黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第五話 (X)



 カチャリ、と硝子の破片を踏み締めた靴の裏で音が鳴る。廃墟と化した、いや、それ以上、瓦礫と言ったほうが適切な程朽ちた建物の最奥に、不自然な空間がある。ドア一枚を携えたその空間を前に、カースは一人佇んでいた。ゆっくりとその錆付いた表面に手を伸ばし、二度のノックを鳴らす。だが、数秒待てど、返ってくるのは沈黙。
「…………」
 普通なら、この向こうに誰かいるなど思わない。この無反応は当たり前の結果だと思っただろう。カースもそう思いなしてその場から去りたいと、一瞬誘惑に駆られた。だが、残念なことに長年死線の中で培ってきた彼の感性はこの奥に人の気配があることを感じ取ってしまっている。
 もはや、退くことはできないのだ、とカースはため息とともに己を戒め、再びドアの表面を叩いた。
 三度、四度、五度、六度……と根気強く続いたノックの途中。
「あー、しつけーな! ここには浮浪者一名しかいませんよー。さっさと帰ってくださーい!」
 一向にやむ気配のない騒音にいい加減に痺れを切らしたのだろう。唐突に、返答が帰ってきた。男の低い、声。ソファーかベットの上にいたのか、ギシリッと、身動きした音が一緒に聞こえた。
「あんたに用がある。医者、なんだろう?」
「………、あのなぁ、こんなとこに住んでる医者がいますか? え? いますか? 常識で考えろっての! 仮に万が一いたとしてもなぁ、本日はお休みでぇーす」
 こちらを馬鹿にしきった投げやり丸出しの口調の声。だが、カースは挑発めいたそれにはまるで取り合わず、ただ淡々と己の言葉を連ねた。
「涼子=D=トランベルを知っているか」
「………」
 沈黙。だが、その中で相手が息を呑む気配が確かに、した。カースはその右手を冷たい扉の上に置き、確信のもとに再度問う。
「……知って、いるんだろう?」
「……………」
 不意に、カツリ、と向こうから小さな音がする。そして、すぐにそれはカツリ、カツリ、と続き、やがてドアの向こうで止まる。ガチャッと何かを取り外す金属音。おそらく、鍵の音。
 分厚い扉を挟んで数秒に渡る、沈黙の果て。
 ギィ…と高い音を立てて扉が開いた。薄暗い室内からこちらを覗く顔に、カースは思わず包帯の下で渋い顔をする。
 無精髭を生やし、口に煙草を銜え、短いこげ茶髪をボサボサにした目つきの悪い40歳頃の男だった。これが医者だというなら、まさしくヤブ医者だとカースは認定する。
「……涼子のヤツがどうしたって?」
 甚だ面倒そうな顔を隠しもせずに、眉間に皺を寄せた男は問う。全身包帯で覆われたカースの異様な姿などはまるで無視だ。現況に様々な不満を覚えながらも、カースは気を取り直して相手に向かい直った。
「ヤツに紹介してもらった、この手のことには詳しいと」
 告げるなり、カースは己の左腕の包帯をスルリと解く。緩んだ白と白の合間から、肌色に浮かぶ青紫色の斑点が覗く。
 男はそれを見下ろし、右手の指先で煙草を口から外すとただ白い煙を吐く。その顔は至って無表情で、そこに感情の色を見つけられるとしたら億劫そうな様子のみ。カースは男を見据えまま、口を開く。
「治せるのか」
 イエスかノーか、端的な答えを求める。男はカースの左腕からその目へと視線を移すと不遜な態度で笑みを浮かべた。
「いきなり用件かい? 俺はあんたの名すら聞いてねーぜ?」
「俺は……」
「あーあー、はいはい、テラノマの頼れる皆の頭、カースだろ?」
「…………」
 揶揄するような、いや実際内容からして確実に揶揄している男の言葉にカースは眉を顰めた。
「……知っているなら、問うな」
「おじさんはな、初対面の相手にはちゃんと名乗りなさいって礼儀を教えってやってんの」
 わかる? と舐めきった対応をしてくる相手に流石に青筋が浮かぶ。
「煙草を銜えた口で礼儀を諭される謂れは無いな」
 冷めた目で一瞥して、カースは返す。男はにやりと笑んで「これは俺の一部だからいーのよ」とふざけた言葉を言い張った。同時に先端の灰が振り落とされ、すでに汚れきった床にさらなるシミを作る。
「しかし、涼子のヤローもふざけたヤツだな。風の噂で数年前にセントルに入ったってのは聞いてるが、それで敵さんの世話焼いてりゃ世話ねー……って、ん? これ文法的におかしいか?」
 一人で自分の言葉に首を捻りながら男は煙草を吹かし続ける。そんな男を静かに見据えながら、カースは自分のペースを守ることに徹した。
「それで、俺の質問にはいつ答えてもらえるんだ?」
「あ?」
 質問そのものを記憶から抜け落としている、というよりも、そもそも記憶すらしていない男は間抜け面で聞き返す。カースは眉宇の皺を一本増やして、質問を繰り返した。
「あんたはこれを治せるのか、治せないのか」
 言われた男はチラリと再びカースの左腕を見下ろす。そして白煙を吐き出すと薄っぺらい口調でのたまってくれた。
「ああ、治せるな」
「………」
 あっけない返答。待ち望んだはずのその内容だが、カースはその顔に喜びを映し出すことはない。理由は簡単だ。胡散臭すぎる。医者の不衛生、どころではない、その男の外見とこの瓦礫に埋もれた住処。長年、己を苦しめてきたこの後遺症。今まで、カースも単に薬の投与だけに勤しんできたわけではないのだ。根本的にそれ自体を消し去る方法は、それこそ血反吐を吐くほど探した。それでも見つけ出すことはついぞできなかった。未開地区最大の組織の頂点に立つ自分でさえ。それを。
 このどこからどうみても信用するに値しない男が、言葉一つで肯定した。その方法を、どれだけの者が、どれだけの懇願を持って望んだか知れないものを、煙草の煙の合間で、なんの感慨も無く肯定したのだ。
 ――間違えた。
 カースの頭はそう判断する。
 この男を訪ねたこと。黒鋼の翼の騎士の言葉を信用したこと。この楔を引き抜けると僅かに希望を見たこと。
 全て、間違えた。
 そう判断した……はず、なのだ。
 だが、論理的なところとは別の場所にいる直感が、いつのまにかそれとは異なる判断を弾き出している。馬鹿馬鹿しいことに、この男の手を取れ、とざわめくように訴えているのだ。この男の目の奥に隠されているものを暴けと。そして、二つの判断が相反したとき、鬩ぎ合いの末に残るのは総じて後者、で。
 気づけば、勝手に口が動いていた。
「あんたの名前は?」
 カースは己の口元が無意識の内に笑んでいることをこの時自覚した。そのカースの反応に、煙草を銜えた男の顔も一瞬目を見張るなり、今までと打って変わって怪訝そうに小さく目元が歪む。僅かな躊躇いの後に、男は返答を口にした。
「……セドリグだ」
 一連の男の顔色を見つめていたカースは笑みを深めて相手を見据える。
「セドリグ、では、――…あんたに俺の治療を頼もう」
 受けてくれるか、とあっさりと告げると、男の顔が今度ははっきりと大きく歪んだ。指の中の煙草を取り落としそうになっている。まさかこんな展開になるとは思いもしなかったのだろう。顔は相変わらず仏頂面を保ってるが、明らかにその目が動揺を表している。
「あー……、おい……カースさんよぉ、あんたそりゃ、ちょっと無用心すぎやしないか? 何処で俺を信用に足ると判断したってんだ?」
 どうやら、このセドリグという男、己が如何に不審な空気を出していたか自覚していたらしい。むしろ、意図していたといった方が正しいのか。探るように、あるいは気味悪がるようにこちらを見据えている男に、カースは端的に答えを返した。
「勘だ」
「………は?」
「俺の勘がこの機を逃すなと言った。だから、乗った」
 それを聞き届けて、初めて、呆気に取られたように男が目を見開いた。灰色の瞳がカースを映し出し、推し量るように凝視している。やがて、その見開いた目が戻るよりも先に、男の口端が大きく吊り上がったと思った瞬間、弾けた笑い声が小さな空間に響き渡った。
「ははっ! はっ、ああ……あぁ、そうか……くそっ。なるほどなぁ! ……さっすが、未開地区一の組織のトップを走ってきた男だ。渡るべきか否かの橋の渡り方は感覚で知ってるってか」
 男は心底楽しそうに笑い声を高く上げ、無気力を宿していたその目に薄っすらと鈍い光を灯す。それだけで男の纏う空気が変わった。
 それを感じ取って、カースは思考の端で思う。……どうやらこの博打、成功らしい、と。
「……で?」
「あ?」
 結局どうなんだと、カースは視線で問う。男はそれを受けて、「あー、うん」と呟いて宙を見上げる。そして、うん、ともう一度頷くようにして、カースを見る。
「いいねぇ、参った。道理で涼子のお目にかなったわけだ。面白そうじゃないか。まあ、どうせ、どんな芝居打ったところであんたは逃がしてくれそうもないしな」
「………」
 無表情で応えるカースに、男の片頬が笑みに歪む。
「治してやるよ、大将。ただし、タダじゃあねーがな」
「……できる限りの金は積もう」
 カースがそう告げれば、男は首を横に振って答えた。
「いや、金はいい。条件は二つだ。まず、あんた色を失う覚悟はあるか?」
「色?」
 意味が分からずに顔を顰めたカースに、セドリクは軽く頷いてみせる。
「ああ、色だ。言っとくが俺の治療は完璧じゃねぇ。それなりに代償が生じるもんだ。テラノマの頭さんよ、あんた色盲になる覚悟があるか?」
「………」
 鋭い眼差しに射抜かれ、しばらく沈黙したカースはやがて相手を見返して、小首を傾げる。
「あんた、今までこの症状の奴に同じこと聞いて首を横に振られたことあるか?」
 返した問いに、クッと、男は頬を引き上げて目を伏せた。そのまま肩をすくめて返す。
「ないね。まあ、命と天秤にかけるもんじゃないか。聞いた俺が馬鹿だったな」
 じゃあ、もう一つの条件だ、と男は煙を吐き出しながら告げた。
「テラノマへの招待券を一枚、頼むよ」
 突然の予想外の要求にカースは思わず目を見張る。その様をにやけた顔で見やりながら、男は言葉を続けた。
「治療には少々時間がかかる。あんたは組織のトップとしてそんなに身を空けられないだろ? なら、俺がそっちに行けば問題ない。それに加えて、あんたの下につくのも面白いと思ってね。セントルをどうこうしたいなんて信念はねーが、いろいろと楽しいものが見られそうだ」
「………」
 眉をひそめたまま相手の言い分を聞いていたカースに、男はただ笑みを送った。
「自分で言うのもなんだが、俺は抱え込んどいた方がいいと思うぜ? カース」
 そう告げて男は挑発的な視線を向けてくる。カースはしばらく沈黙をつくり、ゆっくりと口を開く。
「セントルのスパイではない、と証明できるか?」
 この男を紹介したのは黒鋼の翼の騎士だ。そしてその男がこちらの組織に加わりたいなどと言い出すのだから、スパイの可能性が大きすぎる。治療を任せるだけなら個人の問題だが、組織の懐に入れるとなるとカース一人だけのリスクではない。こればかりは安易に肯定するわけにはいかなかった。
 男は笑った。「ごもっともな、疑問だ」と。
「確かに、俺は涼子と知り合いだ。つっても、ここ数年は……セントルにヤツが入ってからは、顔すら見てないがな。まあ、それはいい。さらにだ、加えて俺には昔セントルの騎士の親友がいた」
 男は銜えていた煙草を指先に取り上げ、鈍く笑みを浮かべる。
「セントルに殺されちまったがな」
「…………」
「馬鹿みたいにお人よしでな。俺みたいな変わり者にも率直な態度で付き合ってくれた。いい奴だったよ。いい奴だった。それが、あっけなく死線に放り込まれて死んじまった。ある女に惚れた、それだけでだ」
 馬鹿みたいな理由だろ? と、男の笑みは、いつしか感情を伴って歪んでいた。
「……さっき『セントルをどうこうしたいなんて信念はねー』と言った。それは本心だ。だが、俺がセントルの下に付くことはない、絶対にな」
「…………」
「まあ、これも口の上だけの証明だ。作り話でないという証拠はないが、そこはあんたの勘とやらで判断してくれ」
 言うだけ言うと、男はまた煙草を銜えて煙を吐き出すばかりだ。最終的に、カースは男の言葉の真偽を心の中で問うことはしなかった。結局、未開地区で組織を抱え込むということは常にこういったリスクを隣り合わせにすることなのだ。それに加えて、己の道にこの男の手は必要不可欠であり、その手を借りるために相手の条件を呑むことは必須のことだった。カースは男を見やる。視線に気づいて見返してきた相手の目を見て、告げた。
「条件を呑もう、だが……一つだけ覚えておけ。おかしな真似はするな。疑わしいと判断した時は即座に俺が斬る」
「……そりゃ、怖いね。俺はSLE能力なんざ持ってないから瞬殺だな」
 男は苦味を効かせて笑う。同時に短くなった煙草が男の指先から落とされ、靴の裏に消えた。セドリグはそのままカースに背を向けると、奥の部屋へと消え、数分後に黒い鞄一つを手に戻ってきた。
「それじゃあ、行こうか、ボス?」
「……それだけでいいのか?」
 大して大きいとは言えない鞄と、奥の一室に僅かに見える医療器具らしきものたちを見ながら問うと、男はにやりと笑って言う。
「そっちのほうが環境は整ってるだろう? 設備として足りない分は<できるだけ積む予定だった金>から出して揃えてもらうさ」
「…………」
 ちゃっかりしている。カースは呆れ顔をしたものの、まあ、遊ぶための金というわけではないのだから正当な要求だなと納得する。しかし、このままこの男を持ち帰ることになるとは思わなかった。こちらに来るにしても2、3日は準備にかかるだろうと思ったのだが。数分で身支度が終わるとは、随分と身軽な生活らしい。この瓦礫の中の住処も仮住まいのようなものなのかもしれない。
「……まあ、無駄使いはしてくれるなよ」
 そう告げて、踵を返し、ついてくるように促した。瓦礫の中から出て、廃墟と廃墟の間をすり抜けるようにして道を進む。振り返れば、セドリグが少し離れたところから慌ててこちらに駆けてくるところだった。追いつくなり「早い」と不機嫌顔で文句を言う。ゆっくり進んだつもりだったがやはり身体的SLE能力があるかないかでは感覚が違うらしい。とりあえず「悪い」とだけ謝罪して、さらに歩調を緩めてやる。
「ところで」
 しばらくすると、セドリグが声をかけてきた。
「あいつはまだあの細っころいの連れてんのか?」
「……? 細っころいの?」
 さっき初めて顔を合わせたばかりの人間との共通の知り合いと言えば、その橋渡しをした人物くらいであるから、<あいつ>というのが涼子=D=トランベルを指すのはわかるが、細っころいのというのは今一意味がわからない。
「ああ、いるだろ? いつもあいつの傍に連れてんじゃねーの?」
「片翼のシコウ=G=グランスのことか?」
「あ? ちげーよ、そうじゃなくて」
「……じゃなければ、他には知らん。ある程度のことは調べてあるが、涼子=D=トランベルの傍に常にいるといったら片翼くらいだ」
「…………」
 そこで、何故かセドリグは神妙な顔で黙り込む。
「それが、どうかしたのか?」
「……いや」
 顎に手を当てたまま考え込んでいた男は、やがて複雑な笑みを浮かべて漏らした。
「なんっつーか……、ややこしいことになってそうだな、と思ってね」
 カースは首を傾げたが、相手はそれきり黙ってしまったので、それ以上の会話はなく、あとはただアジトへの道を辿ることに集中した。




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