く。マリーの素直な反応に思わず失笑しながら、涼子は彼女の向かいに座った。
「はい、どうぞ」
「頂きます!」
 満面の笑みでトーストに齧り付くマリーの傍らで同じように朝食に手を付けながら、涼子はそっとシコウのことに考えを馳せる。アゼル市からなら、時間的に今日の夕方ぐらいには帰ってくるだろう。ハンファレル市くらいの近さなら転移装置を使えば、あっという間に帰ることができるだろうが、それ以上離れれば、さすがに転移装置の範囲外だ。今頃、鉄道に揺られながら帰ってきているのだろうと相方の状況を推測しながらトーストを囓った。何となくマリーを見遣ると、食べ盛りなのか、もうほとんど食べきっていて、オレンジジュースを飲んでいるところだった。涼子の視線に気づいたマリーは飲みかけのコップを置いて、話しかけてくる。
「涼子、今日はどうするの?」
「…んー? そうね、今日は確か、会議があるから」
 いつもならシコウに押しつけるところだが、いないのだから仕方がない。大体、会議と言っても涼子などは形式上椅子に座っているだけで発言することなどほとんどないのだから別にいてもいなくても問題ないはずなのだが、まあ、そうはいかないのが組織というものなのだろう。まったく面倒だ、と涼子は内心ため息をつく。そんな涼子の様子を見守りながら、マリーはさらに問いを続けた。
「それって、遅くなるの?」
「さあ、どうかしら? ……まあ、夕方前には戻るわ」
 シコウのこともあるし、長引いても適当に言い訳して抜けよう。コーヒーを口に含みながらそう考える。マリーは「わかった」と小さく頷いて、またオレンジジュースを手に取った。
 食事が終わるなり、涼子はトレイを持って部屋を後にしようとした。が、ふとドアの前で立ち止まる。トレイを戻したら一旦部屋に戻ろうかと思っていたが、会議の部屋が食堂から近いことを思い出した。そのまま直接行く方が効率的だろう。となると、マリーとはここでしばしの間、お別れになるわけだ。彼女にとっては初めて長時間一人になることになる。涼子は自分の部屋を見渡して、娯楽物がほとんどないことに内心嘆息をついた。雑誌などないこともないが、マリーが読んで楽しいものかと考えると、どうもそうは思えない。
 しばらく悩んだ涼子は、ふと仕舞い込んでいたノート型のパソコンのことを思い出して隣室のクローゼットの隅からそれを引き出した。電源を入れる。少し古い型になるので画面は少しデザイン性に欠けているが、見れないものでもないだろう。黙って涼子の行動を見守っていたマリーを振り返って、パソコンの前に促す。
「この中にゲームの類が入っていると思うから、これでもやって時間潰してたら?」
 それらは申し訳なさ程度に初期設定から組み込まれていたものだ。クオリティは大して高くないだろが、多少暇つぶしになるような造りにはなっているはず。まあ、涼子自身は使ったことがないので実際の所は分からないが。
 既に起動してシュミレーション状態になっているゲームを、マリーは食い入るように見つめている。どうやら興味を持ってくれたらしいと判断して、涼子はトレイを持ち直し、「じゃあ行ってくる」と画面を見入っているマリーの後ろ姿に投げかけてから部屋を出た。
 トレイを食堂に返し、会議室に到着すると、すでに参加する人間のほとんどが集まっていた。その中には、ラナマの姿もある。目があって、思わず固まってしまったが、柔らかな笑みを向けられたので少し安堵して笑みを返す。そのまま涼子が席につくと、ほぼ同時にこの部屋の中で一番大きなドアが開かれる。その向こうから現れた人物に、涼子は思わず眉を顰めた。
 周りの人間が即座に立ち上がって敬礼する。涼子も少し遅れて面倒そうに立ち上がり、形ばかりの敬礼で相手を迎えた。
「邪魔するよ」
 嫌味の利いた笑みを浮かべる老婆は片手を挙げて、敬礼に応えた。
「いかがされたのですか? 翠老様」
 突然のことに驚きを隠せないような表情で、この会議の議長たる騎士が口を開く。老婆は細長い目を彼に向けて言った。
「一等尉の会議があるというんでね、今回新たに一名一等尉が決まったのだ。その紹介をしておこうと思ってな」
「は、……それは、その、翠老様わざわざ自ら、恐縮です」
 少し戸惑った顔で議長の騎士は応える。他の面々も彼と同様の顔をしていた。一等尉の配属をわざわざ十老が紹介にくるなど普通ではない。涼子もまた怪訝そうな顔で翠老の動向を見守っていたが、老婆の後ろから現れたその人物に、片頬を歪めてなるほどね、と納得した。
 スラリとした長躯の青年。赤銅の、短髪より少しだけ長めの髪に、碧眼。鋭利な目元は静かに一同を見渡した。
 翠老の目に掛けていた騎士、だ。
「こやつはずっと片翼待ちをしておったのだが、今回翼を組むことになってな。一等尉配属となった。ラディス=H=マーセンだ、よくしてやってくれ」
 青年は無表情で皆に向かって一礼した。その後、翠老の鳶色の濁った目が、涼子を視界に捉えて、ニヤリと笑みをつくる。
「次の剣技大会にも出場する予定だ。初参加なんでな、お手柔らかに頼むよ、トランベル一等尉」
 同じ十老の地位にあるジェルバといろいろと不仲で有名な老婆は、ジェルバの秘蔵っ子として騎士デビューした涼子にも何かと突っかかってくる人物だ。明らかに当てつけめいた言葉に、涼子は小さな笑みを以て応える。
「楽しみにしてますよ、翠老サマ」
 棒読みの返答に、その場に殺伐とした空気ができあがる。火花でも飛び散りそうな老婆と女騎士の笑顔の応酬に、周りの一等尉らは顔を引きつらせて沈黙を守った。そして、その全員が普段ならここでワンクッションの役目を担ってくれるはずのシコウの不在を嘆いたのだった。





   ※

 涼子が用意してくれたゲームは、マリーにとってまったく初めて目にするものだった。もちろんコンピューターゲームをしたことはある。簡単なものならマリーが脱走する際に用いた金属片を造った主でもある仲間のサズが彼女のために即席で作ってくれた。だが、本職とは違うせいか、あるいは片手間程度のやる気で造るせいか、ゲームの展開や、そのデザインはお世辞にも素晴らしい、とは言えなかった。本当に即席、といった感じだ。
 一方、自分が今目にしているそれは、細部まで細かく操作が可能で、デザインもプロ並みだ。というか、プロが造ったのだろう。それぞれステージに分かれていて、ポイントも付けられるし、イベントも発生する。涼子からすれば、そんなのゲームとして最低条件だろうと言うようなものなのだが、サズの造ったゲームしか知らないマリーにとっては革新的だ。あっという間にゲームの魅力に引き込まれて、時間が経つのも忘れていた。昼食用に涼子が携帯食を置いていってくれていたが、まったく手つかずだった。
「……あんた、ずっとやってたの?」
「きゃ!」
 ゲームに集中しているところで、いきなり背後から声を掛けられたマリーは思わず声を上げていた。驚きの中、振り返ると呆れ顔の涼子がそこにいる。
「え、…涼子、もう帰ってきたの?」
「もうって……あんた、今、四時よ」
「ええ!?」
 マリーが慌てて時計を確認すると、確かに短い針は4の数字を指し示していた。呆然と時計を見つめるマリーの頭の上に嘆息が落ちてくる。と、同時にブツンと画面が真っ暗になった。涼子が電源を落としたのだ。「あ!」と思わず声を上げたマリーに、涼子は「あ、じゃない」と、ペシリとマリーの小さな額を叩いた。
「そんなに長時間してたら、目、悪くするわよ」
「だって、最終ステージ……」
 パソコンの前から押しのけられたマリーはソファーに転がって、ぐちぐち言いながらクッションを抱きかかえる。だが、涼子に鋭い視線を向けられると、うぐっと口を噤んだ。
 ああ、あとちょっとでクリアできたのにと、心の中だけで大きくため息をつく。
 魅惑のパソコンは涼子の手で再びどこかへ仕舞われてしまった。
 こちらの部屋に戻ってきた涼子は上衣を脱いでハンガーにかけている。上衣の下に着ていた服が白いものだったせいか、マリーの目にその髪の色が印象的に映った。涼子が振り返れば、その黒曜の瞳がこちらを見る。その懐かしい色彩に、マリーは思わず頬をゆるめた。
「涼子の髪と目の色、お兄ちゃんと一緒ね」
 ふふっと笑いながらマリーはクッションの上から涼子を見上げた。実は、涼子に対してすぐに警戒心が取れたのも、それがかなり影響していた。彼女が持つ色彩は、大好きな兄のそれと酷似していたのである。マリーの言葉に、涼子が小さく首を傾げた。
「あんた兄弟がいるの?」
 問い掛けにマリーは大きく頷く。兄の話をするときが、マリーは一番楽しかった。なんて言ったって自慢の兄だ。
「優しくて、強くて、格好いいの」
「あらじゃあ、そこも私と一緒ね」
 間髪入れずに返されて、マリーはその言葉の意味をかみ砕くのに少し時間がいった。確かに外見の色彩は一緒だけれど、中身は……あまり重ならないような。涼子が強くて格好いいのは認めるけれど、決定的に重ならない原因がある。マリーは涼子を顔を極怪訝な表情で見上げて問うた。
「……涼子って、優しいの?」
「じゃなきゃ、あんたはまた牢の中でしょうが」
 即座の切り返しと共に額を軽く叩かれる。さらに、そっちがいいなら希望通りにしてやろうかという視線を向けられて、マリーは慌てて話題を切り替えた。
「涼子は?」
「ん?」
「涼子は兄弟、いないの?」
「ああ、私は……」
 言いかけた涼子の言葉がふとそこで止まり、その表情も固まる。マリーが怪訝そうに眉を顰めかけた瞬間、机の上の通信機が勢いよく鳴った。その機械音の後に、流れ込んできた声は、マリーにも聞き覚えのある、あの闘技場で出会った女性のものだった。
『涼子、煉様着いたみたいだよ〜』
「………」
 通信機に意識を向けていたマリーだったが、いつまでも涼子が反応を返さないので涼子に視線をやった。が、彼女はまだ、固まっていた。長く続く沈黙に、通信機の向こうの人物も訝しげな声になる。
『…? 涼子、居ないの?』
 先程より少し大きめの声での呼びかけに、涼子もハッと我に返った。慌てて通信機の通話をオンに切り替えて応える。
「いえ、居るわ。えー…っと、ああ、そう、シコウね。解った、今からフロアに降りるから」
『そう、じゃあ早くねー!』
 陽気な声が響いて、プツリと通信が途絶える。
 また沈黙が戻った。マリーがじっとして涼子の行動を待っていると、彼女はふとマリーを振り返って告げた。
「……私の片翼が戻ったみたいだから、ちょっと行ってくるわ」
 表情のない顔でそう言い終わるなり、涼子はマリーの返答を待つこともなく、上衣を手に取って部屋を出て行ってしまう。尋常ならぬ涼子の様子に、マリーはただただ困惑するしかなかった。


 涼子がエレベータに乗り込むと、そこにはすでに三人の乗客がいた。涼子はその顔を見ることもなく右肩を壁にもたれさせて、エレベータが目的の階まで降りるのを待った。やがて、チンッと音を立てて、エレベータが止まる。他の三人が降りるのに習って涼子もエレベータを下りる。後ろでその扉が閉まり、他の階の乗客に呼ばれてまた動き出す。
 そこまで来て、涼子は我に返った。
 そこは74階だった。フロアのある1階まで降りるはずが、考え事をしていたせいで他の乗客につられて無意識のうちに降りてしまっていたらしい。思い起こせば、1階のボタンすら乗るときに押していなかった気がする。有り得ないミスに涼子は妙に焦った。こんなに考え事に気を取られたのは生まれて初めてだった。しかも、そこまで思い悩むのが一体何だったのだろうと今更に考えても、もう記憶がないのである。自分が何を考え込んでいたのか、さっぱり分からなくなっていた。これでは痴呆の始まった老人ではないかと涼子は愕然とする。
「最近……何かおかしいわ」
 柄にもない人助けをしたり、訳の分からないことに気を取られたり、自分でもいい加減自覚が出てくる。だがその原因がわからない。全く心当たりがない。だから余計に苛々した。
「……シコウがいないのが悪いのよ」
 ポツリと漏らす。そうだ。いつも傍にいるはずのあの青年がいないのが悪い。だから、もう彼が帰ってきたのならこの不調もその内治るだろう、と涼子は自分に言い聞かせる。自己完結して、またエレベータに乗り込もうと踵を返してボタンを押そうとする。が、一歩手前で思い留まった。
「……74階」
 偶然ながら降りた場所は74階。どのみち、近いうちに<下見>にくる予定だった階だ。だったらついでに下調べをしておこうかと思い直して、涼子はエレベータ乗り場に背を向けた。相棒の青年をしばらくフロアに待たせてしまうことになるが、あいつが悪いのだから、と理不尽な言い訳で涼子は、数ヶ月前に踏み入れた倉庫へと足を向けた。




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