黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第五話 (W)



 キンッと鋭い音が響いて、一つの剣が宙に舞い、そのまま弧を描いて地面へと転がった。
 その剣の持ち主は、剣の落ちた場所から数歩離れたところで、尻餅をついた状態のまま、荒い息を繰り返しながら自らの喉元に剣先を突きつけている女騎士を見上げている。
 その姿勢で数秒の膠着の末。
 女騎士の口元が笑んで、それを見た青年の口元にも、ため息とともに苦笑が浮かんだ。
「……参りました」
 可愛い可愛いと巫女のお姉さま方に評判のハニーフェイスが、そう呟いて両手を上げる。
 その瞬間、広々とした闘技場内に刹那の沈黙が落ちて。
「準決勝Aブロック勝者、涼子=D=トランベル!!」
 そのコールとともに爆発的な歓声が巻き起こる会場の中心、涼子はその愛剣を鞘に収めると、転がったままの青年に手を差し出す。「どうも」と、その手を取って起き上がった青年は、彼の片翼の少女と同じブロンドの髪をくしゃりと混ぜて、「あーあ」と、深いため息を吐いた。
「また負けちゃったなー。トランベル一等尉、全く手加減してくれないんだから」
「あら、無理言わないでよ。あんた相手にまで手を抜いてたら、万が一にでも一本取られちゃうかもしれないじゃない」
 全く、本当に可愛らしい顔して大した曲者だ、と苦笑を浮かべた涼子は先ほどまでの試合を回想しながら思う。体勢を崩したと見せかけて相手の踏み込みを誘った場面など、まんまと嵌って危うく胴に一発くらいかけた。まあ、他の相手なら見破れるものなのだが、この青年がもっともらしく「うわっ」と声を上げると、それだけで判断を鈍らせられるのだからとんだ策士だ。おかげで、斬りかかった瞬間に、その碧い目が冷静な光を一瞬で取り戻したのを見た時は、柄にもなく少々顔を引き攣らせてしまった。おまけに小柄で細いという涼子と同じタイプだけに、そのスピードは涼子に引けを取らないのだから堪らない。
 そんな涼子の心中を余所に、青年は不満げに口をへの字に曲げてみせる。
「うわ、手を抜いても万に一回しか勝たせてもらえないんですか? 酷いなぁ」
「じゃあ、おまけで二回にしといてあげるわ」
「そんなんじゃあんま変わらないですよー」
 涼子の軽口に、拗ねた顔をしたままそう返すと、青年は転がった自分の剣を拾い上げながら、はぁーっと思いのほか重いため息を吐いた。
「あーあ、ラナマ、トランベル一等尉が勝ったから、滅茶苦茶喜ぶんだろうなぁー。僕、本当にへこんでるのに、お構いなしなんだから」
 ここが良かった、あの時がすごくかっこ良かったと、耳にたこができるほど感想を聞かされる、その試合相手が自分の時はもう本当に居た堪れないのだと青年は続けて零した。
 涼子はその様子を思い浮かべて失笑しながらも、言葉を返す。
「あら、あんただってかなり贔屓されてるでしょ」
「どこがですか」
 全く納得してない顔で問われ、涼子は苦く笑いつつ答える。
「私が初めてのあんたとの試合でその頬に小さい傷つけた時、一ヶ月間膨れっ面されて口聞いてもらえなかったわよ?」
 だが、聞いた青年はそんなこと、とでも言いたげな表情を浮かべ、首を左右に小さく振った。
「それ、僕とトランベル一等尉が逆だったら、一ヶ月どころか一生絶交ですよ。……もう、いいんです、所詮僕は二号さんですから。本妻にはどうやったって適わないんですよー」
 投げやりな口調でそう呟いていたジャックだったが、涼子とともに会場一般通路へと進んでいたその足を不意に止める。その双眸は、通路奥に見える大窓になっているガラスの壁を食い入るように見ていた。
「……?」
 涼子も誘われてそちらを見ると、遠目からだが雨が降っているのが伺えた。それに気づくのとほぼ同時に、今までの流れから打って変わって固い表情をしたジャックが「すみません」と告げるなり、涼子をその場に残して駆けて出した。その後姿を見送りながら、ああ、と涼子は一人相槌を打つ。
 ラナマのところへ向かったのだろう。彼女は何故か雨が降ると、途端に体調が悪くなる。精神的な問題らしいのだが、雨音を聞いただけでその場に蹲って動けなくなるのだ。そのため、彼らは雨の日は仕事に出ない。ラナマは雨がやむまでひたすら部屋に閉じこもっている。普段の彼女が底抜けに明るいだけに、そのギャップが余計に痛々しいところだ。今もきっと観客席のどこかにいるのだろうが、今日の試合はこれでお終いだから、通路に出ているかもしれない。そうすれば、雨音に気づいてしまうだろう。だが、まあ、ジャックが見つけて、きっと部屋に送ってくれるはずだ。彼は本当にラナマを大切にしているから。雨の日もずっとラナマの部屋の前に座り込んでいるほどの過保護ぶり。本当に、可愛らしい顔してとんだ男前な奴だ。ラナマが溺愛するのも頷ける。
 涼子がそのままその場に突っ立っていると、ふと呼びかけがあった。
「トランベル一等尉」
 声の方を振り返れば、若い騎士がそこにいる。
「燗老がお呼びです。特別観覧席にお越しください」
「……? わかった」
 仕事も休みのこんな時期に一体何の用だと思いながら涼子は頷いて、その騎士の案内のままに特別観覧席とやらに向かった。






「よく来たな涼子」
 物々しい警護兵に固められた扉の奥に進むと、十老の中で最も見慣れた老婆が重厚なデザインの椅子に座ったまま、こちらに顔を向けた。その椅子が向いているのはガラス張りの壁。その奥の下方にはついさっきまで涼子がジャックと剣を合わせていた闘技場が最高の位置から見下ろせるようになっている。
 自分は実際にこの部屋に入ったことはないが、初めてシコウを見たとき、確か彼もこの場所から闘技場の上にいる自分を見下ろしていた覚えがある。そう思いながらかつて彼が座っていた椅子の場所を辿るってみると、そこには別の人物が座っていた。
 相手が、ゆっくりと涼子を振り返り、その顔を見せた。緋色の、長く緩くウェーブした髪。華やかな顔立ちと蒼く勝気な瞳。それが涼子を捕らえて、目元を細める。
「あなたが、涼子=D=トランベル?」
「そうだけど……何、こいつ?」
 涼子は不可解げな顔で少女を指差し、ジェルバへと問う。だがジェルバが答えるよりも先に、こいつ呼ばわりに顔を憤怒に赤らめた少女が噛み付くように言葉を投げつけてきた。
「こいつ!? こいつですって!? あなたセントルの騎士のくせに四仙の顔も知らないの!?」
「……四仙?」
 その言葉に思わず眉を顰めた涼子に、少女は気を取り直したのか、悠然とした笑みを浮かべて、鷹揚と頷いてみせる。
「そうよ。四仙の《綾》、ジェナ=K=フリード。千尋姉さまの次に高い能力値を持っている巫女よ」
「……へぇ?」
 どうだと言わんばかりの少女の自己紹介に、涼子は片眉を上げて、その口端を僅かに吊り上げる。少し小馬鹿にしたようなその反応に、ジェナは盛大に不満顔を浮かべるが、すぐに感情を抑えて、敢然とした姿勢を崩さないように言葉を続けた。
「まあ、あなた、セントルの騎士のトップを語ってるだけあって、今の試合を見てた限りではそこそこ使えるみたいね。――…でも、」
 蒼い双眸で、鋭く涼子を見据え、ジェナは短く吐き捨てる。
「シコウ兄様の片翼なんて、思い上がりもいいとこだわ」
「…………」
 唐突な糾弾に、余所を見ていた涼子も、その言葉で少女と視線を合わせる。そして、数秒後、フッと笑って見せた。それに少女が眉をひそめると同時に、涼子は言葉を淡々と返す。
「そうね、私もそう思うわ。でも、まあ、よく頑張ってると思うわよ?」
「………」
 予想外に謙虚な台詞が出てきたことに、ジェナは一瞬目を丸めたが、だからといって攻撃の手を緩めることはない。拳を握りなおして、さらに言葉を畳み掛ける。
「あら、少しは自覚があるようね。でも、はっきり言って全然相応しくない。不相応にもほどがあるわ。あなたもわかっているなら、シコウ兄様の片翼なんてさっさと辞めて頂戴」
「それは断るわ」
 あっさりと即答した涼子に、ジェナは表情を固めて女騎士を見返す。
「……何ですって?」
「確かに、あいつには私の片翼っていうのは少し荷が重くて、あんたが言うようにこの私が相手じゃいくら四仙でも不相応なのも仕方がないけど、まあ、それなりに仕事はできる奴だし、まあまあ使えるから手放す気はないわね」
 つらつらとそう告げた涼子。最初はその内容が理解できずに顔を顰めたまま呆然としていた少女だったが、ふとその意味を理解すると、今度は押さえようがないほどに顔を真っ赤に上気させて怒声を上げた。
「はあ!? 誰がシコウ兄様のことを言ったのよ!! 私が言ってるのはあなたのことよ!! あなたが、シコウ兄様に、相応しくないって言ってるの!!」
 馬鹿じゃないの!? と吐き捨てるジェナに対し、そんなことは端から分かっていて、からかっていたに過ぎない涼子は、クスクスと笑みを漏らしながらその怒気に渦巻く少女の顔を見下ろす。
「あら、可笑しな事言うガキね、そんなわけないじゃない。私はね、セントルの最上階の狭い場所で能力を殺すしかないあいつに、その力を存分に有効活用できる場を提供してあげてるの。どう? とっても素敵な計らいでしょう? そんな心優しい私が、あいつに相応しくないなんてこと、あるわけないじゃないの」
 悠然とした口調で涼子が放つ言葉に、ジェナは怒りのあまり言葉が出ずに口をパクパクとさせていたが、やがて、強く唇を噛み締めたあと、搾り出すように罵声を上げた。
「最っ低!! 思ってた通りだわ!! ……あんたなんかっ、あんたなんかシコウ兄様には相応しくないッ!!」
「なら、あんたは相応しいとでも言うの?」
 ふと、笑みを外した涼子が、揺ぎ無い鋭い言葉で少女を切り捨てた。
 そのまま目を見開いてこちらを凝視している相手を無表情で見下ろし、威圧を加えるように殊更言葉の一つ一つを強調しながら声を紡いでいく。
「生まれ持った能力に甘えて、自分から何一つ動こうとしないまま、のうのうと生きてきたあんたが?」
「……なっ…!」
 一瞬で侮辱に顔を引き攣らせたジェナに、涼子はさらに顔を寄せ、その耳元にドスの効いた低い声で囁きかけた。
「私はね、お嬢ちゃん。ここに来るまでに血反吐を吐いて来たのよ。何度も何度も死にかけて、此処にいるの」
 トンッとその硬直している胸元を軽く押して、蔑視とともに言葉を突きつける。
「甘ったれてんじゃないわよ」
 ゾッとするような眼差しを向けられ、ジェナは固まった表情で涼子を見つめる。それに、涼子は白けた顔をすると、傍らにいたジェルバを見て告げた。
「用事はそれだけ? ならもういいでしょ」
 ジェルバは軽く肩を竦めて応える。つまらないことで呼ばれたものだと涼子は内心苛立ちを覚えながら、彼らに背を向けて出口へと進む。そして、扉を開けようとした時、それまで黙っていた少女が口を開いた。
「待ちなさいよ」
 涼子は動きを止める。だが、振り向こうとはしない女騎士の背に、ジェナはさらに言葉を投げかけた。
「大層、腕に自信がおありのようね?」
「………」
「なら、私を護衛してみせなさいよ。トップ騎士様にはそれくらい余裕なんでしょう?」
 涼子は何を馬鹿なことを、と言わんばかりの呆れ顔で相手を振り返る。
「あのねぇ、私は今、剣技大会に出場してるの」
「そんなこと分かってる。あなたの試合の間は別にいいわ。それ以外のところで私の護衛をして頂戴。大会が終わるまで私を守りきれたら、シコウ兄様の片翼に認めてあげる」
 少女が差し出す提案に、涼子はハッと嗤って答えた。
「断るわ、そんな面倒なことする必要、まったく感じられないもの」
「逃げるの?」
「下手な挑発してんじゃないわよ」
 涼子は冷めた視線で、こちらに挑むような視線を向けている少女を一瞥して切り捨てる。
「あんたが私を認めようが認めまいがどうだっていい。とにかく、そんな話は」
「面白そうな話をしておるのぅ」
「!」
 唐突に会話に割り込んできた老婆の声。しかし、それはずっとその場にいたジェルバが放ったものではなく、今まさに扉の向こうから現れた、翠老のものだった。
 どうやら、今の話を扉の向こうで聞いていたらしい。涼子は思わずその老婆から顔を背け、死角で小さく舌打ちをした。
「やればいいじゃないか、トランベル一等尉。せっかくの四仙からの要請だ」
「……生憎ですがね、翠老。こっちもいろいろと忙しいもので」
「何、このセントルの騎士でトップを誇るお主なら、大したことはなかろうて……のう、燗老?」
 不意に同意を求められたジェルバは翠老の視線を受けて、やる気のない表情で涼子へと軽く目を向けた。
「そうじゃなぁ。やってやれ、涼子」
「……ジェルバ」
 こんな挑発に乗るのかと非難の視線を送る涼子に、老婆はニヤリと笑みを返す。
「お前も、毎回毎回簡単に優勝できる大会でつまらんだろう? どうせ、今回も今までと大差なかろうて。ならば、少しの遊び心も加えたほうが楽しめるというものじゃ」
「………!」
 ジェルバの言葉に傍らの翠老の顔が強張る。暗に翠老の差し向けた騎士も大したことがないと言われたのだから、彼女が片頬を引き攣らせたのも無理はない。
 翠老は遠まわしの侮辱に片方の目元を歪め、それでも何とか口元は固い笑みを浮かべ続けて言葉を紡ぐ。
「……まあ、燗老も、こう言っておることだ。トランベル一等尉、綾殿の護衛、よろしく頼むぞ?」
 まだ何も引き受けるとは言っていないにも関わらず、勝手に決定事項に繰り上げてくれた老婆に、涼子は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべた。
 苛立ちの視線をジェルバへと向ければ、老婆は平然とした顔で顎をしゃくって「受けてやれ」と無言で告げてくる。それに涼子はやってられないと言わんばかりの顔で右上に視線を馳せたが、結局のところ断りようがないこの状況に小さく舌打ちをしてから「わかったわよ」と投げやりに答えた。
 その返答を聞いてクスリと笑んだジェナを横目に見て、涼子は「クソガキ」と心中で吐き捨てた。





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