黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第五話 (U)



 エレベーターが最上階へと辿り着いて、小さな音とともに扉が開く。シコウが降りようと一歩を踏み出したその時、突然右脇から現れた何者かが勢いよく抱きついてきて、彼の進行を妨げた。それに思わず「うわ」と、反動で二、三歩ふらついたシコウを、緋色のふわふわとした髪を携えた少女が満面の笑みで見上げる。
「おかえりなさい! シコウ兄様!!」
 目を丸めたシコウは、その言葉で少し表情を和らげて苦笑した。
「どうしたの、ジェナ」
 いきなり抱きついてきて、と小首を傾げる青年に、愛らしいその顔をふくれっ面にして少女は返答を返す。
「だって、帰ってくるの遅いんだもの、シコウ兄様」
 少しでも一緒にいたいのに、寂しいのだと拗ねた様子を見せ、ジェナと呼ばれた少女はさらにシコウを抱きしめる腕に力を込める。シコウは困った様子で苦笑を深めて、その背をポンポンと軽く叩いてやった。
「ごめん、仕事が遅くまでかかってね。今日は検挙者の数が多かったから後始末もかなり量が多かったんだよ」
「そんなのッ……!」
 勢いよく顔を上げたジェナの瞳に怒りが滾る。
「そんなの、あの女騎士にやらせとけばいいのよっ! シコウ兄様を片翼にするなんて身の程知らずッ!! とんだ厚顔無恥だわ!!」
「……ジェナ」
 シコウは、疲れた顔で少女を見下ろす。妹代わりのこの少女が涼子を気に食わないという事実はもはや常識と化している。涼子を罵り出すといつもその口は止まらなくなるのだ。
「だってそうでしょう!? セントル唯一の女騎士だとか最強だとか持て囃されてるけど、だからって調子に乗って四仙のシコウ兄様を自分の片翼にだなんて、身分不相応だって言うのよ!! 上も何考えてるのかしらっ、 あんな要求呑むなんて!!」
「ジェナ……言葉が過ぎるよ」
 ついに嗜めるような声色で青年がそう返すと、少女はビクッと体を震わせて硬直した。そして、シコウを見上げるその目に涙が堪っていくのを認めて、シコウはああ、と頭を抱えたくなった。
「シッ…シコウ兄様は優しすぎるのよっ、 あんな人に付き合ってやることないのに!! わ、私だってシコウ兄様ともっと一緒にいたいのにー!!」
 少女はワーッと泣き出すと、再びシコウの胸元に顔を埋めてくる。シコウは天を一度仰いでから、とりあえずよしよしとその背を撫でてやった。ちょうどその時、タイミングを見計らったように第三者の介入があった。
「まあまあ、ジェナったら、シコウを困らせては駄目よ?」
 部屋の向こうからクスクスと笑みを漏らして現れたのは千尋だった。シコウと目が合うと、小さく微笑を向けてくる。ジェナはシコウにくっついたまま、勢いよく千尋を振り返って叫んだ。
「だって! 千尋姉様も悔しくないの!? あんな人にシコウ兄様盗られるなんて!!」
「あら、あんな人って、ジェナは涼子に会ったことないでしょう?」
「会わなくてもわかるわよ! 身勝手なことばっかり!!」
 まあ、それはあながち間違いではないなと蚊帳の外からシコウは思ったが、それを口に出してしまっては事態が収束を迎えることはできそうにない。小さくため息をつくと、「ジェナ」と己に抱きついたまま千尋の方を向いている少女に呼びかける。彼女がこちらを向いて視線が合うと、シコウは静かに言葉を紡いだ。
「涼子さんは俺にとって大切な人だから、そうあまり悪く言わないで」
 ね? と諭すように青年は同意を求めるが、はたから見ればそれは余計に事態をこじらせる言葉以外の何物でもなかった。案の定、シコウの言葉に、千尋は苦笑いを浮かべ、問題のジェナはこれ以上ないくらい目を見開いて彼を見つめる。そして数秒後、わなわなと唇を震わせながら我に返った少女はその顔を蒼白にしていった。
「た……たた大、切って……」
「うん?」
 数歩後ずさるようにシコウから離れた少女に、何もわかっていないシコウは首を傾げる。両手で胸元を握りしめた少女は何事か口にしようとするが、パクパクと動くだけで言葉は出てこない。やがて、その喉元が大きく引きつって。
「ッッ!……うぅッ!」
 シコウを大きな瞳で見つめたまま、そう呻くと、「シコウ兄様の馬鹿ーーー!!」と耳がつんざくような絶叫をあげてバタバタと部屋の奥へと走り去っていった。思いがけないその反応にただただ目を丸くして見送るシコウに対し、千尋は深い苦笑を浮かべて「あらあら」と呟く。 
「シコウはもう少し女心を理解してあげないと、ね」
「………」
 ジェナの走り去った方を見やったまま、そう注意をする千尋に、シコウは無言を返す。
 ふと、空気が変質し、沈黙が二人の間に降りた。静かに千尋がシコウに向き直る。それで視線が合いそうになる一歩手前で、シコウは彼女から視線を外し、己の自室へと足を向けた。自分を避けるように向けられたその背に、千尋は小さく息を吐く。
「この前のこと、まだ怒ってるの?」
 薄い笑みを刻んだまま、千尋はそう口火を切る。
 シコウは足を止め、無表情で千尋を見返す。
「何が」
「貴方に無断で外に出て、涼子に接触したこと。あれからずっと私のこと、避けてるでしょう?」
「………」
 違う? と首を傾げて問い掛ける千尋をしばらく見つめていたシコウだったが、やがてその口から微かに息を吐き出し、返答をする。
「怒っているわけじゃない。こちらに何も知らせずに行動を起こしたことを、不快に感じただけだよ」
「それは……ごめんなさい、でもユーリの反応は突然だったし、貴方にコンタクトを取る時間がなかったの」
「……わかった。もう、いいよ、その件は」
 シコウはなげやりに言葉を返すと、暖房の効いた部屋では不必要となったコートを脱ぎ去り、自室のドアを開いてその中へと軽く投げ入れる。電気のついていない暗闇の中でおそらく寝台の上に落ちただろうコートの音がした。それから、一連の動作を見守っていた千尋へと向き直り、腕を組んで壁に背を預ける。
「で?」
 首を傾げて相手の顔を伺う。
「涼子さんに会って、何か感じたの?」
「……わからないわ、私じゃ、やっぱり。ユーリが直接調べないと駄目みたいね。でも、反応は一瞬だけだったって言っていたから、間違いかもしれないし」
 ユーリの力は不安定だから、と千尋は苦笑する。シコウは「そう」と小さく返した。その反応に、やはり千尋は苦笑を浮かべたまま展開の言葉を告げる。
「貴方は?」
「……何?」
「貴方は涼子の傍にずっといて、何か感じないの? もしかしたら……貴方の方が、ユーリよりもこのことには感じるものがあるかもしれないわ。だって、」
「――……こんな目を、持っているんだからって?」
 遮るように切り返したシコウの顔が皮肉げな笑みに歪む。その紫炎の双眸に垣間見えた影に、千尋はハッとして息を呑んで黙った。そして、自分の言動を振り返って、深紅の瞳が戸惑いに揺れる。
「……ごめんなさい」
「………」
 俯いて告げられる謝罪の言葉に、シコウは投げやりな視線を一度宙に向けてから、言葉を返した。
「いいよ。でも、千尋姉、それについてはこっちを当てにされても期待はずれだ。それは俺の能力値のことを考えればわかるだろう?」
「………」
 千尋は黙り込む。シコウは静かに言葉を繋げた。
「こんなもの、俺が持つべきじゃなかったんだろうね」
 自嘲げに呟かれたそれに、千尋は眉を顰めた。
「シコウ、自分を卑下しないで」
 祈るように告げられた言葉。いつになく真剣な瞳で訴えられて、シコウは少し目を見張った。だが、すぐに苦笑を浮かべて肩を竦めてみせる。
「ありがとう、千尋姉、……だけどね、見当外れな慰めだよ、それは」
「………」
 言葉の意味が分からずに眉をひそめた千尋が疑問を口にするよりも先に、シコウは続けた。
「まあ、涼子さんのことについては、俺も気をつけておくよ。何か気づくことがあればすぐに報告する」
 それでいい? と了承を求める青年に、千尋はしばらく沈黙した後、「わかったわ」と小さく頷く。それを認めて、シコウはその表情を和らげた。
「……さて、じゃあジェナの機嫌直しにでも行ってくるかな」
 そう呟いて奥の部屋へと進んでいく青年の背に、「シコウ、」と、千尋は真摯な視線を向けて言葉を投げかけた。シコウが振り返り、視線が合う。
「……貴方は、涼子が対象候補に挙げられるのは不愉快でしょうけど、わかって。これは私情を挟めることじゃないの」
「………」
 その言葉を受けて、青年は少し目を見張ったが、やがて「へぇ」と苦笑を小さく口元に浮かべて姉代わりの女性へと問うた。
「千尋姉には、そういう風に、見えるかい?」
 修飾語の少なすぎるその問いは、千尋の理解の範囲を超えていた。先ほどから、妙に会話が噛み合っていない気がする。だから、説明を乞うように千尋は首を傾げて問い返す。
「……シコウ?」
 問われた青年は、しばらく口を閉ざして千尋を見つめていたが、すぐに踵を返してしまう。
「何でもないよ」
 小さな返答だけを残して、青年の背は部屋の奥へと消えていった。ただ一人だけになった千尋はシコウの消えていった方向を見つめながら、胸元で手を握り締める。そして、脳裏に彼の片翼の姿を思い浮かべた。一度顔を合わせた女性は、あまりに強い印象を残している。
 ――…そうでなければいい。
 千尋は純粋にそう思う。青年のためにも。自分のためにも。
 その祈りはやがて思考の渦に埋もれ、どこかへ消えていった。






 ジェナはベットの上でクッションを抱きしめて、ただ床を睨みつけていた。電気もつけずに薄暗い室内にはなんの音源もなく、ただ静寂が耳をつくだけだ。だが、しばらくすると、扉の向こうでノックをする音が響く。ジェナはハッと扉を見遣るが、すぐに眉を顰めて再びクッションを抱え直す。シコウではないことはわかる。彼は今、また仕事で外に出ているのだから。昨晩、あの後すぐに彼は自分の元にやってきてくれた。ふて腐れる自分を優しく宥め賺そうとしてくれた。でも、「もう外には行かないで」と縋る自分に彼は頷くことはなく、ただ困った顔をして優しく頭を撫でてくれるだけだった。結果、ジェナの機嫌は直ることなく、今まで自室に引きこもった状態だ。
 案の定、ノックに無反応のこちらに対して扉の向こうからかけられた声は、シコウのものではなかった。
「綾殿、失礼するよ」
 老婆の声がそう語りかけてきて、カチャリと扉が開けられる音がする。空いた隙間から廊下の光が室内に入り込んで床を照らす。そこにいたのは燗老、ジェルバだった。
「お加減いかがかな?」
「………」
 扉を開けたまま、老婆は進んできてジェナの隣に腰掛ける。ジェナはジェルバと視線を合わせることなく、憮然とした顔で床を睨み据えたままだ。ジェルバはその様子に苦笑を浮かべ、なるべく優しい声音で語りかける。
「検査を嫌がられていると聞いたが、何か気がかりなことでもおありかな」
 問い掛けに、しばらく無言を貫いていたジェナだったが、やがてかろうじて聞き取れるほどの小さな声でポツリと漏らした。
「……シコウ兄様」
「煉殿?」
「兄様は、いつまであの人の片翼をやるの?」
 碧眼でじっと老婆を睨むように見つめる少女に、ジェルバは片頬を歪めて笑みを浮かべてみせる。そしてなるほど、と言わんばかりの表情を見せて、答えを返した。
「そうじゃなぁ、涼子が前線に居る間は任を解くことはないかと」
「ッ! そんなんじゃ、ずっとだわ!!」
 噛み付くように叫び返すジェナに、ジェルバは困り顔で諭す言葉を連ねる。
「涼子はセントル一の騎士、我々としてもその意志にはならべく沿ってやらねばという判断なのじゃよ。分かって下され」
「……〈四仙〉の私の意志よりも?」
 挑発的なジェナの視線に、ジェルバは苦笑で返した。老いた蒼色の瞳が鈍く光る。
「綾殿、これは〈四仙〉の煉殿当人も承諾されてのこと故」
「――……ッ」
 ジェナは紅のその唇を噛み締めて視線を落とす。シコウの名を出されれば、彼女はもう黙るしかない。対する老婆は黙り込んでしまったジェナを無感情な瞳で見つめながら、ただ相手からの反応を待った。静寂がしばらくその場を包み、やがて、ジェナは俯いたまま、言葉を零す。
「……剣技大会」
「………?」
「今度の剣技大会……その涼子も出るの?」
 伺うような視線で見つめられ、相手の意図を察したジェルバは薄笑いを浮かべて頷く。
「その予定じゃが」
「四仙も、剣技大会……見れるのよね?」
 畳みかけるように続けられたその言葉に、老婆の笑みが深まった。
「お望みとあらば、見学許可は出せるものですな」
「見たいわ」
 少女は強い口調でそう告げ、挑むようにジェルバを睨み据える。老婆は小さく頷いた。
「なるほど……では、話を通しておきましょうて」
 即座にそう返し、ジェルバは腰を上げる。ただし、部屋を出る一歩手前で立ち止まり、「ガラスの一枚向こうの特別室からですぞ?」と念押しに一言告げることは忘れずに。
 これにジェナは一瞬不満げな顔をしたが、己の立場からして仕方ないことだと納得したのか、すぐに神妙な顔で頷く。その顔を見ながら、(かといって、これはただで終わりそうにないな)と、辟易とは反対側の感情を以てジェルバは思って笑んだ。





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