黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第五話 (])



 決勝戦を前に、会場は異様な熱気に包まれていた。
 一つ、軽く息を吐き出した後、涼子は完治とは言いがたい肩に視線を向けることも手で触れることもなく、会場の只中へと足を踏み出した。
 薄暗い通路から、光の乱反射の世界で一瞬目が眩む。左手を翳し、細めた目で向かうべき段上の上を見れば、赤毛の男が帯刀している剣の柄に肘をついた体勢で、こちらを見下ろしていた。
 アナウンスが涼子の名前をコールする。
 今までで一番の大きな歓声が上がった。相変わらず鼓膜の痛い瞬間だと、うっかり耳を塞ぎ忘れた涼子は辟易した表情を浮かべる。対面する相手は、全くの無表情だ。変化のないその顔を見つめているのもつまらないので、チラリと視線を観客席の一番上、特別閲覧室へと向けてみる。あれから全く動いていないのか、そこには燗老と翠老が二人仲良く……とはさすがに言えないが、とりあえずは隣に並び座ってこちらを見下ろしていた。ふと、ジェルバと目が合う。すぐに見慣れた笑みを差し出されたかと思うと、何を思ったのか、不意に彼女は席から立ち上がった。それに翠老が怪訝そうに傍らのジェルバを見上げる。涼子も眉宇を顰めてその動向を見守っていると、ジェルバは会場から背を向けて、部屋を出て行った。翠老が意外そうな顔つきで何か一言二言その背に呼びかけている様子だったが、一度立ち上がった老婆の歩みが止まることはなく、結局、その場には翠老だけが残された。
 大方、捕まえた侵入者でも見に行ったのか。
 翠老とは反対に感慨なく、ジェルバを見送りながら涼子はそう考える。
 そういえば、前にも未開地区の反逆組織のことを気にしていた節があった。今回の相手も一応は組織だっているようだったから、もしかしたら例の組織の一端かもしれないと踏んだのだろう。
 それにしても、このややこしい状況を作り出してくれた元凶の一人でありながら、餞別は笑み一つだけ、とは随分と大したご身分だ。皮肉げな笑いを薄く浮かべて、涼子は後で老婆に嫌味の一つでもくれてやろうと決心し、さて、と、改めて対戦相手へと向き直る。
 赤毛に碧眼の長躯の男、ラディス=H=マーセン。
 相変わらず、その顔の上に表情らしき表情は見受けられない。
 開始の合図がその場に響く。が、数秒はお互い動きを見せなかった。
 やがて、涼子の見つめる先で、男が片眉を上げて見せたのが、実際の開始というべきだったのだろう。初めて僅かに口端を吊り上げて見せた男は、ゆったりと一歩を踏み出したかと思った瞬間、涼子やジャックに劣らぬ速度で間合いを詰めてきた。
「――……っ」
 瞬く間に目の前に迫った相手が抜刀してそのまま振り抜いて来るのを、涼子も即座に剣を中程まで引き抜く形で受ける。男の纏った風が、涼子の髪を後ろに靡かせた。それが再び涼子の背に落ち着く前に、二つの拮抗は弾き合い、男は大きく後ろに跳んで距離を取り直す。
 そのまま軽快な足取りで地に足を着けると、男はクルリと剣の柄を回し、再び構えてくる。涼子もそのまま剣を引き抜き、男に向かって構えた。静まり返った会場内で、じりっと靴の底と地面が擦り合う音すら鮮明に聞こえる。
 さて、どう攻めるか、と涼子は心の中でため息一つ。ジワリと広がる右肩の痛みは、早くも傷が開き始めた証拠だろう。たった一回の邂逅でこの様か、と苦笑も浮かぶというものだ。とにもかくにも早期決着をするのが必要不可欠。さすがECの主席だっただけあってこのラディスという男、確かに強い。下手をすればジャックより上かもしれないと涼子は思う。まあ、自分より上か、となると、そこは否定しておくが。ただし、この状況では自分とて万全ではないのが事実だ。危ないつり橋を渡っている状況であることに相違ない。
 とりあえず、次はこちらから行くのが礼儀か、と涼子は地面を蹴る。相手と肉薄するなり、上から一気に叩きつけるが、軽い身のこなしでかわされた。振り切ったところを、相手の反撃がくる。右足の蹴りが躊躇なく、顔面を狙って振り抜かれたが、そこは地に這うように身を屈めてやり過ごした。と思った直後に今度は斬撃ときた。またもや顔を狙ってくるところが、いっそ感心する。さすがにこれには最初の攻撃の余韻から剣の自由が戻っていたので、それで辛うじて受け止めた。が、そのまま受け続けるにも体勢的にこちらが圧倒的に不利。押され気味になる寸前で、相手の足元を掬い上げるべく、右足を振り切る。
 不意を突かれた男は一瞬驚いた表情を見せた後、涼子の右足に捕まる前に飛びのいた。再び、遠くはない程度の距離を置いて、男は自分の手元と涼子とを交互に見つめた後、何を思ったのか、唐突にフッと実に嬉しそうな笑みを浮かべた。それに目を見張った涼子へと、男はついに口を開く。
「さすがに、次の手までの判断・実行が早いね」
 初めて聞いた男の声は、思いのほか軽い口調で届いた。それが少し、意外だった。どうやら、無口を気取ったクールキャラではなかったらしい。試合が始まってから急に生き生きとしだしたところを見ると、興味のあることとないこととに対する温度の差が極端に激しい人間のようだ。
 まあ、嫌いなタイプではない。
 とりあえず、こちらも小さく笑って返した。
「そりゃ、どうも」
「でも、なんか肩、滲んでるよ」
 血、と指差される。見ずとも痛みの具合で傷が完全に開きかけなのはわかっているので、今更確認するようなことはしない。「あら、そう」と気のない応答をしてやる。
「気にしないで、大したことじゃないから」
 告げれば、男はふーん、と剣の柄で自分の肩を叩きながら首を傾げた。そしてまた、口元に子供のような笑みを浮かべると、再び剣を構えてくる。洗練された一連の動きは、まるで無駄がない。
「じゃあ、気にせず、次行こうか」
 そう告げた言葉に対する答えを待つこともなく、男が踏み込んでくる。短期決戦が望むところの涼子も逃げはせずに、己も足を前に出した。相手は右手。こちらは左手。切り結んだ剣は、拮抗を許さずにすぐに弾く。再び空いた剣と剣、その間に見える男の口元が笑って、動く。
「狙うよ?」
 予告を落とした男の、その剣の軌道がまっすぐ涼子の右肩に向けられる。
 刹那、涼子も笑って応えた。
「狙えば?」
 できるものならね、と心中で付け足して、男の気づかぬところで既にモーションの始まっていた蹴りを相手の左わき腹へと叩き込む。至近距離で、相手の目が見開かれる。同時に相手の左腕の動きも視界の端に掠めた。
「……っ!」
 反射的に防御に移った男の斬撃は僅かに緩み、受け流すことも可能になる。蹴りの方は、左腕のガードが少なからず割り込んだので直撃とはいかなかったが、ラディスは少し目元を歪めて、数メートル横に飛ばされた。距離にして、五歩。涼子は一呼吸もおかずに、そこを畳み掛ける。
 だが、続く攻撃は予期していたらしい。ラディスもすでに体勢を立て直して涼子を迎え撃つ。
 一つ合わせて、また先程のようにすぐに弾き合い、即座に迎えた二度目の邂逅。
 ガチガチと押し合う刃先の方向を先に変えたのは男の方だった。拮抗が崩れて、刃が滑る。その端で、素早く男の左手が飛び出してきて、涼子の剣を握る左手首を捕らえた。一気に締め上げる力強い男の握力が、鋭利な痛みすら走らせる。細められた視界のど真ん中で、ラディスの口端が僅かに上がった。刹那、涼子の左手首を掴んだその左手で以って力任せに男の左脇へと引き寄せられる。それに抵抗できずに引きずられれば、必然的に相手に背を晒す格好となり、それは同時にラディスの正面に負傷した右肩を許すことになる。開いた傷を前に、男が為そうとしたのは、剣の柄を振り上げることだった。ここでそれが決まれば、涼子は確実に落ちる。刃先ではなく柄の方で十分だと、それがラディスの見解だったのだろう。しかし、すでに振り下ろしに入った時点で彼の視界はあらぬものをあらぬところに認めることになる。
 剣だ。自分のではなく涼子の。
 己が捕らえていた左手ではなく、いつの間にかそれは涼子の右手に移っていたのだ。
 それを認識した直後、ラディスは掴んでいた左手を勢いよく払われる。自由を取り戻した涼子の体は一回点するように動き、そのまま剣をラディスへと振り切った。それでも、すでにラディスの剣の柄は涼子の右肩の数センチ先まで迫っていた。涼子の攻撃よりも先に、それは達成しうるものだった。だが、彼が「あ」と漏らした瞬間、その手は唐突に硬直する。涼子はそれに目を見張ったが、振り切った剣の軌道は変わることなく、男の首の数ミリ手前で停止した。僅かに、ラディスの襟足の髪を揺らして。
 一瞬の静寂。
 首筋の剣を一瞥した後、ラディスは軽く息を吐き出し、言った。
「……参りました」
 剣の柄を涼子の肩から退き、両手を挙げて降参ポーズを取る。
 途端に、爆発的な歓声が四方八方から上がった。
 それらに覆いかぶさるように、アナウンスが涼子の名をコールする。
 その歓声を余所に、しばらくラディスの顔を睨み据えていた涼子が目元を細め、剣を引いて鞘に納めると、ラディスはチラリと特別閲覧室を見上げた。涼子もそちらへ目を向ければ、憤怒に顔を染めた翠老がいる。咎める視線を突き刺すように向けられた男は、それに軽く肩を竦めることで答えた。その答えは見事に老婆の逆鱗を刺激したらしい。翠老は荒々しく立ち上がると、憎悪の視線をこちらに寄越してから背を向けて出て行った。
 ラディスはその背を見て、微かに笑みを浮かべる。
 それから、男はその光景を眉を顰めて見つめていた涼子と目が合うと、「楽しかったよ」と、一言。後は、淡々とした様子で、段上を降りていった。
「ちょっと待ちなさい」
 祝福の拍手も、歓声も放り出して、その背を追いかけて涼子はそう呼びかける。
 すでに薄暗い通路に入っているラディスは数歩行ってから、足を止めて振り返った。
「何?」
「……最後、なんで攻撃するの、やめたのよ?」
 涼子もまた通路内に足を踏み入れて、問う。僅かに苛立ちが篭もったその声に、ラディスはあの無表情で言葉を放った。
「翠老に言われてたんだよ」
 涼子が眉を顰める。
「この試合に負けたら、もう目をかけてやらないってね」
「…………」
「あのばーさんに付き合ってやるのもいい加減嫌になってたからさ」
 そう告げる顔は相変わらず無表情だが、声は些か気だるさを増しており、男のうんざり加減が伝わってくる。だが、涼子はそれどころではない。今の話の流れからすると、つまり、この男……、己の考えに涼子の表情が剣呑になっていくのを見て、男は苦笑とともに手のひらをヒラヒラと振った。
「ああ、でも、だからって手を抜いたわけじゃないよ。せっかくあんたみたいな相手と戦えるのにもったいないじゃん?」
「…………」
 男の弁明に、それでも疑いを払拭できないでいると、ラディスは嘘じゃないって、と苦笑を深める。
「あの一撃で、あんたの右肩狙うことは確かにできたけどね、けどやったところであんたは怯まずに、そのまま攻撃を仕掛けたはずだ。どっちにしろあの一合せで俺がやられるのに変わりはなかった。そう判断したから、無駄なことはしなかった。それだけだよ」
 つらつらと並びたてられた言い訳に、涼子は眉を顰めたまま無言を返す。
 その顔を見つめながら、ラディスはふいにフッと笑って見せた。そして何を思ったのか、唐突にこんなことを言い加えたのである。
「まあ、勝ったらシコウ=G=グランスを片翼にしてもらえるっていうなら、もうちょっと必死に頑張ってみてもいいかなぁ、とは……思うんだけどね?」
「……なんであいつが出てくるのよ」
 いきなりすぎる。思いっきり、涼子のこめかみがひくついた。
 翠老との繋がりをあっさり切るくらいなのだから、別に権力のある相手と仲良くしたいというわけではないのだろう。大体、何で名指しでシコウなのだ、と不信感丸出しの顔で問うと、片手間遊びに剣をクルクルと回しながら男はああ、とあっさりとのたまった。
「なんか、あの人って寂しそうだから、慰めてあげたくなるんだよね」
「………………」
 亀裂を走らせながら、凝固した空気。たっぷり10秒は沈黙した、と、思う。それでも、男の言葉を理解するのにはまだまだ不十分だった。とりあえず、固まった表情のまま、涼子は相手を見つめた。
 けれど、そうしたところでそちらからの働きかけがない限りは視線の一つも動かさないといった様子の男に、涼子はその口を開くことを余儀なくされたのだが。
 硬い声であることを自覚しながら、涼子は言葉を紡いだ。
「つまり、何」
「……何って?」
 飄々とした顔のまま問いを問いで返されて、涼子は一度口を閉じてしまう。
 言わせるのか、それを、と一瞬の葛藤の末にセントルのトップ騎士は覚悟を決めた。
「あんた……あいつに惚れてるっていうわけ?」
 自分で自分がどんな顔をしているのかわからないという初めての体験に心の内側では戸惑いを覚えつつ、そう問うた。男は剣の柄に肘を突いたまま、涼子に向けて片眉を上げてみせる。
「さあ? そういう感情かどうかは知らないし。ただ、単純に寂しそうだから慰めてあげたいっていう庇護欲をそそるよね、って話」
 肯定はしないが、はっきりと否定もしない相手の答えに若干引き摺られるものを感じながらも、涼子はそれよりもひっかかる部分について言及した。
「寂しそうって……どこが?」
「どこって全体的に。見てればわかるでしょ」
 あっけらかんと答えたラディスに、思わず眉間に皺が寄った。
「……それって、あんたのかなり偏った主観なんじゃないの?」
 妄想癖があるって言われたことない? と若干呆れた顔をしながら言い切った涼子に、男は目をしばたかせた後、初めて、大きく口端を吊り上げて笑った。瞬間、その碧の瞳にも可笑しげな光が宿ったようだった。
「へぇ、トランベル一等尉がそれを言っちゃうんだ?」
「………何」
 嫌に含みのある物言いに、険が含まれる涼子の視線。だが、そんなことはなんでもないように受け流しながら、男は雨音のように呟きを淡々と落とした。
 通路の中で響く声は鮮明に。
「――だって、あの人、あんたと一緒にいる時が一番寂しそうだから」
「………」
 涼子の黒耀の双眸が、男を見つめたまま見開かれる。
「…………は?」
「あ、やっぱ自覚ないんだ? まあ、いいや。忘れていいよ、今の」
 男はその右手をヒラヒラと振ってそう告げたが、はい、そうですかと聞き流せることではない。
「どういう意味よ」
 思わず歩を詰めて、その胸倉を掴んで問い詰めていた。だが男はその剣幕に怯んだ様子もなく、囁くように言葉を紡ぐ。薄暗い中で、男の双眸がやけに鈍い光を放っているように見えた。
「トランベル一等尉って面倒ごと嫌いでしょ?」
 唐突な質問に、涼子が眉を顰めると、目の前の男は薄ら笑いで答える。
「俺も、嫌い。だからいいんじゃない? 『触らぬ神に祟りなし』、『臭いものには蓋』ってね。……得意分野じゃん、俺らの」
「…………」
 深く眉間に皺を刻んだまま、男に言葉を返せないでいると、男の左手が伸びて涼子の右肩に触れようとした。反射的に掴んでいた胸倉を離して身を引けば、それは男を解放することに繋がってしまう。期待通りの反応にニヤ、と笑った男はパンパンと皺の寄った胸元を払って、涼子に緩い視線を送った。
「とりえあずさ、医務室行った方がいいんじゃないの? シコウ=G=グランスに強制連行される前に」
 トランベル一等尉は小言を言われるのも嫌いなんでしょ? と、冗談めかしく告げられて、涼子は目元の筋肉をひくつかせた後、舌打ちを落として踵を返した。荒い足音を響かせて、通路の外へと向かう。後ろは振り向かなかった。どうせ、奴が薄笑いを浮かべているのは想像できたから。
「わ!」
「!」
 わき目も振らずに通路を抜け切ったところで、入り口で待ち構えていたらしい人物にぶつかった。
 見上げれば、驚き顔の銀髪の青年が、涼子さん、と名を呟く。
「すみません、肩に当たりませんでしたか」
「…………」
「涼子さん?」
 黙って自分を見つめるだけの相手に、シコウは不安げに眉をハの字にして顔を覗き込んでくる。
「……何でも、ない。医務室に行くわ」
 気の乗らない声でそう告げて、青年を置いて歩き出せば、数歩送れて彼の足音もついてくる。ほっと、安堵の息が零れるのが後ろから聞こえた。
「それなら、よかった。面倒がって行かないって言い出すんじゃないかと思ってましたよ」
 穏やかな笑みを浮かべてそう言ってくる相手にも、涼子は無言を貫いて歩き続けた。 





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