黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第五話 (V)



 男は瓦礫と化した塀の上に佇み、風に全身を包む包帯の端を靡かせていた。やや湿って冷たい風だった。見上げる空は陰気なほどに暗く濁っている。漆黒に彩られた双眸は何処までも続く低く重い雲を眺めていた。ふいに、微動だにしなかったその体が、僅かに動きを見せる。しかし、右腕が上衣の隙間に差し込まれようとしたまさに時、来訪者の声が突然その場に響いた。
「よお、腰抜け野郎。まだ痣に喰い殺されちゃーいなかったのか」
 出会い頭の挨拶としてはあまり過ぎる不躾なその言葉に、しかし、当のカースは顔を顰めることすらなく、……ただ辟易した表情だけを包帯の下に浮かべて、右上の頭上へと視線を投げやる。
 目的の人影は、屋根の崩れ落ちた建物の元壁の上に乗っていた。逆光でその顔は見えにくかったが、カースはさきほどの声とその内容とで、相手が誰であるかは既に悟っている。
「……ロウ」
 呼ばれた男は、ニヤリと口端を吊り上げて応える。彫りの深い顔立ちのせいで、その奥にある両目がギョロリとした印象を与えた。浅黒い色をしたその右頬にはこめかみから顎にかけて鋭い裂傷の痕が刻まれており、男が今までどうやって生きてきたかを物語っているようでもある。
「何の用だ」
 カースは平坦な声で淡々と用件を聞く。出来れば言葉も交わしたくない相手だが、その蛇のように粘着質な性故にどうやっても振り切れる相手ではない。素直に用件を終わらせてさっさと帰って貰った方が、早くて賢明だった。そう判断してのカースの言葉に、男は不満げに大仰に肩をすくめてみせた。
「おいおい、用がなきゃ来ちゃいけねーのか? 冷たいねぇ、たった一人の身内によぉ?」
 男の厭味に歪んだ声は少なからずカースの機嫌を傾けていた。その口が言葉を紡げば紡ぐほど、カースの気分は悪くなる一方だ。だが、相手はそれに気づいていないのか、あるいは全く気にかけていないのか、上機嫌で言葉を続ける。
「俺達は、クレイバー家の正統な血族の仲じゃねーか」
 なあ、と、声に優越感と誇りを含めて男はそう言う。その言葉に、カースは逆に反吐が出る気分になった。この男は二言目にはいつもこれだ、と。
「クレイバーの名は既に捨てた」
 吐き捨てるように言えば、男が不快そうに眉間に皺を寄せて「ハッ、これだから従兄弟殿は腰抜けで困る」と、侮辱の言葉を連ねる。普通ならいい加減、激昂してもいいところである。だが、カースは相手に卑下と同情の視線を向けるだけだ。とうに朽ちた名の権威に縋り付く男の姿は、怒りを超えていっそ哀れだと思えた。だから、カースは男の言葉には耳を傾けずに、この場を少しでも早く打ち切るために口を開く。
「お前の評価はどうでもいいから、用件をさっさと言え」
 冷徹な声でそう返せば、乗ってこないこちらの態度に男は白けた顔をした後、「へいへい」と用件の内容へとやっと話を移行する。
「今度『しかける』ぜ、お前らも来いよ」
 薄い唇を愉悦の笑みに引き上げて男は告げる。その笑みを、カースは一蹴した。
「断る」
 返答は速攻且つ問答無用だった。
 どうせ、そんなことだろうと予測もついていたのだ。考える余地もなかった。だが、相手はそれを不服に感じたらしい。はっきりと眉を顰めて、カースを不満の眼差しで見下ろしてくる。視線で理由を問われ、カースは面倒そうに口を開いた。
「まだ時期じゃない。それ以前にお前と組む気も毛頭ない」
「何でだよ? 共にセントルをぶっ潰して栄誉を取り戻そうとする仲間じゃねーか」
 馴れ馴れしい物言いを受けて、カースはほとほと相手の都合の良い思いこみに呆れる。誰が、いつ、お前と馴れ合おうとしたことがある、と。
「クレイバーの名は捨てたと言った筈だ。栄誉などどうでもいい。生憎、俺の仲間はお前の使い捨ての駒じゃないんだよ。やるならそっちだけでやれ」
「なんだ、お前、マーク達のこと言ってんのか?」
 男は軽薄な笑みで口端を吊り上げ、カースを物わかりの悪い子供か何かを見るような目つきで見下ろした。
「ありゃ、あいつらたっての希望だったんだよ。あいつらの尊い犠牲のおかげで二組の翼をもいでやれたんだぜ?」
「……有無を言わせず吹っ飛ばしといてよく言う」
 嘲笑と共に侮蔑の視線を送って、カースは男に背を向ける。これ以上付き合う必要はない。そのままアジトに向かって数歩進んだところで、相手もやっとこちらが聞く耳持たずということを悟ったらしい。これ見よがしに舌打ちして、何事か悪態を吐いてから、男がこの場を去ろうと踵を返した気配がした。
 丁度その時、聞き慣れた軽い足音が聞こえた。
「お兄ちゃん!」
 瓦礫の山の向こうからひょっこりと無邪気に顔を出した少女。同時に、去りかけた男が一時停止して、ゆっくりとこちらを振り返るのを感じ取る。
「『お兄ちゃん』?」
 信じられないものを見るかのような目をして、それからその顔に歪んだ冷笑が広がる。ここで初めて男の存在に気づいたマリーは、その体をビクリと震わせて怯えた表情を浮かべた。
「おい、お前、まだ何処の馬の骨とも知れないそこのクソ餓鬼と兄妹ごっこしてたのか?」
 マリーを指さしながら、男は吐き捨てるようにそう問う。男の卑下の視線をまともに受けて、マリーの顔からあからさまに血の気が引いていた。タイミングの悪さに舌打ちしたカースは、静かに男を肩越しに振り返って、鋭く睨み据える。
「……貴様には関係のないことだ。用が済んだなら、さっさと去れ」
「……いいや、そうはいかねーな。クレイバー家のお前がそんな卑しい小娘を身内呼ばわりするなんざ醜聞もいいとこ……」
 ろ、と続けかけた男の右頬を一瞬で何かが掠めて後方のコンクリート塀に突き刺さる。男が頬から滴る己の血に触れながらその正体を知るべく振り返れば、それは短剣だった。
 息を呑んで視線をカースへと戻せば、殺気を纏った男が絶対零度の視線でこちらを睨み据えている。
「……何度も言わせるな」
 感情のない声は、いっそ怒気を孕んだそれよりも危機感を植え付けさせられる。
「『クレイバーの名は捨てた』、…『用が済んだならさっさと去れ』。――…セントルに乗り込む前に俺に殺されたいか?」
「……ッ!」
 絶対的な威圧。男は顔を引き攣らせて、一歩退いた。僅かに開いた口は、何事かを告げようとして、しかし、肝心の言葉は用意できなかったのか、噛み締めるように閉ざされてしまう。
 その際も、カースは相手に隙を与えなかった。男に許したのは、この場から退く、それのみ。これ以上減らず口を叩くことも、ましてやこちらに近づくことも認めはしなかった。
 男はそれを悟って、忌々しそうに顔を歪めると、小さな舌打ちとともに踵を返して今度こそ瓦礫の向こうへと姿を消した。
「………」
「………気にするな」
 怯えるように男の消え去った方向を見つめたまま、震える手でカースの服の裾を握り締めているマリーの背を、カースは優しく叩いてやる。マリーはそのままカースの腰元にしがみついた。「お兄ちゃん」と、か細い声が漏れる。カースはその頭を撫でてやり、「大丈夫だ」と諭した。しばらくそうしていると、マリーが出てきた瓦礫の向こうからさらに青年が顔を出した。
「旦那! お嬢! 何してんすか?」
「……サズ」
 ゴーグルを首に下げて顔を煤に汚した青年は、くすんだ色のブロンドの短髪をガシガシと掻きながらこちらに歩いてくる。腕の中の少女はその声にハッとしたように顔を上げ、決まりが悪そうな顔をした。少女と目を合わせた青年は、半眼で責めるような眼差しを向ける。
「っつーか、旦那聞いてくださいよぉ! お嬢が、また俺のメカ無断で持ち出して」
「わ!! 違っ!! も、持ってってもいい? って聞いたもん!」
 慌てて言い訳を口にする少女に、青年は深いため息をはぁー、と吐き出した。
「あのねぇ、お嬢。聞いても答えもらう前に持っていっちゃー、聞いてないのと同じなんすけど」
 呆れ顔でそう告げる男に、マリーは顔を真っ赤にして反論する。
「だからって、お、お兄ちゃんの前で言うことないじゃない!」
「旦那の前じゃないと、聞かないじゃないですか、あんたは」
 マリーの額をペシリと軽く叩いて青年が言えば、その通りである少女はうぐっと口を噤むしかない。そして、青年は右の手のひらを少女の目の前に差し出すと、「はい、さっさと出す!」と叱り付けるような声で言い放った。少女はそれに渋々ながら己の上着のポケットに手を差し込み、拳の中に何かを握り締めて青年の手のひらの上に置いた。
 太陽光でキラリと反射した金属片。己の手の中でそれを確認して「よし」と声を出すと青年はマリーからカースへと向き直った。
「それと、旦那、ファリーの奴が薬を届けて来ましたよ。いつものところに置いたからって」
「ああ、悪いな」
「原料も大分尽きてきたってぼやいてましたよ」
「……そうか」
 静かにそう返したカースに、青年は少し困った顔をして自分のリーダーを見つめる。
「奴も旦那のためだから何とかしたいって息巻いてたけど、基がないんじゃどうしよーもないし……他に当てはあるんすか?」
「………」
 黙りこんだカースに、サズは顔を青ざめさせた。
「えぇ!? ないんじゃ、旦那のお先真っ暗じゃないっすか……いてッ!!」
 マリーの小さな拳が勢いよく飛んできてサズは頭を抱える。「いきなり何するんっすか」と彼が涙目で見遣れば、彼以上に目を潤ませた少女が顔を真っ赤にして仁王立ちしていた。
「なんてこというのよー!! 縁起でもないこと言わないで!!」
「……お嬢、俺は事実を言ってるだけっすよ。俺だって旦那のためなら何だってやるさ。だけど畑違いのことはどうしようもねぇ」
「な、何とかなるもん! 絶対、何とかなるもん!!」
「感情論だけで答えないでくださいよ。そんなんじゃ話が全然発展しやしねぇ」
「……当てはないこともないんだ」
 傍らの応酬から一歩離れた場所で、カースの声が独り言のようにポツリと落ちる。それに逸早く反応したのは、サズだった。翡翠色のその目が期待に輝く。
「何だ、薬の当て、あるんすか?」
「いや……、薬じゃない」
「は?」
 目を丸めた青年に、カースはただ沈黙の中で考え込み、先ほど手を伸ばしかけたものに指先を触れさせる。小さな紙切れはカサリと音を立てて存在を明示した。その音を聞きつけて、マリーがハッとしたようにカースを見上げる。その視線と目が合って、カースは苦笑を浮かべた。
「お前は、どう思う?」
「…………」
 何処か途方に暮れたような問いかけに、少女は躊躇いに口を閉ざし、カースを見つめる。
だが、やがて決心したように、その唇を開いた。
「だ、大丈夫だと、思うっ。……その、悪い人じゃ、ないから」
 誰が、とは言わない。少女の返答に、カースは目を細めた。
 悪い人ではない。だが、それは妄信していいというわけではない。このご時勢では、悪い人でなくとも、人を裏切らなくてはならないこともある。幼いこの少女にはまだ理解できないことだろうが。だが、どうせ行き詰まりなら、この無垢な少女の判断に任せるのもいいだろうと思えた。だから。
「そうか」
 カースは呟くようにそう返す。同時に、紙切れを衣服の中で握り締めて。
「サズ」
「はい?」
 蚊帳の外だった青年は不意に呼びかけられて、目を見張って返事をする。話についていけてないその表情を見据えながら、カースは言葉を続けた。
「少し、出かける。マリーを連れて帰ってくれ」
「え? あ、はあ。どちらに?」
「………」
 問われて、男はしばし考え。
「虎穴に」
 とだけ、答えた。







「ラディス=H=マーセン、ですか」
 本日取り押さえたSLE犯罪者を転移装置にセットしながら、シコウはそう言葉を返す。その傍らで剣をクルクルと回しながら暇を持て余す女騎士は、コクリと頷いた。
「そう、なんか翠老のばーさんの手駒みたいだけど」
「……あー、はい。それなら聞いたことありますね。翠老の秘蔵っ子ってやつでしょう? 涼子さんが剣技大会で優勝してから、ご自分も欲しくなったんでしょうね。あの方は燗老と犬猿の仲ですから。確か、ECの当時の主席引き抜いて囲ってるって話でしたけど、ついにそれを出してきたわけですか」
 つらつらと言いながら、青年は装置を実行して犯罪者を転送する。掻き消えた彼らを見送ってパンパンと手を払うと、涼子に向き直って首を小さく傾げた。
「で、前回の一等尉会議で挑発されたと?」
「そ、わざわざ名指しで『お手柔らかに』ですって。あのばーさんもいい加減うざいわ」
 仏頂面で吐き捨てる涼子に、シコウは苦笑で受け流す。
「まあまあ、今に始まったことでもありませんし。ところで、翼を組んだって話ですけど、片翼はどちらの方で?」
 問えば、答えは端的に返ってきた。
「知らないわよ、そんなの」
「……はあ、そうですか」
 まあ、そうですよね、と続けてシコウは納得を示す。涼子の性格から言って、彼女がわざわざそこまで調べるはずがない。まあ、どうせ次の会議にはその片翼も入ってくるのだろうからそこでわかる話だ。本来一緒に会議入りするところを一足先に騎士だけ紹介とは、翠老もあからさまなアピールをするものだと青年はため息混じりに思う。
「剣技大会って……、確か予選はもう始まってるんですよね? その騎士は上がってきてるんですか?」
「みたいね。まあ、あれだけ大口叩いてるんだから予選で沈んじゃ、お話にならないでしょ」
 涼子の容赦ない言葉を、シコウは苦笑を浮かべて受ける。どうやらかなりこの件に関しては機嫌が傾いているらしい。青年は無難に話題を変更することにした。
「おっしゃる通りで。……涼子さんはシードで本選からですよね? 一回戦はいつですか?」
「今日で予選が全部終わって、明後日」
「じゃあ、明後日からは仕事も休みですね」
「本選に出る騎士の片翼の巫女達だけね」
 楽でいいわね、と嫌味ったらしく言われて、シコウは苦く笑う。確かに任務遂行に伴う書類の仕事がないのは有難いが、シコウも涼子の片翼として外に出るようになってからは試合観戦を毎回義務付けられるようになっているから、正真正銘の休みとは言い難い。
 さらに言ってしまえば、義務付けられていなくても、涼子が出る以上、観戦しないわけにはいかないだろうから正真正銘の休みだったとしても結局のところ意味はないのだが。
「まあ、私達だけでなく、それに加えてどうせほとんどの翼は休んで観戦するでしょうけど。この時期だけは片翼待ちも駆り出されますからね」
 ECの実地訓練もこの時期に合わせて行われるのだから、通常の倍近いセントルの人間が外に出ることになる。力が未熟な分、数で補うというわけだ。SLE犯罪者達も当初都市管理が手薄になると思ってこの時期を狙って動いていた多く者もいたが、それが誤解だったことをいい加減悟って最近はそうでもないらしい。
 そういえば、とシコウが声を上げる。
「去年の決勝相手はラナマさんの片翼でしたよね?」
「ええ、やりにくかったわ。下手にあの顔に傷つけたらラナマに怒られそうだし」
 苦い顔つきで呟く涼子に、シコウは目を丸めて、そうなんですか? と問う。涼子は神妙に頷いて、あの子、片翼のこと溺愛してるから、と答えた。だが、それを聞いたシコウは、そう言うなら、と告げる。
「多分、相手も同じ思いだったんじゃないですか?」
 件の少女から熱烈な愛情を受けているのは涼子も同じだのだから。
 苦笑を浮かべながらシコウが言うと、涼子も笑みを浮かべて「そうかもね」と返す。
「でも、今回は決勝の前で当たるわね。同じブロックにいるから」
「あれ? 去年の決勝相手は別ブロックになるんじゃなかったんですか?」
 小首を傾げれば、涼子がふとまた仏頂面に戻る。
「別ブロックにはあの赤毛が入るわ。何が何でも決勝までは進ませてやるって翠老の下心をひしひしと感じるわね」
「……ああ、なるほど」
「まあ、いいわ」
 クルクルと手の中で回していた剣を鞘に収め、涼子はゆっくりと立ち上がって言う。
「どこで当たろうが、再起不能間際まで伸してやるから」
 そして青年を振り返って、さらにこう続けた。
「出る杭は打っとかないと、ね」
 不敵に、というより不穏に笑う女騎士の傍らで、シコウは「一番出張ってるのはあなただと思いますが」という言葉を飲み込み、とりあえず引き攣った笑みを浮かべておいた。





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