黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第四話(Y)


「涼子、遅いですねー」
 ラナマに言葉を投げかけられたシコウは、小さな笑みを口に載せて「そうですね」と返した。
 フロアの団欒スペースの椅子に腰を下ろして、エレベーターから涼子が降りるのを待ってから、すでに十分は経った。セントルに帰ってきてすぐにラナマとフロアで会って、彼女が涼子に連絡を取ってくれたのだが、あちらから来ると返答があったきり、一向に涼子は現れない。
 さすがにシコウも遅いな、と思い始めていた。これはこちらから涼子の部屋に行った方がいいかとも考える。
「あの、煉様」
 そう考えている内にふいに呼びかけられて、シコウはエレベーターからとラナマに顔を向ける。だが、視線の先のラナマはいつもの朗らかな表情を少し曇らせて、何か言い淀んでいた。
 らしくないその様子に、シコウは首を傾げる。
「どうしました?」
「その……前のことなんですが」
「前?」
 思いつくことがないシコウはますます首を傾げてラナマを見つめた。ラナマは迷うように視線を泳がせてから、シコウと目を合わせた。
「ハンファレル市の時の……ごめんなさい。私、あの時、煉様の気に障るようなこと言っちゃったみたいだったので、ずっと謝りたいと思ってたんです」
「………」
 歯切れ無く紡がれる言葉を聞いて、シコウはしばし考え込んだが、ラナマが言わんとしていることが何のことなのかを察して「ああ」と心の中だけで声に出す。だが、表情にそれを出すことはなく、こちらをじっと見つめているラナマに困った笑みを向けた。
「すみません、どうも思い出せないんですが……私は特に何も気にしていませんよ? もしラナマさんにそう思われるような対応をしていたなら、むしろ私の方が失礼しました」
「あ! いいえ、とんでもないです! その、お気になされていないならいいんです!」
 慌てて両手を振ってそう言うラナマに、シコウはただ優しく微笑んだ。
「誤解が解けたようで良かったです。……それで、どうも涼子さん来そうにないので、部屋の方に行ってみようと思うんですが」
「あ、そうですね。……涼子ったら、どうしたんだろ?」
 エレベーターの方に視線を戻し眉を顰めるラナマに「そうですね」と相槌を打ってシコウは椅子から立ち上がる。その時、ふいにラナマが何か思い出したように声を上げた。
「あ! ……あの子猫ちゃんがどうかしたのかな」
「……子猫?」
 突拍子もない言葉を耳にして思わず聞き返したシコウに、ラナマは失言、とばかりに口を覆って首を横に振る。
「いいえ! こっちの話です! お気になさらず!」
「………?」
 シコウは全く意味がわからずに怪訝そうな顔をしたが、ラナマはもう素知らぬ顔をしていたので、まあいいかと諦めて「それでは」とラナマに挨拶をし、エレベーターへと向かった。






 コンコンッとノックの音に気づいて、マリーは勢いよくベットの上で身を起こした。そして、涼子だ、と思って慌ててドアへと駆け寄る。彼女自身の部屋なのだからいちいちノックをする必要はないはずだとか、何故カードキーを使ってドアを開けないのかとか、疑問に思う余地は多々あったはずなのだが、マリーは涼子以外の人間がこの部屋に近づいたのを今の今まで一度も見たことはなかったものだから、涼子だと勝手に思いこんでしまったのだ。
「待って、今開けるから」
 ドアの向こうに呼びかけながら、マリーはロックを解除する。そして、開いたドアの先。思いがけない相手が、そこにいた。
「………」
「………」
 完全に硬直した時間が静かに流れる。涼子がいるものだと思っていたそこに、見知らぬ男性が、マリーと同じく目を見開いてこちらを見下ろしている。しかも、この人物、何だか有り得ないほどに見目麗しい男の人だった。彼はしばし固まった後、マリーよりも早く再起動して、ゆっくりと周りを確かめた。おそらく部屋を間違ったのかと思ったのだろう。だが、涼子のみの個室がある階で他の部屋と間違いようもなく、その視線はまたマリーへと戻ってくる。
「……あの、涼子さんのお知り合い、ですか?」
「え! あ! は、はい!」
 問い掛けに、我に返ったマリーは不自然に裏返った声で返事をする。紫色の綺麗な瞳から真っ直ぐに見つめられて鼓動が逸った。涼子と言い、ここには何だってこんな綺麗な人ばっかりなんだ、と混乱した頭でわけのわからない不満を唱える。冷静に対応しなければいけないところなのに、これでは余計に緊張してしまうではないか。マリーがそう緊張の顔で相手の出方を伺っていると、青年は部屋の奥に人の気配が無いのを察して疑問を口にした。
「涼子さんは?」
「え、さ、さっき出て行きました、けど」
 しどろもどろに答えたマリーは、どうやら相手はこちらが脱獄犯だと気づいていないようだと、とりあえず安堵の息を小さくついた。マリーの返事に考え込んでいる相手を上目遣いに伺いながら、これなら何とか切り抜けられそうだ、と思う。この人の目的は涼子らしいからすぐにこの場を去るだろう。そう考えながら、マリーはまったく下手にドアを開けるんじゃなかったと自分の緊張感のない軽挙を悔やんで、次は絶対に開けないぞと心に誓っていた。だが、そうこうしている間、一向に動き出そうとしない相手の存在に気づく。早く行ってくれないかなと、マリーはそれに居心地の悪さを感じながら沈黙を守る。だが、数秒待っても相手は動かない。いい加減、その空間に耐えきれなくなって、「それじゃあ」とこちらからドアを閉めようとした。だが、それは叶わなかった。
 ガッと、彼の長い右足がドアの閉まりかけた隙間に押し込まれる。ご丁寧にドアがその<障害物>を感知し、シュンッと音を立て、再び全開になる。
「………」
 引きつった顔で目の前を見上げたマリーに、男性はにっこりと微笑んでさらに一歩進み、ドアの内側に入る。彼の背の向こうで、今度こそ、ドアが閉まった。
「あ…あの?」
 困惑しながら一歩後ずさるマリーに、男性は静かに腕を組んで小さく首を傾げた。サラリと流れる銀の髪の美しさに、どきりとする。相手の一つ一つの所作が嫌に色気を感じさせて、それがマリーを余計戸惑わせた。そして、青年が口にした次の言葉に、たじろぐマリーの鼓動が勢いよく跳ね上がった。
「青い髪に緑の瞳」
 それは、自分の持つ色彩。そして、何度も放送されていた脱獄犯の特徴でもあった。青年の言葉は、さらに続く。
「小柄で、十代前半の少女」
「………」
 目の前の危機にドクドクと心臓が波打つ。見開いた視線の先、青年は気味が悪いほどに綺麗な笑みを保っていた。その両目以外、は。
「ねぇ、君」
 無意識に一歩後ずさったマリーに、一歩だけ詰め寄って。
「もう一度聞きますから、正直に答えて下さいね?」
 言い聞かせるような口調で言ってから、青年が問う。
「涼子さんは、何処ですか?」
 マリーは全身を震わせて、相手を見つめていた。自分でもはっきりと分かる。自分の顔色が真っ青だと。ごくり、と嚥下する音が嫌に響いて、マリーの震える唇が小さく開かれる。
「し、知らな……」
「正直に」
 真実の言葉は一蹴される。マリーは唇を噛み締め、その青ざめた顔で相手を見据えた。目の前の人は自分を疑っている。それは明らかだった。脱獄犯が部屋にいて、部屋の住人がいない、確かに、常識から考えて、マリーが何かしたと思われても仕方がない状況だ。だが、それは果てしなくマリーにとって不快な誤解だった。自分が、涼子に何かしただなんて。そんな風に、思われるなんて。だから、マリーはやけくそになって思いっきり青年を睨み付け、口を開いた。
「ほ、本当に知らないんだもんっ! 涼子、ラナマって人から何とか様って人が帰ってきたよって! だから直ぐ行くって返事して! で、出て行っちゃったんだもん! それから帰ってきてないんだもんっっ!!」
 興奮しているせいか旨く言葉が紡げなかったが、とりあえず無実は訴えた。一気にまくし立てて上がった呼吸を、肩で大きく息をしながら落ち着かせていると、思わぬ反駁にあった青年が目を丸めている。だが、彼はしばらく思案に沈黙した後、事の筋道が頭の中で繋がったのか、小さく息を吐いて呟きを落とした。
「ああ、そういうことか」
 紫炎の瞳が理解の灯火を宿す。それは同時に、疲労の色も見せた。
「なるほど……君は運が良い」
 青年は投げやりにも見える表情でそう笑った。言葉の意味が掴めずにマリーが眉宇を顰めると、青年は再び呟く。
「あの人は、君ぐらいの年齢の子供に弱いですからね」
「……?」
 なんで、と聞こうとしたが、相手は「気にしないで下さい、こっちの話です」と打ち切った。そしてマリーにしっかりと向き直ると、彼女が一番欲しかった答えを口にする。
「私はシコウです。シコウ=G=グランス、涼子さんの片翼ですよ」
 さっきの君が言うところの<何とか様>も私のことですよ、と付け加えて、苦笑を見せる。先程から一転して優しい空気を纏ったシコウという青年に、マリーは知らず知らず、肩を力を少し抜いていた。そして、彼の言葉に何よりも好奇心を誘われた。
「貴方が、涼子の片翼なの?」
「ええ、ですから、貴女の処遇についても、涼子さんの意図に沿うつもりです」
 そう言われて、マリーは己の立ち位置を不意に思い出し、言葉を詰まらせた。そうだ、すっかり失念してたが、涼子をどうしたなんて疑惑以前に、脱獄犯である自分はこの青年にいつ警備員達へ突き出されても仕方がない身の上であった。今更ながらに自分の失態の事の大きさに背筋が凍るが、同時に涼子の部屋を訪ねてきたのがこの青年で幸運だったと胸をなで下ろす。涼子の片翼、涼子の味方の人間なら信頼できる、とマリーは思った。何よりも、この青年自体にマリーはいつの間にか安心感を抱いていたのである。顔がいいから、と言ってしまえばそれまでだが、それだけではない、人を無防備に信頼させる空気がこの青年にはあった。涼子とこの人が並んだらさぞ見栄えするのだろうなと思いながらマリーがまじまじとシコウを見上げていると、彼は腰に手を当てて、自分を見つめてくるマリーに問うてきた。
「で、涼子さんは君をどうするつもりだったんですか?」
 問い掛けに、マリーはまた言葉に詰まって少し考え込んだ。そういえば今後について、詳しくは聞いていなかった気がする。確か、最初に会った時に、曖昧なことは言われたはずだが。
「よく、わからないけど……ほとぼりが冷めたら秘密の入り口から出すって」
 戸惑いながら口にすると、青年は目を丸めて固まった。少しだけ沈黙が落ちる。
 マリーがその沈黙に耐えながら青年の様子を伺っていると、少し長めの吐息が相手の口から流れた。
「……秘密の入り口、ね」
 青年が困ったように笑う。そして顎に指先を添えて、「秘密の入り口」ともう一度なぞるように口にすると、疲弊した口調で独り言のようにこう呟いた。
「さて、涼子さんが知っているというのは、一体どの秘密の入り口なんですかね」





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