黒鋼の翼 第一章 ・・・ 第五話 (Y)



「すみませんね、こんな時期にお手を借りてしまって」
 無数の文字列を目で追っていたシコウが背後から声を掛けられて振り返れば、柔和な顔をした老紳士がコーヒーのカップを片手に佇んでいた。
 シコウはその差し出されたそのカップを礼とともに受け取り、小さく笑ってそれに答える。
「いえ、辿老がお気にされることじゃありませんよ。……まあ、只でさえ人手が足りない時期ですからね。扱うものがこれでは使える人間も制限されますし」
 これ、と指差すのは目の前のモニターに映し出される文字の羅列。最高機密が敷き詰められたそれはシコウの指先の操作で淡々と流れていく。
 その光景を眺めながら、辿老は苦笑を落としてもう一度、すみませんね、と告げ、顎を撫でながら言葉を紡いだ。
「担当の者が急に体調を崩してしまって……、この量を一人でこなすにはさすがに私も年を取りすぎた。燗老に代わりの者を頼んだのですが、まさか貴方を寄越してもらえるとは思いませんでしたよ」
 まあ、おかげで私は助かりましたが、と人好きのする笑みで微笑む辿老に、シコウも「お役に立てて光栄です」と、軽く笑って見せる。甘味のない黒を口に含めば、口内に仄かな苦さが広がった。デスクの端にカップを置くと、まだその場に佇む老人がさらに口を開く。
「そういえばトランベル一等尉の試合は大丈夫なのですか?」
 心配そうに問われ、シコウは腕時計を見やって頷いた。
「ええ、これならぎりぎり決勝に間に合いそうです」
「それは良かった」
 辿老はほっとしたようににっこりと微笑むと、さて、と手元の分厚い資料を一枚捲る。何となくその仕草に誘われるまま、老人の指をシコウはそっと盗み見た。
 端麗かつ色白いそれは、殆ど外に出ぬからこそ出来上がったものなのだろう。よほどの重大な行事でない限り、公の場に姿を現さぬこの老人と顔を合わせるのは四仙のシコウですら久方ぶりだった。このセントル=マナの技術の全てを生み出したとされる辿老リュアン=D=レオン。デルタ・ヴァルナの都市長チャーリー=D=レオンの実弟であり、あの燗老と最も交流が深いとされる、十老。
 柔らかい物腰と、穏やかな微笑は儚さすら感じさせる。他の四仙などはシコウと彼の雰囲気がよく似ているなどと言うが、シコウ自身はあまりそうは思えない。
 上辺はそうでも、一枚向こうは、おそらく正反対と言っていいだろう。
 シコウの視線の先で、ペラリ、ペラリと資料を捲っていたその指先が、ああ、そうだという呟きとともに止まる。
「新しい能力測定値検査の機械はどうですか?」
 その白い指に目と思考を奪われていたため、青年の反応は半歩遅れた。おかげで咄嗟に浮かべた笑顔も珍しくぎこちないものになってしまう。
「え、ああ、そうですね。前のより大分いいみたいですよ。時間も早くなりましたし」
 内心慌てて検査の際に検査員の人間が言っていた感想を引っ張り出しながら答えると、辿老は柔和に微笑んで頷いた。
「そうですか。いえね、私は作ってばかりで、使う際には立ち会うことが殆どないものですから、フィードバックがなかなかできなくて」
「……あれはあれで十分だと思いますが」
 お世辞でなく、正直な感想としてシコウはそう返す。だが、辿老は首を左右にゆっくりと振って否定した。
「いえ、あれはまだもう少し早くできるはずなんですよ。時間があればもう少しいじっておきたかったんですがね」
 なかなかそうもいかない、と苦笑して辿老は資料へと再び視線を落とす。その目には少なからず辟易した色が見えた。
「燗老の人使いの荒さにも困ったものです。次の仕事をもう押し付けて来るのだから」
「辿老はお人がいいから………ですが、まあ同じ十老なのですから、意見の一つも言ってみては如何ですか?」
 まったく受身の姿勢に、苦笑を浮かべてシコウがそう勧めると、辿老はこちらを見返して、笑みはそのまま眉をハの字に下げた。深まった皺に、重い感情がのしかかって見える。
「できませんよ、そんなこと。……知っているでしょう?」
「…………」
 僅かに動いた空気に、シコウは口を閉ざして相手を見る。その視線に、老人は小さく首を傾げてその場を誤魔化した。
「まあ、たまにはこうして気の利く対応をして下さるから、いいんですよ」
 話を打ち切るように、辿老は再び目を伏せて資料を読み出す。その様を見つめていると、シコウの脳裏にふと燗老の姿が浮かんだ。
『ちょっと、あいつを助けてやってくれんか』
 そう、いきなり今回の仕事を言いつけられた時は、何か裏でもあるのかと勘繰ったが、ここまでの状況を冷静に振り返るとどうもそれは杞憂だったらしい。あの老婆は単に友人の仕事がもっとも効率よく進むようにシコウを人選したのだろう。必要以上に疑心暗鬼になるべきではないな、と青年は辿老に気づかれないようため息混じりに思う。
 気を取り直したシコウはモニターへと視線を移し、己も最後の仕上げにかかることにした。
 ここ五日泊り込みでの作業だったから結局涼子の試合は一つも見られていない。さらに言うならば連絡すら取っていない状況だった。彼女のことだから勝ち進んでいるのは確実だとは思うが、決勝はさすがに観戦しなければまずいだろう。
 さて、あのラディス=H=マーセンの方はどうなったのかな、と思考を馳せながら青年は目の前に流れる情報を捌いていく。
 その指が、直後、一つの情報の前で硬直する。
 傍から香るコーヒーの独特の芳香が仄かに鼻腔を擽った。
「…………」
 情報の流れが止まったのはほんの数秒。後ろで資料を見下ろしている辿老はその間に気づいただろうか。だが、青年にはそれすら些事に思えた。
 僅かに跳ねた鼓動とは裏腹に、頭の中は急速に冷えていく。今見た情報と、その意図を思案し、結果を見出す。最悪の結果、だ。だが、いつだって思い描いていた結果だ。それ以外のものなど、想像したことすらないほどに、己の中では確定されていた結果。
 ただ、それを眼前にして、惜しいなと思う自分がいた。……それが、少しだけ可笑しかった。
 シコウは考えを纏めるべく、小さく息を吐き出す。
 さて、これはやはり燗老の狙いなのか、あるいは単なる偶然なのか。相手が相手だけに前者を怪しんだ方が懸命だとは思うが、結局のところ、まあ、どちらでもいいな、と青年は考え至った。そう、どっちだろうが、特に差異はなかったのだ。燗老が舞台にしようとしている場所と、己が立とうとしている場所は別なのだから。
 最後の情報の羅列が流れ去って、真っ白な画面が残される。数秒待てば、終了を意味する言葉が浮かび上がった。
「終わりましたか?」
 背後の辿老がそれを察して声をかけてくる。シコウは「はい」と答えて、電源を落とした。
 目を閉じて、開く。黒い画面に自分の顔が映し出される前に、浮かべていた表情を拭い去った。自分と辿老の顔が映った出来の悪い鏡のようなその画面の中で、相手に微笑みかければ、ほら、全ては元通り。
「お疲れ様でした」
 そう労ってくれる辿老に、笑みと挨拶を返して、シコウは飲みかけのコーヒーを置いて立ち上がる。
「では、私はこれで失礼します」
 頭を下げて、出口へと歩き出して、ふと、きっともうこの老人に会うことは無いだろうなと思い至ると、少しだけ感傷を覚えた。見えた回数はほんの数度。けれど、やはり赤の他人と言い切るほど単純な関係ではないということだろう。
「煉殿」
 見送るばかりだった相手から不意に呼び止められ、少しばかり意外な心持で扉の前から振り返れば、こちらを真っ直ぐに見つめている辿老と目が合う。老いに少しだけくすんだ翡翠色の双眸は、どこまでも落ち着いて見えた。
「すみません、今更なことを……一つだけ、お聞きしていいですか?」
「? ……はい」
 答えれば、辿老は少しだけ間をおいて、目元を細め。
「――私を、恨んでいますか?」
「…………」
 静かな問いはそっと、何の影もなく届く。あまりにも含みがない声が、いっそ清々しくすらあった。
 しばし、彼の顔を見つめていたシコウも、静かに笑みを浮かべると、その軽さを受け継いで返す。
「そう、ですね。ですが、同じだけ感謝もしていますよ。燗老にも同じく」
「…………感謝、ですか…?」
「ええ」
 意外そうに目を丸めた辿老に、シコウはゆったりと頷いて見せた。
 シコウからの返事に、老人はしばらく考え込んでいたようだが、最後は目を伏せて「そうですか」と呟き、どこか遠くへと視線を馳せる。薄い唇から漏れるその吐息のようなため息は諦観すら感じさせた。シコウへと、再び視線を合わせた辿老は少しだけ躊躇った後、言葉を紡ぐ。
「……お互い、難儀な想いを抱えてしまいましたね」
 紡がれる苦笑交じりのその声は上辺の会話は望んでいないようで、だからこそ、シコウも遠まわしやオブラートに包むのは止めて、その目を真っ直ぐ、老人へと向けた。
「その点では貴方を尊敬していますよ、辿老。私も貴方のようにありたかった」
 本心だった。けれど同時に虚言でもあった。結局は道を変えられないでいることに、納得している自分がいるのだから。それでも、何処か羨ましく思うのだ、その選択を。
 受け取った言葉に、辿老は少し目を丸め、やがてあまり彼らしくない皮肉めいた笑みをその顔に浮かべる。
「決して……正しい道ではありませんよ、これも」
 自嘲するような声と言葉で、そう言った辿老に、シコウは目を細めた。
 眩しそうに。
「それでも、私にはそれで十分でした」
「…………」
 薄い笑みとともに告げれば、辿老はそっと表情を変え、同情の視線を向けてきた。だがそれは一瞬後、羨望に取って代わる。垣間見た焼け付くようなその色は、シコウにも身に覚えのあるものだった。
「……私も、貴方のようにあれたなら……」
 うわ言のように呟かれた言葉に、シコウが反応するよりも先に、辿老本人が我に返って苦笑とともに首を横に振った。
「……いいえ、栓の無いことですね」
 己に言い聞かせるように告げた辿老は、ゆったりとシコウの傍へと足を進め、握手を求める。思わずその手を見つめて意図を測れずにいると、辿老は口元の皺を深めて、笑んだ。
「さようなら」
「…………」
 流れる静寂。辿老の顔を見て、シコウはそっと目元を緩める。
「さようなら」
 差し出された手を、シコウはしっかりと握り返す。辿老の手は少しだけ乾燥していて堅かったけれど、ただじんわりと温かかった。
 その温かさに、やはり似てないな、とシコウは心の中で苦笑交じりに思った。





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